

日本福音ルーテル豊中教会
MENU
礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2025年3月23日
四旬節第3主日
「神はわたしたちを
待っている」
ルカによる福音書
13章 1節~9節
例えば、ある出来事が起こったとして、そして、それが数年前から「やがてこうなるだろう」と予測されていたとしても、人がその出来事に対する万全の対策を、事前に取ることができたかどうかは、実際のところ判らないものです。
昨年からの米不足は、以前からの減反政策の失敗によるもので、何れ起こると予測・指摘されていました。介護・看護士の人的不足、少子化による学校の定員割れの問題、あるいは地球温暖化による気候変動の問題なども、すでにかなり前から予測され、指摘されていたものでした。
それらの問題は、関係者がただ単に対応を怠っていたと云うよりも、抜本的な対策を見い出せないまま、問題を先送りにしてしまった結果であるとも云えますし、あるいは大胆な考え方の転換を迫られていたのに気づけずにいた、若しくは慎重すぎた結果かもしれません。大事なのは、予測される状況に人が気づいたその時に、対策を他人任せにせずに、自ら主体的に、どのような手立てがあるかを手を尽くして考え始めることかもしれません。
教会もまた、そうした姿勢を持つことが求められているようにも思うのです。
今日のルカによる福音書13章の日課では、先ず、人が陥ってしまう災難を神様の罰ととらえる因果応報の思想が退けられています。つまり、イエス様は、人災や事故を人の罪と結びつけて解釈する考え方を批判し、退けています。
当時、シリア総督だったピラトは、しばしば人々に過酷な弾圧を加えたと云われています。ピラトが起こしたとされる虐殺は、神殿でいけにえを捧げていたガリラヤ人たちを殺したのでしょうか。この虐殺は、人の中に生じる悪意から生まれています。自分たちの力への過信と、対象となる人たちへの軽蔑から、「相手に何をしてもいいのだ」という思いが生じて、残虐な行為を行わせていくのです。被害にあった者が罰せられる原因を持っていたのではないのです。むしろ加害者が陥った悪にこそ原因はある。
シロアムの池(貯水池)にあった塔が倒れたという事故も、水道橋の工事が行われるときに、老朽化していた塔が倒れたということかもしれません。あるいは手抜き工事などが原因、つまり人災だったかもしれません。ただ、人は往々にして他人の不幸には冷淡なことがあります。起こってしまった不幸について、簡単に軽口や悪口をいうことが起こります。
イエス様にガリラヤ人の虐殺を告げた人たちが、どのような思いで、また意図でそれを告げたのかは定かではありませんが、イエス様は、人の陥った不幸を、神の裁きや被害者自身の罪の有無と結びつけることを強く戒められます。
イエス様はこういいます。罪があるとするなら、皆それぞれに等しくある。悔い改めよ。心の向きを変えなさい、と。
そしてそれに続いてイチジクの木の譬えを語るのです。
イエス様の譬え話は、こうでした。
ある畑の所有者が、ぶどう園にイチジクの木を植えて、実がなるのを期待していたが、三年待っても実がならなかった。もう忍耐も限度だと、彼は木を切り倒しなさいと園丁、庭の管理をしている者に告げます。土地の無駄だと。しかし園丁は、もう少し待ってほしいと懇願します。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」
「ぶどう園」や「イチジクの木」といった、パレスティナではなじみ深い表現を用いてイエス様が示しているのは、直接にはイスラエルの民、あるいはエルサレムのことです。そして、畑の所有者である「主人」は神様、そして、「園丁」はイエス様の姿を指しています。
イスラエルの民は、充分時間をかけたにもかかわらず「実をつけない」、つまりそれは、神様のみ心に相応しいあり方をしていないということです。
では、神様のみ心に相応しい「実」をつけるとは、どのようなことを指すのでしょうか。
旧約聖書のイザヤ書58章には、次のように書いてあります。
「そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。/葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それをお前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。」(5節)
ここでは、予言者の口を通して、神様はイスラエルの人々の信仰を問いただしています。つまり、いくら伝統的なやり方で敬虔さを表したとしても、それは見かけだけのことであり、神様が望むことを表してはいないということです。
イザヤは続けて書いています。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。/悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。/更に、飢えた人にあなたのパンを割き与え/さまよう貧しい人々を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」(6~7節)
それは具体的な「正義と公正」を行うことです。何らかの負債によって「束縛され」、「虐げられ」、「飢え」、住むところもなく「さまよう貧しい」人々、着るものもなく「裸」で、「同胞」でありながらも助けを必要とする困窮する人々。そうした人々に寄り添い助けることが、神様の求める「断食」であり、信仰の姿である、と預言者は語っているのです。
日課の譬え話に戻れば、神様は長いこと、イスラエルの人々が神様自身の期待に応えるような生き方をすること、つまり(旧約)聖書が示す「神様の正義と公正」が実行されることを望んでいた。しかし、それは一向に適わなかった。悩み、苦しんでいる人々は未だにそこここにいる。それで、畑の所有者が痺れを切らしたように、神様もイスラエルの人々に痺れを切らしている。イチジクの木の根元に斧が置かれているように、「すべてを滅ぼす」審判の日は、猶予なくやってくる。だがしかし、園丁であるイエス様はイチジクの木を慈しんで、神様にこう懇願するのです。「もう少し待ってください。肥やしをやって手入れをしてみます。そうしたら実をつけるかもしれません」と。
つまりここでは、たとえ今は、神様のみ心にそぐわない生き方をしているとしても、その人々に悔い改める機会を与えて欲しい、そうイエス様が神様に執り成していることが示されているのです。イエス様自身の心情が、この譬え話には込められていると言えます。「木の周りを掘って、肥しをやる手入れ」は、イエス様の受難と十字架の死を意味しているともいえます。その出来事を通して、人々は自らの罪に気付き、悔い改める機会を持つからです。罪に陥っている人々を、愛し、大切に思う気持ちがそこにはあるのです。
このイチジクの木の譬えには、人が悔い改めること、心の向きをかえることを待っている、園丁であるイエス様の姿が描かれています。そしてまた、その願いに動かされて(人々が悔い改め、神様に顔を向けるのを)待とうとする、神様の姿が描かれているのです。
この譬えが、今日の私たちにも向けられていることは明らかです。そして同時に、今、私たちは、神様のみ心に相応しい「実」を結んでいるだろうか、「神様の正義と公正」を実際に行っているだろうか、と考えてしまいます。
虐待や暴力、いじめといった形で、人の生命や尊厳が、蔑ろにされていますし、他人や自分自身を傷つけるということが起こっています。あるいは世界的な視野で眺めるならば、一部の政治的指導者たちの野心を実現するために、軍事的な力を行使する戦争や内戦が起こっています。「難民」や「外国人労働者」などの社会の周縁に追いやられていた人々、あるいは「存在しない者」として扱われていた性的少数者などの人々の尊厳を守り、人権を回復するための絶え間ない「多様性を認める」運動が、再び抑圧され、嘲笑され、否定されようとしています。
こうした問題を見る限り、私たちというイチジクの木は、未だ実をつけていないと言わざるを得ません。神様が痺れを切らしてもおかしくない状態なのです。しかし、そうした私たちの状況にもかかわらず、イエス様は私たちを憐れみ、慈しんで、神様に向かって「もう少し待ってください。手入れをしてみます。そうしたら実をつけるかもしれません」と懇願してくださっているとも言えます。
今私たちが生きているこの瞬間も、イエス様が神様に執り成してくれてようやく、私たちが過ごすことの出来ている時間なのです。
だから、私たちは今一度、「どうすれば神様のみ心に相応しく実を結ぶことができるのか、『神様の正義と公正』を実現していけるのか」、「自分を愛するように、わたしたちの隣人を愛し」、そのことによって「神様を力を尽くして愛することができるか」を、自らに問いかけたいと思うのです。
そのためにも、このような今起こっている現実の様々な問題、今虐げられ苦難の中にいる人々に対して、関心を寄せていきたいのです。無関心のままでいるのではなく、神様が、そしてイエス様が心痛めている現実に向き合い、心に留め、そして、祈りをもって、勇気をもって、忍耐をもって、その現実が示す課題を克服するように行動していきたいのです。また、困難の中にいる私たちの「隣人」の傍に、共に居たいと思うのです。イエス様の私たちへの慈しみと愛に感謝し、神様の示している生き方に立ち返ること、視点を変えることを心がけていきたいのです。そのことを通して、私たちもまた、「神の子」となることが出来るのです。
私たちは不完全な存在です。人間はその歴史の中で、理想的な社会を作り出すことを何度も企て、その都度問題も多く起こしてきました。神様が望んでいる実を結ぶことは、時間がかかり、忍耐を要することであるようにも思います。しかし、イエス様はその私たちを愛し、十字架によって命を賭けて、神様に赦しを執り成してくださっています。
だから私たちも、その時その時に最善と思えることを行いながら、「神の国と神の義」の実現を追求していきたいのです。「明日世界が滅ぶとしても、今日もリンゴの木を植える」ように、よりよい未来に備えて、日々の歩みを歩んでいきたいのです。四旬節のこの日、その思いを新たにしたいのです。

2025年3月16日
四旬節第2主日
「私を止める
ことはできない」
ルカによる福音書
13章 31節~35節
今日の福音書の日課、ルカによる福音書13章31節以下には、次のようなエピソードが描かれています。
ある日、イエス様のところに、ファリサイ派の中の何人かが来てこう言いました。
「ここを立ち去ってください。ヘロデ(アンティパス)があなたを殺そうとしています。」
ファリサイ派の中にも、イエス様に親近感を持っていた者がいたのかもしれません。あるいは、善意を装って、イエス様を自分たちの活動領域から追い出そうとしたのかもしれません。ともかく彼らはイエス様にヘロデの殺意を告げて警告したのです。
実際、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスは、イエス様の活動の評判を聞きつけ、「あいつは(自分が殺した)洗礼者ヨハネが復活したに違いない」と恐れを抱いていました。彼がイエス様に殺意を抱いたかどうかは実際の所、定かではありませんでしたが、このファリサイ派が告げた警告に対して、イエス様は憤りを覚えてこう答えました。
「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 」
そこには、一つの自覚、イエス様の覚悟が感じられます。
「誰もわたしを止めることは出来ない。たとえ、誰かがわたしの命を奪おうとしたとしても、わたしは、わたしの使命を果たすだろう。わたしは、生きている限り最後まで、人々を癒やし、人を縛り付けるあらゆる束縛から、悪霊から、人々を自由にし、解放するだろう。わたしは、わたしの道を歩み続けていかなければならないからだ。」
そこには、自分が直面している課題を見つめて、立ち向かい、問題を克服しようとする決意があります。
それはしかし、決して何か高揚したような気分で語られたものではありません。イエス様は、その使命の先に、自分の死、受難と十字架による処刑を予感しているからです。
イエス様は見据えているのです。今から自分が選ぶ道は、容易なものではなく、苦しい道であることを。でもその道をイエス様は進み続けようとするのです。そして、その心の内を、イエス様は、自分の命を狙うヘロデに対しての憤りと共に露わにするのです。
ところで、ではなぜ、イエス様は、「逃げるよう」に勧めた人たちにも、苛立ったのでしょうか。
端的に言えば、それは、それらのファリサイ派の勧めが、イエス様の活動を阻むことにつながったからです。イエス様に逃げることを勧める忠告は、イエス様の真意を理解してはいないのです。なぜ、イエス様が福音宣教を行っているのかを理解しないからです。
イエス様が見ているのは、イエス様の下に来て癒しを求める人々です。助けを求めている人々です。日常の生活の中で、悩んだり、「悪霊に」苦しんで、だからこそ、イエス様のところにやって来ては救いを求める人たちです。その人たちが、ガリラヤだけでなく、ユダヤ全土にいる。イエス様は、そう思っているからです。だからこそ、自分の命を助けることを優先には出来ない。自分はそうした人たちの所へ行かねばならない。イエス様はそう感じているからです。別な福音書の箇所では、イエス様は、彼の所にやって来る群衆を見て、「飼う者のいない羊のような有様を」であるとして、「深く憐れんだ」と記してあります。はらわたを揺さぶられるような思いにとらわれ、彼らと向き合っていくのです。
それは、神様が示す愛のまなざしです。人々を労り、慈しむ愛による思いです。救いを求める人々から自分を引き離すことを拒絶する思いがあるのです。
だから、どのような意図であれ、イエス様に「お逃げなさい」と勧める人々に対しても、憤りを示しています。
「たとえ、ヘロデがわたしを殺すと言っていたとしても、わたしは逃げない。癒やしを求め、救いを願う人々を置き去りにすることは出来ない」と。
1950年代から60年代のアメリカで、黒人への人種差別に抗議して、公民権運動・黒人解放運動を指導したマーチン・ルーサー・キング牧師は、1968年4月4日に、テネシー州メンフィス市で、ライフル銃で狙撃され、その生涯を39歳の若さで終えることになりましたが、実は彼はそれまでにも、何度か襲撃されて負傷させられたりしていました。一度は彼の自宅に爆弾が投げ込まれてもいます。
キング牧師が、公民権運動に関わり始めたのは、赴任していた教会のあったモントゴメリー市で起こった、一つの事件からでした。1955年12月5日、アメリカのアラバマ州モントゴメリー市で、一人の黒人女性が市バス内で白人に席を譲ることを命じられ、これを拒否したところ、逮捕されたのです。同類の事件は、過去に何度も起こっていたのですが、このモントゴメリー市での事件は、黒人たちの我慢に火をつけました。キング牧師は26歳で、モントゴメリーの教会に赴任したばかりでしたが、いくつもあった黒人差別に反対するグループや、諸教会に呼びかけ、協力し合って、すぐに抗議行動、市バスの乗車拒否行動を起こします。事件の二日後、モントゴメリー中のほとんどすべての黒人たちが、バスを利用せずに、徒歩で、あるいは自家用車に乗り合いをして、職場に出勤したのです。
当初、市の有力者の白人たちは、バスの乗車拒否運動が、すぐに失敗して終わるだろうと嵩をくくっていましたが、キング牧師たちの指導する抗議活動が本気であり、決して妥協しないことを知ると、先ず黒人グループの懐柔と分断を図ってきました。また、「キング牧師は運動のために集めた寄付金を自分のものに着服している」などのウソの噂(フェイク・ニュース)を広めて、キング牧師をはじめとしたグループの指導者たちを孤立させようとしました。
そして、そうした方法は効果がない判ると、いよいよ市の有力者の白人たちは、強硬な手段に打って出ました。一度はキング牧師を(言いがかりに近い)交通違反で逮捕し、監獄に留置しますが、その日の晩のうちに、多くの支持者が監獄の前に集まったため、警察はすぐにキング牧師を釈放しました。
ただ、運動を潰そうとする試みは、更に凶悪なものに変わりました。キング牧師の自宅には、何度も脅迫状が届けられ、脅迫電話もかけられていましたが、ある時、一人の白人の友人から、「キング牧師を殺そうという計画が企てられている」という話を、信頼できる筋から聞いたと報告されます。キング牧師は、自伝に書いています。「はじめて、ぼくは、ぼくの身になにごとかが起こるかもしれぬとさとった。」 彼は、自分の胸に這い上がって来る恐怖を感じたと云います。脅迫は続き、また誰かが、彼の殺害計画が企てられていると云う話を聞いたと、毎日のように警告してきました。
そして、「一月も末近いある晩」遅くに、一本の殺害予告の脅迫電話を受けた時、彼の「心の底の一切の恐怖が一度に表面に飛び出した」と彼は書いています。眠れぬ夜を過ごした彼は、深夜に「声高く祈りをささげ」ますが、「その瞬間、ぼくは神の御前にあることを感じ」たと云います。「あたかも『正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍らにいますであろう』という内なる声のしずかな約束をきくことができたように思われた。」 その時、彼の「不安は消え」、「何ものであろうとこれに立ち向かう覚悟をきめ」たと云います。
その三日後、日曜日の晩の集会に彼が参加しているときに、彼の自宅に爆弾(手榴弾)が投げ込まれました。キング牧師は、その知らせを、「妙なことに、ぼくは爆弾投下の話をおちついた気持ちで聞いた。2、3日前の宗教的な経験が、こうした事態に直面する力をあたえていたのだ」と、彼は自伝に書いています。
彼が自宅に向かうと、幸い彼の妻とこどもたち、一緒にいた友人女性は無事でしたが、自宅前には数百人の「怒りの色をうかべて家の前に立っている」人々が集まって、警官たちと向き合っていました。黒人たちの中には、武器を持って集まっている者もいたのですが、キング牧師は、「群衆に平静にかえるように」頼み、暴力には非暴力で応えること、「彼がぼくたちに何をしようともぼくたちは白人の兄弟を愛さなければなりません。(中略)愛をもって憎しみにこたえねばなりません。」と語り、そして、次の言葉で話しを締めくくりました。
「もしぼくが止められても、この運動は決して止まらぬでしょう。なぜなら、神はぼくたちの運動とともにいますのだから。こうした輝かしい信仰と確信をもって帰宅していただきたい」と。その晩は、一触即発の緊張が続いていたと云いますが、それでも「たまたま(霊的な)何ごとかが起こってこれを阻止し」、「大混乱を引き起こすにちがいないと思われたその夜は、非暴力の壮大な群衆行進をもってその幕を閉ざした」のです。
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」このイエス様の言葉は、キング牧師の「この運動は決して止まらない」という言葉と重なってきます。
そして、イエス様はこう述べています。「エルサレム、エルサレム、何度も何度も、神様は、ユダヤの民に向かって、『めん鳥が雛を羽の下に集めるように』、神様のもとに立ち返ることを求めた。しかし、あなた方は、その呼びかけに応じることはなかった。だから、お前たちの家である神殿は滅ぼされるだろう」と。「エルサレム」とは、ユダヤの民全体を象徴する言葉と言えます。イエス様は、ここで、過去において、エルサレムに代表される支配者たちは、神様から遣わされた預言者たちの言葉に耳を傾けないばかりか、彼らを弾圧したりもしたことを、厳しく指弾しています。それはこれまでのイスラエルの、ユダヤの歴史の中で繰り返された「罪の行為」に対する嘆きの言葉でした。
しかし、深い嘆きと厳しい言葉にもかかわらず、そこには人々に向けた希望を感じさせる言葉もあります。「しかし、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と、ユダヤの民が悔い改める時、あなた方は、わたし(イエス)に再び会うことができるだろう。」
ユダヤの人々を完全に切り捨てるのではなくて、彼らが「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と口にすることを、まだ望んでいる。そんなイエス様の願いが、あるようにも思えるのです。「エルサレム」への、ユダヤの人々への嘆きもまた、彼らに期待し、願い望んでいるからこそなされているものであると言えるでしょう。
四旬節のこの日、私たちは、私たちを「罪」のただ中に置き去りにしないで、救おうとされるイエス様の愛を感じ取っていきたいのです。私たちの命を救うために自分自身を差し出して、与えてくださったイエス様の愛を、感謝を持って受け止めていきたいのです。

2025年3月9日
四旬節第1主日
「試みと信仰」
ルカによる福音書
4章 1節~13節
イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受け聖霊に満たされた後、聖霊によって「荒野の中を」「引き回され」ます。そこで四十日の間悪魔(試みる者)から試みを受けます。日課の物語は、この四十日間の試みのすぐ後になされた悪魔とイエス様との会話です。
悪魔は、イエス様に三つの問いをかけます。
一つ目の問いかけは、四十日間断食をして空腹を覚えていたイエス様に向かってのものでした。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。
それは、先ず長期間の断食によって引き起こされた、身体的に衰弱した状態に付け込んでくるものでした。そして、イエス様の持つ力、奇跡を行う力を自分の欲求を満たすために使ったらどうだとそそのかすのです。別な言い方をすれば、「何故神の子であるあなたが、空腹で苦しまなければならないのか」といういわばイエス様の自意識に対する揺さぶりでした。
空腹や飢えの恐怖、それはまた直接降りかかる事柄であると共に、食べることができなくなるかもしれないという不安としても私たちの前に存在します。経済的な困窮や、病気やけがなどで生活する術を失ってしまう不安、実際に陥ってしまった困難な状況、それらは、私たちの信仰、神様への信頼をやはり揺さぶります。
「信じることに何の意味があるのか」。そう思わせる状況は、確かに存在するからです。
二つ目の問いは、イエス様を高い場所に引き上げると、世界のすべての国を見せ、「もしわたしを拝むなら、これらの世界の国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と持ちかけます。
人間の持つ名誉欲、支配欲、所有欲といったものを刺激しながら、悪魔への拝礼を交換条件として提示してくるのです。この世の繁栄や力の提供を、神様との関係を断つことの条件とするのです。それはまた、この世の繁栄や権力自体が持つ「悪魔的な力」そのものといえるかもしれません。それらは、実は神様と人との関係を歪めてしまうものに他ならないからです。
名誉欲、支配欲、所有欲は、私たちを常に色々な形で刺激しています。それは、大きな世界的な広がりで起こっていることでもあれば、また家庭や小さな集団、様々な利害関係が伴なう集団で起こってもいます。面子を重んじ、力を誇示したり、他人を何らかの形で支配しようとします。その結果至る所で、誰が一番力をもっているかを競うパワーゲームが繰り広げられます。
自分が他の人よりも優れているように思われたいし、そう見なされたいという感情は、ある意味自然な感情であるかもしれません。しかし、その気持ちから自分と他人との間に優劣の順位をつけ出すとき、知らず知らずに、私たちは、この世の繁栄や権力自体が持つ「悪魔的な力」に、与していくことになるといえるでしょう。いや気づけばそうした価値観にどっぷりつかっているのかもしれません。そうして神様が望んでいる、神様と人との関係から遠ざかってしまっているかもしれないのです。
三つ目の質問は、イエス様をエルサレムの神殿の屋根に連れて行くと、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。(聖書に)神の子なら、天使たちが手であなたを支えると書いてあるぞ」といいます。
最初と最後の悪魔の質問は狡猾です。「もしもあなたが神の子なら」という言葉は、「本当にあなたは神の子か」という問いであり、イエス様が神様の子であるかどうかを証明することを挑発するものです。そして同時に、それを疑わさせようとするものだからです。それは、いいかえれば、イエス様の持っている神様への信頼、信仰を試すものです。もし仮にイエス様が、悪魔の質問に応じて、石をパンに変えたり、神殿の屋根から飛び降りるなら、それは、イエス様自身が自分が「神の子であるという決定的なしるし」を手に入れようとすることであり、神様を試すことになってしまうからです。
私たちもまた周りの世界に対して、不信感が大きく、自信が持てないと感じるときなど、他の人たちが自分に向けているであろう愛情を試すことが起こります。それはある意味では果てしのない試み、自分から他者に向けて仕掛ける試みを引き起こします。「これでもわたしを愛してくれるのか」といった歪んだ形での愛情の確認を、他人に対して、自分自身に対して、そして神様に対しても、際限なくしてしまうことになりかねません。それらはまさに試みる者である悪魔がそそのかし煽る試みといえるでしょう。
ここに見られる三つの問いは、すべてが人間の弱点を巧妙に突いてくるものです。人が自然に持つ疑問や不安を巧みに突き、または欲望を掻き立てるものだからです。
しかし、悪魔のこうした挑発に対してイエス様は、すべてを言葉で退けるのです。
イエス様は先ず「(聖書には)『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えます。ここでイエス様は、人を生かすものが身体的な欲求を満たす物だけでないことを語っています。人を生かすもの、生き生きさせるものは、物質的なもの、経済的な水準のものだけによるのではなく、神様の言葉、人に働きかけ、人を慰め、労り、励まし、また癒す言葉、お互いを大切にし合い、愛し合う関係を築かせていくような神様の言葉が、人の命を支えることを告げるのです。
また、自分は神様から与えられた力を自分自身のためには用いないことを示されます。そのことは、イエス様の与えられた使命とも結びついています。イエス様は人々を救うことをその使命として与えられています。イエス様の持つ力は、その人々の救いのためにこそ用いられるものだからです。イエス様が感じ、持つ苦しみは、受難、十字架と死に見られるように、人々の苦しみを担うためのものだからです。
次にイエス様は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉を通して、自分はこの世界が持つ悪魔的な力に与しないこと、神様への信頼・信仰がすべてであることを示します。イエス様は、この世界の繁栄も権力も、また国々も本来神様の支配のもとに服していることに目を向けています。「国も力も栄光もあなたのものです」という主の祈りの終わりの文言は、それを示しています。だからこそ、この世を支配するために悪魔に従うことは、本末転倒なことなのです。すべてを手に入れたいのなら、「先ず神の国と神の義を求めなさい」という言葉が示すように、主なる神を愛し、神様のみこころに従った生き方をこの地上で生きることが、求められている、そのことをイエス様は語っているのです。
最後にイエス様は「(聖書には)『あなたの神である主を試してはならない』といわれている」と答えます。
出エジプト記17章には、エジプトを脱出したイスラエルの民が、のどが渇いたと不平を言い、神様が本当に自分たちと一緒にいるかどうかを疑い、神様の力を試して、その結果モーセが杖で打った岩から水が出たという話が書かれています。この話の場合、神様を試すことは、神様の力を直接自分たちが見て納得するというよりも、自分たちの要求を実現させるために、神様につきつけたものです。それは人と神様がお互いを大切にし合い、尊重して向き合う姿勢ではなくて、むしろイスラエルの民の、神様への不信感を示しています。
イエス様は、神様に何かのしるしを求めることで、神様が自分との間に築いている関係の確かさを試すことをしません。イエス様は、神様に愛されているかどうかを、自分が危険から救われるかどうか、といった仕方で確かめることを拒否します。愛されているかどうかを確認することよりも、神様を愛することを第一にするのです。また、神様の守りの内にあることは、ただ神様を信頼すること、信じることで充分であるといいます。そして、自分自身のためには、神様の力を用いないし、要求もしない姿勢を貫くのです。
これらの問いかけを終えると悪魔は、一時的にイエス様のもとを離れます。イエス様にとって最大の試み、受難と十字架の死のその時まで。これら三つの試練は、確かにイエス様にとって一時的な、行ってみれば本番前の予行演習、試験的なものとして示されましたが、言い換えれば、それは三年間の伝道の期間中、常にイエス様を試み続けるものでもあったわけです。
この物語が語ること、それは何よりもまず、神様への信頼が私たちを試み、試練と思える瞬間から守るということです。そして、試みと同時に何かの助けや支え、あるいは問題を拡大させずに済む逃げ道が、神様の言葉として、すでに用意されていることを教えてくれます。私たちの直面する試み、試練を克服していくことは、神様の言葉への信頼によって充分なされるということをこの日課は示しています。神様の言葉に信頼していくこと、神様への信仰が、あらゆる試みや試練を克服することを教え、私たちを導くということなのです。
四旬節が始まりました。四旬節とは、受難節・大斎節(英語ではレントLent)ともいわれ、イエス様の受難、逮捕と裁判、十字架の死を覚え、また復活を迎えるための心の準備をする期間をいいます。この季節の初めに、イエス様が洗礼を受けた後に試みにあったという日課を読むことは、私たちにとって意味の多いことです。
私たちは、イエス様に倣う者として、キリスト者として生きようとする時、信仰を言い表し、洗礼を受けます。しかしながら、洗礼を受けたとしても、すべてのことにおいて人は安全な状態に入るわけではないのも事実です。私たちがこの地上での生を生きる上では、常に試み、罪への誘惑もまた受ける可能性があるからです。罪への誘惑は、悪、またはしばしば人の心のうちに芽生える悪意による試み、私たちの生の基盤を揺るがす揺さぶりです。私たちが住んでいる世界は、言ってみれば神様の守りの許にありますが、同時に悪も同居する世界です。その世界の中で、私たちは常に信仰者としての姿勢が問われていきます。
ただ、それだけにイエス様が、一人の人として試みの中にあったということは、私にとっては大きな慰めです。イエス様もまた、人間として自分の心を確かめ、自分の強さや弱さを試していった。そのことはイエス様が試みのうちに置かれた人、たとえば私の苦しみを理解し、受けとめられるということ、その私のために執り成し祈って下さることを意味するからです。
たとえ今、大きな試み、試練と思える状況の中にあったとしても、神様の言葉に信頼し、またイエス・キリストの執り成しと励ましを信じて、歩むものでありたいと思います。

2025年3月2日
主の変容主日
「イエスに
聞いて従う」
ルカによる福音書
9章 28節~36節
今日は、教会の暦で変容主日と云います。「祈るために山に登られた」イエス様が、「祈っておられるうちに」「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」、その出来事を記念する日です。
しかもイエス様の姿が変わっただけではなく、そこに二人の人、旧約聖書に登場するモーセと預言者エリヤが「栄光に包まれて現れて」、イエス様と、イエス様が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」語り合っていた、というのです。
それを目撃したのは、同行したペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちだけでした。「ひどく眠かった」彼らが、目を覚ましたら、そこには姿が変わり、まばゆく輝くイエス様がいて、モーセとエリヤが一緒にいたのを(彼らは)見たのです。
その出来事は一瞬だったのかもしれません。動揺したペトロが、思わず知らず、イエス様に「ここに(記念のための)仮小屋を建てましょう」と話しかけるのですが、そのペテロの言葉にイエス様は応えることなく、すぐに雲が現れて、彼らを覆いました。そして、雲の中から一つの声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」 その声がしたときには、イエス様だけが、いつもどおりの姿でおられた。それがイエス様の変容の次第です。
雲は、しばしば旧約聖書では、神様の臨在を表すしるしとして描かれます。つまり、この時、この場所には確かに神様がおられたのです。イエス様は、祈るために山に登ったのですが、それはイエス様が、神様と語り合うため、神様との交わりに入るためだったということです。そこに神様はおられた。そして、そこでイエス様は姿が変わり輝いて見えたのです。
「神の栄光」が、イエス様を照らし、輝かさせたとも云えます。
イエス様の服が、「真っ白に輝」いたことは、神様の臨在の光、あるいは天使の色を現わしているとも言えますし、復活後の生命を表す新しい白い衣を着ていたとも考えられます。イエス様は確かに、神様との交わりの内にいて、天に属する存在「神の子」であることが示されたのです。
イエス様の姿が白く輝いたのは、「神の似姿であるキリストの栄光」であるとも云えるでしょう。この変容の出来事は、イエス様こそが、救い主・キリストであることを表しているのです。
さて、この出来事は、弟子のペテロが、イエス様こそキリスト・救い主であると告白して、それに続いてイエス様が自分の受難を予告したその日から、「八日ほど」経ったときのことでした。ここから、この変容の出来事には、二つの意味が見て取れます。
一つ目は、イエス様の使命を神様が祝福されたと云うことです。このとき、すでにイエス様は、自分を待ち受ける運命とでもいうべき受難の出来事を見通していました。その出来事を受け入れようとするイエス様の覚悟と緊張が感じられます。
旧約聖書に記されている民の指導者モーセは、律法を神様から直接授かり、イスラエルの民に示しました。エリヤは預言者としてイスラエルの人々に神様の言葉を告げました。それゆえ、モーセは律法を、エリヤは預言書を象徴している、つまり二人は、旧約聖書全体を表しているという見方もできます。この二人がイエス様と話していたのが、イエス様のエルサレムでの最後についてあったと書かれているということは、つまりエルサレムでのイエス様の受難と復活が、旧約聖書の成就であること示しているのだという解釈もできます。すなわち、イエス様が受ける本当の栄光は、「エルサレムで遂げるべき最期、死と復活」であることを意味していると、捉えることもできるのです。
イエス様が自分の使命を自覚し受け入れたとき、たとえばその公生涯を始めるにあたり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた際にも、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という神様の祝福の言葉がありました。この変容の物語では、イエス様が受難と死を自ら選び、覚悟したことに対して、神様が「良し」とされた。それが、「これはわたしの選んだ子、これに聴き従いなさい」という神様の言葉であったと云えるでしょう。
二つ目の意味は、神様による、弟子たちに対する、「イエスこそ、救い主キリストである」ということの証明です。
ペトロとヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが、祈るために山に登ってイエス様に同行していました。ちなみに、彼らはその後、イエス様がユダヤ人の支配者たちに逮捕される直前にも、同じように祈っているイエス様に付き添っていましたが、その時にも彼らは眠り込んでいたと聖書には記されています。ともかく彼らはそこに居て、いわばイエス様が神様から栄光を受けたことの証人の役目を果たしたといえます。
ところで、このとき、弟子たち自身はどのような気持であったのかを考えてしまいます。
「八日前」にイエス様は、ペテロたちの「イエス様こそキリスト・救い主です」という告白を聞いた後で、自分の使命を予告したわけですが、その内容に対して、弟子たちは困惑していたのではないか、と思うのです。なぜなら、およそイエス様の予告は、「受難と十字架上の死、また三日後の復活」という、弟子たちの期待を裏切るような、そして戸惑わせるようなものだったからです。他の福音書では、イエス様の発言をペテロが諫めて、反ってイエス様に強く叱責される場面が描かれていますが、言い換えれば、弟子たちがイエス様の予告に戸惑った、あるいは「イエス様は私たちの思う、期待する、救い主キリストなのだろうか。」「私たちは、本当は誰に従っているのだろうか。」と云った疑念を持ったとしてもおかしくはないからです。八日の間弟子たちはそう云ったモヤモヤした思いを抱えていたとも云えます。そうした弟子たちの疑念を晴らすために、神様は、「イエスこそ、救い主キリストである」ことを示そうとして、その場にモーセとエリヤを遣わし、イエス様の姿を「栄光」で輝かせたのではないでしょうか。
弟子たちがイエス様の救い主キリストとしての使命を理解し、彼らがイエス様と共にいる神様の臨在を経験するために、また、彼ら弟子たちがイエス様にこそ「聞き」従うべきことを、示すために、イエス様の姿は、神様の「栄光に輝き」「白く」変わったのです。
そこで聞こえた「これはわたしの選んだ子。彼に聞き従いなさい。」という神様の声は、イエス様に向けられた祝福というだけでなく、なによりも弟子たちへの奨めであったということです。
南米ニカラグアのソレンチナーメという村の農民たちは、「彼に聞き従え」と言う言葉を、このように理解しました。
「キリストは神の言葉―“互いに愛しなさい”と言う教えが肉体を持って地上に現れた方だ。雲が聞けといったのもこの教えなんだよ。」「ここにいるわれわれも、イエスの教えを聞けと言われる神の雲に包まれているんだ。(中略) われわれはその愛である言葉で、イエスのように変容するんだ。」
「互いに愛し合え」という教えを、「われわれも」聞けと云われ、「神の雲」に包まれる。そして、その愛の言葉を聞き、(また実践することで)「われわれ」も「イエスのように変容する」のだ、と。
「これに聞け」という奨めの言葉は、弟子たちに対して、イエス様のように生きることを促していると云えます。弟子たちが(そして現代の私たちが)、自分たちの経験する苦しみをも含めた人生を受け止めて、病や貧しさ、あるいは力で抑えつけられ苦難いの中にいて苦しんでいる人、悲しんでいる人たちのその苦労を理解し、分かち合い、共に担って、そして彼らにイエス様の福音を伝え、癒しのわざを行い、彼らに神様の愛を知らせていくことを神様は望まれているのです。弟子たち、また私たちが、そのように生きるとき、彼らも(私たちも)またイエス様のように、「これはわたしの子、選ばれた者」と祝福され、神様の栄光を受けて輝くのです。
「これに聞け。」 その言葉は、二千年前から今に至るまで、弟子であろうとする者に向けられているのです。
最後に、ペトロたちが、イエス様と話すモーセとエリヤを見た時に、ペトロはとっさに、自分たちの先生であるイエス様の姿が変わり、エリヤとモーセが現れたこの場所を記念したいと単純に考え、イエス様に「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。お望みでしたら、この場所に仮小屋を建てましょう。」と話しかけますが、イエス様は、そのペトロの言葉に何も答えませんでした。
なぜなら、何かの碑を建てて祀ったり、記念したりすることが、神様の栄光を現わしたり、その場所を聖なる空間とすることではないからです。
「これはわたしの愛する子。彼に聞き従いなさい。」という神様の声は、弟子たちにとって、イエス様ご自身が、その記念のしるしであることを意味します。人々が、日々の生活の中で、イエス様に倣い、なすべきことをなしていくこと、それが結果として「主の栄光」を現わし、キリストを記念することにつながるのです。
「キリストを祀った」その場所自体が、そのまま聖なる空間になるのではなく、イエス様が示したような生き方を現わす人たちの群れ、交わりをつくること、それが大事なのです。
ですから、私たちが教会を聖なる場所・空間として整えたいと思うなら、私たち一人一人が、イエス様に祈り、イエス様の言葉と生涯を思い描き、生活していくことです。それがイエス様を記念していることになります。そして、イエス様が共にいると感じさせる交わりを持つならば、そここそが聖なる場所になるのです。
「これに聞け。」 この言葉に応えて、私たちが生きようとするとき、私たちの上に神様の祝福は向けられています。「あなたは私の愛する子」と。

2025年2月 23日
「汝の敵を
愛せよ」
顕現後第7主日
ルカによる福音書
6章 27節~38節
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」 今日の日課にあるイエス様の言葉です。
この「敵を愛しなさい(大切にしなさい)」という言葉は、よく知られた言葉です。しかし、実際に出来るかといわれれば、難しいと感じてしまう言葉の一つです。
ここにある「敵」とは、その人を「憎む者」、「悪口を言う者」、「侮辱する者」を指しているわけですが、もし、今誰かに苦しめられていたり、迫害されている人、自分の存在を脅かされている人(当事者)が、この言葉を他の誰か第三者から、したり顔で言われたとしたら、あるいは「これは普遍の真理の言葉だから、誰もが無条件で従うべきです」といわれたとしたら、何か理不尽な要求をされているように感じて、より一層つらくなるに違いありません。
しかし、もしこの言葉を、迫害され苦しめられ、脅かされている人自身が語るならば、そこには、また別な意味が表されるようにも思うのです。
これらの言葉、イエス様による説教を聞いていた人々、それは貧しい人たち、飢えている人たち、平和を望んでいる人々でした。また、病いや障がいに悩み、日々の暮らしの中で救いを求めている人々でした。そして、弟子たちもそうした人々の一員でした。
イエス様の説教の一連の言葉は、説教を聞きに集まったこれらの人々が生活の中で体験していたことと関連しています。
イエス様は地主に借金をしている農民の話を他の例え話でもしていますが、ここでも借金の訴訟で持ち物を取り上げられる人々がいたことを語っています。借金のかたに下着を取り上げられることはあったようです。ただ上着は、貧しい人たちの寝具にもなるものでしたから、夜の間は帰すことが律法で定められていました。「下着をとられるならば、上着をも与えてやれ」とは、そういった事情を反映していると考えられるのです。
「頬を打たれる」行為も、ひょっとしたら地主や役人、または彼らの手下たち、収税人、軍人などの支配している者たちから、貧しい人たちが受けていた仕打ち、侮辱を表しているのかもしれません。そうやって考えると、これはどれも、殴られたり、着物をとられたり、強制的に荷物を背負わされたりした側にとっては、自尊心を傷つけられる行為といってもいいでしょう。
そうした状況から考えると、「敵」とは、日ごろ人々を支配し苦しめている者、理不尽な力・権力をほしいままにしている相手を指しているといえます。とすれば、この「逆らうな」、「右の頬を打たれたら左の頬も向けてやれ」という言葉は、ただ単に黙ってされるままになって、自尊心を傷つけられ、泣寝入りしろということではない。結果としてはそう見えたとしても、そうした理不尽に命の危険があって刃向かえないにせよ、「公然と顔を上げて、立ちなさい」という、消極的な、しかしなし得る最大限の抵抗の姿勢ともいえるのではないでしょうか。不条理な暴力の中にあっては、自分の身を守ることは大切です。そのための一つの知恵ともいえるのではないでしょうか。
そのように、この教えの言葉を読んでいくとき、またイエス様の言葉が違って理解できるようにも思うのです。
人間は歴史の中で、置かれた環境や状況によっては、平和で平穏なときであれば、「悪」とたやすく判断できる行為を、いとも簡単に行ってしまうことがあります。戦争や内乱などが起こり、社会全体が不安定になると、必ず殺人や虐殺、暴行などの残虐な行為が繰り返されてきました。あるいは、怒りや恨みが抑えきれずに激情に駆られて、人を殺したり傷つけたりすることも起こるし、欲望を押され切れずに犯罪を犯したりもします。
他人に対する恐怖心や無関心、偏見などがそれを加速もします。「普通の人」が簡単に「悪人」になってしまうのです。感情や力のコントロールを失い、理性的には行動出来ずに、自分と向き合う相手を、「人としての尊厳」をもって見ることができなくなってしまいます。それは同時に、自分自身の中に「人としての誇りと尊厳」を失ってしまうことである、ともいえるでしょう。
人を憎む心に、平和は訪れないと云います。憎しみや恨みは、憎しみをもつ人自身をも傷つけ、その人を復讐に向かわせてしまいがちです。「敵を憎め。隣人と味方を大切にせよ」というのでは、平和は決して訪れません。
旧約聖書のレビ記19章17節と18節にはこう記してあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことにはならない」。
「心の中で憎んではならない」とは、いわば直接言葉にして相手を戒めることをせず、憎しみや恨みをいつまでも解消せずにいることへの警告です。その人自身が憎しみや恨みに束縛されないようにとの奨めなのです。
暴力をふるわれたから、同じように暴力で返す。「やられたら、やりかえす」にしても、相手にも同様の方法で復讐するということは、傷ついた「わたし」を癒すことよりも、かえってより傷つけることにもなりかねません。
インド独立運動の指導者であったマハトマ・ガンジーや、黒人解放運動を指導したマーチン・ルーサー・キング牧師が、「非暴力による不服従と抵抗」を説いたことはよく知られていますが、それは、虐げられてきた者が、自分たちを虐げる者と同じ存在になってしまわないこと、つまり「人が人であるという誇りと尊厳」を保つために必要なことだと考えたからです。
「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることはない。人を罪人と決めつけたりしてはならない。そうすればあなたがたも罪人だと決められることはない。赦しなさい。そうすればあなたがたも赦される。」
誰かが人を裁き、その人を「『罪人』と決めつける」ことには、注意が必要です。「人が人を裁く」ということは、すでにある法律や規則、道徳的な価値観に当てはめて自動的に行えるような、決して簡単なことでは本来ないのです。法律や規則、道徳的な価値観も誤ることがあるし、その法律や規則が、私たちの生活や権利を著しく抑圧したり、侵害する場合もあるからです。また、その判断基準である法律や規則、若しくは道徳的な価値観は、時代時代によって変化するといった、極めて相対的なものでもあるからです。
「蟹は、自分の甲羅に似せて、穴を掘る」という言葉があります。ある意味、人が何かを判断するとき、その人は多くの場合、自分の経験したこと、あるいは自分の持っている知識に基づいて判断をします。でも、その判断基準が正しいかどうかは、よく吟味されなければなりません。また、「自分のことは棚に上げて」という表現があります。自分自身のことは反省することなしに、他人のことをあれこれ言うことを言います。あるいは「天に唾するようなものだ」という表現もあります。そこには、「人間は同じように問題を起こすし、誰もが思い当たるはずだ。それを非難すると自分にもその非難は反ってくるよ」という戒めの意味が込められています。
「自分を高みにおいて、人を裁こうとするな。」
「人を裁くな」という言葉の真意は先ずそこにあります。独善的な正義の立場に立つことへの戒めです。
例えば、インターネットの普及は、より多くの人々の生の声を、様々な形で顕在化しました。ツイッターやフェイスブックといった方法を用いて、インターネット上には、色々な人たちの意見が反映されています。しかし、中には、「独善的な正義の立場」からの意見も多く見られます。「自分のことを棚に上げて」他人の異なる意見に耳を傾けずに、一方的に否定したり、レッテル貼りをして誹謗中傷する言葉もあります。
そこで求められるのは、実は自分自身を省みて、謙虚になりながら、議論を進めることです。人は絶対的な正義の立場にはなれないのですから。それだけに、人は自分自身を眺める目を持つべきだと、イエス様は言います。
「あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
このイエス様の言葉の前に立って、自分自身を客観的に眺めてみることが求められているのです。
2001年9月11日、ニューヨークで起きた旅客機による「自爆テロ」事件の後、アメリカはニュースで伝え聞く限りでは、復讐一色になったかのようでした。家々の軒先に星条旗が飾られ、人々は「アフガニスタンへ攻め込んで、テロ組織のアルカイダをやっつけて、仇をとるんだ」と口々に言っていたように感じました。
そんな雰囲気の中で、あるバプテスト教会の牧師はこんな発言をしていました。「イスラム教徒は討ち滅ばされなければならない」と。「あなたがたの敵を愛しなさい」というイエス・キリストの言葉にもかかわらず、「敵を殺せ、滅ぼせ」と叫ぶ牧師の声。しかし、小さな声のようでしたが、こんな声も聞かれました。「復讐を求めて戦争を起こしてはならない。」
どこかで憎しみと復讐の連鎖を断ち切る必要がある。だから「あなたと敵対する者を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエス様は言われるのです。自ら迫害され苦しめられ、脅かされる者自身として。
それは、人を虐げたり不当に扱うことを見て見ぬふりをしたり、ただひたすら耐えなさい、ということとは違います。不当な行為は正されなければならず、イエス様がそうしたように、神様の正義とは何かを明らかにすることで、抗うことは求められています。そのうえで、自分の心を憎しみに譲り渡してしまわないために、そのために「祈りなさい」と命じられているのです。
「あなたと敵対する者を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉の根拠には、イエス様自身の十字架による処刑の死があるといえます。人が人を虐げたり、軽蔑したり、憎んだりすることへの憤りと悲しみを感じるからこそ、そのような悲惨さや不公正のない社会を望む。だからこそ、イエス様は「敵対する者を愛し、自分を迫害する者のためにも祈り」、生涯を生き、また十字架で死なれたのです。
「人が人である誇りと尊厳」を保つことを、忘れてはいけないと思います。自分に対しても、またわたしの隣人に対しても、そして、「自分を迫害する者」に対しても。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

2025年2月 16日
顕現後第6主日
「幸いであると
祝福される人」
ルカによる福音書
6章 17節~26節
「貧しい人々は幸いである」で始まるイエス様の説教は、ある意味、たいへん印象深いものです。そこでは、「幸い」と祝福されているのが、「貧しい人々」であり、「今飢えている人々」、そして「今泣いている人」だからです。反対に「不幸である」とされているのは、「富んでいて」「今、満腹していて」「今笑っている」人たちです。
ちなみに福音書記者マタイは、このイエス様の言葉を「心の貧しい人」と記し、精神的な貧しさ、特に精神的に神様に求めていく度合いの強さを示すもの、と理解しています。しかし、今日の日課で福音書記者ルカが描くイエス様は、具体的な「貧しさ」、「貧困」と「富」、「豊かさ」を問題にし、またその問題と直接関わって、「幸いである」と祝福しているのです。
そのうえで、皆さんにお聞きしたいのですが、貧しいことは、幸いなのでしょうか。今、その貧しい状態にある人々は、幸せなのでしょうか。祝福されるような状態なのでしょうか。また、反対に富をもっている人たち、裕福な人たちは、なぜ不幸なのでしょうか。今、満腹している人たちもやはりなぜ不幸なのでしょうか。
今日の日課であるルカによる福音書6章17節から26節で、イエス様は、何を、私たちに語りかけているのでしょうか。何を私たちが考えなければならないのでしょうか。日課を読みながら、その問いを考えてみたいと思います。
イエス様の説教を理解しようとする時、私たちは、それがどのような状況で、だれに向かって語られたのかに注目する必要があります。この物語の場面では、ユダヤ全土、エルサレム、海岸沿いの地方からも集まっていたたくさんの人々に向けてイエス様の説教は語られています。その人々は、教えを聞くことと、病気の癒しや悪霊からの解放を願っています。イエス様の教えの中に、あるいは癒しのわざに具体的な悩みや問題からの救いを求めているのです。
そこには、おそらく貧しい人々もいたことでしょう。決して豊かではない暮らしをしている人たち、明日のあるいは今日の食事の心配をしなければならない人たちがいた、病気や生活のことで泣いている人々がいたことは想像できます。
大勢の弟子たちもいたと書かれています。十二弟子以外にもイエス様に従ってついて来た人たちがいたのでしょう。それまでの生活をいわば捨てて従った人たち。彼らは彼らで、堅実に暮らしている人たちからは、ひょっとしたら変人扱いをされていたかもしれません。「何を好き好んで放浪の旅をするのか」と。
一方で裕福な人たち、それほど生活には困らない人たちもいたでしょう。何ほどかの人たちは、真剣にこれからの人生を考えていたかもしれませんし、それこそ、病の癒しを求めていたかもしれません。そうした裕福な人たちのある人たちは、噂に聞くイエス様のお話を、興味を持って聞きに来ていたかもしれません。
その場所に集まった様々な生活の背景や関心をもった人々に向けて、イエス様は、語っていくのです。
改めて、そこに集まっている人々の表情も目の前に浮かんでくる気がします。
そのうえで考えたいのですが、貧しさ、人が貧しい状態にあること、それは具体的には、仕事がないこと、あるいはたとえ仕事にありつけても、日々の食事に事欠くような、食べられないことであり、場合によっては、住むところがないことです。病気になっても医者にかかることができないことかもしれません。そうした貧しい人々の実態は、イエス様が教えてくれた「主の祈り」の言葉の中に見ることも出来ます。
「今日食べるパンをください。私たちが負っている負債・借金を取り除いてください。」
それは切実な祈りです。少なくとも、「今日の食べ物がない現実と、負債を背負わされている状況を変えて欲しい」と言う願いを表しています。つまり、貧しい人たちのそのような生活の実態は、決して手放しで幸い、幸せだとは言えないのです。
しかし、今日の日課の説教でイエス様が語っているのは、決して、「『貧しい状態にいる者』、『今飢えている人々』、『今泣いている人々』は、幸せなのだ」と云って、貧困の状態に陥り、「飢えて」「泣いている」人々の現状を肯定している訳ではなのです。
イエス様が語っているのは、「貧しく」「飢え」「悲しむ」人々への一つの宣言です。
「今貧しい者、今飢えている者、今泣いている者、あなたがたは、神の国を見るし、満ち足りて笑うことができる」という約束の言葉です。イエス様がそう約束された、ということなのです。いやもっと言えば、「もし人が神様から、幸いと祝福されるとするならば、この貧しい人たちを置いて他にはないのだ」というイエス様の切実な思いをここに読み取ることが出来ます。
他方、裕福な人たちに対しては、イエス様の言葉は厳しいものです。「今」という言葉が響きます。「今、満ち足りている人たち」、「笑っている人たち」。「今」が強く語られるのは、それこそ同じ時に、裕福さとは別な状況、貧しい状態にある人々がいるからです。裕福な人々は、今、充分にその報いを受けてしまっている。今、満ち足りている。今、笑って過ごせる。しかし、その同じ時に、一方で飢える者がいる状態があり、泣く者がいる状態であるのだ、と。だから、その状況で、もしも、人が、自分たちが満ち足りていること、自分たちが笑えることを「良し」としてしまうならば、神様はその姿を正しいこと、「義し」とはしないのです。
それは例えば、イエス様がなさった説教の「ラザロと金持ちの説話」にも、見ることができます。「生前、金持ちの家の門前で物乞いをしていたラザロは、死後、アブラハムと一緒に天の国の宴会に招かれるが、そのラザロに気づくこともなく生活していた金持ちは、地獄で火に焼かれることになる。」
神様の公正と正義、それが、イエス様の説教の背景にあります。
イエス様の言葉には、その神様の公正と正義の実現という視点から見るとき、その人々が陥っている「貧しさ」や「飢え」、「悲しみ」が、人々を二分していること(分断している)ことへの深い嘆きと憤り、そして問いかけがあるのです。つまり、「貧しさ」は、ある人々が「富」をもつという「貧富の差」からもたらされます。「飢えること」は、ある人々が「飽食すること」からもたらされます。そして、現状に満足している人々の「笑い」は、そうした貧しく飢えている人の「悲しみ」に気付かないことによるのです。そのような状態が人々の生活の中では、実は密接に結びついて引き起こされていることを、指摘しているのです。
それゆえにイエス様は、神様の意思、正義と公正から、「貧しく」「飢えて」「今泣いている」人々は、「幸いだ」と、祝福するのです。「今満ち足りている者は不幸だ」と言われるのです。「貧しい人々は幸いである」という祝福は、「神様の意思が地上で実現する」ことを約束しているのです。
今この瞬間にも、存在する「貧しさ」、「飢え」、「悲しみ」の状態に、私たちの社会も直面しています。
いろいろな病気や障がいで社会の中で生きづらさを抱えている人たちがいます。非正規雇用の状態が続き、いくつものアルバイトなどを掛け持ちで生活している人たちや家族持ちの人たちがいます。経済的な理由から進学をあきらめたり、あるいは奨学金を受けながら就学している人たちがいます。ありのままの存在を正しく理解されず、差別される性的少数者の人たちがいます。難民申請をしながら、日本政府は受け入れようとせず、不安定な状態に置かれている外国籍の人たちがいます。
具体的な「貧しさ」、それは生活するに足る様々なものが乏しいことで、生活に支障をきたす状態です。何度も云いますが、そうした貧困が今現在あることは、そのままで、幸福な状態ではありません。大事なのは、神様の公正と正義が実現し、人々を分断する「貧富の差」、「飢えと飽食」、「悲しみと嘲笑」の状態がなくなっていくことです。
聖書は、神の国の到来を予告しています。しかし、神の国はなかなか到来しません。今日に至るまで実現していないのも事実です。とはいえ、神の国を人が無理やりこの地上に実現させようとしても、それはできません。過去(歴史上)に、いろいろな人たちが神の国を実現するために様々な企てを試みてきました。しかし、人間も持つ限界ゆえに、そこでは必ずと言っていいほど無理が生じ、人を解放するはずが、かえって人が人を抑圧する事態が起こってしまいました。しかし、だからと云って、人が陥っている「貧しさ」や「飢え」、「悲しみ」という現状が放っておかれていいはずはありません。人が困窮した状態に甘んじていいわけがないのです。
神の国の実現は、神の国が自ら到来するのを待つしかありませんが、でも私たちはそのための備えならできます。いつ神の国が到来してもいいように、人の心の向きを神様に向きなおらせること、悔い改めることが、聖書には求められているのです。
人が「飢えているときに食べさせ」、「のどが渇いているときに飲ませ」、「裸のときに着せ」、「病気の時に見舞う」ことは、「わたし(キリストに)にしたことである」というイエス様の説話(マタイ25章)にあるように、今、貧困や病や孤独に悩み苦しんでいる、社会的に「最も小さくされた者」に対して、その時適切ななすべきことを果たすことは、その神の国の到来に備えることであるのです。
人が想像力をもって、お互いがお互いを顧みることをしていくことです。独善的にならずに、「お互い様」という気持ちで、手を差し伸べ合い、祈り合って、自分の利益だけを求めるのでなしに、富や豊かさを、食べるものを、生活に必要なものをわかちあうことです。また、多様な生き方を認め合い、尊厳を認め合うこと、悲しみと笑いを伴う喜びを、共に分かち合うことです。それは具体的には、生活が困難な状況にある人たちを理解し、手を貸そうとすることです。
私たちが、「自分たちの」今に満ち足りてしまう、現状に満足してしまうのではなく、私たちの「隣人」と共に困難を乗り越えようとするなら、そのとき、私たちは、イエス様の祝福の約束が実現するのを、目の当たりにするでしょう。そのことこそ、本当の意味で「あなたがたは幸いである」という祝福の状態といえるでしょう。
神様の意思が、正義と公正が、地上で実現することを願って、私たちも来たるべき神の国への備えとして、具体的な貧しさをなくしていく社会を作っていきたいのです。そのことをイエス様の説教からしっかりと聞きとって、この世界に示したいと思うのです。

2025年2月 9日
顕現後第5主日
「期待を
上回る恵み」
ルカによる福音書
5章 1節~11節
私たちは、経験を通していろいろなことを学びます。どのような仕事であったとしても、たとえば教わった理屈を、実際の経験の中で、確かめながら判断して、私たちは自分のものにしていきます。農業であれ、漁業であれ、または物を造る仕事であれ、事務仕事であれ、直接自分が経験したことは、あとあと生きた知識、知恵、常識となっていきます。
今日の日課に登場するペトロも、おそらくはそのように、経験を積みながら漁師として働いて来たのでしょう。毎日毎日の湖の浜辺での生活の中で、いつ頃の季節にどんな種類の魚が獲れるのか、一日のうちいつが魚を獲るのに適しているのか、彼も親や他の漁師たちから教わりながら、若いころから働いて、経験し学んできたはずです。しかし、その彼のそれまでの経験からすれば、およそ馬鹿げたことを、一人の人から促されます。それはイエス様でした。
ゲネサレ湖畔にいたイエス様を追いかけて、たくさんの人たちが集まってきていました。イエス様は、その群衆に話をするために、ちょうどそのとき、漁を終えて岸辺で網を洗っていたペトロに頼み込んで、舟を少しだけ漕ぎだすようにいわれました。そして、岸から少し離れた場所に舟を止めさせて、そこから群衆に向かって話を始めるのです。イエス様が、どれほどの時間お話をされたのかは判りませんが、舟を漕いだペトロは、その間、そばでイエス様の話を聞いていました。
ところでペトロは、しばらく前から、カファルナウムで宣教を始められたイエス様を知っていました。高熱に苦しんでいたペトロの姑を、イエス様が癒やしていたからです。イエス様の癒しの現場を彼は目撃していました。そんなこともあって、イエス様はペトロに舟のことで頼み込んだのかもしれません。やがて話を終えたイエス様は、船をこいでいたペトロに向かってこう言います。「沖にこぎ出して網を下ろして、漁をしなさい」と。このイエス様の言葉に対して、ペトロはこう答えました。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」。
言葉の中には、彼の経験が反映しています。彼ら漁師たちは、いつものように夜漁に出ました。夜通し網を下ろしては魚を取ろうと試みます。しかし、あいにくと魚は獲れません。そのときの気温や気候の関係なのか、それともまったく別なことが関係していたのでしょうか。ともかく、彼らは何も獲れずに夜が明けると、手ぶらで引き揚げて来たのです。だから、ペトロの経験は教えています。「こんな明るい時間に網を下ろしたところで、魚は獲れやしない」と。長く漁師をやっているとそんな不漁の時もあるのでしょう。そんなペトロからすれば、イエス様の言葉、「(今から)沖に舟を漕ぎだして網を下ろし、漁をしなさい」は、まるっきりの素人の言葉です。ペトロの経験は、それは無駄なこと、時間の無駄だと教えます。しかし、ペトロは思います。「ここはひとつ、この人のいうことを聞いてみようか」と。
一つには、先ほどお話したように、ペテロは、イエス様による彼の姑の癒しの現場を直接目にしていたからです。彼にとっては、イエス様は癒しを行う「神の人」、「神の聖者」でした。その「神の人」が言うのだから、言われた通りにやってみようか、とペトロは考えました。「先生、あなたが勧めるなら、お言葉ですから、どれ一つ試しにやってみましょう」。
「駄目元」という気持ちがなかったかどうかは判りませんが、彼と仲間たちは、いわれるままに沖に出て網を下ろしました。するとおびただしい魚が網に入っていました。網を引き揚げるには、一そうの舟では間に合わなくて、もう一そうの舟も呼んで網を引き揚げ、おかげで二そうの舟は魚でいっぱいになった。これが、ペトロの経験した奇跡でした。
この物語は、イエス様と最初の弟子になったペトロたちとの出会いを、すこしだけ劇的な場面に描いています。
目の前で起きた奇跡に驚くペトロ。それは、単純な驚きだけでなく、自分の前に立つイエスという人が、いよいよ何か計り知れない力を持っているという恐れにも似た感情を呼び起こしたようです。「この人は、本当に神の人だ。それも自然さえも従えることの出来る、そうした神の力を持った正真正銘の神の人なのだ」と。
そして、奇跡を起こすイエス様を前にしたペトロは、自分自身を顧みて言いました。「主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者なのです。」 初めは「先生」と呼んでいたイエス様のことを、ペトロは、奇跡を目の当たりにして、「主よ」と呼びかけた。ここにペトロの気持ちの変化を読み取ることが出来ます。
ある意味では、ペトロは、自分の思いや感情に正直であるのかもしれません。「罪深さ」の中身は語られてはいませんが、イエス様に対して自分の「罪深さ」に恥いっているペトロ。しかし、そのペトロにイエス様は語りかけます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を獲る漁師になる」と。このイエス様の言葉を聞くと、ペトロもヤコブもヨハネも(そしてペトロの兄弟アンデレも)、「船を陸に引き揚げ、すべてを捨てて」イエス様に従って行くのです。
この物語が伝えようとしていること、それは、弟子の選びそのものが一つの奇跡であるということです。
確かにここには、イエス様の勧める言葉に従うことで、たくさんの魚が獲れたという奇跡が描かれています。しかし、物語の中心はその奇跡そのものを伝えることよりは、むしろその奇跡を目の当たりにしたペトロの思いの変化と、イエス様の招きの言葉をきっかけに従っていった、弟子たちの姿を写し出すことにあるといえます。
この物語の大量の魚が獲れたという奇跡は、イエス様の「神としての」力の顕現といえます。奇跡を目撃したペトロの反応は、たとえば、(旧約聖書に記されている)神様の臨在の幻を見た預言者イザヤの示したそれと同じようにも思えます。神様を前にしたイザヤが、「聖なるもの」に対する「汚れた存在」としての自分が滅びることを恐れたことと、そしてペトロが自分を「罪深い者」と感じた感情は極めて近いものであった、と考えられます。そうして謙虚になったペトロに対して、イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を獲る漁師になる」と呼びかけるのです。
今日のペトロたち弟子の選びの話では、彼らがもともとどのような人間であるか、どのような人となりであるのかは、ほとんど問題にはなっていません。大切なのは、顕れた神様を前にしたときの彼らの姿勢にあるといえます。自分を顧みる姿勢が問われているわけです。
たまたま自分たちの舟に乗り込んだイエス様のそばで、他の人々に向けてイエス様が話すのを聞いたペトロたちに対して、突然神様の力が顕されていく。そして彼らが弟子として選ばれていく。彼らは、「船を陸に引き揚げ、すべてを捨てて」イエス様に従って行きます。人が自分の生き方を、変えていくことそのものが、一つの奇跡を表しているといえます。
ペトロが目の当たりにしたおびただしい魚が獲れるという奇跡は、「お言葉ですから、まぁやってみましょう」という、彼自身それほど期待もしていなかった思いを上まわった、彼のそれまでしてきた経験や常識を上まわる恵みの「体験」でした。
ペトロは、少なくともその体験によって、自分の経験のさらに向こうにある可能性に出会います。自分のこれまでの経験から判断すれば、それは馬鹿げたこと、時間の無駄であるかもしれない。しかし、人の経験を越えて与えられる恵みがあること、人の期待を上まわる恵みが与えられることを、彼自身「体験」するのです。
もしも、ペトロが自分のそれまでの経験、漁師としての常識にとどまっていたとしたら、彼はイエス様が与える人の期待を上まわる恵みを、体験することはできませんでした。そして、それは自分の新しい可能性に気付いていくことにもつながりませんでした。彼ペトロは、漁師のまま(もちろん漁師であることは悪いことではないのですが)、ゲネサレ湖畔で一生を終えたでしょう。ただし自分の持つ新しい人生を開く可能性、つまりイエス様に従って生きるということに気付かぬままに。
また、ペトロの体験は、彼の強い確信、確固たる「信仰」がもたらしたことではありません。彼の行動は、「お言葉ですから、やってみましょう」といういわば確証のないまま、半信半疑の上での試みであったわけです。それに応えられたのは、イエス様からの一方的な奇跡の出来事であったわけです。しかし、だからといって、ペトロの行動が必要でなかったわけではありません。「やってごらん」という言葉にペトロが促されることがなければ、奇跡も体験しなかったのです。
このことは、私たちにとっても同じであるといえます。
私たちが身につけた知識、常識、それは自分のこれまでの経験に裏打ちされたものです。しかし、それは、これからも変わることのない限界を意味するものではないのです。たとえ経験上、無理だと思えることであっても、どうせ駄目だと思えることであったとしても、それでもやってみようと試みて、挑んでみたときに、私たちもその経験をも超える恵みの体験に出会ってきたのではないでしょうか。人の計画は、思いもよらないことで、頓挫したり、挫折します。思わぬこと出来事に直面もします。必ずしも自分の期待通りに行かないことも多く体験します。そして、失敗した経験が多ければ、人は、ときとして失敗することを恐れ、あるいは期待することも止めてしまうことがあります。しかし、それは、実は自分のそれまでの経験にとどまっている姿、ちょうどペトロが漁師の常識にとどまって考えている状態なのではないか、と思うのです。だから、もし人が、私たちが、何かあることを希望しているのなら、そしてそれを実現することが経験上無理であったり、無駄に思えたとしても、祈りをもって、挑んでみるならば、試みてみるならば、その祈りのはてに、試みの行動のはてに、それまでの経験を上まわる恵みを、体験するのではないでしょうか。
私たちに、イエス様は語りかけています。「(今から)沖に舟を漕ぎだして網を下ろし、漁をしなさい」と。私たちが、「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした」として、これまでの経験にとどまるのか、それとも、「先生、あなたが勧めるなら、お言葉ですから、どれ一つ試しにやってみましょう」と、なおも挑んで行くのかによって、私たちのこれから体験する出来事は大きく変わるでしょう。
祈りをもって、挑んでみたい、試みてみたいと思います。そして、その祈りのはてに、試みの行動のはてに、それまでの経験を上まわる恵みを、体験していきたいと願うのです。
2020年8月2日 (平和主日)
「平和の基」
ヨハネによる福音書
15章9節~12節
イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。
ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。
その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。
イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。
イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。
イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。
「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」
それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。
しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。
もちろん、注意しなければならないことはあります。
「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。
最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。
と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。
「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。
「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。
私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。
それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。
なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。
日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。
昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。
そこでは、次のような祈りがささげられました。
「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」
「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」
「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」
「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」
「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」
「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」
「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」
「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」
「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。
平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。
人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。
「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン
2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)
「天の国の実現」
マタイによる福音書
13章31節~33節
+44節~50節
イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。
私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。
イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。
先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。
からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。
讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。
「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」
球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。
からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。
次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。
「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。
パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。
パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。
「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。
また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。
「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。
もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。
そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。
もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。
44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。
二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。
つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。
イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。
現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。
しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。
「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。
日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。
「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。
2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)
「生き直すということ」
マタイによる福音書
11章28節~30節
人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。
競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。
行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。
生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。
軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。
ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。
つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。
ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。
「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。
旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。
ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。
イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。
本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。
イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。
と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。
「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。
それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。
それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。
またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。
イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。
この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。
生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。
だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。
だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。
2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)
「あなたが花束」
マタイによる福音書
10章40節~42節
「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。
歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。
「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。
それは、その相手を励ましたいからです。
「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。
歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。
歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。
「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。
「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。
その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。
歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。
そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。
「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。
この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。
いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。
自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。
そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。
「あなたが花束」になっていくのです。
「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。
今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。
ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。
そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)
「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)
この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。
弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。
二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。
使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。
福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。
もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。
たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。
生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。
弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。
教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。
それが、弟子の使命です。
どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。
2020年1月26日
「天の国は近づいた」
マタイによる福音書4章12~18節
韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
共に平和をつくり 共に生きる その町で
平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら
貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で
平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で
私たちの労働が お祭りになる その日に向かって
共に生きる町 小さくても 美しい町
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
教えてください 教えてください 共に生きる町を
詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。
その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。
この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。
一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。
と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。
この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。
八〇年代、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。
このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。
「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。
明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。
勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの
かもしれません。
いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。
「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」
イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。
ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。
具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。
不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。
それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。
悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。
この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。
私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。
大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。
それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。
それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。
確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。
「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。
「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。
「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います
(2020年1月26日)