

日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2026年9月6日
聖霊降臨後第15主日
「聖徒の交わり」
マタイによる福音書
18章15節~ 20節
個人的な経験からですが、私たちは様々な形で、人を傷つけてしまったり、あるいは反対に誰かから傷つけられてしまったりすることがあります。たとえばそれは、言葉の行き違いや誤解から生じる場合があります。もしくは無意識のうちに起こってしまったりもします。小さな出来事が積み重なって、結果としてそれが人を傷つけていたりすることもあれば、ただ一回だけの出来事で、十分に決定的で、致命的な形で起こってしまうこともあります。そしてどのような形であれ、人を傷つけたり、傷つけられたりすることで、人と人の関係が損なわれ、ときには修復し難い状況に至ってしまうのです。
さらに問題なのは、こうした出来事が、同じ信仰の仲間の間でも起こってしまうことです。そのような場合、ではどうすればよいのか。どうすれば傷ついた側と傷つけた側の間に、和解が成立するのか。それが、今日の日課の主題といえます。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
ここで言及されているのは、神様を信じる者が、罪を犯した信仰の仲間、「兄弟(姉妹)」に対して、取るべき姿勢についてです。ちなみに、ここで言う罪とは、「あなたに対する罪」とあるように、「あなた」という具体的な個人に対して行われた、神様の目から見て正しくないことを指します。それはたとえば、人の信頼を裏切るような不正であったり、または人の尊厳や権利を損なったり、傷つけたりするような事柄をいいます。
そして、ここで大切なのは、先ず、罪を犯した兄弟(姉妹)に対して、個人的に「忠告しなさい」ということです。この「忠告する」という言葉、もともとの意味は、「問い質す」、「糺す・真理を明らかにする」ということです。ただ、その場合でも、相手の罪を問い詰めたり、相手を非難するのではなく、その行為について、事実を明らかにしながら話しをすることです。そこで大切なのは、相手がとった言動によって、私 / あなたの周囲で何が起こったのか、そのことで私 / あなたがどのように傷ついたり、損害を受けたのか、また私 / あなたが、どんな思いをしたのかを明らかにし、できればそれを相手に理解してもらうことです。
教会の中では、しばしば罪の赦しが語られますが、その場合、罪の赦しとは、罪、つまり問題のある言葉や行いについて、なかったことにしたり、見て見ぬふりをしたり、見逃すということではありません。罪を赦す前提は、あくまでも罪を犯した本人が、自らの言動が引き起こした問題に気づくことです。だから、相手に「忠告」して、罪を明らかにすることが大事なのです。
そして、この罪を明らかにすることは、その罪によって傷つけられた本人自身にとっても、重要な意味を持ちます。つまり、相手がとった言動によって、自分がどれほど傷ついたのか、その痛みや憤り、悲しみがどのようなものだったのかを、自分自身でも気付いていくことになるからです。そうでない場合、そうした負の感情は、押し殺されて、処理されることのないまま、その人をいつまでも縛り、長い年月その人を苦しめることになるからです。もちろん罪の赦しは、決して簡単なことではありません。だからこそ、傷つけられた者は、自分を傷つけた相手に対し、自分の感情を、自分の気持ちはどういうものなのかを、率直に伝える必要があるのです。
ところで、私たちは、お互いに傷つき、傷つけ合ってしまうということが、よくあります。その場合、どちらか一方が加害者で、もう一方が被害者とは決めつけられないことも多いものです。双方が何らかのかたちで、罪を犯しているかもしれません。そうした場合でも、お互いの間に何が起こったのか、何が問題で、それぞれがどのように感じ、傷ついたのかを、順を追って明らかにしていくことが必要になります。お互いになるべく感情に支配されず、相手の言い分だけでなく気持ちにも耳を傾け、先ずはそれを受け止めようと努力することが大切です。その中で、自分自身の言葉や行いに、問題がなかったかどうかも吟味できるからです。
さて、今日の日課で大事なことがもう一つあります。それは、相手に対する姿勢です。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」 赦しによる和解を望む姿勢です。
今日の日課が、「迷い出た羊」の譬えの後に出て来ることは、重要です。あなたに対して罪を犯した姉妹兄弟は、「迷い出た羊」だからです。「兄弟を得ることになる」とは、行われた罪の行為によって、失われかけているあなたと相手の関係を取り戻すことです。損なわれかけている、あるいは損なわれてしまった関係を回復することが求められているのです。関係が失われたままでは良くないのです。ただし、相手へのわだかまりから、及び腰でいては、姉妹兄弟を取り戻すことはできないし、和解にも、解決には進みません。
ただ、自分を傷つけた相手に、その罪を認めさせることは、実は大変勇気のいることであり、難しいことです。日課の続きには、直接関係している者同士の一対一の話し合いで問題が解決していかないときは、「二人または三人の証人」を立てて話し合うことが勧められているのは、そのためです。その場合、誰かが自分の傍らで支え励ましてくれることが、必要だからです。
もしそれでも解決に至らない場合は、教会全体の事柄として委ねることが勧められます。迷い出た姉妹兄弟のために、打てる手は打ちなさい、と書かれています。問題の深刻さに応じてそれは変わってきます。
そこまでやってもだめな場合、後は神様に委ねて、放っておきなさいと日課は結ばれています。「異邦人や収税人と同じに見なしなさい」という表現は、福音書記者マタイ自身が持っていた価値観の限界を表していますが、意味としては、自分と関わりのない者としておきなさい、ということです。あなたが、あるいは私たちが出来る手立てを打ったとしても、その罪の指摘を相手が受け入れるかどうかは、相手の問題だからです。無理やり相手をその気にさせることはできません。だからそれ以上は無理に関わりを持たなくてもよいのです。
ただし、相手が指摘された問題を、後からよく考えて受け入れるのであれば、そのとき、私たちは「兄弟(姉妹)を得る」ことになる。その姿勢を決して失ってはならないわけです。
私たちは主の祈りの中で「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、あるいは赦すように、私たちの罪をお赦し下さい」と祈ります。それは、口で言うほど簡単ではないかもしれません。
以前、ある人が私にこう言ったことがあります。
「私は主の祈りを祈るとき、いつもこの祈りの箇所になると、口ごもって祈れなってしまいます。それは、『私たちの罪を赦してもらう』ためには、先ず『私たちに罪を犯した者を赦す』ことが条件になっていると思うからです。でもどうしても赦せないと思うこともあるのです。その事を思い出すと、私にはこの祈りの言葉を口にできなくなるのです。」
真面目にこの「私たちに罪を犯した者を赦しましたから」という祈りの言葉の前に立つとき、私自身、躊躇を覚えることもあります。私に対して罪を犯した者を赦せるかどうか、私自身にとっても、それは確実には言い切れないと思うからです。
神学者のボンヘッファーは、著書の中でこう書いています。
「わたしたちはみな、聖霊によって聖なるものとされた罪人です。」
それは、お互いが罪を犯す可能性のある現実に生きている信仰者だという認識のもとに立っていることを言います。だからこそ自分もまた、相手と同じ過ち、罪を犯すかもしれない存在であることを十分にわきまえて、「共なる罪を神の前にあらわに示し、共に恵みを祈り求める」ために、私たちは主の祈りを祈ることによって、常に自分を吟味していく必要があるのです。
罪を罪として明らかにし、認めるために話し合うことは、迷い出た姉妹兄弟と和解し、彼らを再び取り戻していくためであり、その姉妹兄弟ともう一度新しい関係を築いていくためです。簡単に判断して裁き、罪を犯した相手を抑え込んだり、排除することではありません。それはまた、自分の罪に気づいた人自身が、その問題を解決し、克服して、出発点に戻って、人生の歩みをやり直していくためでもあります。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18節)
この言葉は、ペテロに授けられたという「天の国の鍵」の力、つまり、「罪を赦さずにおく(結ぶ)ことと、また赦す(解く)こと」が出来る力は、基本的に弟子たち一人ひとりにも、また全体にも与えられていることを示しています。そして、この弟子が託された、「罪を罪として認めさせ、そのうえで罪を赦す・赦さない」という行為と責任は、天の国でも連動して起こると記されています。それは言い換えれば、教会が行う判断の重要さを表しているといえます。
それだけに、日課の最後に、二人または三人で祈り願い求めることが書かれているのは大切なことです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(19~20節)
祈りとは、もちろん個々人と神様との対話です。その祈りの声が、どんなにか細く、また拙いものであったとしても、自分の言葉で祈ることが求められます。しかし、同時に、一人で祈ることよりも、二人または三人で祈る方が良い、とされています。それは、とりわけ私 / あなたが、困難な状況下にあって、一人では心が整理できずにいて、祈ることが難しい場合でも、思いを同じくしている他の仲間が、その私やあなたのために執り成して祈ってくれるからです。その仲間の祈りによって、私 / あなたは、勇気づけられるし、励まされ支えられます。
それは、言い換えれば、私 / あなたという個人に対してなされた人の行為を、福音に従って判断し、罪を明らかにし、認めさせていくことも同じです。問題の解決と和解を願い、また迷い出た姉妹兄弟が戻って来るのを望むのならば、そこには祈りが不可欠なのです。しかもそれは個人の祈りではなく、複数の人間の祈りが重ねあわされたものであるのです。共に心を合わせて祈ること。ここに教会が共同体であることの基礎が示されています。聖徒の交わりの土台があるのです。
「そこに私はいる」とイエス様は宣言されています。私たちが共に祈るとき、イエス・キリストが、共に働いて下さるのです。

2026年8月30日
聖霊降臨後第14主日
「キリストに
倣って生きる」
マタイによる福音書
16章21節~ 28節
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16章24a~25節)
イエス様に従う、イエス様の弟子として生きる、とはどういうことをいうのでしょうか。あるいは、イエス様に従おうとする者は、どのように生きるべきなのでしょうか。
新約聖書の福音書では、弟子たちは、イエス様の「わたしについてきなさい」「わたしに従いなさい」という招きに応えて、イエス様の許に集まった人々であり、その姿は、イエス様自身と同じように、多くの人々に教えを宣べ伝え、また「悪霊を追い出す」癒しのわざを行うというものでした。また使徒言行録や使徒たちによる種々の書簡を読む限りは、弟子たちの生活は、「詩編を賛美し、パンを共に食し、共に祈る」共同体を形作り、「隣人に仕える」愛のわざを行うものでした。
では今日の状況の中で、イエス様の弟子になること、イエス様に従って生きるということは、どのようなことなのか。あらためて、今日の日課を通して、そのことについて考えてみたいと思います。
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(16章21節)
それはペトロが、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と(信仰を)告白した後のことでした。イエス様は、弟子たちに向かって、自分がこれから経験する受難、逮捕と十字架による処刑と、その後の復活の出来事を、初めて打ち明けられました。それはある意味、イエス様が至極冷静に、ご自分の宣教が直面する困難さを見据えていたということを意味します。
イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、家族の反対にも拘らず、カファルナウムを拠点に、ガリラヤ地方で宣教の旅を続けていました。そして、その旅の行く先々で、イエス様は大勢の神様の愛に飢え渇く「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけました。そうした貧しい人、飢えている人、病気や障がいを負って苦しんでいる人々、「世間」から見下された境遇にいる人々に向かって、イエス様は、「あなたがたこそが、神様の救いに真っ先に与れる」という福音を告げたのです。「収税人」や「遊女」のように、「罪人」と見なされ、差別され、疎んじられている人々が、神の国に入れると語ったのです。そして、神様の愛と救いの具体的な現れとして、イエス様は人々に癒しのわざを行っていったのです。
こうした人々を救うための教えやわざに示された、イエス様の考え方や価値観は、しかし、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の考え方や価値観とは大きく異なり、反発を買うものでした。
律法学者たちとの論争が度重なるにしたがって、最初はラビ(律法学者)の一人と見なされていたイエス様も、次第に他の律法学者たちから鬱陶しがられ、やがては敵視されるようになっていきました。人々を「罪人」だと決めつけるものの見方、宗教的社会的な制度や通念が、人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は乗り越えられなければならないというイエス様の主張は、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものでした。そして、率直に、忖度なしに、皮肉も込めて、律法学者たちに向かって語られる彼の言葉は、ものごとの核心をつき、それゆえに、律法学者や王や支配者たちの反感を買い、疎まれていました。そのことを知っていたからこそイエス様は、自分が「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」と語ったのです。それよりも少し前に、洗礼者ヨハネが不当に捕らえられ、殺されたことは、イエス様にも、いよいよ覚悟を決めるときが来たと感じさせたといえます。
イエス様は、多くの人たちを病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するための言葉を語り、行動していることが、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、はっきりと理解していたのです。
しかし、このイエス様の受難と復活についての発言は、ペトロを動揺させました。彼は、強い調子で、イエス様を諌め始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
イエス様の「人の子は、律法学者や祭司長たちから苦しみを受け、十字架に架けられ殺される。そして三日目に甦る」という発言は、暗くて不穏な響きを持っていました。「どこで誰が聞いているかもしれない状況で、自分の方からあえて周囲を敵に回すような不穏な発言はすべきではない。」と、ペテロが思っただろうことは想像がつきます。イエス様の不穏な言動に対する心配と、そのことを謀っての抑制ともいえます。ある意味、自重・自制をイエス様に求めたのでしょうか。
いやそれ以上に、彼にとっては、自分の先生が「受難にあい、十字架に架けられ殺される」という予告は、不吉すぎて聴きたくない言葉だったかもしれません。「三日目に甦る」というポジティヴな言葉は、どうも耳に入っていないようです。だから、彼はつい反射的に強い口調で、イエス様に向かって意見をしてしまったのかもしれません。イエス様がどんな覚悟を持って、弟子たちにそのことを告げたのかを理解しようともせずに。彼は、ひょっとしたら、イエス様が「そうだね。わかった、わかった。お前の言うとおりだ。こんなことは口にしてはいけないね」と、発言を撤回することを期待していたのかもしれません。
しかし、イエス様は、ペトロを「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と厳しい言葉で叱りつけました。「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」と。
イエス様がペトロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の福音宣教の旅の目的とその意味を、理解していないこと、イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を判っていないからでした。つまり、イエス様にとっては、ペトロや弟子たちは、メシア(救い主)の到来の意義・意味を理解しているのではなくて、ただメシア(救い主)という言葉に自分の願望を投影しているにすぎなかったのです。それは決してイエス様が使命としている、神様の福音の出来事、神様が人々を愛し、人々を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていくような出来事を理解したことにはならないからでした。
イエス様がガリラヤ地方にとどまらず、エルサレムへ行かれることを目指したのは、イエス様のもたらす救いの成就のために、どうしても必要なことでした。だから、ペテロは、それを邪魔してはいけなかったのです。
イエス様は、ここでペトロをはじめとする弟子たちに重ねて語りました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16章24a~25節)
ドイツの神学者Ⅾ・ボンヘッファーは、このイエス様の「自分を捨てて」という言葉を次のように解釈しています。「『自分を捨てる』ということは、ただキリストだけを知って、自分をもはや忘れるということである。ただ先立ち行くキリストだけを見て、われわれにとって歩むことが困難と思われる道を見ないということである。」
言い換えれば、それは、今までの自分の生き方に替えて、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことだといえます。イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、「私の」指針としていくということです。イエス様の教えとわざの中にある価値観、福音を、「私の」人生の道標としながら生きていくことです。そして、その福音を手掛かりとして、この世界を見直し、「この世」の仕組みを、組み立て直していくことです。
イエス様は、「この世」に生きるすべての人が、神様に愛され、一人一人尊厳を認められ、大切にされ、脅かされることなく、幸せに満たされることを教えられました。それは同時に、神様の言葉を伝えることによって、「悪の束縛・軛を折ること」、すなわち、貧困や差別といった形で現れる悪から、人々を解放するという、聖書の伝統を回復させることでもあります。それはまた、神様の正義と公正が地上で実現されることです。それは例えば、イエス様がそうであったように、貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、差別を受けたり、重荷を負って苦しんでいる人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、彼らのために祈ることです。また、彼らが今の境遇から救われ、解放されるために、彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決の方法を一緒に探っていくことです。そのとき、人は、イエス様の背負った十字架を共に担うことになるのです。直面する具体的な課題という「自分の十字架を背負って」、イエス様に「従うこと」になるのです。
「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。それは、イエス様が私たちに与えられた一つの約束です。だから、もしも私たちが、イエス様の言葉とわざに従って、身近にいる「隣人」であれ、あるいははるか遠くの国にいる「隣人」であれ、彼らのために、心を傾けて祈り、また時間を費やして、与えられた課題を担おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取るのです。
アッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」にはこう書かれています。「なぜなら、与えることで人は受け取り/忘れられることで人は見出だし/赦すことで人は赦され/死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。」と。
それゆえに、私たちも、「ただ先立ち行くキリストだけを見て」、イエス様の思い、願いがなんであるのかを、しっかりと聖書に聞き、探っていきたいのです。「この世」と「妥協したり」、「安易な生き方」や「強い者に巻かれる生き方」、「何も考えずに、ただ流されていく生き方」を選ぶのではなく、私たちを解放してくださるために、自らのいのちを賭けられたイエス様に従うことで、私たちもまた、イエス様が愛されるすべての人々と共に、永遠のいのちに生きる者とされていきたいのです。

2026年8月23日
聖霊降臨後第13主日
「イエスとは誰か」
マタイによる福音書
1章13節~ 20節
皆さんにとって、イエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか。あるいは、皆さんが持っているイエス様についてのイメージは、どんなものなのでしょうか。様々なイエス伝が出版されていますが、たとえばマンガ版の「キリスト伝」には、「神の愛をといた救世主」という副題がついていました。絵画や聖書物語の挿絵などには、人に「優しく」「慈悲深く」接して、「奇跡を行い」、人々に救いをもたらす様子などが描かれています。キリスト教主義の学校で育った人は、聖書の授業などで、イエス様の生涯について学ぶ機会があったかもしれませんし、皆さんも、聖書を読んで、説教を聴き、またはクリスマスやイースターなどの行事を通して、イエス様についてのイメージを持たれていると思います。ここに集っている一人ひとりが、イエス様についての何らかのイメージを、大なり小なり持っておられると思うのです。そして、それは、イエス様の許に集まって来た人々も同様でした。福音宣教の旅を続けていたイエス様について、「群衆」もまたいろいろなイメージを持っていたことが、今日の日課から読み取ることができます。
イエス様たちがフィリポ・カイサリア地方を訪れたときのことでした。イエス様は、弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と。それに応えて弟子たちは、口々に色々聞いている評価や噂を言いました。「『洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリヤだ』という人もいます。それから『エレミヤだ』とか『預言者の一人だ』という人もいます。」 その弟子たちの話を聞き終わると、イエス様は重ねて尋ねました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」
なるほど、人々が持っているイメージについては判りました。では、弟子たち自身が、イエス様のことをどのように思っているのか。肝心なのはそのことでした。だからイエス様は弟子たちに尋ねたのです。「あなたがた自身は、わたしを何者だと考えているのか。」
このとき、おそらくはガリラヤ地方を巡るイエス様の宣教活動も、二年ほど経っていたと思われます。弟子たちは、その時間を共に過ごし、教えを間近に聴き、また癒しの行為や奇跡も目の当たりにしてきました。それゆえ、弟子たち自身が、イエス様のことを何者と思い、その使命をどう理解しているのかが、問われたともいえます。「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と。
それは言い換えれば、イエス様とは「自分にとって」何者であるのかということです。イエス様の存在が、自分の人生にとって何を意味しているのか、ということです。弟子たち一人一人が、この問いの前に立たされたわけです。
「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」
この問いに対して、ペトロが答えました。まるで弟子たちを代表するかのように、「あなたは、メシア(キリスト)、生ける神の子です」と。
これが、ペテロの信仰告白と呼ばれる出来事でした。ペテロは、自分の信じているままを(多分率直に)告白しました。彼にとっては、イエス様の教えだけでなく、癒しの奇跡などを通して、イエス様が神様から遣わされ、神様のような力を持っている方であることは明白でした。だからペテロは、イエス様が(旧約)聖書に預言されていた「救い主・メシア(キリスト)」であることを認め、畏れ、また信頼し、従ってきたわけです。学識によってではなく、具体的な救いの出来事を目撃したという事実によって。
このペテロに向かってイエス様は、こう語りかけました。「バルヨナ(ヨナの子)・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。つまりそれは、ペテロが、そのような理解や確信、思いを示すことが出来た根拠は、自分の力ではなく、あくまで神様からの恵みとして与えられているものだというのです。
そして、イエス様はここで、ペトロに対して、一つの約束をしました。ペトロの信仰の上に、教会、すなわち「召された者の集まり」を築くという約束です。「あなたは、ペトロ。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 また続けて、彼に一つの働きを委ねました。
「わたしは、あなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」これは大きな働きといえます。ペトロが、人々の罪を赦し解放し、あるいはまた、人々の罪を保留のままにすることもできるということだからです。地上で彼がそのようにしたことに、いわば連動して「天の国でも」そのようになる、ということです。ペテロのわざと教えに、その働きを委ねるというその宣言。
ここで考えたいのは、では、そのペトロとは何者であるかということです。
彼は、福音書によれば、ガリラヤの漁師であり、最初にイエス様によって兄弟のアンデレと共に弟子にされた男でした。
しかしながら、必ずしも彼は、イエス様を誰よりも良く理解していたわけではありませんでした。今日の日課に続く物語では、彼は、イエス様の受難の予告を聞いたときに、イエス様の発言を押しとどめようとしてしまい、かえってその場でイエス様から「サタンよ、退け。わたしの邪魔をする者」と叱られています。
また彼は、イエス様の言葉に信頼して一度は水の上を歩こうとしますが、すぐに怖気づいて溺れかけ、イエス様から「信仰の薄い者」と言われてもいます。
イエス様が逮捕されたときには、彼はイエス様のことなど知らない、と三度も否定して、その場を逃げ去ってしまいます。
あるいは、使徒言行録の記事によれば、異邦人伝道の最初の頃に、「異邦人と交わるなどとんでもない」と圧力を受けると、態度を変えてしまいパウロから叱責もされてもいます。
つまり、彼は、決してペトロ╲ペトラ(岩)という名前から連想するような、強く堅い信念を持った人ではなく、弱さを抱えていた人だったわけです。彼の信仰も、必ずしも模範的なものではなくて「小さな」ものでした。しかし、今日の日課では、そのペトロが、教会の礎とされているのです。そのペトロの信仰の上に教会が建てられるというのです。それは、イエス様の誤解だったのでしょうか。人間ペトロを見誤ったイエス様の失敗だったのでしょうか。
でも少なくとも、聖書を読む限りは、そうではなかったことが記されています。むしろイエス様は、弱さを抱えたペテロを丸ごと受け入れたうえで、彼を教会の基として立てられるというのです。
イエス様は、自身が逮捕される前に、ペテロがイエス様との関係を否定し、離反することを予告していました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が泣く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と。(26章31~35節)
そして、ルカによる福音書には、同じ場面でイエス様の別な言葉があります。イエス様は、ペトロに言いました。「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、今度は、あなたが兄弟たちを力づけてあげなさい。」(22章32節) ここには、イエス様のペテロへの信頼が見て取れます。また、ヨハネ福音書には、復活されたイエス様が、失意のうちにあるペテロに向かって三度、「わたしの羊を飼いなさい」と告げるエピソードが記されています。(21章15~19節) ここにも、イエス様がペテロを信頼していることが描かれています。
言い換えれば、イエス様は、ペテロの人間性全体をひっくるめて、強さも弱さも包み込んで、それを越えたところで、ペトロが告白する信仰に信頼して、御自分の教会を彼に委ねるのです。つまり、イエス様は、どのような場合であっても、自分からは決して関係を斬らないのです。相手を大切に思い、「愛される」からこそ、そのような信頼をかけ続けられるのです。イエス様は、教会とその働きを委ねることで、ペテロに向かって、「わたしはあなたを愛している」、「わたしはあなたを信頼するよ」と語っているのです。
ここで一つ注意しておきたいことは、このペトロへの約束と、授けられた働きは、ただペトロ一人だけに「優先的に」与えられたもの、委ねられたものではないということです。彼だけの「特権」があたえられたのではありません。ペトロは、いわば弟子たちを代表して「あなたは、メシア(キリスト)、生ける神の子です」という信仰を告白したにすぎません。(あるいは、彼の失敗や、模範的でない信仰も弟子たちを代表しているにすぎません)。弟子たち一人一人が、実はこの「その信仰の上に教会を建てる」という約束のもとに立っており、弟子たちのそれぞれがこの働きの力を授かっているということです。
そして、それは、また二千年という時間と歴史を越えて、現代の私たち個々人にも、その約束と働きが授けられている、委ねられているということでもあります。
「あなたがたはわたしを何者だと思うのか。」
今日の私たちも、この問いの前に立っています。私たち一人ひとりが、それぞれの生活の中で、人間関係の中で、あるいは今の時代の流れの中で、「自分にとって」イエス様がどのような存在であるのかを問われています。
ある人にとっては、イエス様は、もちろん自分の願いや祈りを希望を持って委ねることができる存在かもしれません。ある人に取っては、イエス様は、日々自分が感じる思い、悲しみや悩み、怒りであったり、または喜びといった、心の思いや声を聴いてくださり、「わたし」を労り、慰め、力を与えてくださるお方であるかもしれません。「わたし」にとって、また「あなた」にとって、イエス様はどのようなお方なのか。それを人生の折々に思い巡らし、確かめることが求められているのです。
聖書によれば、信仰とは、神様を畏れ、信頼し、従うこと、あるいは愛することであり、希望をもつことだといいます。自分の人生を神様に依り頼んでいくということです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11章1節)
ペテロがそうであったように、私たちも、具体的な生活の体験の中で、イエス様が神様から遣わされ、力を奮い、私たちを守り、慰め、励ましてくださっている方であることを認め、畏れ、また信頼し、イエス様が「救い主・メシア(キリスト)、生ける神の子」であることを告白していきたいのです。
主イエスは、私たちを愛しておられます。主イエスは、私を、そしてあなたを愛しておられます。大切に思っておられます。イエス様は、「わたしはあなたを信頼している」と言われます。
イエス様のその愛に応えて、イエス様のその信頼に応えて、くりかえし、主イエスへの信仰を告白しながら、歩んでいきたいと思うのです。「あなたにとって、イエス様とは誰か」という問いに、しっかりと答え、そして、委ねられた働きを担っていきたいと思うのです。

2026年8月16日
聖霊降臨後第12主日
「見えない境界線
を越えて」
マタイによる福音書
15章21節~ 28節
私たちの身の回りには、様々な見えない境界線が存在します。国と国を隔てる国境という境界線があります。文化や言語が異なる民族の違い、あるいは性別や障がいや病気の有無、といった人の属性による区別があります。社会の中にも家族や親戚、地域共同体といった血縁や地縁によるくくりがあります。学校や会社という集団があります。あるいはまた個々人のプライバシーや尊厳といった、本来守られるべき境界線が存在します。
ではなぜ人は、境界線を引こうとするのでしょうか。先に挙げた境界線の多くは、あるものは自分のアイデンティティを明確にするために、自分と他人を区別するものであり、または、自分がどこの集団に属しているのかを表すものです。と同時にそれは、他者から自分を守るためのものでもあります。そして、自分を守るための境界線は、多分に恐れの感情と結びついているようにも思うのです。
ここ十数年の間に、国内に居住している外国人に対して、嫌悪の感情を露にした言説が、最初はSNSなどを中心に、最近では直接街頭などで見聞きする機会が増えてきました。あるいは政治家が、「移民や難民」反対の言動を繰り返すことで、選挙の際の得票を増やしています。ある人たちが外国人を嫌がるのは、たとえば「外国人が、自分たち(日本人)の仕事や税金を不当に使用して奪うから」という理由をあげます。それはある種の「恐れ」の感情によるものです。ある人たちは、文化も違い言葉も通じない「外国人」と初めて接触すること自体に恐れを感じているともいえます。自分(たち)とは文化的に「異なる」「よく判らない人たち」に対する「恐れ」と警戒が、外国人への「先入観」や「偏見」と絡み合って、差別的な言辞につながっているともいえます。多くの場合、「外国人」と直接出会ってもいない先に、そうした印象や価値観が刷り込まれてしまっているともいえます。
そして、問題なのは、こうした恐れの感情からことさら強調され引かれた境界線は、引く側と引かれる側との間の溝をさらに越えがたいものにして、「外国人」への差別を助長し、また強化して、とりわけそこでは排除の論理と力が働くということにあるのです。人と人を隔て、時にはその場所からある人たちを追いやってしまう目に見えぬ境界線。しかし、時に人は、必要に迫られたときは、その目に見えない境界線を越えなければならないことがあるのです。
それは、イエス様がいつも活動されていたガリラヤから、ティルスとシドンと呼ばれる地方・地域に足を踏み入れたときのことでした。イエス様のところへ、一人のカナン人の女性が、「悪霊に憑かれた娘を治して欲しい」という願いを持ってやって来ました。彼女はおそらくは、イエス様が癒しを行うといううわさを聞いていたのでしょう。彼女は必死に、自分の娘を癒せるのはイエス様しかいない、と頼って来ました。この女性の願いにイエス様は、なぜか沈黙するのですが、彼女は、弟子たちが辟易して「この女を追い払ってください」とまでイエス様に言うほど、必死に頼み続けました。彼女は、「叫びながら」黙っているイエス様の後を、追いかけたのです。
やがてイエス様は口を開きますが、それは可哀そうなくらい素っ気ないものでした。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と語ったのです。その言葉どおりに受け取るなら、カナン人の女性は、イエス様が「遣わされた」民のその枠には入っていないということです。それは拒絶の言葉でした。でも女性は、その言葉に対して、「主よ、どうかお助け下さい」といいイエス様の前にひれ伏します。するとここでイエス様は、二度目の拒絶ともとれるような言葉を語りました。「子どもからパンを取り上げて子犬に投げてやるのはよろしくない」と。このイエス様の言葉は、ユダヤ人を子どもに、カナン人を子犬になぞらえているように思えます。
この物語から読み取れるのは、ユダヤ人とカナン人との間に引かれた、目に見えない境界線の問題です。
ティルスとシドンという地域は、地中海沿岸でツロ・フェニキアとも呼ばれ、ユダヤ人たちからすれば、異邦人の住む地域でした。このときイエス様は、なぜか慣れ親しんだガリラヤの地方から、異邦人の住んでいる場所へと、「国境」を越えて移動したのでした。
また、カナン人とは、ユダヤ人たちが現在のパレスチナであるユダヤ・サマリヤ・ガリラヤ地方に定着する前に、そこに生活していた先住民族のことをいいます。ただし彼らは、旧約聖書の記述に従うならば、エジプトを脱出して侵入してきたイスラエル・ユダヤ人たちによって、徹底的に殺されたり排除されてしまいましたが、日課を読む限りは、周辺の地域にはまだまだカナン人が住んでいたようです。彼らは、ユダヤ人から見れば宗教も習慣も違う異邦人であり、旧約聖書の律法を厳格に守る立場からは、日常的には交渉することはなかっただけでなく、差別されていたといってもいいでしょう。
イエス様の「私は失われたイスラエルの羊の所にしか遣わされていない」という言葉は、この女性と関わりを持たないことの理由ですが、ある意味、それはイエス様自身が、自分とこの女性の間に境界線を引いているともいえます。その境界線は、ユダヤ人としての行動や日常の生活の感覚から、イエス様が知らず知らず身につけてしまっていた心のうちにある壁ともいえます。言い換えれば、それはある意味、イエス様の使命が当初持っていた狭さかもしれません。福音書に記された弟子たちと一緒の伝道の旅の様子を見る限りでも、基本的には、それはガリラヤ地方のユダヤ人の間での伝道でした。
だからこそ、民族の間に引かれた境界線を意識してこの物語を読むとき、カナン人の女性が、ユダヤ人であるイエス様に「悪霊に憑かれた娘を治して欲しい」と頼むことは、特別な意味を持ってきます。カナン人たちには、彼らの宗教があり、癒しを行う祭司もいたはずですが、その女性は、イエス様に向かってその願いを聴いてほしいと「叫ぶ」のです。それは、他の誰も彼女の娘を癒すことが出来なかったことを意味します。彼女は、イエス様にしか救いを見いだせない切羽詰まった状況にいたというわけです。
彼女の一連の行動は、娘を思う親の愛を示しています。娘への愛ゆえに、彼女はユダヤ人と異邦人との間にひかれていた見えない境界線を破ってでも、イエス様に「娘を癒して欲しい」と叫んでいくのです。
ただ、イエス様の「子どもからパンを取り上げて子犬に投げてやるのはよろしくない」という拒絶の言葉は、特別冷たく響きます。そもそも、この地方にはイエス様の方から足を踏み入れたわけで、「なぜそんな言い方をするの」と思ってしまいます。「うちの子どもは、犬扱いか」と怒りだすか、それでなければ絶望して、その場を立ち去ってもおかしくはありません。でも女性は怒りだすことも、諦めて家に帰ることもしませんでした。彼女は、娘の癒しを諦めるわけにはいかなかったのです。カナン人の女性は娘の癒しを求めて、執拗にイエス様に食い下がります。それもイエス様の言葉を使って。
カナン人の女性は、イエス様のイスラエル/ユダヤ人への使命については、それを否定しません。こどもに与えるパンについても否定はしません。こどもと子犬の例えすら否定はしません。ただその上で、その例えを用いながら、イエス様に切りかえすのです。「はい、あなたの使命は、イスラエルの失われた羊のため、用意されたパンは、こどもであるユダヤ人のためのものです。でも、その上で、落ちて来たパンくずは、小犬であるカナン人の娘も食べることができるのではないですか」と。
それは、必死で、諦めてはいけないという思いから出た言葉であり、態度でした。謙遜しながらも食い下がって来る迫力のある態度です。もう一つ言えば、イエス様が最初示した「境界線」の狭さをそれとなく指摘した言葉でもありました。
通り一片の「イエス様の救いはイスラエル/ユダヤ人にのみ与えられる」という理屈は、ある意味では彼女には、最初から予想されたものといえます。彼女は、ユダヤ人から見ればカナン人という異邦人であり、ユダヤの神様の救いからは、元々は漏れた存在なのですから。異邦人には異邦人の神がいる。彼女もそれは十分に意識しています。たぶん自分勝手に自分の「守護神」を代えるのは、彼女にとっては、後で周りの人たちから非難されるかもしれない、危険なことだったはずです。しかし、彼女は、その「境界線」を乗り越えようとするのです。すべては病気の娘への愛からでした。だからこそ、彼女は、その立ち塞がっている「境界線」の前に、ただ佇むのでなく、またそこから立ち去るのでもなく、その「境界線」を盾に取る人、具体的には、目の前にいるイエス様に働きかけていくのです。
注目したいのは、彼女は、イエス様への信頼を持ち続けていることです。沈黙のうちに無視され、拒絶されたように思えても、彼女は、イエス様に食い下がるのです。必ずイエス様は、応えてくださると信じて。旧約聖書には、神様に食い下がって神様の決心を変えさせたモーセや預言者のお話が出てきますが、それは言い換えれば、神様に信頼するがゆえに諦めずに祈ることが求められているということです。
それゆえに、カナン人の女性の「信頼」、「信仰」は、イエス様の目から見て「立派」なのです。イエス様が自分の立場を翻すのに何の躊躇も感じさせないような仕方で、迫っていく力を持った信仰なのです。「おお、婦人よ、あなたの信仰は立派だ」というイエス様の言葉は、その彼女の持つイエス様への信頼を受け止め、応えたものといえます。そしてイエス様は、ご自分のそれまでの態度、拒絶の態度を改めます。イエス様自身で、ユダヤ人としての境界線を越えて、彼女の願いに応えていくのです。「あなたの願いどおりになるように」。カナン人の女性の娘は、そのとき癒されるのです。
この物語は、神様を真剣に呼び求める所では、救いの出来事はユダヤ人という枠を超えて、宗教や慣習が違う異邦人と呼ばれていた人たちの上にも、神様の救いのわざは起こることが示されています。救いは境界線を越えて広がって行くのです。
また、救いの奇跡が起こるのは、拒絶されているような状況の中にあっても、諦めずに、神様に真剣に食い下がり、祈り求めて行動することの中にあります。私たちの周囲に見られる境界線が、もしも、人を境界線の外に追いやり、人のいのちを損ない、人の尊厳を貶めるように働くのなら、その境界線・隔ての壁は、取り除かれなければならないと思うのです。
カナン人女性が勇気をもって境界線を乗り越えようと働きかけたように、またその働きに応えてイエス様が心の壁を取り去ったように、私たちも自分たちの内にある境界線を自ら取り崩していく必要がある。今日の日課は、そのことを強く表しています。私たちも、境界線の前に諦めずにへこたれずに、キリストへの信頼をもって、「叫び」、また知恵を尽くして、働きかけたいと思います。そのとき、イエス様の救いは実現するでしょう。

2026年8月9日
平和主日
「平和を創り出す
ために」
ミカ書
4章1節~ 5節
私たちの日々の暮らしがあります。朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を頂いて、仕事に出かけたり、学校へ行ったり、家事をしたりする生活があります。それは、いつものごくありふれた暮しです。一日一日が同じようにも思えますが、もちろん毎日が全く一緒ではありません。何かしら変化があるからです。職場で、学校で、家庭で、笑ったり、泣いたり、怒ったり、人を好きになったり、喧嘩したり、意気消沈したり、あるいは反対に嬉しかったりする出来事があります。友人と遊んだり、ご飯を作ったり、本を読んだり、テレビを見たり、仕事の準備をしたりしながら、あるいは何か新しいことに挑戦したりしながら、そうした毎日が過ぎていきます。何気ない、でも愛おしい一日一日があるのです。
一九四五年八月九日の長崎でもそうでした。その日も、人々の毎日の暮らしがあったのです。戦争中ではあっても、いつもの一日が始まっていたのです。しかし、午前十一時、一瞬にしてその人々の日常がとてつもない悲惨な時間に変化しました。24万人が生活していた長崎市の上に、アメリカ軍によるプルトニウム型の原子爆弾が投下されたのです。その瞬間、人々の日常の生活が断たれました。巨大なエネルギーの放出によって熱線が解き放たれ、爆風がすべてのものを破壊しました。8万人近い人々がその爆発の中で蒸発し、吹き飛ばされ、あるいは焼かれ、崩壊した建物の下敷きになり、亡くなりました。そして大勢の人々が火傷を負い、負傷して、病院や救護所に運び込まれたのです。たったひとつの「新型爆弾」によって、人々の日常が、毎日の何気ない暮らしが、一人ひとりの思いや願い、大切な思い出も、未来への夢も何もかもが、一切破壊され失われていったのです。それが81年前の今日、起こったのです。その三日前の八月六日、午前八時十五分の広島で起こったのと同じように。
長崎への原爆投下がそうであるように、戦争は、人々の日常を無慈悲に破壊します。ありふれた、でもかけがえのない毎日の暮らしを、容赦なく奪い取ります。もちろん戦争について、人は様々な分析ができるかもしれません。政治学的に、地政学的に、そして経済学的に。でも、もしも人が、実感を持って戦争を捉え、理解するならば、それは個人の思惑を超えて、人々の暮らしを、生活を、そして命を壊し奪い取る大きな動きだといえます。そして、暮らしを破壊するその戦争の悲惨さは、核兵器の使用に止まりません。通常兵器の使用によって、今も、パレスティナのガザで、ヨルダン川西岸地区で、ウクライナで、そしてイランで、あるいは世界の各地で繰り返されていることです。
言い換えるならば、平和とは、そうした人々のなにげない、でも大切な暮らしが、大切にされ保障されていくことだと思うのです。人々が安心して過ごすことができて、人々の命が活力に満ちて輝いている、その日常が守られていくことです。そして、人々が、よりよい明日を信じることができる。それが平和な状態だと思うのです。
今日の旧約聖書の日課には、いわば、平和が実現した状態とはどのようなものかが描かれています。ここで、預言者ミカは、慰めと希望を語っています。ユダヤの民が今直面している苦しみに「終わりの日」が来ることを。そして、その「終わりの日」には、絶望に追い込まれている人々が自由にされて、神様の平和を味わうことができると。
預言者ミカは語ります。「終わりの日」、神様による支配が始まるそのとき、破壊されたエルサレムの神殿は建て直され、神様のわざは讃えられます。強い国々は神様によって戒められ、大国は力を失います。命を奪い、すべてを破壊する武器は棄てられ、命をはぐくむ農具に作り変えられます。戦争は終わりを告げ、そのための技術は必要なくなります。
人々はそれぞれが耕す土地を持ち、ブドウやイチジクといった農産物を生産し、生活を楽しみます。そこには大地主や小作人の生活というものはイメージされていません。彼らを脅かす勢力はありません。
そして、興味深いのは次の一節です。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。(しかし)我々は、とこしえに我らの神、主の名によって歩む」(五節)。自分たちの信仰のよりどころ、主なる神様への信仰の決意を述べている個所ですが、見方によっては、ユダヤの民以外のそれぞれが信じる信仰によって生活することが尊重されているとも読めます。信仰は強制されたものとしてではなく、いろいろな生き方がある中で、人が自分から進んで神様と交わす、約束の出来事であると理解されています。
ここには、特に平和への願いが語られています。しかもそれは戦争状態がなくなるにとどまらないことが目指されています。平和とは、人の命と生活が保障され、また育まれていくこと、武器が棄てられて、そして一人一人の自由と生き方が大切にされていくことだと謳われるのです。
ミカ書4章1節~5節は、実は厳しい状況の下で書かれました。その時代、南王国のユダは、東方に起こったバビロニア帝国に滅ばされます。エルサレムの城壁は破壊され、町は略奪にあいます。神殿は廃墟と化し、金や銀、祭器などは運び去られてしまいます。そうして、主だった王族や貴族、有力な階層の人々とその家族といった大勢の人々が捕らわれ、故国を遠く離れたバビロンに強制的に移住させられていきます。その百年ほど前には、北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅亡させられていました。預言者ミカにとっては、北王国イスラエルの滅亡も、バビロニア帝国によるエルサレムの破壊も、神様のユダヤの民に対する審判でした。ユダヤの民が、主なる神様への信頼を忘れ、また神様との間に交わした契約を忘れて行ったことへの、神様による裁きと、預言者ミカは見なすのです。
ミカは激しく追及します。公正に政治を行わないで民衆を苦しめ搾取する指導者たち、横行する汚職や賄賂などの不正義、地方の農民から土地や財産を取り上げる都市に住む裕福な人々、貧富の格差の拡大、語るべきことを正しく語らないで、相手に合わせておべっかを使う預言者たち、帝国による軍事的な脅威を。
そうした問題こそが、人々の間に苦痛と不満、不和を生み出し、平和な生活の実現を阻んでいるからです。その背景には、貧困があり、生活の格差があります。そして、こうした問題が生み出されてしまう社会の構造的な問題と、そのことへの為政者の不見識があるのです。その声はまるで現代の問題に言及しているかのようです。
このミカの追及の声は、ユダ王国が滅ばされ、エルサレムの町が破壊されていったときの記憶によって強められています。この記憶の中に、彼は人間の罪の姿を見るのです。そして、このイスラエルとユダの歴史に見られる人間の罪の姿は、アッシリヤやバビロンという帝国の歴史の中にも見出されます。帝国といえども永遠に栄え続けることはできない、という国家への厳しい見方がそこにはあります。しかし一方で、人々の毎日の生活は続きます。人が生きるための営みは続いていきます。彼はそのことに確信を持っています。彼には、神様が常に一緒にいるということと、特定の王国や帝国が続いていくということは、別なことを意味します。むしろ、人の生活があり、命が育まれるところには、神様の守りと祝福がある、そのことが希望の根拠であり、また慰めとして語られています。しかも、神様の裁きで預言は終わっていません。捕囚からの自由と故郷への帰還、破壊された町々の再建が語られます。今の苦しみの後に、救いがやって来ることを告げているのです。
ミカ書の語る平和の理念。そして、平和を造り出すことへの言及は、イエス様の語る「幸い。平和を造り出す者」という祝福の言葉に通じています。
もちろんミカ書の中では、特に平和は神様によって一方的にもたらされる恵み、慰めに満ちた状態として描かれています。そこには、絶えず争いや戦争を繰り返している罪深い人間の姿に対する、預言者自身の拭えない不信感があるのかもしれません。旧約聖書に書かれたイスラエルの民の歴史には、戦争や内乱の記事が少なくありません。それは栄光に満ちた物語というよりも、人の行為の悲惨さと愚かしさを表しています。
ただ、そうした人間であっても平和を造り出せるとミカ書は語っています。ミカ書の六章八節にある言葉では、預言者は、主なる神様が人々に求めていることは、何か新しいことを始めることではないと告げています。すでに神様が人々に告げている「善」すなわち「正しく」そのみ旨に適うことは、「正義を行い、慈しみを愛し╲へりくだって神と共に歩むこと」だと。人の尊さを守り、神様の前に謙虚になること、その信仰に立ち返り、神様が語る正義を(み心に適うように)実現することが、平和をもたらすことにつながると語っているのです。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけする。」(詩編85篇11節)
そのためにも、人々は、裁きの言葉、神様の叱責の言葉を聞き、自分たちの過ちと向き合わなければならないし、同時に主なる神様が、これまで人々のために何を恵みとして与えてくださったかを、記憶を辿って、想い起こすことから、始めることが必要だと、預言者は語っているのです。
平和を創り出す。それは努力しなければ出来ないことです。人間が意図して、知恵と力を尽くして、始め、守り、育んでいかなければならない事柄です。暴力を用いて自分と対立する人間を屈服させるあり方を止めない限り、暴力の応酬と連鎖は止まらないでしょう。それゆえに私たちは、戦争の記憶を想い起さなければなりません。神様の前に謙虚になり、人の罪の歴史を記憶にとどめることです。過去の歴史を見つめて、人間の尊厳、人間性を破壊する行為に対して、とりわけ戦争が何を引き起こして、何を破壊していったのか、私たちは記憶しなければなりません。「主の慈しみに生きる人々」が、「愚かなふるまいに戻らないために。」(詩篇85篇9節)
歴史を忘却することは罪です。そして、今起こっていることを「知らずに」通り過ぎることもまた罪です。それゆえに想像力の欠如もまた罪であるのです。
ミカ書が語る永遠の平和。それは確かに神様に委ねられた希望のヴィジョン・幻であり、未来に向けられたものです。現在すでに実現したというものではありません。しかし、全くの空想の世界でもない。なぜならそこには様々な可能性が示されているからです。
今ある危機を避け、より良い未来を求めるためにも、私たちは、歴史の記憶の底から、体験を思い出し、人の罪を認めて、悔い改め、平和を生み出すための最善の策を探ることが必要なのです。神様の祝福は、人の命が育まれていく生活のうえにこそあります。そのことが希望と平和の根拠であり、また慰めなのです。

2026年8月2日
聖霊降臨後第10主日
「わかちあえば」
マタイによる福音書
14章32節~ 39節
「イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』」
「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」
今日の福音書の日課は、「五千人の供食」の物語です。
洗礼者ヨハネがガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスに捕えられ処刑された時のことでした。ヨハネの死は、彼の弟子たちによってイエス様にも伝えられました。それを聞いたイエス様は、ヘロデ・アンティパスから避難するために、滞在していた町を離れて、舟で湖沿いに進み「人里離れた」場所へと移りました。ところが、大勢の群衆が歩いて後を追って来て、イエス様たちを岸辺で待っていました。その様子を眺めたイエス様は、彼らを「深く憐れみ」、群衆の中にいた病人を癒し始めました。
時間が経ち夕方になったとき、弟子たちはイエス様に、「群衆を解散させましょう。」と相談しました。そうすれば群衆は自分たちで食事を用意すると思ったからでした。しかしイエス様は、弟子たちの予期せぬ言葉を口にしました。それが冒頭でお話した言葉、「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」でした。この言葉に弟子たちは戸惑いました。そして、彼らはイエス様に、自分たちが用意できるのは、「パンが五つと魚は二匹しか」ないことを告げたのです。
弟子たちが、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」というイエス様の言葉に困惑したのは、無理もないことでした。そこには、女子どもを除いて五千人がいたと書いてありますし、単純に倍にしたとしても一万人近い人々がその場所に集まっていたことになります。一方で、弟子たちが持っていた食料は、五つのパンと二匹の魚でしかありません。
理性的に考えれば、弟子たちが最初にした提案は間違ってはいません。「今自分たちは人里離れた場所にいるのだから、ともかく解散して、めいめいで食事を取らせるように勧めましょう」と。ごく自然なもっともと思われる提案です。今風に言えば、「私たちがこの群衆の分まで、食事を用意することは出来ない。だから食事は各自の自己責任でやってもらわないといけません」というところでしょうか。しかし、この弟子たちの提案は、イエス様によってあっさりと退けられました。「あなたたちが彼らに食べ物を与えるように」と。イエス様は弟子たちに、自分たちの食べ物を群衆みんなと共に、分かち合って食べることを命じたわけです。
ここで注意したいのは、この言葉に込められたイエス様の思いです。人里離れた場所まで退いたイエス様一行を徒歩で追いかけてきた人々に対してのイエス様の思い。それは、おなかの底から突き動かされるような「深い憐れみ」の思いです。つまり、イエス様は、群衆の行動に彼らの魂の飢えと渇きを見てとったわけです。その「飢え渇いた」群衆を見たときに、イエス様は、「あなたたちの今置かれている状況や境遇に対して、それは自己責任だといって関わらないような態度を、私は取らない」と感じたのではないでしょうか。イエス様は集まっている群衆の姿に、自分の姉妹や兄弟の姿を見ます。だから、そこにいる群衆といのちの源である食べ物をわかち合おうとするのです。
ですから、イエス様は、弟子たちの困惑にも構わず、その五つのパンと二匹の魚を持ってこさせると、群衆をその場に座らせてから、パンと魚を取り、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡した」のです。弟子たちがその裂かれたパンを群衆の一人一人に与えると、「すべての人が食べて満腹」したのでした。そして、残ったパンくずは十二の籠に余るほどになったのです。
このイエス様の行動に、もう一つのイエス様の気持ち、つまり神様へのおおらかな信頼が見て取ることができます。旧約聖書の出エジプト記には、飢えに苦しんだイスラエルの民の願いに応じて、神様がマナという食べ物を降らせたお話がありますが、まさにそのような民を養う神様への信頼、神様には不可能ではないというイエス様の信頼が、そこにはあるといえます。それはまた、山上の説教で語った「飢えている人々、幸い」という約束が果たされることへの信頼ともいえますし、弟子たちへの「あなたたちが彼らに食べ物を与えるように」との命令は、ですから神様がいのちを与えられることに、信頼することを彼らに教えているようにも思えるのです。言い換えれば、自分たちが予期しない状況、しかも限界を感じながらもなんとかすることが求められる状況で、たとえ「乏しさ」や「小ささ」、あるいは「貧しさ」といった現実を抱えていたとしても、そのことで言い訳するのではなく、なおも弟子たちがあきらめずに、いのちの神様を信頼していくことを勧めているのです。
群衆といのちを分かち合うイエス様の行為が、そして民を養ういのちの神様への信頼が、その場所にいたすべての人々にパンと魚が行きわたり、全員が満腹になるという奇跡を生んだのだと言えるでしょう。
ある人は、この奇跡物語を合理的に解釈します。このときイエス様が示した「わかちあう姿」、つまり自分たちの分をみんなで分けようとするのに倣って、群衆のそれぞれが持参していた食料を差し出して、結果全員で分け合って食べることができたというものです。あいだみつおという詩人は、「奪い合えば足りぬ。分け合えば余る」という言葉を書いていますが、確かに遠足のお弁当でも、あるいは持ちよりの食事でも、分け合えばそこにいる人数が多くても足りることがあります。全員が満足して更に余ったことの説明はつきます。
一方で、ある人は奇跡の合理的な解釈を退けて、この物語を、神の子であるイエス様の力を表す「パンと魚が増えた」奇跡物語だと解釈します。
もとより、今日の日課にある奇跡が、どのようにして起こったのかは判りません。しかし、この奇跡の説明は、それほど重要ではないようにも思えます。むしろ、私には、この物語がイエス様による一つの大きな宣言と思えるのです。つまり、「あなたたちで分けてあげなさい」という弟子たちへの言葉は、魂とまた肉体の飢えと渇きを覚える人々に対して、イエス様自身が、そして弟子たちが、責任をどこかの誰かに押し付けるのではなく、自らその人々の状況を引き受けていくのだ、という宣言であるのです。
理性的な、そして合理的な人間の判断があります。ただ、時と場合によっては、そうした判断が、人のいのちを切り捨てることにつながることも起こります。法律や規則、制度の運用を巡って、そうした事態が多々起こることは、日頃私たちが経験する所です。
日課の物語のイエス様は、こうした理性的な判断に対して、いのちへの共感と姉妹・兄弟の身体を大切にする立場から、対抗しているとも言えます。
この五千人の供食物語は、先ず神様の聖さを証明していると言えます。聖書は、神様の聖さを、神様が行う正義と公正の中にある、と理解しているからです。乏しい人たち、飢えている人たちに食べ物を分かち与えることは、正義と公正が行われることの一つのしるしであり、パンと魚が増えたことは、神様がイエス様の感謝と祈りに応えて、その人々を養うことで、ご自身の聖さを宣言されたことなのです。
このことは、現在の教会にも投げかけられた宣言だとも言えます。だからもし、私たちが神様の正義と公正を求めて、それをこの地上で実践するとき、あるいはそれを実現するように努力するとき、神様の聖さが証明されるのです。その行為を通して神様に称賛が投げかけられ、「栄光を帰する」、つまりみ名が崇められるのです。教会には、その証しをすることが、呼び掛けられているのです。
この五千人の供食物語は、また教会の聖餐あるいは愛餐の一つの在り方を表しているとも考えられます。いわば共同の食事である聖餐や愛餐を通して、私たちは、一人ひとりがイエス様を「食し、飲むこと」で身体に迎え、私たち自身のいのちを養い、共に生きるからです。だからこそ、私たちの教会も、閉ざされた共同体ではない、いのちを分け合う心を持った、開かれた群れ・共同体になることを目指していきたいのです。
先日発生した熊本地震でも、あるいは二年前の元旦に起きた能登半島地震でも(またベネズエラ地震でも)そうですが、甚大な被害の状況を報道などで聞いて、瞬時には「何か助けになることはできないだろうか」と思ったりもします。しかし、改めて「では、私個人に一体何ができるだろうか」と考えだすと、「(物理的に)出来ることなど限られている」と思って、もどかしい気持ちになってしまいます。実際のところでいえば、「何とかしなければ」と思う事態が次から次へ起こって来て、気持ちは焦るのに、「あれもこれも対応ができない」という状態に陥ってしまっている。そんな感じがするのです。
それは、あたかも弟子たちが、大勢の群衆を前にして、「私たちにはパンが五つと魚が二匹しかありません。」と、イエス様に向かって(できないことの言い訳を)語るのに似ているようにも思います。確かに、私個人には物理的にできることは極々限られ、物事を整理して、優先順位をつけなければなりません。しかし、だからといって、それは結果として何もしないことの言い訳にしてはいけないことだと思うのです。
個人で「あれもこれもできない」のは事実です。ただ、仲間とならば何かができるはずです。思いや力や知恵を「わかちあえば」、私たちはお互いに何かができるはずです。その場所に直接行くことができないにしても、離れているからこそ、現地で何が必要なのかをよく聞いて、「緊急に必要とされる助けと支援」というディアコニアの働きに加わることができるのではないでしょうか。一つ一つに誠実に応えていくことができるのではないでしょうか。今回の熊本地震への助けについては、九州教区での態勢が整い次第、情報が入り次第、対応したいとも思っています。
今この世界で、この物語にあるような出来事が、実際に起こって欲しいと思います。たとえそれが合理的な解釈の通りに、そこにいた人たちが持ち寄って分け合って食べたのであろうと、あるいは正真正銘の奇跡としてパンと魚が増えたのであろうと、どんなあり方にせよ、そこにいた人たち、五千人の倍の人たち全部が、みんな食べて満腹になったということが起こった。それならば尚更、今私たちが生きている現実の世界においても、この奇跡が起こって欲しいと切実に思います。
「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
食べ物が足りないといえる状況であっても、パンと魚を備えて差し出したことが、次の上回る恵みの奇跡を呼び起こしていったとするなら、私たちもそのように将来に信頼し備える者でありたいと思います。いのちを分かち合う奇跡が、私たちの所でも起こることを信じます。

2026年7月26日
「天の国は
聖霊降臨後第9主日
始まっている」
マタイによる福音書
13章31~33
+44~52節
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエス様は、マタイ福音書の13章で、天の国についてのいくつかの譬えを話されていて、この三週間、私たちは連続してその天の国に関する譬え話を読んできました。そして、今日の日課では、先ずイエス様は、天の国を「からし種」と「パン種」に譬えています。
からし種は、ゴマよりも小さな種ですが、そこには、いのちが秘められています。その中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。そして、小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。その不思議さを思います。それは、自然が起こす奇跡です。
もう一つのパン種は、小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく酵母のことです。ただ、パン種を小麦粉に混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったそうです。パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母、酵母菌のいのちの源は、やはり謎のままであり、自然の起こす奇跡だといえます。
からし種とパン種の譬え。どちらも表しているのは、いわば天の国の持ついのちの力です。天の国は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。また、天の国は、からし種やパン種の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、パン種は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。天の国、それはいのちをつなぐもの、いのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。
44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような天の国の持つ価値の計り知れない大きさを表しています。
「畑の隠された宝」の譬えは、天の国は思いがけない形で突然姿を表す、と語っています。この譬えで畑を耕している農夫は小作人で、彼は畑を借りています。その彼が畑に埋められていた宝物を見つける。それは、畑の元の所有者が遺産をのこす目的で埋めたのかもしれません。イエス様が生きていたのと同じ頃書かれた書物に、埋められた遺産のことを知らずに、その畑を売り払ってしまい、損をした男の話が出てくるそうで、あり得た話だったのでしょうか。ともかく突然、予期せぬ形で農夫は宝を手に入れるのです。そしてその宝は、見つけた農夫が持っている物すべてを手放してでも手に入れようとする価値のあるものなのです。
天の国も同じだ、とイエス様は語ります。それは予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表すのです。
ここにはある意味、天の国を受け継ぐ資格、この譬えでいえば、埋められていた遺産を相続する資格が、もしもあるとするならば、それは「今その畑を一生懸命耕しているその人だ」、ということが書かれているともいえます。それはたとえば、自分の人生を、一生懸命に生きている人ではないでしょうか。自分の命を精一杯生きている人ではないでしょうか。その人は、予想もしない形で、天の国を見い出すことができる。そして、その天の国は、その人がそれまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表すのです。
一方の「よい真珠」の譬えは、天の国が、それを真剣に必死に探している者の前にも姿を表すことを語っています。洗礼者ヨハネはその代表格です。何が神様の意思なのかを考え、天の国・神の国の到来による裁きを受ける前に、悔い改めることを求めていく。洗礼者ヨハネは生活全体をそのように変えていこうとします。荒野で共同生活をしながら、神様に従う生活を追い求めていったエッセネ派と呼ばれる人たちも、またそうでした。ファリサイ派の律法学者たちも、彼らなりのやり方で、日常の祈りや生活の中で、天の国を受け継ぐにふさわしい存在になろうとしていました。そうした人たちは、「よい真珠」という天の国を探し求め努力する商人の姿といえます。
そして、天の国を求めて努力する商人の姿を、私たちは、聖書の中だけでなく、歴史の中に見出すことが出来ます。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していく働き、イエス様が示された愛の生き方を生きようとする人たち、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き、そのような人間の努力は、いわば天の国を求める姿といえます。
十九世紀のイギリスの炭鉱や工場で働いている児童に対して、教育の機会を保障する運動として始まった日曜学校あるいは教会学校運動がありました。そして、そうした取り組みから児童労働の禁止や女性の労働者を保護する法律などが出来上がりました。ドイツなどでは、同じ頃に女性が働く場所を造り出していく動きが、ディアコニア運動の中で広がって行きました。病気や障がいを負った人たちが、生活しやすい環境を整える中で、それぞれの尊厳を取り戻していくための働きが始まりました。十九世紀以来のキリスト教社会主義の運動や「社会的福音」運動もまた、いわゆる社会的な問題を解決するための、キリスト教による一連の試みでした。それらは、地上で天の国を実現しようと模索する人間の、努力の表れということができます。
もちろん、そうした運動の中には、当初考えられ望まれた理念や理想が、必ずしも意図されたようには進まなかったものもありました。また強引かつ早急過ぎて失敗したものもありました。あるいは科学や技術が「進歩」する中で、新たに「課題」を残したりもしました。
しかし、こうした働きが様々な試行錯誤を経て、次世代に引き継がれ、広がってきたのも事実です。そして、働きを始めた人たちの予想をはるかに超えて、世界中に広がって行ったし、海を越えて日本にも伝えられてきたのもまた事実です。
譬えに登場する「真珠(天の国)を見つけた商人」は、全財産を売り払ってもその「真珠」を買い求めています。そのことは、やはり天の国の価値の大きさを示す表現です。天の国とは、それを探している人々が、それぞれに持っているイメージや期待を、はるかに超えて姿を現わすものなのだということです。
思いがけない天の国の発見であれ、見出そうとして尋ね求めて、やっと出会った天の国であれ、どちらにもせよ、それを前にしたときには、その機会を、チャンスを逃さないことだ、そう譬えは語っています。天の国が、救いの実現としてやって来るとするなら、救われる機会を前にして躊躇しないことです。イエス様に従って人生の新しい道を進むのを躊躇わないことです。また、天の国がよりよい明日をもたらすための働きであるならば、その働きに心を寄せて、求めて一緒に歩んで行くことです。農夫が畑を耕さずにいれば、あるいは商人が真珠を求めて探すこともしなければ、どちらも予期せぬ宝や、また高価な良い真珠を「発見」することもなかったからです。農夫の地道な働きも、商人の真摯な努力も、それが神様の「み心に」適ったものである限り、期待を上まわる恵として、必ず報いられるのです。
さて、「埋まっていた宝」と「見出された真珠」の譬えは、いわば天の国を「見つけた人間」の視点から見たお話といえますが、日課の最後にある「集められた魚」の譬えは、この天の国を神様からの視点で語られたお話であるということができます。
それは、天の国(の到来)は、漁師が網を投げ入れるように、すでに始まっている、ということです。これは一つには、地上にある教会が天の国の到来の始まりを表しているという譬えです。そして、視野をもう少し広くして眺めて見るならば、天の国は、この世界の至る所で始められている、神様の意図に沿った様々な働きによって、すでにこの地上で実現しつつある、ということです。そして、その天の国という網によって、多くの人たちが(その働きに従事する人たちも含めて)、魚と同じように自分では意図しないでいても、その天の国の中に「捕えられている」ということです。「ただし」と譬えは言っています。「その網の中には、良い魚も悪い魚も入っている」と。そして、誰が良い魚であり、誰が悪い魚なのかを「選り分ける」、つまり、誰が天の国に入れるのかを判断するは、あくまでも漁師である神様の使い、天使たち、あるいは神様御自身だということです。言い換えれば、天の国は、この地上にある教会や人間の様々な働き同様、完成途上にあるということです。天の国は、「この世の終わり」のその時まで、あるいは人の「人生の終わり」のその時まで、完成することを目指して進みつつあるものなのです。
それゆえ私たちに出来ることは、その選別の「世の終わり」の「その日、その時」まで、天の国が実現することを祈り、その兆しを見つけていくこと、あきらめずに求めていくことなのです。だから、私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈るのです。神様のみもとである天で、神様の意図するすべてが実現しているように、その神様の「み心」がこの地上でも実現し、完成することを願うのです。全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと望むのです。
日々の暮らしや生活の中で、自分自身の人生を全うしようと、そのいのちを生きている人たちがいます。自分のいのちだけでなく、隣人のいのちを支え共に生きようとしている人たちがいます。この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化することを望んでいる人たちがいます。また、この社会をより良くしたいと思い、努力する人たちがいます。そのための様々な働きが、世界のあらゆる場所でなされています。そして、私たちには、豊かさに満ちた天の国のヴィジョンが与えられています。神様が望まれるような人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された愛の生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて天の国のヴィジョンを望み見るものです。
天の国の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあるのです。その天の国の歩みに、私たちも加わっていきましょう。
2020年8月2日 (平和主日)
「平和の基」
ヨハネによる福音書
15章9節~12節
イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。
ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。
その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。
イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。
イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。
イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。
「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」
それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。
しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。
もちろん、注意しなければならないことはあります。
「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。
最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。
と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。
「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。
「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。
私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。
それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。
なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。
日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。
昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。
そこでは、次のような祈りがささげられました。
「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」
「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」
「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」
「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」
「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」
「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」
「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」
「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」
「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。
平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。
人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。
「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン
2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)
「天の国の実現」
マタイによる福音書
13章31節~33節
+44節~50節
イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。
私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。
イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。
先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。
からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。
讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。
「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」
球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。
からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。
次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。
「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。
パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。
パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。
「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。
また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。
「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。
もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。
そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。
もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。
44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。
二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。
つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。
イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。
現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。
しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。
「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。
日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。
「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。
2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)
「生き直すということ」
マタイによる福音書
11章28節~30節
人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。
競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。
行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。
生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。
軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。
ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。
つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。
ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。
「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。
旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。
ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。
イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。
本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。
イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。
と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。
「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。
それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。
それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。
またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。
イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。
この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。
生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。
だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。
だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。
2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)
「あなたが花束」
マタイによる福音書
10章40節~42節
「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。
歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。
「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。
それは、その相手を励ましたいからです。
「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。
歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。
歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。
「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。
「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。
その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。
歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。
そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。
「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。
この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。
いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。
自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。
そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。
「あなたが花束」になっていくのです。
「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。
今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。
ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。
そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)
「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)
この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。
弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。
二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。
使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。
福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。
もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。
たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。
生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。
弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。
教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。
それが、弟子の使命です。
どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。
2020年1月26日
「天の国は近づいた」
マタイによる福音書4章12~18節
韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
共に平和をつくり 共に生きる その町で
平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら
貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で
平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で
私たちの労働が お祭りになる その日に向かって
共に生きる町 小さくても 美しい町
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
教えてください 教えてください 共に生きる町を
詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。
その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。
この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。
一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。
と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。
この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。
八〇年代、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。
このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。
「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。
明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。
勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの
かもしれません。
いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。
「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」
イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。
ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。
具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。
不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。
それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。
悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。
この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。
私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。
大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。
それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。
それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。
確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。
「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。
「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。
「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います
(2020年1月26日)