

日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2026年3月8日
四旬節第3主日
「いのちの水を汲む」
ヨハネによる福音書
4章1節 ~42節
出会いが、人を変える。それも対話することで、人が変えられていく。それは、ある種の奇跡とも云えます。その一つの出来事が、今日の福音書の日課に記されています。
イエス様が弟子たちと一緒にサマリヤ地方に入り、シカルという町に立ち寄った時のことでした。
サマリヤ地方の人々は、何世代もの間、エルサレムよりも古いゲリジブ山の聖所を守って、モーセ五書を中心とした独自の旧約聖書の理解を発展させてきました。しかし、それは、「正統な」ユダヤ教からは、伝統から「外れた」宗教と見なされました。またサマリヤは、一時期ユダヤ人の王朝に征服されたりもしたため、ユダヤ人たちは事あるごとに、「自分たちこそが正当なユダヤ教の伝統を守っているのであり、サマリヤ人の拝む神は偽物である」として、サマリヤ人を見下し差別していました。一方のサマリヤ人たちもまた、そうしたユダヤ人たちのことさらに狭い意識に反発していました。
ただ、そのサマリヤには、ガリラヤとユダヤを行き来する最短距離の街道が通っていました。その街道を、イエス様は通って旅を続けていたのです。
さて、イエス様は、「旅に疲れて、そのまま(ヤコブの)井戸のそばに座って」いました。それは「正午」のことでした。
そこに一人のサマリヤ人女性がやって来るところから、物語は始まります。昼の暑い盛りに、町にある「ヤコブの井戸」に水を汲みに来た女性。彼女は、他には誰も水を汲みには来ていない時間に、まるで人目を避けるかのように、水を汲みにやって来ました。ところがその井戸の傍に一人の男性、イエス様が座っていたのです。
彼女はイエス様がユダヤ人だと気付きました。そのときイエス様は彼女に「水を飲ませてください」と声をかけましたが、彼女は、その申し出に対して、ぶっきらぼうに応えました。「ユダヤ人のあなたが、サマリヤ人の私にどうして水を飲ませてくれと頼むのですか。」 日頃は自分たちサマリヤ人を馬鹿にして差別するユダヤ人が「水をくれ」とは、自分をからかっているのか。彼女の答えには、拒絶と反発が感じられます。このサマリヤ人の女性が示した反発に対して、しかし、イエス様は、黙ったり、怒りだしたりはしませんでした。むしろ自分が誰であるかを暗示するように話しかけたのです。
「神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、(そこから)永遠の命に至る水がわき出る。」
カウンセリングの一つの技法に、対話する相手に対して、関心を持つ、若しくは好奇心を持って臨むことが大切だと云うのがあります。イエス様の言葉は、自分とサマリヤ人女性との間に、ある種の関係を築こうと働きかけている言葉とも云えます。言い換えれば、イエス様は、その女性に関心を向けていると云えるでしょう。
イエス様の言葉に対して、女性は、「御主人、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」、「渇くことがないように、またここに汲みに来なくてもいいように、その水をくださいな。」と、応じています。
彼女は、井戸から汲み上げる「水」について語るのに、イエス様は、「永遠の命に至る水」について語っている。この会話のチグハグさが、ここで頂点に達しています。と同時に、この言葉からはまた、最初は顔を合わせないように、横を向いてイエス様を「あしらう」ように対応していた女性が、少し苛立ちながらも、正面からイエス様の方を向いている様子がうかがえます。彼女の態度が少しずつ変化しているのです。
するとそのとき、イエス様は、彼女の生活の背景にいきなり触れていきました。彼女が抱えていた問題に触れていったのです。
人は誰しもが、「心の渇き・魂の渇き」を覚えるときがあるのではないでしょうか。自分が実は心の奥底で問題に感じている事柄があるのではないでしょうか。
「夫を呼んで来なさい。」(中略)「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と。ここで、この女性がどのような境遇にいたのか、なぜ、彼女が人目を避けて、昼の熱い時間帯に井戸に水を汲みに来たのかというその理由が明らかになってきます。彼女と周囲の人たちとの関係が浮かび上がってくるのです。
彼女には五人の夫がいたというのは、おそらくは、彼女が結婚した相手が(若くして)亡くなった後で、再婚を繰り返したという事情でしょう。レビラート婚(若い寡婦を死別した夫の親族が娶る)という風習もあったでしょう。五人も夫に先立たれたのかもしれないし、あるいは離婚をしたのかもしれません。
また、夫ではない男性と一緒に「連れ添っている」という彼女の生活は、ユダヤ教、若しくはサマリヤの宗教の持っている「正統的な」価値観(たとえば結婚という制度)から「外れている」と見なされていたでしょう。そのせいで、彼女の周囲の人たちは、彼女をそれとなく遠巻きにして、よそよそしく扱っていたのかもしれません。
彼女は、周囲の冷ややかな態度やまなざしに対しては、それを意識的にやり過ごそうとしていたのかもしれません。だから、周囲の人たちとの接触をできるだけ避けるように、「正午」に水を汲みに来ていたのでしょう。それでいて、きっと心の中では、孤独や空しさを感じていたのだろうと思います。
彼女は、このイエス様が指摘した事実に、気分を害したり腹を立てたりはしませんでした。むしろ、イエス様のすべてを見通すような力に驚きつつも、イエス様が自分の抱えている問題を理解していることを認めて、態度を改めて、こう問いかけました。「あなたは預言者ですね。エルサレムが正しい礼拝の場所なのですか。私たちの先祖はこの山で礼拝しています。」
ここで、このサマリヤ人女性が、もうひとつ心の中で問題と感じていたことが明らかにされます。
それは、どうして自分たちサマリア人は、ユダヤ人から見下され、「差別」されなくてはならないのかという疑問です。彼女は、自分がサマリヤ人であることを、ユダヤ人からは、まるで「悪い」ことであるかのように見られているのを感じていました。自分が慣れ親しんできたサマリヤの文化は、ユダヤ人がいうほど劣っているのか、私たちは偽の宗教、偽の神様を拝んでいるのか、私が受けてきた教え、価値観は間違っているのか。彼女は、ユダヤ人からの差別や侮辱に接するたびごとに、自分が否定されるような思いを持ってきたことでしょう。彼女は、ユダヤ人から向けられる民族差別と、自分の現在の生活を理由としたサマリヤ人社会で感じる疎外感という、二重の偏見に苦しんでいることが読み取れます。
その彼女に向かってイエス様は、福音の核心を語りました。
「婦人よ、私を信じなさい。まことの礼拝をする者が、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がそのときだ。」神様の前では、エルサレムだろうとゲリジム山だろうと、どこで礼拝をするかは問題にはならない。霊と真理にもとづく礼拝であるかどうかが大切なのだ、と。彼女の思いを肯定し、受け入れ、それに応えるイエス様がおられます。
「救い主が来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切を知らせてくださいます。」ここで女性の秘めていた信仰が、救いを求めている気持ちが明らかになりました。
「あなたと話しているこのわたしがそれだ。」 彼女が、救いに触れた瞬間でした。
人と人の間に差別を生みだす偏見は、人の「いのち」を失わせるものです。イエス様は、ユダヤ人が持っていたサマリヤ人への偏見を越えて、彼女に語りかけ、しかも彼女が抱えている事情をすべて承知で、彼女と向き合っていきました。
イエス様がサマリヤ人女性に向って働きかけたことは、人とのつながりの回復でした。常日頃、偏見に晒されていた相手からの反発はあって当然ですし、傷つく言葉をかけられるかもしれません。しかし、イエス様は怯まずに、「わたしはあなたと向き合い話がしたいのです」と語りかけて行きました。その働きかけは、女性自身を変えました。人目を避けるようにしていた彼女が、少しずつイエス様の方に向き直り、そして、投げかけられる問いに答えるだけの自分から、自ら問いを投げかける者へと変わったのです。また彼女は、自分の存在を問う者へと変えられました。そして、彼女は、自分の存在と生き方を、肯定して行くのです。まさに自分のいのちを回復するのです。
それは一つの癒しの奇跡でした。彼女の「魂の渇き」が癒されたときでした。決定的なのは、彼女が、イエス様の存在を他の人々に告げ知らせる者へと変えられていったことです。彼女は、町の人々に向けて語りました。「この方が、私の行ったことをすべて言い当てました。もしかしたら、この方が救い主(キリスト)かもしれません。」 それは、彼女の信仰の発露です。それまで抑えていた彼女の思いが、イエス様と出会ったことで溢れてきたのです。そして、その彼女の言葉を聞いて、多くの人々が、イエス様の言葉を直接聞いて信じていったのです。
「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
イエス様が一人のサマリヤ人女性に「いのち」を与え、彼女が生き生きとしていることに驚き、その出来事を通して、イエス様がユダヤ人とサマリヤ人の隔ての壁を壊して、救いをもたらす「世の救い主」であることを、サマリヤの町の人々が実感したからこそ、彼らは、イエス様を信じたともいえるでしょう。
「生きたいのちの水」であるイエス様は、偏見、先入観、差別の意識といった、人を不自由にさせるもの、人と人の関係を損ない阻むものを取り崩し、生き生きとした関係に立ち返らせてくださいます。私たちの渇いた「いのちと魂」を甦らせ、人と人のつながりを修復し、また回復する水として、イエス様がそこにおられます。
私たちもまた、自分の「心の渇き・魂の渇き」を、イエス様の前に投げ出して、イエス様の言葉やわざから「いのちの水」を汲むことを、祈り求めたいと思うのです。

2026年3月1日
四旬節第2主日
「神はあなたを
愛している」
ヨハネによる福音書
3章13節 ~21節
イエス様の許に、一人の男がやって来ました。ファリサイ派であり、長老の一人でもあったニコデモと云う男です。彼は、イエス様を一人の尊敬できる先生(ラビ)と考えて、話を聞くために訪れました。ただ、彼は、自分がイエス様に示した好意を他の人に知られたくはなかったようで、人目をはばかって、夜にイエス様を訪ねてきました。
そんな彼に向かって、イエス様は、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語りました。この言葉にニコデモは、「(自分のような)年を取ったものがどうして生まれ変わることができましょう。もう一度母親の体内に入って生まれることができるでしょうか」と問いかけました。彼は、生まれ変わることの意味を理解できずに、イエス様の言葉の真意を計りかねていました。彼は、ひょっとしたら、彼は歳を取っていて、そんな自分に「生まれ変わること」を語ったイエス様に呆れたのかもしれません。「自分には、残されている時間は少ないし、いまさら新たに生まれると言われてもね」と思い、思わずそれが口に出てしまったのかもしれません。少なくとも、人間には時間を巻き戻して、過去をやり直すことはできないからです。
しかし、その彼に、イエス様は重ねて言いました。「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
「神の国を見る」、「神の国に入る」というのは、ユダヤ教においては、この世界の終末時に、人々が救われて、神様の支配のもとで、永遠に安らぎを得ることを指します。しかし、ここで、イエス様が語ろうとしているのは、「新たに生まれる」ということが、肉体を新たにすることでも、年齢を元に戻すことでもなく、「水と霊によって」、つまり、人が洗礼を受け、その人に聖霊が臨むことで、その人は、「今すでに、ここで」、「生まれ変わって」「新しいいのちに生きる」ことなのです。
「アメイジング・グレース(驚くべき恵み)」という讃美歌があります。(讃美歌21 451番)この讃美歌を作詞したのは、ジョン・ニュートンというイギリス聖公会の牧師です。この讃美歌は一七七九年に書かれていますが、その背景にはニュートン牧師自身の経験がありました。
ジョン・ニュートンは、一七二五年に、船員であった父と信仰深い母親の間に、ロンドンで生まれますが、彼が6歳の時、母親を失くします。ただ、母親は、亡くなるまでの間、ジョンに信仰を伝えようと、熱心に祈りを教えたといいます。ジョンは11歳の時に、父親の影響で船乗りとなりますが、20歳で奴隷貿易の商船の船員となりました。そして、30歳で船を降りるまで、彼は、ときには船長として、黒人奴隷貿易に従事します。彼の生涯の一つの転機は、一七四八年、彼が22歳の時でした。彼の乗っていた船が嵐に遭遇して、難破しかけます。この時、彼は、母の死後初めて真剣に神様に祈り、奇跡的に遭難を免れたのです。その出来事を契機として、ジョンは神様への深い信仰に目覚め、回心して、生活態度を改めていきます。また、その時から彼は、人間の命の尊さに気づき始め、次第に奴隷に対しても同情を覚えるようになっていきます。当時、黒人奴隷の扱いは、家畜以下であり、船内の環境も劣悪で、多くの奴隷が輸送されている最中に、感染症や栄養失調、脱水症状などが原因で命を落としていました。船員になった時には、彼自身その状態に疑問を持つことはありませんでしたが、時間の経過と共に、彼は奴隷貿易に従事したことを悔いるようになります。ただ、彼はしばらくは奴隷貿易に従事し続けていて、本当の意味での回心を迎えるには、さらに多くの時間と出来事が必要だったと、後年語っていたそうです。
一七五五年、彼は30歳で奴隷貿易の仕事を辞め、その後、牧師になることを目指します。38歳の時、イギリス聖公会で念願の牧師となった彼は、赴任したオウルニィで毎週の祈りの集会を始め、その集会のための讃美歌を書き、一七七九年に「オウルニィの讃美歌集」を出版しました。讃美歌「アメイジング・グレース」は、その讃美歌集に収録されていました。そして、この讃美歌集が出版された年にロンドンに赴任したジョン・ニュートンは、奴隷貿易反対運動に関わり始めました。そして、一八〇七年にイギリス国会で、奴隷貿易の廃止が決定されるまで、奴隷貿易廃止を訴えたのです。
この讃美歌「アメイジング・グレース」には、奴隷貿易という「哀れで卑劣な」過去への悔恨と、そのような自分にも拘らず、神は「驚くべき(奇跡的な)恵み」によって赦しを与え、救ってくれたことへの深い感謝が詠われています。
「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
ジョン・ニュートンの生涯を見る時、「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命に入る」ことを望んでおられる神様が、彼の上に働き、彼を「新たに生まれ」させ、イエス・キリストに従う生き方へと「聖霊によって」回心させ、導かれたことを感じます。
さて、ニコデモとの対話の中で、イエス様は、自分が天から下って来た、神の御子であることを明らかにしました。「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と。そして、自分が地上に来た目的が、人々の救いのため、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」ことを告げました。また、その救いがもたらされるのは、イエス様自身が「上げられる」、つまり、十字架の上に挙げられることと、復活の後で天に挙げられることによるのを示されたのです。
「モーセが荒野で蛇を上げた」というのは、民数記21章に記された、エジプトを脱出したイスラエルの人々が経験した出来事と結びついています。
モーセに率いられていたイスラエルの人々が、長旅に疲れ、神様に反抗したとき、神様は、その罰として、炎の蛇を人々の間に送りました。蛇は人々を噛み、多くの死者が出ました。後悔した人々は悔い改め、神様に願って蛇を取り除いてくれるようモーセに頼みました。モーセは「青銅で蛇を造り、その蛇を旗竿の先に掲げなさい。蛇に噛まれても、その人が青銅の蛇を仰ぎ見たならば、その人は命を得る」と云う神様の言葉を人々に伝えました。そして、その神様の言葉に従った人々は、命を得たわけです。
青銅の蛇が、反抗した人々を赦すしるしであったように、イエス様が架けられた十字架を仰ぎ見ることによって、人々は救いを得る、つまり、十字架は、人の罪の赦しのためのしるしであるのです。
最後に、イエス様は、自分が地上に来た目的を語りました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
宗教改革者マルティン・ルターは、このヨハネ福音書3章16節を「小聖書」と呼んでいますが、つまりここには聖書のメッセージの本質、エッセンスが凝縮されていると理解するからです。
この言葉には、この世界を愛しむ神様の心が示されています。私たちが神様を愛するのに先立って、「悪が力を振るっている世界を愛する神の愛」(ボンヘッファー)があると云うのです。
「お与えになる」という言葉は、人々に代ってイエス様が肉を裂かれ、血を流されたことを意味します。イエス様が逮捕され、裁判にかけられ、異邦人であるローマ人に引き渡され、死刑を宣告され、辱めを受け、十字架に架けられて死の瞬間を迎える。その受難が、人々の救いのために必要なことなのだと語っているのです。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエス様は、またこうも言っています。「神が御子を世に遣わされたのは」、この世を「滅ぼす」裁きをするためではなく、「御子によって世が救われるためである」と。「滅び」とは、すなわち、神様の国・支配から外れてしまうこと、あるべき神様との関係に入れないこと、安心を得ることができない状態を云います。「裁き」とは、神様によって「滅びに至る」と判断されるということです。
確かに今日の日課に続いて、裁きの言葉が記されています。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(18節)と。光であるイエス・キリストに従って歩み、永遠の命を受ける者となるのか、この世界の闇の中にとどまって滅びに至ろうとする者となるのか。その神様の裁きは、今この瞬間の(私たちの)決断によって下されると記されているのです。それはつまり、イエス様を信頼して、信じて生き方を変えて行くことを、今始めるかどうかにかかっていると、聖書は語っているのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 これは、神様の願いが込められた言葉です。
「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
人が、「生き直すこと」、それは、今、自分が神様との関係に入ることです。どのような過去を送って来たか、これまでどのような人生を起こってきたかは、問題ではありません。イエス様に向かって回心する、心の向きを変えることは、いつでも可能なのです。
今、神様との関係に立ち返ること、神様に顔を向けて、今この瞬間を、イエス様が教えてくれた生き方を生きようとすること、それが大切です。そのとき、人は改めて、過去の自分と向き合うことができるし、反省し、今とこれからを生きる知恵と力を「聖霊によって」得ることができるのです。
この世界を愛おしく思う神様に信頼し、神様を仰ぎ、イエス様を信じ、自分の人生を委ね歩んでいく。そのとき、私たちは「永遠の命に入る」ことができる、この世のうちにあっても、神様の許での平安を覚えて、今とこれからの人生を生きることができる。そう聖書は語っているのです。
四旬節、私たちのために御自分の体と命を「与えてくださった」イエス様を思う季節です。
この神様の愛に応えたいと思います。

2026年2月22日
「神の言葉に
四旬節第1主日
生きる」
マタイによる福音書
4章1節 ~11節
誘惑、それは人を惑わせ、誤った道へと誘うことを意味します。人間はそれをあらゆる場面で経験します。ごく他愛もないことで云えば、しなければならないことがあっても、それを後回しにして遊んでしまいたくなる誘惑に駆られることがあります。例えば病気を抱えていて、食べたり飲んだりしてはいけないものを、つい食べたくなる誘惑に駆られることがあります。遣ってはいけないお金を目先の誘惑に駆られて、遣ってしまうこともあります。それは、往々にして本来なら「してはならないこと」からの、逸脱した行為と云えるかもしれません。
ここで注意して考えたいのは、こうした誘惑には、ある種の報酬、「御褒美」が伴うということです。その報酬は、目に見える場合もありますし、また気分や感覚的なものもあります。もっと云えば、誘惑は人間の欲求を刺激します。遊ぶことは楽しいと感じさせるし、飲食は食欲を満たしてくれます。お金を使うことは、物欲・所有欲を満足させます。そして、この欲求を満足させると云う報酬を得たいがために、時として人は、自分では不適切なことだと思っていても、誘惑に「負けて」しまうことがあるのです。
今日の旧約聖書の日課、創世記3章1~7節には、神様によって創造された人間が、(蛇からの)誘惑に克てずに、神様との約束(2章15~17節)を破ってしまう場面が記されています。
狡猾であり、誘惑するものである蛇は、別にエファに命じたわけではないのです。あくまでも軽い感じで、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と神様の禁止命令を拡大解釈して、エファに質問をするのです。それは逸脱行為へと誘導するような挑発です。この誘導にエファは何の疑いもなく載って、、園の木の果実は食べてもよいのだが、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えます。ここで誘惑者の蛇は、エファに向かって、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と返すのです。
「それは食べるに良く、見た目にも美しく、賢くなるには好ましいと思われた。」(6節) これがこの場面の誘惑が示す報酬でした。しかし、この報酬を得た後に、エファは「一緒に」いてその木の実を食べたアダムと共に、「神様との約束を破った」厳しい代価を支払うこととなるわけです。彼らは、裸であることを「恥」と意識し、また神様の前で責任の回避をしてしまいます。そして、神様の創造した理想の地である「エデンの園」から、追放され、人間として生きる上での苦しみと「死」の宣告をされるのです。
今日の福音書の日課は、イエス様が、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で四十日間の断食をし、さらに続けて悪魔(試みる者)から誘惑を受けた物語が描かれています。
ここでも、悪魔は、イエス様を誘うために、三つの報酬を約束します。一つはイエス様自身が何でもできる力があることを証明するというもの、二つ目はイエス様が神様の守りの内にあることを証明するというもの、そして三つ目は全世界を支配する力を与えるというものでした。ただしそこには、条件がありました。それは、イエス様が悪魔の問いに応じること、言い換えれば、イエス様自身で神様を試すことが条件でした。
「神の子なら、この石にパンに成るように命じたらどうだ」というのが悪魔の一つ目の問いであり、二つ目の問いは、悪魔がイエス様をエルサレムの神殿の屋根に連れて行き、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。(聖書に)神の子なら、天使たちが手であなたを支えると書いてあるぞ」というものでした。
どちらの悪魔の質問も狡猾でした。「もしもあなたが神の子なら」という言葉は、「本当にあなたは神の子か」という問いであり、イエス様が神様の子であるかどうかを証明することを挑発するものだったからです。それはまた、言い換えれば、イエス様の持っている神様への信頼、信仰を試すものでした。もしも仮にイエス様が、悪魔の質問に応じて、石をパンに変えたり、神殿の屋根から飛び降りていたなら、それは、イエス様自身が、自分が「神の子であるという決定的なしるし」を手に入れようとすることであり、神様を試すことになってしまうからです。
最後に悪魔は、イエス様を高い山の上に連れていくと、世界のすべての国を見せ、「もしわたしを拝むなら、これらの世界の国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と持ちかけました。
ここで悪魔は、この世の繁栄や力を手に入れるために、交換条件として、悪魔への拝礼、つまり神様との関係を断つことを提示したわけです。この物語の最後の誘惑は、人間の持つ名誉欲、支配欲、所有欲といったものを刺激することでした。
実際の話、名誉や名声を得ること、人々を支配し、あるいは多くのものを所有することなど、そうした様々な人間の欲求が過剰になるとき、それらの欲望は、今度は人を「惑わし」、その人を「支える神の言葉」をその人が「放棄する」という「誤った方向に導くこと」が起こります。「権力」を手に入れた人間は、自分がまるで万能であるかのように錯覚し、その「力」を自分の好きに使おうとする誘惑に駆られます。だから、もしも、人が神様の望む正義と公正に思いを寄せることをせずに、手に入れた「権力」・「力」をただ自分の思うままに行使しようとするならば、それは「力」の誤用であり、「神の言葉から離れて、神から離反する」罪の状態に陥ることなのです。
イエス様が体験した三つの誘惑は、すべてが人間の弱点を巧妙に突いてくるものでした。人が自然に持つ疑問や不安を巧みに突き、または欲望を掻き立てるものだったわけです。
この悪魔の誘惑を、しかし、イエス様は、すべて「神の言葉」で退けました。
先ずイエス様は、「(聖書には)『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と語ります。人を生かすものが身体的な欲求を満たす物だけでないことを、イエス様はここで語っているのです。人を生かすもの、生き生きさせるものは、人に働きかけ、人を慰め、労り、励まし、また癒す言葉、お互いを大切にし合い、愛し合う関係を築かせていくような神様の言葉であることを告げたのです。
次にイエス様は「(聖書には)『あなたの神である主を試してはならない』といわれている」と語ります。
イエス様は、神様に何かのしるしを求めることで、神様が自分との間に築いている関係の確かさを試すことをしませんでした。イエス様は、神様に愛されているかどうかを、自分が危険から救われるかどうか、といった仕方で確かめることを拒否します。愛されているかどうかを確認することよりも、神様を愛することを第一にするのです。また、神様の守りの内にあることは、ただ神様を信頼すること、信じることで充分であるといいます。そして、自分自身のためには、神様の力を用いないし、要求もしない姿勢を貫くのです。
それは、イエス様の与えられた使命とも結びついています。イエス様は人々を救うことをその使命として与えられました。イエス様の持つ力は、その人々の救いのため、多くの人々の苦しみを担うためにこそ用いられるものだったからです。
最後にイエス様は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉を通して、自分がこの世の持つ悪魔的な力に与しないこと、神様への信頼・信仰がすべてであることを示しました。イエス様は、この世界の繁栄も権力も、国々も、本来、神様の支配のもとに服していることに目を向けています。この世を支配するために悪魔に従うことは、本末転倒なことなのです。「先ず神の国と神の義を求めなさい」という言葉が示すように、人がすべてを手に入れたいのなら、主なる神を愛し、神様のみこころに従った生き方をこの地上で生きることが、求められているのだということを、イエス様はここで語ったのです。
今、私たちは、四旬節の季節を迎えています。四旬節は、受難節・大斎節(英語ではレント Lent)ともいわれ、イエス様の受難、逮捕と裁判、十字架の死を覚え、また復活を迎えるための心の準備をする期間をいいます。ではなぜ、この季節の始めに今日の荒野の誘惑の物語が読まれるのか。それは、人間を罪に誘う試みや誘惑の力について、考えをめぐらし、その試みや誘惑を退けて、悔い改めるためです。
今日の日課が示しているのは、先ず、人間は誘惑に弱い存在だと云うことです。そして、人間に対する最大の誘惑とは、神様の示している道から人を逸脱させようとするものだと云うことです。その最大の誘惑に対してイエス様は、神様の言葉に立ち返り、神様への信仰に堅く立つことが、その誘惑を退けるものだと示されました。
ちなみに、イエス様を十字架に架けたのは、権力欲と支配欲の誘惑に負けた人間、つまり、罪の状態にある人間たちでした。それだけに、この季節に私たちは、イエス様の受難と十字架に思いを馳せたいのです。私たちの目を神様から逸らせようとする誘惑に、今私たちが陥っていないかどうかを省みて、またイエス様が何を思い、何を人々に、私たちに向けて語ったのかに心を向けて、イエス様の受難の意味に思いを巡らしたいのです。
宗教改革者のマルティン・ルターは、大教理問答書の中で、私たちがこの世に「住み、悪魔が周囲にひかえているかぎり、だれでも試みや(悪の)刺激を避けることはできない。」「われわれは誘惑にあうどころか、その中に編み込まれてしまっている」と書いています。しかし、そこで大切なのは、「誘惑を感じること」、つまり自分の目の前にある誘惑や試みと向き合うことであり、その誘惑に陥らせないようにと、祈ることだというのです。それゆえ、私たちは、「主の祈り」の「私たちを試みに会わせないでください」を祈ることを赦されているし、また奨められているのです。
私たちがいつも神様の言葉に立ち返る時、私たちの直面する試み、罪への誘惑を克服していくことができるのです。神様への信仰が、あらゆる試みや誘惑を乗り越え、イエス様の示された生き方を歩むことができるのです。
神様への信頼、信仰を持って、イエス様の教えてくださった、神の言葉に堅く立っていきましょう。
