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礼拝メッセージ
       (当分の間、毎週更新します)
202329日 
​顕現後第4主日

「あなた方は

幸いである」

 マタイによる福音書

 ​    5章 1~11節

 1965年の映画で、「赤ひげ」という作品があります。作家の山本周五郎が書いた「赤ひげ診療譚」という小説が原作で、黒澤明が監督を務め、三船敏郎と若い加山雄三が出演しています。

 江戸時代後期の享保年間(1716年~36年)、「暴れん坊将軍」徳川吉宗が進めた享保の改革によって設立された小石川養生所を舞台に、通称「赤ひげ」と呼ばれている所長の老医師、新出去定と、長崎で蘭学を学んだ見習い医師、保本登の師弟をめぐる物語が展開していきます。養生所は、社会的に困窮した人たちを、無料で診察をする施薬院・医療施設ですが、映画の中では、その養生所を訪れる人々の姿を通して、当時の社会の貧しい人々の生活が描かれています。

 日々の診察を行う中で、赤ひげは、貧しい人々の置かれている現実に怒りを感じています。家主から急に立ち退きを言い渡され途方に暮れる長屋の人々、貧しさから身売りされ売春させられ病気で死んでいく女性たち、貧しさから身売りされそうになるこどもがいます。貧しさから借金をして、その挙句一家心中をはかる現実があります。そうした現実を前にして、赤ひげは、保本に向かって話してきかせます。「医術はあらゆる病気を治すことはできない」こと、社会が生み出す「貧困と無知」という矛盾が人間の命や幸福を奪うこと、養生所が戦っているのは、病気だけではなく社会の「貧困と無知」なのだと。困窮する人々が陥っている「貧困と無知」を克服することによって、彼らの患う病気の大半は治療できると、そう語るのです。

 克服されなければならない「貧困と無知」。それは、時代を経た現代でも同じ課題であるかもしれません。(パキスタンやアフガニスタンで医療活動を行っていた中村哲医師も同様のことを語っていました。) 富める者と貧しい者は、いつの時代にも存在しましたが、今の時代、日本でもその生活の格差が極端になり、広がってきているように感じます。

 社会が生み出す貧困の問題は、人間の文明が続く限り、永遠の課題なのかもしれません。

 では、そんな時代に、今日の日課は、何を語っているのでしょうか。イエス様は、何を、私たちに語りかけているのでしょうか。何を私たちが考えなければならないのでしょうか。

 

 「心の貧しいあなた方は幸いだ」で始まる一連の言葉を理解するためには、先ず、これらの言葉が誰に向かって語られたのかを、見なければならないでしょう。

 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

 ここに書かれている「この群衆」とは、日課の直前(4章24節以下)で触れられている人々のことを言います。

 「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

 つまり、イエス様の説教は、ユダヤ全土、エルサレム、海岸沿いの地方からも集まっていた大勢の人々に向けて語られました。その人々は、教えを聞くことと、病気の癒しや悪霊からの解放を願って、その場所に来ていました。イエス様の教えの中に、あるいは癒しのわざに、具体的な悩みや問題からの救いを求めていたのです。

 そこには、たくさんの貧しい人々もいたことでしょう。決して豊かではない暮らしをしている人たち、明日のあるいは今日の食事の心配をしなければならない人たちがいた、病気や生活のことで泣いている人々がいたことは想像できます。

 一方で、多少は裕福な生活をしている人たちも来ていたことでしょう。好奇心でその場に集まった人もいれば、やはり何らかの悩みや病気の苦しみを負っている人たちもいたでしょう。

 そうした様々な生活の背景や関心をもった人々に向けて、イエス様は、今日の日課の言葉を語りました。

 

 さて、今日の日課、マタイ福音書の「山上の説教」の冒頭、「幸いである」と続く8つの言葉、いわゆる「八福の教え」は、同様にルカ福音書にも書かれています。違うのは、ルカ福音書では、イエス様は、具体的な「貧しさ」、「貧困」と「富」、「豊かさ」を問題にし、またその問題そのものを神様の前で克服されるべき課題として示しています。おそらく、意味合いから言えば、「貧しい者、幸い」という言葉が、イエス様本来の言葉であったと考えられます。   ​ 貧しさ、人が貧しい状態にあること、それは具体的には、仕事がないこと、あるいはたとえ仕事にありつけても、日々の食事に事欠くような、食べられないことであり、住むところがないことです。病気になっても医者にかかることができないことです。そうした貧しい人々の実態は、イエス様が教えてくれた「主の祈り」の言葉の中に見ることも出来ます。

 「今日食べるパンをください。私たちが負っている負債・借金を取り除いてください。」

 それは切実な祈りです。少なくとも、「今日の食べ物がない現実と、負債を背負わされている状況を変えて欲しい」という願いを表しています。つまり、貧しい人たちのそのような生活の実態は、決して手放しで幸い、幸せだとは言えないのです。

 しかし、ルカ福音書に出てくる「貧しい者、幸い」という、イエス様本来の言葉は、貧困状態に陥って、「飢えて」「泣いている」人々の現状を肯定している訳ではありません。ここでイエス様が語るのは、「貧しく」「飢え」「悲しむ」人々への一つの宣言です。  

 「今貧しい者、今飢えている者、今泣いている者、あなたがたは、神の国を見るし、満ち足りて笑うことができる」という約束の言葉です。イエス様がそう約束された、ということなのです。いやもっと言えば、「もし人が神様から、幸いと祝福されるとするならば、この貧しい人たちを置いて他にはないのだ」というイエス様の切なる思いをここに読み取ることが出来ます。

 ルカ福音書のイエス様の言葉には、いわば貧しく、飢えて、泣く人々の現状への嘆きと、問いかけがあります。この状況は、決して神様の義しとするところではないという思いが、あるいは憤りがあるのです。

 一方、福音書記者マタイは、このイエス様の言葉を「心の貧しい人」と記しています。「心が貧しい」とは、どういうことなのでしょうか。

 旧約聖書の伝統から見てみると、「心が貧しい」という表現は、「ヤハウェ(神)の貧しき者」ということを意味すると言われています。すなわち、神が解放しようとされる人々のことです。それは「圧迫され、抑圧されている人々」であり、また、神の前に謙虚で、敬虔さを持って、神様に正義と公正を求めていく者だと理解されます。

 マタイが、あえて「心の貧しさ」を問題にするのは、ど​うしてなのでしょうか。私には、マタイがそれによって、社会的な「​貧困」を生み出している原因に迫っているように思えるのです。

 社会的な「貧困」、それは一部の人々が富を独占することから起こります。それによって「貧富の差」が生じ、生活の格差を次々に発生させます。「飢えること」は、ある人々が「飽食すること」からもたらされます。また、そうした貧しく飢えている人の「悲しみ」に気付かない、現状に満足している人々の「笑い」があります。「豊かで」「満ち足りた」人々の、驕りや高ぶりから、あるいは自分さえよければよいという自己中心的な態度、そうでなければ他者・隣人への無関心から、社会的な貧困は、絶え間なく生み出されているのです。

 イエス様が、この一連の説教において語っているのは、神様の公正と正義についてです。「富の独占と貧困」「飽食と飢え」によって人々が分断されている状況は、神様の公正と正義の実現をはばんでいます。そのことへの、イエス様自身の深い嘆きと問いかけがあるのです。

 先ほど、「心の貧しい人」という表現が、抑圧され、なおも神様の前に謙虚で、敬虔な人々、神様に強く正義と公正を求めていく者のことだと言いました。

 であれば、「心の貧しい人」は、神様の前に謙虚であるだけでなく、同じ神様に創られた者同士が、お互いに支え合い、助け合って生きることを知っている、と言えるのではないでしょうか。人が抑圧を受け、虐げられることの痛みをよく理解できる、だからこそ、神様の公正と正義の実現を強く求めるのです。

 神様の公正と正義が実現する時、貧しい者、飢える者、泣く者が真っ先に、神様によって顧みられ、祝福される。と同時に、その貧しく、悲しみに満ち、飢えた人々を慮り、彼らと連帯し、その状況を克服したいと願う「心の貧しい人々」もまた、幸いを受けるのです。「貧しい人々は幸い」、「心の貧しい人々は幸い」という祝福の言葉は、「神様の意志が地上に実現する」ことを、固く約束しているのです。

 「心の貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

 「あなたがたは幸い」という祝福の状態とは、神様の公正と正義が実現し、人々を分断する「貧富の差」、「飢えと飽食」、「悲しみと無関心」の状態がなくなっていくことです。人が想像力をもって、お互いがお互いを顧みることをしていくことです。そして、富や豊かさを、食べるものを、生活に必要なものをわかちあうことです。悲しみと笑いを伴う喜びを、共に分かち合うことです。

 今この瞬間にも、存在する「貧しさ」、「飢え」、「悲しみ」の状態に、私たちも直面しています。今に満ち足りてしまうこと、現状に満足してしまうのではなく、神様の意思が、正義と公正が地上で実現することを願って、私たちも、神様の前で謙虚になり、神様の正義と公正の実現を強く求めていく、一人の「心の貧しい者」でありたいと願うのです。そして、来るべき神様のみ国のために、私たちも備えとして、具体的な貧しさや飢えや悲しみをなくしていく社会を作っていきたいと思うのです。

202322日 
​顕現後第3主日

「あなたを招く

キリスト」

 マタイによる福音書

 ​   4章 18~22節

 今日の日課には、洗礼者ヨハネがヘロデ王に捕らわれたとき、イエス様が、故郷のナザレを出て、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムという町に移り、「そのときから」、三年に及ぶ福音宣教の働きを始められたことと、最初の弟子たちを招かれた(召された)物語が記されています。

 今日は、特に弟子たちの召命物語から、神様に招かれるということは、どのようなことなのか、私/あなたは、どのように(いつ、どこで)神様に、キリストに招かれているのか、またそれは何のために召されているのか、ということを、共に学んでいきたいと思います。

 

 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

 イエス様は、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の畔にやってきた時、漁をしていたシモン・ペテロとアンデレの兄弟を見かけました。そして、この二人の兄弟に向って、「さあ、私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間をとる漁師にしてやろう」と言いました。すると、シモン・ペテロとアンデレは、すぐに網を捨ててイエス様に従いました。

 しばらく行くと、イエス様は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、父親と一緒に網を繕っているのを見かけますが、イエス様は彼らにも同じように呼びかけると、二人もまた舟と父親ゼベダイを残したまま、イエス様に従って行ったのです。

 これが、最初の弟子たちの招きの物語ですが、ただ淡々と起こった出来事が記されているだけの、何とも簡単な記述でしかありません。ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネの心の中でどんな動きがあったのか、何も記されてはいません。そして、彼らのとった行動も、まことにあっけないものです。「網を捨てて」、あるいは「父親と舟を捨てて」イエス様に従っていくのです。それも「すぐに」、それまでの生活の一切を捨てて、彼らは、イエス様の言葉に反応してついていくのです。もしも、身近でこんなことを目撃したとしたら、思わず「ちょっと待てよ」とも、「将来をよく考えろよ」、と口を挟みたくなるくらいとんでもない行動を彼らは取っています。

 しかし、一見軽率にも見える彼らの行動は、人が決断する時の姿を象徴しているようにも思えます。人が何かを決める時、あるいは何かを始める時、その一歩を踏み出すのは、思い切ることです。人によってそれは様々です。後先考えずに思ったまま行動に移す人もいます。あれこれ迷って迷って、いざ始めてからも迷いながら慎重に行動する人もいます。決断する、物事を決めるというのは、決断するまでの時間が長かろうが短かろうが、ともかく一つの思い切りであると言えるのかもしれません。

 ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが、決断するまでの時間がどれほどのものだったのか、「すぐに、すぐさま」という言葉が表すように、ほんの一瞬だったのか、それともヤコブたちが父親のゼベダイを説得して別れを告げるくらいの少しの時間が経過したのかは、想像するしかありません。ただ、彼らはこの時、思い切るのです。イエス様に従うことを決めていくのです。

 

 ここで大切なことがひとつあります。それは、何よりもイエス様が彼らを目にとめて、呼び掛けるのです。イエス様の招き、呼びかけが、彼らの決断に先立ってあるのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

 ここでイエス様は、シモン・ペトロに、アンデレに、そしてヤコブとヨハネに向っても、暮らし向きはどうだとか、どんなことを考えているかとか、あれこれ聞くことはしていません。弟子としての資質があるかどうか、質問することもありません。ただ、呼び掛けているのです。「わたしについて来なさい」と。

 ペテロたちは、この招きの言葉を受け止めたのです。おそらくそれまで、彼らにそんな言葉をかけてくる人はいなかったでしょう。ペテロもアンデレも、そしてヤコブもヨハネも漁師です。それまでの暮らしの中で、彼らがどんな思いを、悩みを、あるいは希望を抱えていたのか、それは想像するしかありませんが、彼らは、聞き流してしまうこともできたはずなのに、この自分たちに向けられたイエス様の招きの言葉を受け止め、従い、弟子としての一歩を歩み始めていくのです。

 

 聖書には、神様によって召された(招きを受けた)人々の物語が、いくつも記されています。旧約聖書には、イスラエルの指導者とされたモーセや、エリヤやエリシャ、あるいはイザヤやエレミヤなどの預言者たちの召命の記事が出てきますし、新約聖書には、今日の日課にある弟子たちの召命物語の他にも、後に、使徒パウロの召しについての記事が記されています。

 そうした物語の中で示される神様の招きは、ある意味、召される者にとっては、唐突な出来事です。そして、たいていの場合、「私は口下手で、大勢の民を説得する術を持ちません」とか、「私は若者にすぎません」といったように、その招きに対して応えることに躊躇う様子が描かれています。しかし、神様は、例えばモーセの場合には、(奇跡によって)神様が彼と共にいることを示し、彼を説得し、最後には𠮟りつけるようにしながらも、彼をイスラエルの民の指導者として立てていきます。

 この時のモーセは、エジプト人の見張りを殺してしまい、エジプトから逃走して、ミディアン人の中に身を隠していた最中でした。それなのに神様は、エジプトで苦しんでいる多くのイスラエルの人々の声を聴き、彼らを救うために、モーセを召し出して、もう一度エジプトの地へと派遣していくのです。神様の呼びかけはモーセの心の声に訴えかけるものだったに違いありません。神様が、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者(エジプト人)のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた」ように、モーセ自身もまた、エジプトに残してきた家族や友人たち、その他の人々の状況に、完全に耳を閉ざすことはできなかったと思うからです。そのモーセに神様は呼びかけます。「わたしは彼らをエジプト人の手から救い出す。だからお前を召し出すのだ」と。言い換えれば、神様は、人々の苦しみを訴える叫びを聞き、その苦しみをモーセと分け合うことを求めておられるのです。「わたしと共に、苦しみのうちにある民を救ってほしい」と。

 それは、イエス様による弟子たちへの招きでも同様です。

 イエス様がガリラヤで福音宣教を始められたのは、「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいや」すためでした。それは、貧しさの中に置かれた人々、「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」たちに、神様の愛という「大きな光」を示すためでした。そのわざを、その働きを、弟子たちに「共に担って欲しい」と、イエス様は呼びかけられたのです。

 「人間をとる」とは、ですからこの場合、貧しく苦しみのうちにいるその人々を救いへと導くことです。彼らに「神様はあなたを愛し、あなたと共におられる」ことを、具体的に表すことです。そのために、イエス様は、民衆の一人である漁師の彼らに、呼びかけたのです。「さあ、わたしについて来なさい」と。

 

 人がキリスト教とどう出会うかは、さまざまでしょう。教会に行ってみようと思うきっかけも、人それぞれです。しかし、わたし /あなたが、今ここにいるのは、単なる偶然なのではありません。一人ひとりが、神様、そしてイエス様の招きと召しを受けているということなのです。

 そしてまた、その招きに応えるあり方も、また人それぞれです。   

 聖ベネディクト会の司祭アンゼルム・グリューンは、その著書の中で、神様に従うということについて、それは単に、み言葉に耳を傾け、聞くだけでなく、その中に神様の声を聴き、その声に応えて生きることだと述べています。それはまた、自分が今体験している出来事や置かれている状況の中で、自分の内なる声にもっと耳を傾けることでもあると言います。「神がわたしに与えてくださった神の像・イメージを生きるために、わたし自身、自分の人生の歴史、自分の強さや弱さに耳を傾け」、「自分のありのままの姿と和解して生きる」ことだと言うのです。神様は、「今のわたし」に呼びかけてくださっている。その声に応えて、自分自身もまた、自分を受け入れ、肯定していくことが大切です。

 神様に従うということは、決して「教会の権威や、教会が命じることに従う」ことではなく、また規則や戒めに、あるいは権威ある人の命令に、考えることなく服従することではありません。

 そうではなく、自分自身と自分の人生を肯定的に捉え、今置かれている現実の中で、尊厳を持って隣人と接し、イエス様がされたように、困難を抱えている人々に手を差し伸べ、共に生きる。それが、神様の、キリストの招きの声に応えていくことなのです。

 

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 

 アメリカ長老教会の牧師のウイリアム・スロウン・コフィンは、「もしキリストが神の愛を人格化された方であるとすれば、教会は、神の愛が組織化されたもの」と言いました。すべての教会、そこに関わるすべての個人が、現実の社会の中で、神様の愛を具体的に表現するという使命を与えられているということです。

 それは、神様の愛と救いが、個人にのみとどまるだけではなく、他者・隣人との関わり、社会全体へと及んでいくことを、神様が求めているということです。神の国の福音が、自分をも含めたすべての人々に伝えられることで、すべての人たちが、互いに愛し、支え合い、共に生きていく関係を築くことへと招かれているのです。 

 「神様はあなたを愛し、あなたと共におられる」ことを、人と人の関わりの中で、言葉と行いによって、具体的に表現し、伝えていくことが、「人間をとる漁師」として歩んでいくことなのです。

 それは、言葉で福音を伝えるだけでなく。今、身近で、また社会の中で困難な状況にある人々の痛みを覚えて、何らかの形で連帯すること、苦しむ人の傍らに立って慰め、執り成し祈ること、自分にできる援助をすること、あるいは、社会的な課題、例えば差別や貧困の原因を取り除こうと努力する試みかもしれません。

 教会に行ってみようと思い立って足を踏み入れ、続けて教会に出席していること、聖書の中に、あるいは説教で語られる言葉に何かを見出そうとすること、信じること、洗礼を受けること、その私たちの一つひとつの行動が、すでにイエス様の招きに応えているということです。実にここに集まっている一人一人が、それぞれの仕方で、イエス様の招き、呼びかけを聞いて、一歩踏み出しているのです。神様の愛を表現する、「人間をとる漁師」としての召しに応えて、歩んでいきましょう。

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202315日 
​顕現後第2主日

「見よ、神の

小羊」

 ヨハネによる福音書

 ​   1章 29~42節

 皆さんにとって、イエス様とはどのようなお方でしょうか。

 キリスト教、新約聖書の一貫した主題は、イエス・キリストとはいったい誰であるか、信じる者にとってどのような存在なのか、ということを証しすることにあります。

 今日のヨハネによる福音書の日課では、洗礼者ヨハネが、イエス様とはどのようなお方か、ということを言い表しています。

 

 イエス様の誕生にまつわるクリスマス物語と、ナザレで過ごした少年期のいくつかの言い伝えを除けば、イエス様が誰であるかを最初に、世に明らかに示したのは、洗礼者ヨハネだと言うことができます。

 ヨルダン川の畔で洗礼を授けていたヨハネのもとに、イエス様が近づいていくと、ヨハネはその姿を認めて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと、今日の日課には書かれています。彼は、そのときイエス様を見るまで、イエス様のことを知らなかったと言っています。しかし、直感的に、イエス様を、「自分に優る方であり、自分よりも先におられ、まさに(先触れとしての)自分の後から来られる方」だと知り、洗礼を受けに来ていた大勢の人々の前で、そのことを証言したのです。そして、彼が人々に水で洗礼を授けたのは、「この方がイスラエルに現れるため」であったと語るのです。

 またヨハネは、イエス様の上に「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と、証言しています。それは、ヨハネが、「わたしをお遣わしになった方」(神様)からあらかじめ受けていた予告、「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」ということが、現実に起こり、それを確かに目撃したという証言です。 

 「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」    

 ヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を施したとは具体的に書かれていませんが、前提として暗示されています。

 今日の日課で、洗礼者ヨハネは、イエス様の出現を予告する露払いとしてよりも、イエス様が実は誰であるのかを証言する人として描かれています。それは、ヨハネが語ったという「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」、「見よ、神の小羊だ」という言葉に表されています。

 

​ さて、福音書記者が、洗礼者ヨハネの口を通して語っている、「世の罪を取り除く神の小羊」という名称は、いったいどんな意味を持っているのでしょうか。旧約聖書の背景から、その意味を捉えることができます。

 一つには、出エジプト記に記されている「過ぎ越しの小羊」を暗示していると考えられます。

 神様の使いによるエジプト人たちへの災いが、イスラエル人たちに及ばないように、イスラエル人たちの住居の鴨居に塗られた「小羊の血」。そこでは屠られた小羊(とその血と)が、イスラエル人たちの救いのしるしであることが示されています。その出来事を記念して毎年守られるのが、「過ぎ越しの祭り」です。そして、イエス様が十字架刑に架けられたのも、その「過ぎ越しの祭り」の最中でした。

 もう一つは、イザヤ書53章に記された「主の僕」と結びつけることができます。

 イザヤ書に登場する「主の僕」は、いわゆる「贖罪の山羊」として描かれています。当時イスラエルでは、一年の間にイスラエルの民全体が犯した罪を、神様に許してもらうために、一頭の山羊にそのすべての罪を身代わりに背負わせ、贖いとして荒野に放つというということがされていました。その贖いの山羊の姿と重ね合わされた「主の僕」とは、いわば人類全体の罪を身代わりに引き受け、贖う使命を負った人であることが記されています。

 彼は、「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない」し、「軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知」り(3節)、「罪人のひとりに数えられた」(12節)存在として描かれます。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(5節)。

 「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(7節)

 「多くの人の過ちを担い、背いたもののために執り成しをしたのは、この人であった」(12節)。

 この「主の僕」の姿を、福音書記者はまた、洗礼者ヨハネの口を通して、イエス様に当てはめているのです。「多くの人が正しい者とされるために(贖われるために)、彼ら(人々)の罪を自ら負った」のが、イエス様だと考えるのです。しかも、イエス様は、「罪を担う」だけではなく、「罪を取り去る方」だというのです。そのための、イエス様の受難と十字架による死が、ヨハネの言葉の中に暗示されていると考えることができます。

 さらに、神殿で犠牲として捧げられる、純白で穢れないものの象徴としての、小羊を意味するとも考えられます。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と、洗礼者ヨハネは語ることで、「イエスこそ、罪なき方でありながら、私たちの罪を担い、贖ってくださる、救い主である」と、人々に(そして読者に)、はっきりと証言をしているのです。

 

 由木康という日本人が作詞した、「この人を見よ」という讃美歌があります。

 

 「まぶねの中に産声上げ/大工の家に人となりて/貧しきうれい、生くる悩み、/つぶさになめし、この人を見よ。

 食するひまもうち忘れて/虐げられし人を訪ね/友なき者の友となりて/心砕きし、この人を見よ。

 すべてのものを与えし末/死のほか何も報いられで/十字架の上にあげられつつ/敵を赦しし、この人を見よ。

 この人を見よ、この人にぞ/こよなき愛はあらわれたる。/この人を見よ、この人こそ/人となりたる、生ける神なれ」

 

 この讃美歌で描かれたイエス様の姿は、前述したイザヤ書53章の「主の僕」の姿と重なってきます。それは、ある意味「栄光に輝く姿」ではありません。

 一人の人として生き、人の苦しみや悩みを経験し、その生涯を通して、また十字架の死を通して、神様の愛を示したイエス様。その「イエス様の姿を見よ」、「その姿の中にこそ、神様の愛は顕れている」と、作者は訴えています。

 そして、イエス様の弟子たちと後の時代の教会もまた、まさにこの歌詞にあるようなイエス様の姿の中に、「人となりたる、生ける神」、キリスト・救い主を見ていくのです。

 弟子たちは、そして教会は、イエス様の言葉、教え、癒しのわざに、貧しい者への福音と、苦難からの人々の救いと解放を見ました。イエス様の受難と十字架は、人々の苦しみを担う姿として、受け止められました。そして、死の三日後の復活は、神様によるこの世の力への勝利であり、イエス様を通して神様が人々と共にいることを示していると認めて行くのです。

 

 日課の最後に、洗礼者が、彼の二人の弟子に向かって、「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と」言ったことが記されています。 そして、このヨハネの証を聞いた二人の弟子たちは、「それを聞いて」、イエス様に従っていくことを選びました。

 ここには、他の三つの福音書とは違った弟子たちの召命の記事が記されています。(アンデレも、その兄弟シモン・ペトロも漁師であったとは記されていません。) そこでの弟子たちは、洗礼者ヨハネの証言によって指し示されたイエス様を、「メシア(キリスト)―『油を注がれた者』」と認めて、彼に従うことを選び取るのです。

 「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」 そして、彼らが(教えを乞うつもりで)、イエス様の泊まっている場所を知りたがっていることを知ると、イエス様は彼らにこう言いました。「来なさい。そうすれば分かる」と。

 「来なさい。そうすればわかる。」 それは、イエス様に従おうとする者すべてに対する、招きの言葉です。だからもし、私/あなたが、自分の人生の目的を見い出し、また救いの出来事に触れたいと思うなら、イエス様を信頼して、その後に従ってついて行くことが求められています。そのとき、人は、その人自身の目的を見い出し、また救いと解放の出来事を体験するでしょう。

 また、「見よ、神の小羊」という(弟子たちへの)呼びかけは、彼らに、イエス様自身の姿に注目することを示唆しています。そして、その呼びかけは、今現在も、私/あなたに、私たちに向かって響いています。それゆえ、私たちは、人々に救いと自由と解放をもたらすイエス様に目を向けていくことが、また祈ることが求められています。聖餐式で唱えられるアグヌス・デイ(神の小羊)、「世の罪を取り除く神の小羊よ、憐れんでください」は、聖餐に与ることで、「信仰によって、私たちを強め、守り、永遠の命に至らせてくれる」ための祈りであることを覚えたいのです。

 

 最初に皆さんに問いかけました。皆さんにとって、イエス様とは誰でしょうか。イエス様とはどのような方なのでしょうか、と。

 おそらく様々なイエス様への理解があるでしょう。

 イエス様がその生涯を歩まれる姿は、私/あなたにとって、何を意味するのでしょうか。イエス様の言葉、教え、癒しのわざは、私/あなたにとって、何を教えてくれるでしょうか。イエス様が十字架に架けられる苦難、そして復活は、私/あなたにとって、何を示してくれるでしょうか。

 人生の折々に、節目に、私/あなたの生活の中で、イエス様がどのようにかかわって来たのか、また来るのか。今一度振り返って考えてみたい、心静めて思いを馳せてみたいのです。

 洗礼者ヨハネは、イエス様に「世の罪を取り除く神の小羊」としての神の子の姿をみました。私/あなたは何を見るでしょうか。

 新しく始まった一年、この年も、洗礼者ヨハネが示す「見よ、神の小羊」という言葉に耳を傾け、またイエス様の「来なさい。そうすればわかる」という招きに応えて、歩んでいきたいと思うのです。

2023日 
​主の洗礼日

「洗礼とは

 マタイによる福音書

 ​   3章 13~17節

 使徒言行録

 ​   10章 1~46節

 今日は主イエス・キリストの洗礼日、すなわち、イエス様が三年間の公生涯、福音宣教の活動を始められるにあたって、ヨルダン川の畔で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事を覚える主日です。洗礼者ヨハネのもとには、自らの罪を悔い改めて神様の救いに与りたいと願う大勢の人々が集まっていましたが、イエス様は、罪無き神の子であるにもかかわらず、そのような人々に交じって、ヨハネから洗礼を受け、その時、天が開け、聖霊が鳩のように降って、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が聞こえたというエピソードです。

 そのことから、今日は、私たちにとっての、洗礼について考えてみたいと思います。

 洗礼とは、まずなによりも、神様による罪の赦しのしるしであり、同時に、教会においては、イエス・キリストを「私の救い主・主である」と、公に言い表す儀式でもあります。

 洗礼に水が使われるのは、日本の神道で行われる「禊ぎ」、つまり罪や穢れを水によって一時的に洗い流すこととは、違います。

 それは、洗礼を受ける人が、水に沈むことで一度死に、再び上がることで、新しい人として復活する、イエス・キリストの死と復活に与ることを、象徴しているのです。そうして洗礼によって人は、キリストにある新しい命を生きることになります。

 新しい人に生まれ変わったからといって、もう二度と罪を犯さなくなる、ということではありません。人間は、生きている限り、罪を犯さないではいられない存在です。自分では気がつかないうちに、誰かを妬んだり、傷つけたりすることから、まぬがれません。しかし、新しく生まれ変わった人は、自分の犯した罪に気づき、悔い改めることによって、何度でもやり直すことが可能になります。イエス・キリストが、罪ある自分の身代わりとなって死んでくださったことを確信し、その恩に応えるために、より善く生きようとする者に変えられるということです。

 また、洗礼を受けた者は、キリストの体としての教会の「枝」とされ、キリストにある交わりの中に生き、互いに愛し合い、励まし合いながら、神様から託された教会の使命を共に担う仲間となるということでもあります。

 

 洗礼は、初代教会の時代から、本日のもうひとつの日課である、使徒言行録10章に記されている「異邦人の百人隊長コルネリウス」の受洗の物語が示しているように、イエス・キリストへの信仰によって生きることを明らかにした人々に授けられてきた「水による」しるしでした。

 ユダヤにカイサリアという町がありました。ローマ帝国の総督の官邸があり、ローマ軍の駐屯地でした。ここにコルネリウスという隊長がいましたが、「彼は信仰心篤く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」人でした。このコルネリウスの許にあるとき神様の使いが現れ、「ヤッファという町に滞在しているシモン・ペトロを招きなさい」と告げます。コルネリウスはペトロを招くためにヤッファに遣いをやります。

 一方、ヤッファでは、ペトロが祈っていると幻を見ます。彼は、天が開けて、あらゆる獣や生き物が入っている大きな布のような入れ物が地上に降りてくるのを見ます。そして「ペトロよ、身を起して、屠って食べなさい」という声を聞きます。ペトロは思わず「私は清くない物、けがれた物は、何一つ食べたことがありません」と答えると、「神が清めた物を、清くないなどといってはならない」と声が返ってきました。それが三度続いた後、幻は消えます。ペトロが今見た幻の意味を考えていると、コルネリウスの遣いがやって来て、「聖なる天使からあなたを招くようにお告げを受けたので迎えに来ました」と告げます。ペトロは何人かの仲間とともにカイサリアに向かいました。

 カイサリアにペトロが到着すると、大勢の人と一緒に待っていたコルネリウスが迎えに出て、足元にひれ伏してペトロを拝みますが、ペトロは彼に向かって「お立ちください。私もただの人間です」といいながら、彼を起こして一緒に家まで行きます。そして、ペトロは、コルネリウスとそこに集まった人たちに、自分が見た幻の話をして、ユダヤ人が外国人と交際することは律法で禁じられているけれども、神様はどんな人をも清くない者とか、けがれている者といってはならないと示されたことを語ります。またコルネリウスは、彼の許に神様の使いが現れて、彼の祈りが聞きいれられたことと、ペトロを招きなさいと告げられたことを話しました。

 このコルネリウスの話を聞いてペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と語り、続けてイエス・キリストの出来事を証言していくのです。

 それまではユダヤ人に限って行われていたキリスト教の宣教が、異邦人、つまり外国人をも対象にしたものへと広がって行ったことの始まりのエピソードです。

 「神は人を分け隔てなさらない」、それは、今日の教会でも同じです。洗礼は、すべての人に開かれた神の恵みです。国籍や人種、民族の違い、性別や家族構成、病気や障がいの有無、学歴や仕事の有無、どんな仕事に就いているかによって、洗礼を受ける資格があるか無いかが、判断されることはないのです。ただ、神様を畏れ、イエス・キリストを救い主と信じ、より善く生きようと願うなら、誰でも洗礼を受けることができます。そして、洗礼を受けた者は、皆、神様の前に平等だということです。世界中どこでも、洗礼を受けた人は皆、姉妹兄弟であり、互いに理解しあい、助け合って生きていくのです。

 

 このペテロとコルネリウスのエピソードで、もうひとつ興味深いのは、ペトロの話を聞いていた人々の上に、聖霊が降ったという出来事です。そして、その出来事に驚いたペトロが、聖霊を受けた人々が、水で洗礼を受けるのを誰が妨げられるだろうかといって、イエス様の名前によって洗礼を施したことです。コルネリウスが洗礼を受けるよりも前に、聖霊がコルネリウスにも降ったというのです。それは、聖書では、コルネリウスたちが、聖霊の賜物である異言を話し、神を讃美しているとして表されています。

 そのように、聖霊が与えられたのは、いわばコルネリウスをはじめとした人々に対する、神様からの一方的な承認のしるしであると言えるかもしれません。

 それでは、そのような神からの承認のしるしが無ければ、洗礼を受けることができないのでしょうか。ここにいる私たちは、洗礼を受けるにあたって、聖霊を受けたという確かなしるしを自覚したでしょうか。そのような、神様からの承認のしるしが伴わない洗礼は無効ではないかと考えるのは、間違いです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことはできない(12章3節)と語っています。イエスを自分の救い主・主であると信じ、洗礼を受けて告白しようと決心する、そのこと自体が、本人の自覚に拘わらず、聖霊の働きであり、神様からの承認のしるしなのです。

 洗礼に先立つ聖霊による祝福。それは洗礼の条件が堅い信仰を持ちそれを告白することにあるのではなくて、むしろ謙虚に神様の前に立つことに対して与えられる恵みであることを意味しています。

 洗礼は、到着(ゴール)ではなく出発点(スタート)であると言うことができるでしょう。つまり、「人が何かを、たとえば信仰的な確信を獲得したから、あるいはキリスト教信仰の理解において何らかの段階に到達したから洗礼を受けるのではない。むしろそこから信仰の生活が始まるのだ」ということです。

 キリスト者にとって洗礼を受けるということは、自分がどのような信仰を持ってこれからを生きていくのかを、自分自身だけでなく自分が属しようとするその教会の人々(共同体)に対して、明らかにする行為です。

 しかし、人間の確信、あるいは思いというものは、それがたとえ信仰的な確信であったとしても、自分で考えるほどには強くはないということも、また事実です。日々の生活の中で、また人生の折々に起こる様々な出来事の中で、信じたことが曖昧になったり、疑いを持ったりして揺らぐことがあります。人と人の関係の中で体験する不愉快な出来事が不信感を募らせ、やがては人を教会から離れさせたりすることも起こります。自分の気持ちや思いの確実さに洗礼の根拠をおくとするならば、人はその信仰が揺らぐことなく堅く確立したときにのみ、洗礼を受けることができるということになってしまいます。

 ですが、洗礼を受けた人の信仰に先立って、まず「神の言葉の解き明かし」と聖霊による祝福があるのです。その祝福と聖霊の降りは、なによりも神様がなさったこと、神様から一方的に与えられるものなのです。それを、私たちは、ただ謙虚に神様の前に立って受けるのです。洗礼は「悔い改めたこと」のしるしであると同時に、ここではまた、その人の謙虚さを表すものでもあります。それはイエス様の受洗物語においても同様です。

 神様の前での謙虚さ、それは今一度、過去から現在へと自分が歩んでいる道を、神様の光のもとに照らして、見つめなおし顧みることです。そうして、神様の赦しと恵み、祝福を受けとめるように待つその姿勢です。

 洗礼の条件とは、実は神様の前に身を低くして謙虚に立つこと、自分を飾らずに隠し立てせずにありのままの姿で、神様の赦しと助け、恵みを求めること、そこにあるといえるでしょう​。

 

 洗礼は、信仰者にとって、信仰による生き方の出発点、始まりです。まさにイエス様にとって、それが始まりであったように。

 この始まりとしての洗礼について、毎年繰り返し覚えることは、大切なことです。思いを新たにすることで、過去からの自分が歩んできた道を、もう一度神様の光のもとに照らして、顧みることができるからです。そしてイエス様の始まり、ヨルダン川の畔から始まる宣教の道に、その道を重ねて定めることができるからです。

 そのためにも大切なことは、神様の前に謙虚に立つことです。その姿を神様は認め祝福される。神様がイエス様にされたように。そして、もし私たちが、新しくされていくことを願い、やり直すことを求めていくなら、また、私たちが、神様が願っていることが何であるかに心を傾け、あるいは、私たちも苦しむ人たちとの側で共に立とうとして、その人たちの思いを聞き、慮り、声に耳を傾けるなら、私たちの上には、イエス様が受けたように、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適うものであるあなたはふさわしい」という祝福の言葉と聖霊とが働くのです。

 

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2023日 
​降誕節第2主日

「神様の善き力に

守られて」

 マタイによる福音書

 ​   2章 13~23節

 今、私たちは、イエス様の誕生を祝うクリスマスの季節のただ中にいます。クリスマス、それは、すべての人々にとって救いの始まりであり、喜びに満ちた知らせ・福音の物語です。そして、そのイメージは、例えばたくさんのロウソクの明かりに表されるような、あるいは街中の広場に立てられた大きなクリスマスツリーの飾りのような、明るく闇夜を照らす光と言うことができます。しかしながら、このクリスマスの物語、実は喜びや華やかな光だけを伝えている訳ではありません。光が輝くことで、かえって闇もまたその存在を色濃く現すように、イエス様の誕生がある人々には不安と怖れを与え、そのことが原因で、たくさんの命が奪われるという悲劇が起きたことを、聖書は記しているのです。その出来事が、今日の日課の物語の背景にはあるのです。

 イエス様が生まれたとき、ユダヤを支配していた領主ヘロデ・アンティパスは、「新しいユダヤの王が生まれる」という預言の言葉に、不安と怖れを覚えました。東の国からやって来た占星術の学者たちがその言葉を伝え、また祭司長や律法学者たちは、旧約聖書の預言書の中に、その予言が記されていることを教えたからでした。   

 ヘロデ・アンティパスは、自分の地位が奪われるのではないかと怯えました。そして、その不安が恐怖に変わったとき、彼は、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の新しく生れた赤ん坊たちを「一人残らず」殺すことを命じたのです。

 「一度権力を手にした者は、簡単にそれを手放さない」という言葉がありますが、地位や権力に固執する者にとっては、クリスマスの訪れ、救い主の誕生は、困惑と恐怖でしかなかったのです。もし、彼、ヘロデ・アンティパスが、従順に神様の預言の言葉を信じ、聞き従っていれば、誕生したイエス様は、彼自身にとっても、また救い主であったかもしれないのに、彼は怯えることで、反って力で自分の地位を守ろうとします。そうして多くの無実の赤ん坊の血を流すことになるのです。

 神様が計画された救いの出来事、それがクリスマスでした。そして、その救いは成就されることが旧約聖書には預言されていました。しかし、一方でヘロデ・アンティパス王のように、その神様の救いの計画を阻もうとする力も、そこにはあったのです。

 

 さて、一方、ベツレヘムにいたイエス様と両親たちですが、ヨセフのもとに天使が現れて、「エジプトに逃げよ」と教えます。ヨセフとマリア、そして生まれたばかりのイエス様は、エジプトへと避難します。彼らは、避難先のエジプトで、ヘロデ・アンティパスが死ぬまでの間、身を隠していたと、マタイ福音書には記されています。その後、ヘロデ・アンティパス王が死ぬと、彼らはユダヤに戻りますが、彼の後継者から追及されないよう、ガリラヤのナザレの町で生活を始めていくのです。

 このイエス様がエジプトに逃れる物語は、旧約聖書に登場するモーセの物語を思わせます。エジプト王の命令で、新しく生まれたユダヤ人の男の子は殺されることになっていたにもかかわらず、生まれたばかりのモーセは母親の機転によって、エジプトの王女に命を救われ、王宮で育てられます。そして、後にモーセは、ユダヤ人の指導者として、エジプト人に抑圧されていたユダヤ人たちを解放し、父祖の地カナンへと導いていくことになるのです。

 赤ん坊のモーセの命が救われた物語も、やはり神様が計画した救いの出来事、奴隷となっていたユダヤ人たちのエジプトからの脱出を成就するためのものでした。

 イエス様の命もまた、彼に与えられた一つの使命を果たすために守られていくのです。そして、その守られた命は、33年後に、多くの人々の命を救うために、十字架の上で差し出されることになります。人々に仕え、人々を救いへと導くために来られたイエス様は、その目的を果たすために、やはり人の手によって匿われ、その命を狙う権力者の手から守られていくのです。

 

 ところで、ここでひとつの大きな疑問があります。どうして神様は、多くの赤ん坊たちが殺されるのを黙って見ていたのか、ということです。そのことに対して聖書は沈黙しています。多くの命が奪われるのは許されることではありませんし、それはまた何らかの説明によって合理的に解釈されたり、理由を見つけて正当化されることでもありません。

 ただ、はっきりしていることがあります。それは、このような不条理な出来事、何の理由もなしに、不当に多くの人の命が奪われていくことは、過去においてだけでなく、今現在もまた繰り返されている悲劇だということです。ウクライナへのロシアによる軍事侵攻のように、「正義の名の下に行われる」戦争があります。シリアや南スーダンで起こっているような内戦があります。また、パレスチナで、イスラエル軍やユダヤ人入植者たちによって、パレスチナ人たちの追い出しや隔離が行われています。またミャンマーでは、軍事政権によって自由や人権の尊重を求める人々が弾圧されたりしています。世界の至る所で、少数民族が弾圧されています。人種や宗教、文化の違いを理由として、多くの人たちが差別され、ヘイト・クライム(憎悪犯罪)が起こっています。私たちは、その様子を報道写真やニュースなどで、日々目にしています。そして、そうした出来事に対して、神様はあたかも沈黙を守っているようにも思えるのです。

 しかし、そこで注意したいのは、人を傷つけ命を奪う悲劇を産みだしている責任は、神様にではなく、実に人間自身にあるということです。人間自身が、その手にした力を振るうことによって、人の命を損ない、また奪うというその現実を引き起こしているということです。

 聖書には、神様が人間の歴史の中で働かれることが記されていますが、同時に、その神様の意志を阻み、抵抗するこの世の力があることも語っています。ヘロデ・アンティパス王のように、常にそうした力は存在するのです。言葉や直接の暴力によるものであれ、経済の力であれ、人々を追い詰め、支配しようとするこの世の力があります。

 ただ、その暴力に抗い、その力を退けるためには、またその暴力を根絶するには、やはり人の力がどうしても必要なのです。人間が手にしている力、本来それは神様から与えられたものです。たとえば能力や技術など、使い方を誤れば人の命を奪ってしまうかもしれない力ですが、それらによってまた、人を癒し、慰め、再生させていくこともできるのです。人間自身が、与えられている力を正しく用い、現実に向き合い、変えていくように取り組まなければならないのです。

 私には、神様がベツレヘム周辺の赤ん坊たちが殺されるのを、「イエス様の命を守るために仕方のないこと」、「大事の前の小事」とばかりに沈黙しておられたのではないと思えるのです。神様もその出来事に苦悶し、嘆き、悲しみと痛みを覚えていた、と思います。旧約聖書の予言者エレミヤの言葉が、引用されているように。 

  (ラマは、エルサレムの北にある町で、ユダヤ人の父祖の一人であるヤコブの妻ラケルが葬られた場所とされています。エレミヤは、ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ばされ、多くの人々が捕らえられバビロニアへ連れていかれる悲劇を、墓の中のラケルが嘆き悲しんでいると、記しているのです。そして、福音書記者マタイは、このエレミヤの言葉を記すことで、ベツレヘム周辺での幼児虐殺を、神様ご自身が嘆き悲しんでいることを表しているのです。)

 神様は、殺された赤ん坊と、こどもを失った親たちの、その嘆きと悲しみを共に担われ、また憤られたかも知れません。しかし、このような現実を無くしていくのは、人間自身の力によらなければならないのです。それゆえ、神様は人の手を借りて、この世界に介入し続けるのです。たとえば、ヨセフの存在を通して、マリアとイエス様がエジプトに避難し、幼児の命が守られたように。

 

 ヨセフは、神様の言葉と導きに従って、マリアと幼子のイエス様を守って、エジプトへと逃れていきます。このヨセフの姿は、私たち自身に託された務めを現しています。大きなこの世の力、暴力の前で、それでも神様から託された「命」を守るという務め、使命を。大きな暴力であれ、小さな暴力であれ、その力から命は守られなければならない。その使命を果たそうとするヨセフがいます。ヨセフは避難生活をする間、いつも祈っていただろうと思うのです。「神様、妻のマリアとこどものイエスを守ってください。安心して暮らせる日がきますように」と。その平和な日常を願う祈りをもって、ヨセフは、託されたイエス様の命を守ろうとしていくのです。

 神様の計画を阻もうとする力、それは人の心から生まれているともいえます。地位や名誉への固執、力を持つことを羨み(権力への羨望)、力をもって他人を支配することに快感を覚える。あるいは他人を妬む気持ち。そうした思いが、時には怯えと不安を生じさせ、恐怖から今度は自分を守るために、他人を暴力で押さえつけたり、抹殺しようとする。だからこそ、そうした人の心を変える務めを、命を守る務めを、平和をもたらす務めを、私たち自身が神様から委ねられているのです。

 

 と同時に、私たちは、ヨセフと同じように務めを託されているだけでなく、私たち自身もまた、ちょうど幼子イエス様のように、神様によって、様々な守りを与えられてきていることを忘れてはなりません。

 私たちそれぞれの人生の岐路において、あるいは私たちそれぞれが困難に陥ったときに、ヨセフのように色々な仕方で手を差し出して、私たちを支え導いてくれている人たちが、実は私たちの周りにいたし、今もいるのではないかと思うのです。

 いつもは、一年の終わりに読む、ドイツの神学者であるディートリッヒ・ボンヘッファーが書いた詩のように、昨年も、私たち一人一人が、「主のよき力に、不思議にも、守られてき」ました。

 2022年、それぞれに様々な出来事があったことでしょう。しかし、そこには常に、人々を介して、神様の助けと守りが備えられていたと思います。そのことにまず、感謝したいと思うのです。

 人の命を脅かす力、神様の救いの計画を阻む力は、なおも強く働いています。しかし、私たちは「試みにあわせず、悪からお救いください」と祈ることが赦されています。そう祈りながら、さらに、神様の守りの内に、ヨセフがそうであったように、私たちに託された責任と務めを果たせますように、と求めていきたいのです。

 新しい一年も、私たちを脅かすこの世の力に抗い、神様のこの世界での働きが前進するように、「平和をもたらす器として、私を用いてください」と祈りたいのです。

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20221225日 
​主の降誕(クリスマス)主日

「神が人となり

 ヨハネによる福音書

 ​    1章 1~14節

 クリスマス、それは二千年前にパレスティナのユダヤ地方で、起こった出来事です。一人の赤ん坊が、それほど豊かではない職人の家に生まれたという出来事でした。それは表面的に見れば、ある意味どうというほどのこともない、極くありふれた出来事でした。

 イエスと名付けられたその子どもは、聖書によれば、聖霊(神様の力)によって母であるマリアの胎に宿り、ちょうど住民登録のために出かけていた旅先で、「月が満ちて」生まれ、飼い葉おけの藁の上に、布にくるまれて寝かされました。ベツレヘムという小さな村の片隅で、ひっそりと生まれた赤ん坊の誕生を祝ったのは、本来ならその子に縁もゆかりもなかった、近くに住んでいた羊飼いたちと、ユダヤを遠く離れた東の国(ペルシャ)から、星の光に導かれて「新しく生まれたユダヤの王」を探して旅をしていた占星術の学者たちでした。

 このクリスマスのすぐ後に、「新しく生まれたユダヤの王」という予言に怯えた、領主ヘロデ・アンティパスによるベツレヘム周辺での幼児虐殺という血なまぐさい事件が引き起こされましたが、それ以外は、当時の歴史の大きな流れの中では、何ら目立つところのない小さな出来事でした。

 しかし、今日の日課、ヨハネによる福音書1章1節~14節では、こう語られています。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 このクリスマスの出来事は、神様がイエスという人として、「肉となって、わたしたちの間に宿られ」、この世に生まれたということだと、聖書は語っているのです。人の歴史のただ中に、神様が直接介入し、人々に救いをもたらすために、力を振るわれた出来事だと聖書は証言するのです。

 歴史の中では名もない貧しい暮らしをしていた羊飼いや、「東の国から来た」占星術の学者たちのように、今の世界からの救いと新しい人生への希望に夢を託している人たちにとって、救い主(キリスト)イエス様の誕生は、大きな喜びであり、彼らに生きる力を与えてくれる出来事だと語るのです。

 その出来事を、今日、私たちもこの礼拝を通して、改めて確認し、追体験するのです。

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(…)その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 ここで福音書は闇と光の問題について触れています。闇とは、この場合、私たちが生きている世界を表しています。それは様々な問題を抱えており、人々が苦しんでいる状態を示しています。

 都会を離れた田舎や山の中は、ネオンサインの光はありませんから、そのため月の光や星空の輝きをはっきりと見ることができます。ある人は、冬の寒い夜に、郊外にある大学のキャンパスで、降り注ぐ獅子座流星群を見たことがあるそうです。私も静岡にいたとき、山の中で見上げた夜空の美しさに感動を覚えました。その経験は、闇を照らす光の存在を感じさせます。反対に光が一筋も差さない漆黒の闇の中にある時、ほんのわずかであっても光があると、闇の中にあるもの、または闇の下に隠されて広がっているものがぼんやりとでも姿を現します。

 それと同じように、イエス様の存在は、人間の世界の実態と問題を浮かび上がらせます。イエス様はこの闇の世界を照らすために来た、と聖書は記しているのです。

 暗闇の中に沈んでいる人々、「闇の中に座している民」、「塵芥の中に倒れている人々」が引き上げられ、解放されるためには、イエス様という光が人々を照らす必要があるのです。そのために、イエス様はこの地上に肉体を受けて人となったのです。

 人が、先の見通しも希望も見出せないとき、生きたいと思う気持ちを削がれてしまったとき、その状況に押しつぶされずに抗う力を与えるために、希望があることを示すために、イエス様は一人の人として誕生されたのです。

 

 クリスマスのもう一つのメッセージ、それは、この光であるイエス様を信頼して受け入れる人々を、神様は「神の子」とされるということです。

 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 救い主キリストを信じ受け入れる。それは、イエス様に希望を見いだし、信頼して、委ねて、後に従って、自分の人生を生きることです。そのとき人は神様の子となる約束のもとに置かれるのです。

 イエス様が洗礼を受けられたとき、「あなたはわたしの愛する子」という祝福を受けたことが他の福音書に記されていますが、「神の子とされる」とは、いわばイエス様を信じる人々を、神様が同じように、「あなたはわたしの愛する子。あなたは私の目に適ってよい。ふさわしい」と宣言されるということです。

 それは、神様による無償の愛と恵みによるものです。

 ある人が、「神様は、人を愛するがゆえに、人となられた」と書いています。ヨハネ福音書3章の16節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。 

 イエス・キリストが一人の人としてこの世界に生まれたことは、神様が「人を愛すること、大切に思うこと」を表す具体的なメッセージであるといえます。言い換えれば、イエス様の教え、奇跡や癒しのわざ、その生涯を通して、その十字架と復活の出来事を通して、神様は人々に「あなたを愛しているよ。大切に思っているよ。」と示されたということです。

 神様は、誕生したイエス様を通して私たちに、「この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを」与えられます。そして、神様はイエス様の誕生を通して、常に人々の上に臨み、人々と共に歩み、人々を慰め、励まし、育み、その人生の歩みを豊かにすることを約束されているのです。

 キリストの誕生を通して、すべての人を愛する神様の偉大さが映し出されます。そして、人々を導く神様の恵みと真理が明らかにされるのです。

 

 クリスマスとは、この世界に神の子が人となって姿を現し、その神の子の存在を通して、神様が、この世界にいるすべての人々に臨み、人々を苦しみから解放し、自由と平和をもたらすために介入した奇跡です。

 クリスマスとはまた、人々が、今一度自分自身を顧みて悔い改め、神様との約束に立ち返り、神様の正義と公正の実現に備えるための機会を与えてくれるものです。

 クリスマスを描いた様々な絵本や物語が表しているのは、人の心にある純粋さであり、自分自身を大切にする気持ち、そして他人を 思いやる心、愛の姿です。それはまた人生への喜びであり、明日を生きようとする希望です。そして、私たちは、クリスマスの出来事とその物語を通して、神様の大きな愛と慈しみに気付き、人が持つ優しさや温かさを思い起こします。一人一人が生まれながらに持っている尊厳を認め合い、支え合うこと、豊かさを分け合って、助け合って生きることを、喜びと感謝を持って、心から望みたいと思います。

 人を慰め、慈しみ、労わり、励まし、活き活きさせる神様の言葉。具体的なイエス様という肉体をとった神様の言葉。その神様の言葉が、かつて世界のただなかに生きておられ、そして、今もまた、生きて様々な形をとって働かれていること。そのことを、このクリスマスの出来事の中にしっかりと聴き取っていきたいし、読み取っていきたいと思うのです。

 私たち一同の上にクリスマスの祝福が豊かに在りますように。

20221218日 
​待降節第4主日

「神はあなたと

共にいます」

 マタイによる福音書

 ​    1章 18~25節

 クリスマスを描く場面に必ず登場する「聖家族」像。母マリアと布にくるまれ飼い葉おけの中に寝かされた幼子イエス、そしてその二人を守るように寄り添うヨセフ。それは温かで穏やかな家族の象徴であるかのようです。しかしながら、聖書が伝えるクリスマスの物語は、ある一組の男女が、突然自分たちを襲った、とんでもない出来事を前にして、ある重大な責任を伴う決断をしたというお話でもあります。

 ナザレという村に住む大工であったヨセフは、マリアという少女と婚約していました。(当時ユダヤでは女性が結婚するのが、14~5歳ぐらいだったそうです。) が、その婚約者のマリアが結婚を前にして、「聖霊によって」妊娠をしたということをヨセフは知ります。マリア自身がそのことを告げたのかもしれませんが、自分には身に覚えのないことであるだけに、ヨセフがひどく驚いたであろうことは、想像できます。

 「聖霊によって」こどもを身籠ったというが、そんなことがあるだろうか。それは信じがたい。ひょっとしたら、マリアが誰かから乱暴されたのか、それとも自分を裏切ってほかの男と関係したのだろうか。だとしたら、それは律法に違反することで、しかも姦淫の罪に該当する。マリアの言い分を受け入れようにも、マリアを疑う気持ちがわいてきて、裏切られたのでは、という思いに捕らわれる。マリアを、彼女をこんなに愛しているのに、今は絶望しか感じられない。怒りと悲しみに支配されるようで、ヨセフは混乱したでしょう。ただ、彼は激情に捕らわれて結論を出すことはありませんでした。努めて冷静に考え、突然身に降りかかった事態を収拾しようとします。

 彼は、マリアを「ひそかに」離縁しようと考えます。マリアの結婚によらない妊娠を公にして離縁すれば、マリアは下手をすれば姦淫の罪で死刑になりかねない。彼は、マリアを愛していたのでしょう。彼は、「マリアを晒し者にしたくなかったので」、二人の証人に立ち会ってもらい、離縁状と手切れ金を与えるやり方で、密かに事を進めようと「決心」しました。

 聖書には、「彼は正しい人であった」と書かれていますが、それはヨセフが律法に忠実で宗教的に厳格であったというよりも、むしろ実直で誠実で、思いやりのある人であったと理解していいのかもしれません。「正しい」、つまり神様からみて「善い」とされるような生き方をしている人、ヨセフ。であればあるほど、自分の一旦は下した決断に葛藤を覚えた、としても不思議ではありません。マリアへの思いと、人情からいえば「密かに」離縁した方がマリアにとっても良いのではないか、今選ぶ中ではまだましな決定ではないか、そう思いながらも、本当にそれが「正しい」選択なのか、神様の前で本当に「正しい」、神様の示す道に「ふさわしい」生き方なのか。彼の心の動きが見てとれるようです。

 その悶々とした葛藤を抱え、おそらくは眠れない夜を過ごしていたヨセフに神様の使いが現れるのです。

 

 ヨセフは夢を見ます。夢の中で神様の使いが彼にこう告げます。  

 「ダビデの子、ヨセフよ。お前の(婚約者)妻マリアを受け入れることを恐れるな。なぜなら、彼女の妊娠は、聖霊によるものだからだ。彼女は男の子を生むであろう。お前はその子をイエスと名づけるだろう。なぜなら、彼こそが、彼の民をそのもろもろの罪から救うからである」。そして、こうも続けます。それらは預言者を通して明らかにされている。「見よ、乙女が身重になって男の子を生むであろう。そして、人々はその名を『インマヌエル』と呼ぶであろう。この名は『神、われらと共に』という意味である」、と。

 目を覚ましたヨセフがどのようにその夢を理解し、また考えたのかは物語の中には記されていません。ただ、彼はそれまで彼が考えていたことを覆して、マリアを妻として迎え入れます。彼女が身籠ったこどもと共に。

 私たちに推測できるのは、ヨセフは、マリアの妊娠がわかった時点から、何が神様の求める「正しさ」なのか、その問いに真剣に向き合っていたということです。そして、ひょっとすると彼の中ではすでに答えが出ていたのかもしれません。「胎児と共に、マリアを離縁することは、正しい答えではない。マリアは一人でこどもを育てられないだろう。こどもの命が失われてしまうことは、神様の前に正しいことではない」と。しかし、心の奥底では選ぶべき道は見えているのに、なかなか踏ん切りがつかない。

 いくら隠したところで、婚礼前のマリアの妊娠はわかることです。もしも、自分がマリアと約束通り結婚したとしても、周りの人間はなんていうだろうか、親戚はどう思うだろうか、受け入れてくれるだろうか、それともつらく当たられるのじゃないだろうか。自分が何と言われてもいいけれども、マリアがつらい思いをしないだろうか。いや、それ以上に心配なことは、自分はその生まれてくるこどもを、自分のこどもとして受け入れて育てられるだろうか。そのこどもの父親になることはできるだろうか。  

 マリアと結婚することで負うリスクを考えれば、たとえ「神様の前での正しい選択」を思いついていたとしても、ヨセフが躊躇を覚え、葛藤したことは理解できます。彼は助言してくれる人を必要としていたのかも知れません。「お前の決断、マリアを離縁しないで結婚するという決断は正しい」という助言をしてくれる誰かを。

 ヨセフの夢に現れた神様のみ使いの言葉が、そのヨセフの決断を後押しした、と言えるかもしれません。

 

 夢に出てきたみ使いがヨセフの決断を後押ししたキーワード、それは「インマヌエル」、「神われらと共に」ではなかったか、そう思います。

 彼は「神様が私たちと共にいてくださる」という言葉を、何よりも自分に向けられた言葉として受け止めます。そして、おそらくはマリアとの結婚によって彼が選びとっていくことになる、より困難な道を、神様が承認し、神様が共に歩んでくださるのだ、と信じていくのです。だからこそ、彼は、周囲からの非難や好奇な視線が予測されるのにもかかわらず、自分の体面よりも、心の奥底にある良心に従って、「恐れずに」マリアを妻として迎えていく決意をするのです。マリアの胎内に宿っているこどもが「聖霊による」のだということを信じて、その「救い主」であるこどもの命を守り、その子を自分の子として受け入れ、育てていくという、神様から託された責任に応えようとしていくのです。

 さらに、何より注目したいのは、ヨセフが「インマヌエル」すなわち「神、われらと共に」、「神様が私たちと共にいてくださる」と信じることで、「わたしもまた神様と一緒に歩む」という人生を選び取っていったということです。「わたしもまた神様の傍を離れません」と主体的に一歩歩み出していったということなのです。それがヨセフの決断の背後に示されているように思うのです。

 

 クリスマスの物語にしか姿を現さない、イエス様の養い親であるヨセフは、実は、一連のクリスマス物語の中で、大変に重要な役割を担っていたのです。それは、年若い母マリアと生まれた赤ん坊のイエス様の命を守るというものでした。出産を間近に控えての住民登録のための長旅と、旅先での出産。イエス様の命を狙うヘロデ王の追手から逃れるためのエジプトへの避難の旅。おそらくヨセフがいなければ、「この世の力」の前に、赤ん坊イエス様の命はなかったかもしれません。そして、ナザレに戻ってからは、文字通りイエス様と母親のマリア、イエス様の兄弟たちを養っていきます。イエス様は彼ヨセフのもとで、やはり大工としての修業を積んで、家族を養い、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける三十歳のその時まで、ナザレで暮らすのです。

 聖霊によって身籠ったマリアを、受け入れ、娶るというヨセフの決断は、この世に現れた「救い主」を守り育てる、その大きな役割を引き受けていく第一歩でした。

 「神様は私 \ あなたと共にいる。」

 私たちもまた、それぞれの人生の岐路で、責任を伴う決断を迫られることがあります。確かに、私たち人間のする一つ一つの決断は、錯誤に満ちたものかもしれません。しかし、だとすればなおさら、その決断に際して、私たちもまたヨセフのように、率直に自分の心と向き合いながら、しかし自分の損得だけを考えるのではなく、神様の求める「正しさ」が何であるのかを聞いていくことが必要なのだと思います。悩みながらも祈り求め、神様の価値観、イエス様が具体的に示してくれた生き方を手掛かりにしながら、自分が何を選び取るべきか判断していくとき、その決断の一つ一つを、神様は祝福し、その決断をする一人一人と「共にいてくださる」のです。そして、その神様への信頼の上でなされた決断こそが、「私もまた神様と共にいます。あなたの傍にいます」という、神様への応答にもなるのです。そのような信仰による決断に私たちも生きて行きたいものです。

 そして、もうひとつ忘れてならないことがあります。それは、なによりも神様ご自身が、ヨハネがマリアと生まれてくるこどもを守ると決断した、その愛と同じ愛を持って、私たち人類を見捨てることなく、私たちのために、大切な独り子をこの世に送ってくださったということに他なりません。アドベント・クランツの4本目のろうそくは、「神の愛」を表します。ヨセフが、マリアと生まれてくる幼子のためにした決断。そこには神様の愛がどのようなものかがあらわされているのです。

2020年8月30 日(聖霊降臨後第13主日)

「キリストに倣う」 

 マタイによる福音書

 ​16章21節~28節

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 中村哲という日本人医師が、活動していたアフガニスタンで何者かに襲われ、命を落としてから、すでに九ヶ月が経ちました。

 中村さんは、著書「医者、用水路を拓く」にも書いておられますが、医療活動を行うだけでなく、水源を確保する事業を進めていました。

 中村さんは、1978年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によって発生した、多くのアフガン人難民を救援するため、1984年にパキスタンで医療活動を始めます。そして、数年後にはパキスタン北西部の山岳地帯やソ連軍撤退後のアフガニスタン東部で、診療所を開設していきます。

 そうした活動を続ける中で、彼は、人々の栄養状態や衛生環境が改善されていかないと、人々を病気から救う抜本的な対策にはならないことを痛感していきます。

 特にアフガニスタンでは、内戦と長期間に及ぶ旱魃の影響から、本来の穀倉地帯でも大地が干上がり荒れ果てていました。さらに水不足から赤痢やコレラが急増し、全土で多くの国民、農民たちが難民化している状況がありました。

 そこで中村さんは、医療活動に併せて、水源確保のための事業を始めます。中村さんは地元の協力を得て、飲料用や灌漑用の井戸を掘り、伝統的な地下水路を再生していきます。また、約25キロの用水路を建設し、砂漠を農場に変えていきます。干上がっていた荒れ地と砂漠であった場所は、オリーブやナツメヤシの茂る農地や麦畑に変わりました。また畜産業やサトウキビの栽培、黒砂糖の生産も始まるのです。

 ただ、こうした活動は、死の危険と隣り合わせでした。武装勢力に襲撃される危険が常にあったのです。2008年には、中村さんと一緒に活動していた日本人が一人、身代金目的で武装勢力に誘拐され、救出に向かった警察との銃撃戦の最中に殺害されています。中村さん自身もそのことは、十分承知していました。周囲の日本人からも、「危ないから」といつも声をかけられていたようです。

 しかし、彼は、ここでは先ず何よりも食べること、食料を得ることが回復されなければならないこと、自ら働いて、食料を作り、安心して十分に食べることができるようにしていくことが、病気を治すだけにとどまらず、病気の原因を減らす抜本的な取り組みであること、また、人々が安心して農業を続けることができれば、貧困にも陥らず、戦争を起こすこともなくなり、結果として平和をもたらすこともできると考え、一連の事業を続けていきます。

 しかし、昨年12月4日に襲撃され殺されてしまいました。誰が行ったのか、なぜ殺されたのかは未だ判っていません。

 キリスト者であった中村さんは、ある意味では、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業を、大勢のアフガン難民の命を救う働き、「自分の十字架」と意識していたのではないかと思います。それこそ、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」、イエス様に従ったのではないでしょうか。

 困難の中にあって、「飼う者のいない羊のようなありさま」のたくさんの人々を救う、イエス様の生き方を自分の生き方にしていく姿が、そこにはありした。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 この言葉は、イエス様が、弟子たちに自分の受難、つまり十字架による処刑と、その後の復活の出来事を打ち明けた後に、重ねてペテロと弟子たちに向かって語ったものです。

 イエス様の受難と復活についての発言は、ペテロを困惑させました。彼は、強い調子でイエス様を諌め始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 

 しかし、イエス様は、ペテロを叱りつけられます。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と。簡単に言えば、「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」ということでしょうか。

 ただ、イエス様がペテロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の旅の目的とその意味を、理解していないことを示しているといえます。イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を、判っていないことを表しています。

 イエス様の受難と復活の予告は、ある意味、冷静に自分の語る言葉や行動を見据えた発言です。

 イエス様は、宣教の旅の行く先々で、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけます。病や日常の生活に苦しんでいる多くの人たち。その人たちを救うためのイエス様のわざや教え。そこで示されるイエス様の価値観、それは、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の価値観とは大きく違っていました。

 それは、例えば、「世間」が低く評価する境遇にいる人々、貧しい人、飢えている人、苦しんでいる人、病気や障害を負っている人たちこそが、神様の救いに真っ先に与れるというものでした。差別されたり、疎んじられている「取税人」や「遊女」たちが、神の国に入れるというものでした。神様の救いは、イエス様の癒しのわざを通して、それらの人々の上に現れるというものでした。

 あるいは、宗教的な制度が人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は変えられなければならない、と語るものでした。

 だからこそ、イエス様の語る教えは、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものだったわけです。それゆえにイエス様は「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」ことになるのです。

 人々を病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するために、神様の愛と、神の国の希望、すなわち福音を語り、具体的な行いをもって指し示すこと。それが、イエス様の使命です。しかし、人を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていく福音を伝える使命が、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、イエス様ははっきり理解しているのです。

 イエス様がエルサレムに行こうとしたのは、そこでもイエス様の救いの業と教えとを必要としている人々、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々がいたからだと思うのです。それを邪魔してはいけないと、イエス様は言われたのです。

 イエス様に従う者は、どのように生きるべきなのか、それが今日の日課の主題です。

 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、今までの自分の生き方を否定して、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことといえます。

 イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、自分の人生の道標として生きていくことです。

 具体的には、神様の正義と公正が地上で実現することを求めることです。貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに想いを寄せ、寄り添い、彼らが今の境遇から救われること、解放されることを共に望み、目指すことです。そのために彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決する方法を探ることです。

 ただ、そのような生き方を、信念を持って貫こうとすれば、様々な抵抗にあうこともあります。とりわけ、貧しい人々や弱い立場にいる人々を搾取し、それによって利益を得ている人々、自分さえよければかまわないと考える人々からは、きっと疎まれるに違いありません。

 しかし、イエス様は私たちに「わたしに従いなさい」と語ると同時に、一つ約束されています。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」

 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。

 その福音の実現のために、人生をかけるなら、その人は永遠の命を受けるとされるのです。たとえ、「この世」の力が圧倒的であったとしても、イエス様の言葉とわざに従い、福音の実現のために力を尽くし、なすべき課題を行おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取る。そうイエス様は約束されるのです。

 

 冒頭でお話しした中村哲医師は、「誰もやらない活動なら、俺がやる」といって、パキスタンとアフガニスタンでの活動を続けられたと聞きます。

 現地の言葉を話し、土地の文化と伝統を尊重して、目の前に現れる課題を、現地の農民と共に汗を流して解決していく中村さんのその姿に、現地の人が感謝をし、深く信頼を寄せたといいます。村人の要請を受けて、モスクと学校を建設もしています。キリスト者がなぜ、モスクを建設したのか問われて、それは現地の人たちの誇りを取り戻すことでもあったと、中村さんは語っています。村の人たちは、外国の文化が押し寄せる中で、自分たちの文化はだめなのか、劣っているのかと劣等感を持っていたそうです。でもモスクが建設されたことで、彼らは誇りを取り戻すことが出来たそうです。

 水源の確保も、荒れ果てた大地を回復し、農民のいのちと生活を回復していくわざであったと言えます。それは、人々に勇気を与え、生きる力を回復する、福音の実現といえるのではないでしょうか。

 不幸にして中村さんは、事業半ばにして凶弾に倒れましたが、彼の仕事は、彼の後援会であったペシャワール会が引き継いでいくそうです。

 誰もが中村医師のようには働けるわけではありませんが、しかしその姿勢に倣うことはできます。たとえ困難を前にしたとしても、イエス様を信じる者として、一緒に生きている人たちと、ともに祈り、重荷を担い合って、福音の実現のために、目の前の様々な課題を引き受けて、乗り越えていきたいと思います。

2020年8月2日 平和主日

 「平和の基」 

 ヨハネによる福音書

 ​15章9節~12節

 イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。

 ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。

 その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。

 イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。

 イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 

 それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。

 

 イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。

 「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。

 しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。

 もちろん、注意しなければならないことはあります。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。

 最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。

 と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。

 「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。

 「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。

 

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。

 

 私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。

 それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。

 なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。

 日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。

 昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。

 そこでは、次のような祈りがささげられました。

 「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」

 「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」

 「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」

 「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」

 「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」

 「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」

 「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」

 「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」

 

 「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。

 平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。

 人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。

 「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン

2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)

 「天の国の実現」 

 マタイによる福音書

 ​13章31節~33節

   +44節~50節

 イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。

 私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。

 イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。

 

 先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。

 からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。

 讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。

 「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」

 球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。

 からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。

 

 次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。

 パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。

 パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。

 「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。

 また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。

 

 「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。

 もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。

 そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。

 もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。

 44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。

 二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。 

 つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。

 イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。

 現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。

 しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。

 

 「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。

 日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。

 「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。

 2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)

「生き直すということ」 

 マタイによる福音書

 ​11章28節~30節

 人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。

 競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。 

 行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。

 生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。

 

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。

 軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。

 ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。

 つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。

 ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。

 「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。

 

 旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。

 ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。

 イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。

 本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。

 イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。

 と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。

 

 「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。

 それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。

 それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。

 またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。

 

 イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。

 この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。

 生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。

 だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。

 だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。

2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)

 「あなたが花束」 

 マタイによる福音書

 ​10章40節~42節

 「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。

 歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。

 「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。

 それは、その相手を励ましたいからです。

 「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。

 歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。

 歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。

 「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。

 「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。

 その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。

 歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。

 そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。

 「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。

 この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。

 いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。

 自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。

 そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。

 「あなたが花束」になっていくのです。

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。

 今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。

 ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。

 そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

 「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。

 弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。

 

 二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。

 使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。

 福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。

 もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。

 たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。

 生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。

 

 弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。

 教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。

 それが、弟子の使命です。

 どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。

 2020年1月26

「天の国は近づいた」 

 マタイによる福音書4章12~18

 

 韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。

 

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

共に平和をつくり 共に生きる その町で

平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら

貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で

平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で

私たちの労働が お祭りになる その日に向かって

共に生きる町 小さくても 美しい町

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

教えてください 教えてください 共に生きる町を

  詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。

 その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。

 この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。

 一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。

 と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。

 この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。

 八〇年代​、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。

 このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。

「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。

 明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。

 勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの

かもしれません。

 いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。

 「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」

 イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。

 ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。

 具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。

 不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。

 それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。

 悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。

 この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。

 私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。

 大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。

 それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。

 それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。

 確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。

 「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。

 「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。

 「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います

 

(2020年1月26日)

 

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