

日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2025年10月19日
聖霊降臨後第19主日
「落ち込まないで、
諦めないで」
ルカによる福音書
18章1節 ~8節
「心が折れる」という表現があります。
人が、解決しなければならない課題を抱えていたとします。その課題・問題を解決しようと何度も挑戦する。でも行く手を阻む何らかの壁にぶつかっては、その度にまた一からやり直さなければならない。そんな状況を重ねているうちに、それまで自分を支えていた何かが耐えられなくなって、心の踏ん張りがきかなくなってしまう。あるいは、人が、慢性的にストレスをずっと感じていて、何かの拍子にそれまで知らず知らず溜めていた我慢が限界に達してしまった時、緊張の糸が「プツン」と切れたように感じて、力が抜けてしまう。こうした現象を「心が折れる」と云うのです。それは一時的にそうなる場合もありますが、それこそ、人によっては、生きる「意味」を見失ったり、生きる力そのものを失って、すべてを諦めてしまうことも起こったりもします。
今日の日課の「譬え」話で、イエス様は、こうした「心が折れそうになるような」状況を前にしたとき、私たちはどうすればいいのかを語っています。
イエス様が弟子たちに向かって語った一つの譬えは、次のようなものでした。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わないような裁判官(律法学者、ラビ)がいた。その彼のもとを一人のやもめが裁判をしてもらおうと訪れた。その裁判官は、やもめの訴えを最初は取り合おうともしなかったが、やもめは、めげずに『自分を守ってくれ』と訴え続けた。ある時、とうとうその裁判官は、根負けしてこう云った。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』(それで彼は裁判をやもめに有利になるように取り計らってやることにした。)」
本来、律法に基づいた裁判は、「神を畏れ」、人を尊重する律法学者(ラビ)によって、「神の正義と公正」を旨として行われるべきものであるはずです。しかし、譬えに登場する律法学者は、不遜で尊大で横柄で、およそ「神の正義」に基づいた公正な裁判などとは無縁な存在です。
一方の「一人のやもめ」は、社会的に立場の弱い存在であり、有力な保護者を後ろ盾として持っていない場合には、自分の立場を守るためには、どうしても律法に基づく「正式な」裁判を行ってもらわなければなりません。だからこそ、彼女は「しつように」裁判官に訴え続けるわけです。たとえその裁判官が、人格的に問題があって期待できない相手であったとしても、その裁判官しかいないのですから。
この譬えは、先ず、そうした力のない弱い存在であったとしても、「しつよう」に喰い下がることで、相手を動かすことができることを教えています。それはまた、自分は年をとっているから、あるいは社会的には力もないから、仕方がないとあきらめて泣き寝入りしないで、具体的に声を上げることをも教えています。そして、たとえ相手の動機が、「うるさくてかなわない」というように、ただただ自己中心的なものであったとしても、自分が臨む目的を達成するためには、やもめのように「気を落とさずに絶えず」祈り求めることが勧められているのです。
ところで、このときイエス様は、弟子たちに具体的には何を祈れと教えていたのでしょうか。
今日の日課の前の章で、イエス様はファリサイ派の人々から「神の国はどこにあるのか」と問われていますし、弟子たちからも「神の国はいつどこで実現するのか」と尋ねられています。つまり、この一人のやもめの譬え話は、文脈から云えば、直接には神の国が実現する、到来するのを願い求めることと、深いつながりを持っているお話なのです。
イエス様は、神の国の実現を福音として人々に語りました。
神様がこの地上も支配する日が来る。その日には、神様が正義と公平とを持って、この地上を治められる。不正はなくなり、飢えや貧しさから人々は解放される。わたし(イエス)が来たことはその始まりであり、実現しつつある徴だ。「神の国はあなたがたのただ中にある」のだ。
一方で、イエス様は遠くない将来に自分に降りかかる一連の事態を予測しています。エルサレムに行けば、自分は間違いなく逮捕され、十字架刑によって処刑され殺されてしまう、と。
だからおそらく、イエス様はその「自分の刑死」の後で、弟子たちが信仰を失くしてしまうこと、生きる力を失くし、またその目的を見失ってしまうことを心配されたとも考えられます。
神の国の到来がいつになるかは、明らかにはされていない。ただ、その時が来たらおのずとわかる。だからこそ、あなたがたは神の国の実現を求めること、そのために備えることをやめてはならない。ここで、神の国の実現を祈り求める相手は、もちろん神様です。が、同時に、その実現に備えるためには、神の国の実現を阻んでいる者たち―例えば尊大で不遜な裁判官のような存在―への具体的で直接の働きかけ、行動が必要だということです。場合によっては、しつこく、粘り強く、したたかに、しなやかに、求め続けねばならないと云うことなのです。
イエス様はこのやもめの譬えを用いることで、弟子たちにそう伝えようとしたのではないでしょうか。
では、あらためて、このイエス様の譬え話は、今の私たちにとって、どんな意味を持つのでしょうか。
「気を落とさずに絶えず祈りなさい。」「神様は、あなたがたの呼びかける祈りの声を必ず聴かれるのだから。」
神の国の到来を願う祈りと同じように、私たちが日々の生活の中で神様に向けて祈る祈りがあります。神様を賛美して、感謝の思いを伝えようとする祈りがあります。「ささやかであっても幸せに毎日を過ごしたい。」「心が平安で満たされていたい。」という願いがあります。あるいは「今、直面している困難な状況から、救ってください。」「病が癒されますように。」「必要な助けが与えられますように。」という切実な祈りがあります。
だから、私たちは祈ります。神様を、イエス様を信頼して、心を込めて、願いを込めて、ある時は声に出さずに静かに心の内で、またある時は、思いを言葉に出して、私たちは祈ります。時として、言葉にならない「呻きのような」思いを呟くように、祈ることもあります。
しかし、その一方で、祈っても祈っても、自分が望むようには事態が一向に進展しないように感じるときもあります。状況によっては、物事が変化しないばかりか、余計に事態が悪くなって行くことも、私たちは経験します。そんなとき、私たちの心の内に、囁くように湧き上がって来る問いがあります。「果たして祈りは聞かれるのか」、「本当に祈りは聞かれるのだろうか」と。そして、「心が折れそうに」感じることがあるのです。そして、祈ることそのものを諦めてしまうことも起こりかねないのです。
「人の子、再臨のキリストがやって来るとき、はたして地上に信仰を持って歩みを起こす人々を見出すことができるだろうか。」というイエス様の言葉は、人が「心折れて」、失望してしまい、祈ること、望むことをやめてしまうこと、信仰すら失くしてしまうことへの心配を表していると云えるでしょう。
「心が折れそうになる」「挫折」の経験は、たぶん大なり小なり、そして年齢にかかわりなく(幼い時は幼いなりに、年を重ねれば重ねたで)、誰しもが(私たちもまた)持っているのではないでしょうか。ただ同時に、そんな経験を通して、そしてその度ごとに、私たちは、「折れた心を」支え、また癒す言葉やわざに触れても来たのではないでしょうか。自ら祈ることができない状況にあったときも、誰かが自分のために執り成して、祈ってくれたのではないでしょうか。一緒にそばにいてくれたのではないでしょうか。
ハンバートハンバートというデュオ・グループが歌う「笑ったり転んだり」という曲があります。(現在NHKで放映されている、朝ドラの主題歌です。)その歌詞の一節にこうあります。
「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃだめだと怒ったり/これでもいいかと思ったり」「日に日に世界が悪くなる/気のせいかそうじゃない/そんなじゃだめだと焦ったり/生活しなきゃと座ったり」
気が滅入りそうな歌詞にも思えるのですが、ある意味、私たちの生活の実相を表しているようにも思います。「毎日」感じるのは、生活が「難儀な」ものであり、「日に日に」「世界が悪く」なっているような状況です。でもだからと云って深刻になってしまうわけでもなく、「怒ったり」「焦ったり」する一方で、「これでもいいかと思ったり」、「生活しなきゃ」と思い直して座るような、そんな日常が歌われています。で、この曲の最後はこう書いてあります。「落ち込まないで諦めないで╲君のとなり歩くから╲今夜も散歩しましょうか。」 「君の/私の隣を歩く」存在がいる。だから、「落ち込まないで諦めないで」ね。「今夜も散歩」する生活は、昨日も今日も続いているのだから。それは私たちの日常の一コマです。
祈ることを諦めてはなりません。
祈りは、その人の信仰そのものを表します。祈りによって、その人の生活全体が、何を目指していて、何を生き方の中心に据えて、営まれているのかが明らかになります。ある人は言います。「祈ることと正義を行うことは、信仰の証だ」と。
イエス様は、私/あなたに対して問うておられます。「あなたは、どこに立って、何をどう祈るのか」と。
イエス様は云います。「ましてや神様が昼も夜も自分に向かって叫び続ける『選ばれた者たち』の訴えを聞かないことがあるだろうか。速やかに神様は訴えを聞き届けてくださる。」 だから気を落とさずに絶えず祈らなければならないのだ、と。
「(神様によって)選ばれた者たち」。それは真っ先に救われなければならない人々、苦しみから解放されなければならない人々のことです。昼も夜も叫び求めている人々が、選ばれた人々です。現状に満足し、問題はないと見なす人々は後回しになるのです。今を変えようと望む者、希望を捨てずに諦めない人々、自分の人生を「運命」という名前で投げ出さないで、道が開けることを求める人々。それが、選ばれた人々です。
その声は聞かれる。そして、私たちの隣をイエス様が一緒に歩いておられる。だから「落ち込まないで諦めないで」、たゆまずに祈りたいのです。「まず神の国と神の義、正義の実現を求め」たいのです。
