

日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2026年6月14日
聖霊降臨後第3主日
「いやしの
わざとは」
マタイによる福音書
9章35節~
10章15節
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9章35~38節)
イエス様が、福音宣教のために、ガリラヤの町や村々を「残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」たとき、そこで、彼が目の当たりにしたのは、「弱り果て、打ちひしがれている」「群衆」でした。そしてそれは、あたかも「飼い主のいない羊」のような有様であった、と今日の福音書の日課には書かれています。
「飼い主のいない羊」、想像してみてください。その群れの羊たちは、餌になる草の生えた「青草の原」に休むこともできず、「憩いの水のほとり」に連れて行っても貰えない状態にいます。誰も彼らの健康状態を気にかけてもくれません。羊たちは、安心して休むこともできないまま、飢えと渇きが続く状態に放って置かれています。でも誰も彼らを顧みることはありません。イエス様が見たのは、そうした状態に置かれていた「群衆」であったのです。
その中には、農場で働く小作人たちや日雇い労働者たち、様々な仕事をしている職人たち、その家族がいたでしょう。あるいは、社会の周縁に追いやられた人たち、卑しいとされた職業の人たち、たとえば徴税人や遊女たちもいたでしょう。病気で苦しんでいたり、障がいを抱えて生活している人たちもいたはずです。そして、彼らの多くが、貧しく、日々の食べ物の心配をしなければいけない生活をしていたと思われます。
別な見方をするならば、「飼い主のいない羊」のような「群衆」とは、自分の行く先を見いだせず、助けを求めている人々とも云えます。生活に疲れ果て、先々への不安や心細さ、あるいは苦痛を抱え、訴えながらも、どうしたらその状態から脱出できるのか判らない人々の姿です。
その状態を見て、イエス様は深く憐れんだと、福音書には書かれています。深く憐れんだという言葉は、はらわた、内臓を意味する言葉といわれます。つまり、「彼らのことではらわたのちぎれる思いに駆られた」とも翻訳できるのです。ここで言う「憐れみ」とは、上から見下ろすような同情とは違います。はらわたの底から突き動かされるような衝撃を受けたということです。そうした思いをイエス様は持ったのです。その瞬間をイエス様は体験したのです。
「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
ここでイエス様は、十二人の弟子たちを集めると、「収穫」のために彼らを福音宣教に送り出していきました。ところで、イエス様が語る「収穫」とは何のことでしょうか。文脈からいえば、「神様の救い」、「福音」を必要とする人々は多い、ということでしょう。そして、それは具体的には、放って置かれた「飼い主のいない羊」の世話をすることであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」ことであるといえます。必要な助けを与え、疲れた人を慰め、労り、苦痛を取り除くことと云ってもいいかもしれません。あるいは、人々が生きる力を見い出していくために手を貸すことかもしれません。ただし、だからと云って、それは人々を困窮した状態から救い出すために、なにか大掛かりな企てを行うことではありませんでした。なぜなら、その働き、「福音宣教と癒しのわざ」のために遣わされた弟子たちは、ほぼ何も持たずに、また何の準備もなく、手ぶらの状態で送り出されたからです。彼らは、ただ、イエス様から、「汚れた霊に対する権能を」授けられただけでした。
このとき、弟子たちが何も持たずに手ぶらで派遣されたのは、ある意味、「収穫のため」の働きが、緊急を要していたからだ、とも云えます。神様の救いを必要とする人たちの状況を考えれば、イエス様の福音は、急いで伝えられねばなりません。そのためにも、弟子たちは、すぐにでも立ちあがって、町や村々に送りだされなければならなかったわけです。その緊急性からいえば、弟子たちの実力や自信のほど、資格や技術は二の次でしかなかったともいえます。
あるいは、こうも言えるかもしれません。イエス様が語る「収穫」とは、そこで「飼い主のいない羊」のような状態に置かれた人々の「思いを聴くこと」であったともいえます。人々の感じる苦痛や悩み、怒り、あるいは喜び、それを聴いて集めていくこと、それが収穫なのではないか、と思うのです。つまり、弟子たちがなすべきことは、人々の思いを携えてイエス様の前に差し出すことです。人々の思いを聴くことが、癒しを起こすし、癒しそのものであるといえるのです。
二〇一六年に熊本地震が起きたとき、私は宮崎の教会に赴任していました。二度の震度7の揺れに見舞われた熊本市と益城町の被害は大きなものでしたが、当時九州教区には、学生時代に阪神淡路大震災を経験していた牧師が何人かいたこともあって、すぐ救援活動が組織されました。このとき私も熊本まで車で、お米を運んだりしたのですが、その内の何度かは、震源地であった益城町に開設されていた避難所に行って、「カフェ・デ・モンク」の活動に参加をしました。
この「カフェ・デ・モンク(僧侶のカフェ)」とは、東日本大震災の時に、僧侶や牧師・神父などが集まって、被災者の話を傾聴するために「カフェ」を開いたことから始まった活動です。当時熊本市の大江教会にいた立野泰博牧師が中心メンバーの一人でしたが、避難所になっていた益城町のスポーツセンターの駐車場にテントを張り、また雨天の時は避難所のロビーの一角で、コーヒーや飲み物を提供して、とにかく来られた方の話を聴く、という活動をしていました。話される内容は千差万別でした。世間話から避難所での生活のこと、いろいろな悩みや愚痴も含めて、とにかく話を聴くことを大事にしていました。ときには、お身内で亡くなられた方のことを聞くこともあり、聴くことの緊張はありましたが、しんどい状況の中で、でも訪れた人がホッとできる場所を提供する機会になることを、参加していた「宗教者」たちは、心がけていたように思います。
阪神淡路大震災の時に、被災者の救護活動に携わっていた神戸大学病院の医師、安克昌さんは、著書「心の傷を癒すと云うこと」の中で、被災者の「心のケア」を、精神科医として「医療」の視点で考えすぎてはいけない、という反省を記しておられます。つまり、一般の被災者は、「患者」ではないし、「医療」とは違う方向から、「精神保健(メンタルヘルス)」を考えなくてはならない、と思ったそうです。災害直後には、踏み込んだ「医療的な」ケアを行うことよりも、被災者に話をさせることや絵を描かせること、慰問をすること、「心のケア」の講演をすることなどといった何かの試みが、実は「被災者を思いやる言葉がけ」になり、大切なことなのだというのです。
言ってみれば、熊本地震発生後の「カフェ・デ・モンク」の活動は、「聴く」という行為を通した、「被災者を思いやる言葉がけ」の一つであった、と思います。そして、それもまた、イエス様の語る「収穫」のための大切な働きの一つ、といえるのではないでしょうか。
今現代に、もしもイエス様がこの地上で生きていたとしたら、イエス様は、この場所で何を見て、何をおっしゃるでしょうか。何を私たち教会に命じられるでしょうか。おそらくイエス様は、やはり私たち教会に、こう命じられると思います。「『飼う者のない羊のような』人々の世話をしなさい」と。そして、「収穫は多い」と言われるでしょう。
今、助けを必要としている人たちは、大勢いるのです。生活に悩み、「自分の居場所」がなくて困っている人たち、自分の進むべき道が見えなくなってしまった人たち、自分の自信がなくなってしまって助けを求めている人たちがたくさんいるのです。
もちろん、私たちに出来ることは限られるかもしれません。貧困や飢餓をなくしたり、格差社会を是正するための効果的な処方箋が、私たちに与えられているわけではないからです。
しかし、私たちにもまた、十二弟子たちのように、力ある言葉が与えられていることを信じたいと思います。「平安があるように」と語ると人の上に主の平安がとどまり、主の聖霊が働くという、力ある言葉が与えられているのです。そして、私たちはまた、執り成して祈ることが許されています。助けを必要とする人たちの声を聴いて、その思いを受け止めて、その思いを重ねて、イエス様に祈ることができるのです。
それだけに、私たちは、イエス様が感じた憐れみ、「はらわたのちぎれるような思い」を理解したいと思います。そして先ず、その憐れみが、「私」自身に向けられていることを理解したいと思います。その上で、私たちは、今度は自分の身の回りで起きている出来事を、憐れみ、「はらわたのちぎれるような思いを持って」眺めたいと思うのです。イエス様の思いを共にしたいのです。そのとき、私たちは、自分自身がそうであったように、「飼う者のない羊のような」状態の人々を、そこここで見出すでしょう。だからこそ、私たちは、今ここで、出会っている相手の話を聴き取りたいと思うのです。(時には、私の話を信頼できる誰かに聴いて貰いながら)。私たちもまた、イエス様のために「収穫」を集めたいと思うのです。
イエス様の弟子たちの群れである教会は、託されています。イエス様から「あなたがたは神様のものである」というメッセージを、「飼う者のない羊のような」この社会、この世界に伝えることを。「救われるのはあなた方だ」という良き知らせを、福音を伝えることを。
「あなたがたは神様のものである。」
それは、かつて私たちにも向けられ、今も私たちに力強く臨み、働く、イエス様からのメッセージです。
「あなたがたは神様のものである。」
この言葉を、私たちも語るようにと、イエス様はその力を与えてくださっているのです。私たち自身が弟子であり、また「収穫の働き手」となれることを祈りましょう。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5章4~5節)

2026年6月7日
聖霊降臨後第2主日
「新しい
いのちに生きる」
マタイによる福音書
9章1~13節+
18~26節
今日の日課、マタイによる福音書9章9節~13節と18節~26節には、イエス様の三つのエピソードが記されています。
これらの三つのエピソードすべてに共通するのは、「穢れ」に関係するものです。この「穢れ」という考え方は、当時のユダヤ教における旧約聖書が定めていた規則・規範によるものでしたが、日課では、イエス様が、こうした「穢れ」についての規範、あるいは価値観や考え方を自ら打ち破って、人々を解放していきます。
最初のエピソードは、取税人のマタイを弟子として招いたお話です。収税所に座っていたマタイは、イエス様に「わたしに従いなさい」と声をかけられました。ところで、当時のユダヤ人社会では、収税人は、ローマ帝国やヘロデ王家のために直接税や通行税、間接税などを集めていましたが、取り立てが必ずしも公正ではなかったことや、「汚れた存在」と見なされた外国人と接触する機会があることから、その職業自体「汚れたもの」であり「罪人」と同じだと、考えられていました。
しかし、イエス様は、収税人への職業差別を生み出す「穢れた」職業という考え方を飛び越えて、マタイその人自身に呼びかけました。イエス様はマタイが、その収税所で働いている収税人であることをまるで問題にしていません。イエス様は先入観なしで、マタイに声をかけていったのです。「わたしに従って来なさい」と。おそらくマタイはそれまで、そのように声をかけられたことがなかったと思われます。それだけに、その呼びかけに感じて、マタイはイエス様を信頼し、応答したのです。イエス様について行ったのです。そして、その後、彼は自分の家で、イエス様や弟子たち、そして仲間たちである「収税人や罪人」(と見なされた人たち)と一緒に食事を摂ったのです。
さて、その様子を見たファリサイ派の人々は、(なぜか直接はイエス様に言わずに間接的に)弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちの先生は収税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難を始めました。イエス様は、この時は未だラビ(ユダヤ教の教師)の一人と見なされていましたから、イエス様が罪人とされている人々と交流することは、ファリサイ派にとっては許し難いこと、つまり律法の秩序の破壊であり、咎められるべきことだったのです。しかし、イエス様は、その非難に対して、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えたのです。
この最初のエピソードは、いわばマタイのような「収税人や罪人」(と見なされている)仲間たちの尊厳が、イエス様と、イエス様を信頼する者の間で回復されていった物語でもあるのです。
二番目と三番目のエピソードは、マタイの召命物語のしばらく後に起こった、出血の病を患っていた女性の癒やしの話と、ある指導者の死んだ娘が生き返ったという話です。
イエス様が、洗礼者ヨハネの弟子たちと断食についての問答をしていると、(ユダヤ教の)ある指導者がそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願いました。彼の必死さに、イエス様がその願いを聴いて、弟子たちと一緒に彼について行くと、その途中で、十二年間病気のために出血が続いている女が近寄って来て、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思い、後ろからイエス(様)の服の房に触れ」ました。それに気づいたイエス様が「振り向いて、彼女を見ながら」、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけ、「そのとき」、彼女の出血の病は癒されます。
十二年間も、出血(おそらく婦人科の病気)に苦しんでいた女性は、旧約聖書の(レビ記などの)規定によれば、やはり「穢れた」存在と見なされていました。つまり彼女は、十二年もの長い間、病気が一向に治らなかったことで、ユダヤ人社会から遠ざけられ、つらい思いをさせられていたということです。彼女が「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思って、イエス様の後ろから近づいて衣にそっと触れたのは、長年差別され、社会の周縁に追いやられていた経験から、人目をはばかっての、しかし思い余っての行為だったと言えます。イエス様は、この女性に対しても、「穢れ」という考え方を飛び越えて、彼女自身に向き合います。
おそらくは人ごみの中で、「衣の房に」誰かが触れたか触れないか判らないぐらいの、些細な出来事だったであろうに、イエス様は自分に触れたその女性に気づき、彼女に向かって、「娘よ、元気になりなさい」と言葉をかけたのです。その言葉は、「あなたは癒された」という言葉と、同じ意味です。イエス様は、彼女の「癒されたい」という切実な願いとイエス様への「信頼」、そして信じる心をもって行動を起こした、その姿に心動かされて、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。それは、イエス様が、彼女の願いと信頼の思いを、しっかりと受け止めたという宣言です。その彼女の信仰が、救いへの道を開いていったのです。そして、その時に起こったイエス様による癒しは、ただ病気そのものの症状を治しただけではなく、その病気によって引き起こされた社会的な差別を打ち破り、損なわれた人間の尊厳を回復すること、彼女にとっての、新しい人生の始まりを意味するものでした。
ユダヤ教の指導者の娘、すでに亡くなっていた娘の場合は、どうでしょうか。この場面でも、イエス様は「穢れ」に向き合うことになります。
イエス様たちが、指導者の家に到着すると、そこには、すでに亡くなった少女の弔いのために、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」が集まっていました。それを見たイエス様が、彼らに向かって、「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言うと、人々はイエス様を「嘲笑」います。「嘲笑う」人々の存在は、その弔いの席に集まった人々のうち、どのくらいの人たちが、娘を失くした両親の悲しみを分かち合っていたのかを表しているようです。ともかくイエス様は、その群衆を外に出して、家の中に入って、横たわっている少女の手を取ったのでした。
死者はもちろん「穢れた」存在とされていました。死者に触れることは、穢れを身に受けてしまうこととして、忌避されていましたし、穢れを(日常の生活から)遠ざけるために、死者はその日のうちに埋葬されなければなりませんでした。しかし、それでも少女の父親である指導者は、イエス様に「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と懇願したのです。イエス様は、父親である指導者の、その切実な願いの言葉に、イエス様に対する「信頼」と「信仰」を認め、その思いに応えて、周りの人々の「嘲笑」にもかかわらず、死者の手を取り、少女を蘇らせたのです。イエス様は、「穢れ」など問題にはしていません。イエス様は、人間の尊厳を損ない、蔑ろにする「浄めと穢れ」という考え方を、あえて無視されたのです。「すると、少女は起き上がった」。イエス様は、「穢れ」とされている死から、その少女のいのちを回復していったのです。
イエス様が語る神様の救いとは、一つには、社会の中で人間の定めた制度や慣習、仕組み、偏見や先入観によって常に生み出される「罪人」とされた人たちが、尊厳を回復すること、「塵や芥の中に倒れこんでいた人々を、再び立ちあがらせて、自由な人々の列に戻すこと」(詩篇113篇)です。そこではまた、そうした先入観や偏見に縛られたり、囚われて、自分から人と人をつなぐ絆を絶っている人たちも、その救いのわざの対象です。偏見を持つ側も、偏見で縛られていることに変わりはないからです。そのくびきを断ち切ることが、イエス様の福音、教えとわざなのです。
今日の旧約聖書の日課にある預言者ホセアの言葉は、そのことを表しています。「わたしが喜ぶのは/愛(憐れみ)であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」 (ホセア書6章6節) それは、犠牲を捧げることや、どれだけ戒律や戒めを守れているかが、神様の判断の基準ではないし、また神様の喜ぶことでもない。人に向き合うときに愛があるかどうか、心温かい憐れみがあるかどうかを神様は見ているし、求めているということです。神様の救いは、ただ神様の憐れみによるのだということです。
またイザヤ書には、こうも語られています。
「私の選ぶ断食とはこれではないか。/悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。/さらに飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」(58章6節~7節)
これらの言葉には、イエス様の使命の意味が示されています。
イエス様が語った、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」を解釈するなら、神様の前に正しく生きるということは、律法を適用して「(律法を守る)正しい人」と「(律法を知らず、守らない)正しくない人」を判断して分けてしまうことではなく、むしろ、世間から蔑まれ、困窮する人たち、「虐げられ」、「飢えて」「さまよい」、「裸の」人たちに、具体的な助けを与えることであり、それが神様の求める愛と憐れみ、慈しみとを現すことなのです。
日課にあるいずれのエピソードも、人が新しいいのちを与えられた、その瞬間を描いたものと云えます。徴税人マタイが、イエス様による招きに応えたことは、新しい人生のスタートでした。彼が、新しい価値観の中に生きることを選んだ瞬間でした。また、出血の病を患っていた女性にとっても、そして指導者と死んだ少女にとっても、イエス様の言葉とわざとは、それぞれにとっての人生の復活を意味するものだったと言えるでしょう。人と人を隔てる「浄めと穢れ」という価値観を取り除き、人が本来持っている尊厳を回復し、新しいいのちを生きることができるように、手助けをすること、あるいは共に人生を生き直すこと、それがイエス様の願う「復活」の出来事なのです。私たちも、その「復活」の出来事に与っています。「新しいいのち」を生きているのです。

2026年5月31日
三位一体主日
「いのちの神」
創世記
1章1節 ~2章4a節
マタイによる福音書
28章16節 ~20節
皆さんは、夜の雲ひとつない満天の星空を眺めたことがあるでしょうか。私は、山奥の人里を離れたキャンプ場で夜空を眺めた時、星々や月の明かりがどんなに明るいかを体験したことがあります。そして、そのとき私は、この広い空に改めて宇宙の無限大な広さを感じて、自然や環境というすべてが、神様の創造のわざであることを、強く意識しました。そして、何度となく空を見上げる度に、私はすべてのものを創られた神様を感じるのです。
今日の賛美唱、詩編の第8篇ではこう詠われています。
「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。/月も、星も、あなたが配置なさったもの。/そのあなたがみ心を留めてくださるとは/人間は何者なのでしょう。/人の子は何者なのでしょう。/あなたが顧みて下さるとは」。
この詩編8篇に示されているのは、天と地の創り主である神様の存在への畏怖の念と、その神様が人を顧みてくれることへの感謝です。「神にわずかに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足元に置かれました。/羊も牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」
詩人は、この創造された世界を保全し、世話をして、大切にするのを託されていることを、自覚してもいます。と同時に、それは言い換えれば、神様の存在の前での人間の不完全さ、脆さをも表しています。「わたしは一体何者なのでしょうか」と。自分を省みれば、その存在の小ささに驚かざるをえません。果たして神様から託されたことに応えていけるのだろうか。にもかかわらず神様は、その人間を、わたしを顧みてくださる。詩編の作者は、実にその創造者としての神様の存在に、深い畏怖の念を持ち、それを表現しているとも云えます。
今日は、三位一体主日です。それは、復活されて天に昇られたイエス様が、神様の「右の座に着かれたこと」、そして、そこから弟子たちに「聖霊を送った」ことを覚える主日です。
この三位一体の教え。それは、キリスト教の歴史では、二世紀頃から三世紀にかけて、創造主なる神様と神様の独り子イエス・キリスト、そして聖霊が本質において一つであるということを言い表すものとして唱えられ、キリスト教の正統な教えか異端かを見極める基準として議論され、四世紀から五世紀に数度の宗教会議を経て教理が確立していったものです。
因みに、私たちが礼拝の中で告白する<使徒信条>は、短い文言ではあるのですが、「父である神」「その独り子、主イエス・キリスト」、そして「聖霊」という三つの部分に分かれており、この三位一体の教理を端的に示しています。その内容は、私たちが信じている神様が、一体どのようなお方として、聖書の中に証言されているのかを明らかにしていると言えます。
さて、今日の日課、旧約聖書の創世記1章1節から2章4節の前半では、神様は、宇宙全体と地上における一切のものの創造主であることが描かれています。
先ず、神様は、「闇が深淵の面にある」ような混沌の中から、言葉によって、光と闇を分け、次に大空、天と海と大地を作られました。続いて神様は、「天の大空に」「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなる」太陽や月、星々を置きました。大地の上に植物を生えさせ、空の鳥、海の魚、大地の上で生きる生き物に命を与えました。そして、最後に、神様は「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させ」るために、自分自身に「かたどって人を創造され」たのです。特に人は、「命の息」、「神の霊」を鼻から吹き込まれたことによって創造されました。これらの造られたすべてのものは、「見よ、それは極めて良かった」と記してあるように、神様の目に適ったものでした。
この創造物語が示しているのは、神様の「霊」と言葉は、すべての被造物と人間のいのちの源であるということです。また神様は、言葉を通して、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たちに臨み、契約を結び、また彼らを助けました。彼らの子孫であるイスラエルの民に対しては、預言者を通して「語り」、人々に知恵を授け、預言の言葉によって希望を、夢を喚起しました。あるいは、神殿における主の栄光を満たすことで、イスラエルの民を導きましたし、また時には、枯れた骨にいのちを吹き込む幻を通して、外国人に捕らわれ、落胆した人々を励ましていきました。
言葉と「神の霊」を通して、人々に働きかけ、いのちを与え、育む神様の姿が、そこにあります。
このいのちの源である神様が、ナザレのイエスという一人の人間の姿をとって、人々を救うために、この地上で働かれた。それが、新約聖書の福音書に記されたメッセージです。
神様の霊、聖霊が少女マリアに降ることによって、イエスという一人の人間が誕生しました。彼は、ナザレ出身の大工として育ちますが、三十歳で洗礼を受け、聖霊によって祝福されました。そして、イエス様は、福音宣教のわざを行い、困窮し救いを求める人々の話を聴き、病の人を癒し、また慰め、励まし、人々の尊厳を取り戻させることで、神様の愛を示し、そしてその神様の愛を生きるように、人々を促していきました。人々は、イエス様の言葉とわざを通して、神様の愛に気づくことによって、いのちを豊かにされていくのです。そして、そのイエス様は、福音宣教のわざの終わりに、「苦しみを受け」、十字架に架けられて処刑され死なれました。しかし、彼は三日後に、死者の中から、聖霊の力によっていのちを与えられ復活したのです。
ところで、ヨハネによる福音書には、「わたしたちに御父をお示しください」という弟子たちに向かって、イエス様が「わたしを見た者は、父(なる神)を見たのだ」と語ったことが記されています。またイエス様はこうも語っています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」 これらのイエス様の言葉は、言い換えれば、イエス様と神様が実は一体であることを、語っています。つまり、福音書記者ヨハネは、イエス様との出会いが、弟子たちにとっては、また人々にとっては、神様そのものとの出会いであると証言するわけです。
言い換えるならば、新約聖書では、この地上で肉体を持って生きた人間であるイエス様が、神様の姿そのものであり、また、人を死に至らしめる罪を贖うために、十字架上で苦しみ痛みを負ったイエス様が、神様の愛を現す救い主・キリスト、神様の独り子であると、告白するのです。
そして、新約聖書が描くもう一つの神様の姿が、聖霊です。
イエス様は復活された後で、弟子たちの前に姿を現し、彼らに聖霊を吹きかけて、宣教のわざへと遣わしています。あるいは別な証言では、イエス様が天に挙げられたのちに、弟子たちは「高いところからの力」である聖霊の賜物を受けることによって、イエス様の福音を、自分たちの言葉とわざで宣べ伝えていくのです。そして聖霊は、あらゆる機会を通して、人に働きかけ、人を動かし、信仰を呼び起こし続けるのです。聖霊とは、ですから神様の愛の力ということもできます。今ここで働く神様の愛の力、人の命を生き生きと活かす聖霊の働きがあります。それを人生の折々に見出していくとき、人は神様と出会うのだと云えます。
教会の務めの一つは、ある意味、天地の創造主である神様が、イエス・キリストを通して、今ここにいて、今も聖霊を通して、ここで働いていることを証言することであると云えます。それは、神様の正義と公正とがこの地上に介入して実現しつつあることを証言することです。また神様が、来るべき苦難のとき、試練の時に備えさせるために、人々を励まし、力を与え、勇気を与え、癒し慰めていることを証言することです。
今日の福音書の日課、マタイ福音書28章には、「天と地のいっさいの権限がわたし(イエス)に委ねられた。だから、行ってすべての諸国民を弟子として、洗礼を施し、私の教えたことを守らせなさい。」というイエス様の言葉が記されています。教会は、この「キリストの宣教命令」とも呼ばれる委託のもとに、立てられているとも言えます。
そして、実際この言葉に促されるように、パウロは積極的に当時の地中海世界、ローマ帝国の領域に、福音宣教の旅を行っていきました。中世に入ると、司祭たちや修道士たちがヨーロッパ各地に出かけて行ってキリスト教を広めて行きました。そして、十五~六世紀の大航海時代には、キリスト教はアジアやアフリカ、アメリカなどへも広がっていきます。こうしたキリスト教の広がりの源には、この「キリストの宣教命令」があったわけです。
ただその一方で、このマタイ福音書に記された「キリストの宣教命令」が、ともすれば「上から目線」でキリスト教を教えたり、押しつけることとして理解されてしまったのも事実でした。実際には、植民地化を推し進めながら、文明化という名のもとにキリスト教への改宗を強制したり、キリスト教というよりもヨーロッパの価値観を一方的に押し付けることも起こりました。
自分が信じていることがたとえ真理であったとしても、それが押しつけられている価値観なら、それは他の人にとっては真理とは言えないでしょう。人にキリストの教えを伝え、弟子にすることは、人を精神的に屈服させたり、征服することで実現するものではありません。そこでは伝えられる福音の内容だけでなく、それを伝える者自身の姿勢そのものが問われているのです。福音を伝える者、語る者は、力で威圧したり脅したりしてはならないのです。たとえ語られる言葉とその内容が、聴く人の価値観を揺さぶり、方向転換を促す言葉であったとしても、語る者は謙虚であり、慎み深くあらねばならないのです。この「キリストの宣教命令」を前にして、私たちは歴史を顧みて、反省すべきは反省し、自分たちの言動を正していく必要があります。常に、何度でも。
冒頭の詩編第8篇が表しているような、神様への畏れ、怖れの気持ち。それは人が真剣に自分の人生と向き合うときにも、感じることができるように思います。私たちは、先ずその神様への畏れをしっかりと持つ必要があります。そして、神様から委ねられているすべてのいのちを愛し、慈しみ、育む責任を引き受けていくことが求められています。すべての被造物全体を顧みて、神様の愛を伝えていきたいと思います。
コリントの信徒への手紙二の13章11節以下には、こうあります。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

2026年5月24日
「聖霊ゆたかに
聖霊降臨祭
(ペンテコステ)
恵みをもたらす」
使徒言行録
2章1節 ~21節
今日は、聖霊降臨祭です。復活されたイエス様が天に昇られてから十日後に、弟子たちの上に聖霊が降った出来事を記念する日です。
さて、今日の福音書の日課には、弟子たちへの聖霊の付与、聖霊降臨に関して、使徒言行録にあるそれとは、やや異なった物語が記されています。
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ福音書20章21~23節)
ここでは、弟子たちに聖霊が与えられたのは、部屋に閉じ籠っていた弟子たちの前に、復活されたイエス様が姿を現わした「その時」でした。その記述によれば、弟子たちは、イエス様の福音宣教を引き継いでいくために、「罪の赦し」を宣言する「権能」を授けられています。それはかつて、彼ら弟子たちが方々の町や村へ派遣された時に、イエス様から授けられた、教えを宣べ伝え、癒しを行う「権能」以上の、決定的な力を授かったことを意味したのです。
一方で、使徒言行録に記された聖霊降臨の様子は、非常に不思議な体験、神秘的な体験として描かれています。弟子たちが聖霊に満たされた瞬間、彼らは「家中に響く天から吹いてくる激しい風の音」を聞き、一人一人の上にとどまる「炎のような舌」を一つの映像(ヴィジョン)として目にしています。それは一つの奇跡であり、そこに記されたようにしか表現しえないことでした。
吹き荒れる風の音は、神様の息を表しているとも言えます。旧約聖書の創世記に記された「天地創造」の物語では、土の塵で形作られた人の鼻に、神様は息を吹き込み、人(アダム)にいのちを与えたとされています。風の音は、いのちをもたらす神の息の音です。
「炎のような舌」は、洗礼者ヨハネが予言した、イエス様による火と聖霊の洗礼の成就を告げています。そして、舌とは、そのとき、聖霊が言葉の賜物として現れ、与えられたことを示しています。弟子たちは、元々漁師や農民、あるいは取税人であり、日常語としてのアラム語を話し、せいぜいギリシャ語を少しばかり理解していたにすぎません。その彼らが、「霊が語らせるままに」、地中海世界から来た「あらゆる国」の人々に解る言葉で、福音を語り始めたのです。それは聖霊の賜物でした。
興味深いことは、聖霊が(炎のような舌として)、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上に」とどまったことです。それは、弟子たち一人一人が持っていた個性に応じて、あるいは弟子たち一人一人が固有の仕方で言葉を話す力を得たと云うことです。雄弁に話す者もいれば、訥々と話す者もいたでしょうが、それはまた(ここにいる私たち一人ひとりと同じように)、自分自身の体験を通して、福音を証したと云うことです。聖霊は、その弟子たち一人一人を認め、まさに「多様性」を認めて、臨んでいる。つまり聖霊は一人一人に異なった形や仕方、体験を通して臨むと云うことです。聖霊降臨の出来事は教会の誕生と云われますが、言い換えるならば、教会とは、多様な経験をしている人たちが、それぞれにイエス様と出会い、呼び出され、召し出されている群れであり、多様性の上に成り立つ交わりだということです。
聖霊降臨とは、何よりも宣教の奇跡だということです。なぜなら、聖霊を与えられたことで、弟子たちは言葉を得たからです。彼らはペトロがそうであったように、大胆に語り始めました。聖霊を通して、弟子たちは、新たに遣わされる者として立てられていきました。聖霊は、彼らを新しい務め、イエス様の福音を広く宣べ伝える務めへと、召し出していったのです。
もう一つ興味深いのは、聖霊の働きが、人々の間に新しく聞く能力をももたらしたことです。その場に集まっていた人々は、「誰もかれも、自分の故郷の言葉で弟子たちが話すのを聞き」、「どうして我々は、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と訝しく思い、「彼らが我々の言葉で神の偉大な業を語っているのを、聞こうとは」と驚き、ペトロの言葉に「耳を傾け」、「これを聞いて大いに心を打たれ」ました。言い換えれば、弟子たちの上に聖霊が降ることで、彼らが語った言葉が、多様なコミュニケーションの機会を人々の間に回復し、宣教を可能にしていったのです。たとえばそれは、創世記に記された、かつてバベルの塔で起こった「異なった言語による混乱」を修復させることをも意味しました。
と同時に、その宣教の言葉は、人々の耳を開き、心を動かす一方で、疑問と戸惑い、嘲りをも呼び起こしていきました。「彼らは酒に酔っているのだ。」という声があり、「彼らはガリラヤ人たちではないか。」と戸惑う声がありました。弟子たちが語る言葉を、受け入れるにせよ、あるいは嘲るにせよ、人々はその言葉に激しく揺り動かされました。そして、聖霊の語らせる言葉は、信仰者を起こしていきました。イエス様の福音を真剣に受け止めようとする者を起こしていったのです。風が、人々の間に吹いていったのです。聖霊の風が、人々の内に籠り淀んだ関係を揺り動かしていったのです。
この聖霊、すなわち神様の「霊」は、旧約聖書では、たとえば民数記11章にあるように、それが授けられることで、「民の長老たち」に預言する力が与えられています(24~30節)。 また、ダビデも預言者のサムエルから聖別の徴である油を注がれることで、「主の霊が激しく」下るようになったことが記されています(サムエル記上16章)。
一方の新約聖書では、たとえば聖霊は、イエス様の誕生に際して、少女マリアに働き、彼女を身籠らせました。あるいはまた、イエス様の洗礼に際しては、「ハトのように彼に降り」、彼を祝福しました。さらには、会堂で説教するイエス様に働き、「貧しい人に福音を告げ知らせ」、「囚われている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ」、「圧迫されている人を自由にする」福音宣教の使命を、説教を通して明らかにさせました。
ヨハネ福音書では、聖霊は、地上のイエス様に代わる別な助け主と、説明されています。聖霊は、「弁護者」であり、「真理の霊」、またキリストについて「証しをする」、つまりイエス様とは誰であり、何のために来られたのかを明らかにすることが言及されています(15章26~27節)。 また、聖霊は、「真理をことごとく悟らせ」、「(神から)聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがた(弟子たち)に告げる」とも言われています(16章13節)。
またペトロが、百人隊長のコルネリウスに福音を宣べ伝えたとき、その場にいたコルネリウスをはじめとした「異邦人」の上に、「聖霊の賜物」が注がれたことが、報告されています(使徒言行録10章)。
あるいは、パウロによれば、聖霊は、私たちの心の内を神様に執り成してくださるとされています。「同様に“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8章26~27節)
また、パウロは、「わたしたちは誰も、聖霊によらなければ、『イエスは主である』と表明することができない」とも言っています(第一コリント12章3節)。 つまり、聖霊が働くことで、人はその心の目が開かれ、神様からの恵みと賜物に気付き、それを受け止め、感謝することができる。それが信仰であり、それゆえ、信仰は神様から与えられる賜物なのです。洗礼は、その信仰を、神様と信仰の共同体に対して目に見える形で証しすることであり、同時にその信仰を明らかにする応答への、神様からの祝福のしるしであるのです。
最後に聖霊の働きは、自由なものです。「風は思いのままに吹く。」と書かれている通りです(ヨハネ福音書3章8節)。 聖霊の働きを、人間が決めつけることも、制限することも出来ないのです。イエズス会の修道士アントニー・デ・メロは、「何をどう祈ればいいか」という著作の中で、聖霊は人が努力をしたからと云って、「その対価として」与えられるものではない。なぜなら聖霊とは、「父なる神のまさしく無償の賜物だからである」と書いています。
彼は、それゆえ、聖霊を受けるために人がなすべきなのは、使徒言行録1章にあるように、「父の約束されたもの(聖霊)を待ち」(4節b)、「心を合わせて熱心に祈る」(14節)ことだと書いています。
聖霊降臨、それは弟子たち一人一人が神様から、イエス様と同じわざを行い、言葉を語る力を与えられた出来事です。そして、聖霊は、もちろん、今も、現代の私たちにも働いてくださっています。そして、私たち一人一人は、そのことを体験してきているのではないでしょうか。
人によっては聖霊降臨の物語に描かれているような神秘的な仕方で、聖霊の存在を認識しているでしょう。あるいはまた、別な仕方で聖霊を体験することもあります。たとえば、私たちが、自分で聖書を読み、説教や証しを聴く中で、イエス様と出会い、人生の道標を見いだしてきたのも、聖霊の働きによるものです。また、私たちが一人で、あるいは人と共に祈ったり、他の誰かから執り成しの祈りを祈られることを通して、慰められ、「心が温められ」、癒され、励まされるなら、そこに聖霊は確かに臨み働いているのです。また私たち一人一人が、記憶の底から、それぞれが経験した神様との出会いを、神様が示された愛を、くださった恵みを、祝福を、そして人々との信仰によるつながりを思い出すとき、そこに聖霊は働いています。聖霊は、私たちに、イエス・キリストの言葉とわざとを思い出させてくれる、そう聖書には記されているからです。
聖霊は、宣教する力であり、教会を全世界へと押し出す力の源です。もし私たちの教会が、この地上ですべての被造物のいのちと尊厳を守り、人々の和解と癒しのわざを行っていこうとするとき、聖霊はそこに働いています。その働きに心をよせて祈るとき、そこに聖霊は臨んでいます。聖霊とは、現臨する神様であり、キリストなのです。
それゆえに私たち教会は、聖霊に聞くことを止めてはいけないし、常に聖霊が私たちに働き、「教え」、「思い出させること」を求めねばなりません。また、私たちは、どのような決断をする場合でも、聖霊を堅く信頼することが許されています。聖霊は、この世界のただ中で、キリストによって結ばれたものの共同体である教会の上に臨み、今も働いています。しかも聖霊は、私たちをキリストと結び付け、明日へと、未来へと「前進させ」るのです。
聖霊が、今も私たちの上に、また私たちを通して強く働いていることを感謝したいと思います。そして、私たちもまた、この弟子たちのように、心のすべての扉を開いて、神様からの聖霊を受けましょう。聖霊の導きを信じて、祈り求めて、歩んで行きましょう。

2026年5月17日
主の昇天主日
「主は天に昇り」
ルカによる福音書
24章44節 ~53節
使徒言行録
1章1節 ~11節
空に漂う雲、それはまた空を覆い、雷雨をもたらす存在でもあります。
ところで、聖書の中では、この雲は、しばしば神様の臨在と関連付けて言及されます。出エジプト記にある「火と雲の柱」が示すように、それは時に神様の守りを象徴するものとして描かれます。あるいは、ダニエル書や福音書、そして黙示録に「予告」されているように、終末のときに到来する「人の子」・救い主メシアは、「雲に乗って」登場します。つまりそれは、来臨する救い主が、神的な存在であることを視覚的に表していると言えます。
そして、イエス様の生涯の節目節目でも、ある種の象徴的な意味を持って雲が登場しています。山上で祈っていたイエス様の姿が変わる場面では、その場に現れたモーセとエリヤと共に、イエス様が雲に包まれ、神様からの祝福を受けました。そして、今日のイエス様の昇天物語では、イエス様を乗せて、やはり雲が天へと昇っていくのです。イエス様の再臨の時と同じように。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(マルコ福音書13章26節)
「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節b)
今日、私たちは、復活されたイエス様が、弟子たちの許を離れて、天に昇られたのを記念する「主の昇天主日」の礼拝を守っています。そして、その時の様子は、今日の日課であるルカ福音書と使徒言行録に記されています。
さて、使徒言行録の記述によれば、十字架で処刑され葬られたイエス様は、三日後に復活し、その後「四十日にわたって」弟子たちと共に過ごし、その間、イエス様は何度も弟子たちの前に姿を現わし、共に食事をし、弟子たちに、「神の国について」教えられました。そして、イエス様は、弟子たちに一つの約束をしました。「あなたがたの上に聖霊が降る。あなたがたが力を受けるために。そしてエルサレムだけでなくユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで、わたしの出来事の証人となる」と。
「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1章9節) あるいは、こうも記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ福音書24章50~51節) これが、イエス様の昇天の物語です。
このイエス様の昇天物語は、いくつかのことを私たちに教えてくれています。
先ずそれは、イエス様が神様のもとへ帰り、「神様の右に座し」、この世の権力や支配すべてを超越する存在になったということです。エフェソの信徒への手紙1章20節~21節には、こう書かれています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」 それは、言い換えれば、この地上の世界、この世の権力や支配が無力にされていくことを意味します。この世界の力は、過ぎ去るもの、いずれは失われる存在であり、限界のあるものであることが、イエス様の昇天によって、露わにされたということなのです。
次に、イエス様の昇天は、神様のもとへ帰還したイエス様が、私たちの祈りを聴き、私たちのために執り成してくださることを表しています。使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」と記しています。あるいはまた、ヘブライ人の手紙には、「キリストは、今やわたしたちのために神のみ前に現れてくだ」さり、「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできにな」ると書かれています。つまり、イエス様は、神様と私たちを和解させるために、私たちのすべての罪を十字架の上で負われ、そのことで私たちの代理人となられたからということです。だから私たちは、「ただイエスの御名によってのみ」、「祈ることができる」し(Ⅾ・ボンヘッファー)、それが許されているのです。
さらに、イエス様が天に挙げられたことは、救い主キリストの遍在を表しています。それは、キリストであるイエス様が、二千年前のパレスチナという場所と時間にのみ限定されず、時間や空間を超えて(もちろん今この瞬間も)、人と共にあることを意味します。イエス様は死んだのではないし、失われたのでもない。天の神様のみ許で(右ニ座シ)、復活された姿で生きておられ、そこからこの世界を見ておられる。そして、弟子たちが、イエス様の教えられた福音にとどまり続けて、イエス様の教えとわざとを引き継いで行っていく限り、イエス様は、信仰において、常に彼らと一緒におられるということです。
ところで、イエス様の昇天物語には続きがあります。イエス様が天に挙げられて行った後、弟子たちは天を見つめて立っていました。ひょっとして彼らは、天に挙げられていくイエス様の姿に感動して、その余韻に浸って、その場を動けずにいて、いつまでも佇んでいたのかもしれません。そんな弟子たちに向かって、白い服を着た二人の人、神様の使いが話しかけます。
「ガリラヤの人たち、何故天を見上げて立っているのか。天に上げられたイエス様は、あなたがたが見たのと同じ様子で、またおいでになる」と。
この言葉は、弟子たちを軽く叱っているようにも感じるのですが、弟子たちは、この言葉によって現実へと引き戻されていきます。と同時に、彼らは、「天に上げられたイエス様は、あなたがたが見たのと同じ様子で、またおいでになる」というもうひとつの、うれしい知らせをも確かに聞いたのです。それゆえ、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。イエス様の昇天、神様のもとへの帰還は、救い主キリストの再臨を約束する喜ばしいしるしでもあるのです。
キリストの再臨、それはイエス様の救いのわざが完成する時を意味しています。神様のみ国が到来し、神様のみ心が「この地上で」実現するときであり、神様の正義と公正が成就する時です。争いはなくなり、憎しみではなく愛が人々を支配し、平和が訪れるときです。それはまた、救いを求める人々が、苦しみから解放され、傷を癒され、涙を拭われ、一人一人が尊厳を回復し、神様から祝福を受けるときです。あるいは、それは人間が自然を破壊することがなくなり、神様が創造された世界に調和がもたらされるときです。キリストの再臨とは、こうした究極の出来事です。
つまり、イエス様の昇天、神様のもとへの帰還は、弟子たち、また私たちにとっては、再び来たりたもうキリストを迎える準備の始まりを意味します。だからこそなのですが、そのキリストの再臨の「その日、その時」を、弟子たちがただ漫然と待っていいわけではないのです。弟子たちには、イエス様から託された福音宣教の使命がありました。「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24章47~48節)
神様の使いが、「なぜ天を仰いで立っているのか」と弟子たちを叱責したのは、イエス様の再臨をただ受け身で待っていてはいけないということを戒めたのです。
「エルサレムだけでなくユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで、わたしの出来事の証人となる。」 (使徒言行録1章8節)
イエス様の福音宣教は、なによりも、神様がこの世界に介入され、イエス様の言葉とわざとを通して、苦しみや悩みに沈んでいる人々に解放を告げるものでした。救いをもたらすわざが行われ、人々に生きる力と希望が与えられました。そのイエス様の出来事をこの世界に示し証しすることを、弟子たちはイエス様から託されたのです。再びイエス様がこの地上に来られる「その日、その時」まで。
イエス様が昇天された日からすでに二千年余りの時間が経過しています。しかし、イエス様の救いを必要とする状況、世界の現実は未だ変わらずに続いています。国と国との間に戦争は起こり、あるいは内戦や地域での紛争はあります。飢饉や干ばつ、疫病の流行があります。自然災害や環境破壊や汚染、原発の事故などという「人災」も発生しています。人々の間に著しい経済的・社会的な格差が生じ、たくさんの貧困や差別に苦しむ人たちがいます。「主の祈り」にあるように、「御国が来ますように」、「主よ、来てください(マラナ・タ)」という人々の叫びは、今も世界のそこここで響いて聞こえてきます。
それゆえ、現代に生きる私たちもまた、その福音宣教の使命を、前の世代から引き継いで、この世界で果たして行くことが求められているのです。
私たちにもまた聖霊が与えられています。私たちはその力によって、この世界で、さらに福音を形にしていくことができます。
それは具体的には、たとえばここに集う一人一人が、お互いに配慮し合い、大切に思い、祈り、声をかけ、支え合っていくことによって実現するでしょう。また、私たちが出会うあらゆる人たちに、神様の愛を伝えていくことによって起こるでしょう。具体的な、助けを必要とする人々の話を聞き、相談に乗り、助け手になるであろう誰かを紹介することかもしれません。直接相手を助け、癒し、慰め、励ましことによっても、福音は形を持ちます。そのわざは広がりを持ちます。
世界の各地で、また私たちの暮らす社会の中で、困窮している人々を助けるための、様々なNGOや社会福祉事業、ボランティアの働きがあります。あるいは、差別をなくし人権を守るための取り組みや、環境保護のために活動している人々がいます。そうした働きを覚えて、祈り、時には献金を持って連帯していくこともまた、神様の愛と正義と公正を広めることに繋がります。
私たちに出来ることを、イエス様が来臨するその日まで、「時が良くても、悪くても」根気よく、痺れを切らさずに、約束が成就することを信じて、あきらめないで語ること、神様の御心に適ったわざを行っていくことが、私たちに求められているのです。
たとえ、その使命が私たちの時代には、すべて終えることができないにせよ、目の前の直面する問題や課題に、真摯に、そして地道に取り組んでいくことが求められているのです。そうすることで、私たちは、イエス様の出来事と福音の証人となるのです。

2026年5月10日
復活節第6主日
「つながっている
ということ」
ヨハネによる福音書
14章15節 ~22節
誰かと「つながる」、あるいは「つながっている」ということが、どれほど私たちの生活の中で大切なことか。私たちは、そのことを数年前の、いわゆる「コロナ禍」のときに、実感したのではないでしょうか。
ある司法書士の方が、自身のブログに次のように書いていました。「人生の幸せはどこにあるのか。(中略)時空を共有すること。時空を共有することは人生に幸福感をもたらせてくれる可能性が高い、そんな風に思います。時空を共有することとは、簡単に言い変えれば、誰かと一緒にいることです。コロナ騒動が終わりつつあり、外で誰かと飲食をする機会が増えました。ただただ、楽しいです。すごい料理を食べたとか、珍しいお酒を飲んだとかではないのに、楽しい。考えられるのは、単純に誰かと一緒に飲食をすること、つまり、時空を共有することが楽しいんだろうなってことです。時間と空間を共にしてくれる存在の有り難さです。」(『時空を共有すること(一緒にいること)』司法書士高野守道2023年4月11日)
感染症の予防のために、「不要不急の外出は控えてください」という要請は、いとも簡単に、社会全体の人と人のつながりを、何年にもわたって、文字通り「損ない」、場合によっては、「断ち切らせて」しまうことになりました。「コロナ禍」の最中は、集会などの自粛・中止に始まって、例えば、せっかく入学した学校も、リモートの授業ばかりになり、期待していた「生身の」友人を作ることすらままならない状態が続きました。かろうじてSNSやネット空間でのコミュニケーションという「つながり」は、それ以前よりも可能性が広がり、維持できていたように思います。「目の前で一緒ではなくても、紛れもなく、時間と空間を一緒に」することができるから。それは言い換えれば、時間や空間を隔てても、なお、人は何らかの形でではあれ、「誰かとつながっていたい」、「共にいたい」と願うからかもしれません。
「あなたがたを一人ぼっちにはさせない。」 これが、今日の福音書のメッセージです。
日課の中で、イエス様は、弟子たちに別れが近いことと、その後のことについて四つの約束を語りました。
第一の約束は、イエス様が神様に対して、弟子たちの許に「別な弁護者、真理の霊」、別な言葉では「聖霊」を、永遠に一緒にいられるように送ると、お願いするというものでした。その「別な弁護者、真理の霊、聖霊」は、「あなたがたにわたしの語ったこと、業のすべてを解き明かし、思い出させてくれる」存在だと、日課の少し後に書かれています。そしてイエス様は、次のように語ります。「あなたがたは、一人で(孤児として)放り出されるのではない。父なる神様が、そしてわたしも一緒にあなた方のそばにいる」と。その霊をこの世は、見ることも認識もできない。なぜなら、この世はそれを受け入れようとは思わないから。しかし、弟子たちは、その霊を受け入れることで、知ることができる。その霊は、「弟子たちと共にいるし、これからも弟子たちの内にいる」というのです。
二番目の約束は、しばらくするとこの世はイエス様を見なくなるが、弟子たちはイエス様を見るというものです。見るとはこの場合、やはり信仰の出来事として、弟子たちが知る、分かるということをいいます。つまり、弟子たちは、イエス様を生きているお方として認識することができるので、弟子たちも生きる。言い換えれば、弟子たちが活き活きした信仰を保つことが、イエス様が生きておられることを表すのです。
約束の三番目は、人の子が来臨するその日には、イエス様は、父なる神様と一つになり、また弟子たちの内にいて、弟子たちはそのことを認識する、とされます。つまりは、弟子たちの働きを通して、神様と一つになったイエス様が、そこにいるのを感じさせるということを意味するのです。
そして、最後の約束は、イエス様の掟を受け入れ、守る人は、イエス様を愛する人であり、その人は、父なる神様に愛される。イエス様もその人を愛し、その人に自分を示すというのです。
「わたしを愛する人がいれば、わたしの掟を守ることになる。」ここでイエス様の言われる「わたしの掟」とは、ただ単に口から語られた言葉だけを意味しません。むしろイエス様が生涯の中で、身をもって示した生き方そのものを指しています。弟子たちには、その言葉を守り、引き継いで欲しいという願いが示されているといえます。そして、この願いは、ヨハネ福音書の中で繰り返し、繰り返し語られています。「わたし(イエス)のことを愛している、大切に思うならば、わたしの言葉を、わざを、生き方そのものを行って欲しい」と、イエス様は、弟子たちに噛んで含めるように言い聞かせているのです。「(わたしを愛する人を)わたしの父は愛し、父とわたしは、その人のところへ行って、その人と一緒に住むであろう」。イエス・キリストを愛する、つまり大切に思い、その言葉を守るとき、神様とイエス様が、その人自身の生活のただ中に一緒に住む。イエス様はその人を導き、イエス様はその人の生活を通して、生き、働く。人は神様の守りの内にある。それゆえに、弟子たちは、神様とイエス様を信頼して、安心してすべてを委ねてよいのだ、と語っているのです。これらの約束が根拠となって、イエス様は、弟子たちに「平和を、平安を与える」と告げているわけです。
これらの約束に共通して語られているのが、「聖霊も、イエス様も、そして父なる神様」も、弟子たちと「一緒に」、「共にいる」と云うことです。聖霊は、弟子たちと永遠に「共に」おり、彼らの「内に」存在します。また、イエス様は、掟を守る者を愛するという仕方で、そして、彼らに姿を表すという仕方で弟子たちと「共に」います。イエス様は、今も生きていて、弟子たちに働きかけるという仕方で、「共に」いることを示しています。神様は、やがて来たるべき神様の国で、イエス様と「共に」いて、弟子たちとも「共に」いる。だからこそ、弟子たちは、イエス様を愛し、教えを守り、お互いに「共にいる」ようになることが、勧められているのです。
さて、ここで語られている「共にいる」ということは、ただ場所と時間を同じくする、ということだけではありません。それ以上に、同じ思いを抱いている、同じものを目指していくことが、「共にいる」ことを性格づけます。神様もイエス様も聖霊も、同じ言葉を語り、同じ教えと知恵を示します。それが弟子たちの内にあって、働くこと、弟子たちがその力に促されて働くこと、それが「共にいる」ことをあらわしています。
「共にいること」はまた時間や空間を越えます。冒頭でお話したように、たとえ人がその場所にいなくても、何らかの方法で誰かと常につながっていることが確認できれば、人は「一緒に」、「共に」いることができます。ですから、人が離れていても、たとえばメールや電話、手紙などで、相手とつながり、励まされ、労わられ心配されるなら、それは十分に「共にいる」ことになります。安心して、自分のことを話せる。安心して聴いてもらえる。それが「共にいる」ことを示しているのです。相手が傍に居ても、あるいは傍にいなくても、安心して過ごすことができる。不安を感じずに自分自身であることができる。それが「共にいる」ことです。
聖霊が弟子たちの許に送られるのは、ある意味、イエス様が地上では不在になるからです。今までのようには、地上での弟子たちの傍にはいないからです。イエス様は、弟子たちとは空間と時間を隔てるのです。しかし、聖霊の派遣によって、イエス様は弟子たちと「共にいる」ことができるのです。
1992年から98年までの六年間、私は交換牧師としてドイツに滞在していましたが、その当時はもちろんインターネットなども普及しておらず、通信手段は国際電話か手紙のやりとりでした。精神的に余裕があれば(また小まめであれば)、手紙をしたためることが経済的には安上がりでしたが、切羽詰まった状態では、料金が掛ったとしても、国際電話は直接肉声が聞けて「誰かとつながる」という意味では、たいへん有効な手段でした。
それだけに、ホームシックが募った時などは、同僚の友人からの電話にたいへん励まされたことを覚えています。言葉ができないことで感じる自信のなさや不安、苛立ち、そして、目的でもあった「アルコール依存症のセラピーの習得」がなかなか目に見えて進まないことへの焦り等々、それこそ一時間余り長電話をしました。時には友人の方から、彼がその当時の職場で感じていた問題や限界、悩みなどの相談がありましたし、一度は彼から、牧師を続けることに迷っていると打ち明けられて、どう声をかけていいものか考え込んでしまいました。でもその後、彼から手紙が届き、彼が聖書日課のセミナーで古くからの知人と再会し(その知人は同僚のことをずっと気にかけてくれていたそうです)、それと同時に牧師を志した頃の気持ちを思い出したこと、そしてその出会いを通して、あらためて牧師を続けていこうと決めたことなどを知りました。同封されていた彼の説教―「るうてる」に直近で掲載されたもの―には、彼が「長い悩みのトンネル」を抜けた証が確かに見られました。
そして、そのことは逆に私にとっても、大きな励ましにもなったわけです。「彼は頑張っている。ぼくもそうでありたい」と、思わされたわけです。「誰かとつながっていること」は、お互いを労り、支え合い、互いに慰め、励ますことでもある、そう思います。言い換えれば、「誰かとつながる」ことで、人は、自分のために「誰かがいて祈ってくれる」ことを、感じられるのではないでしょうか。国際電話の向こうで、手紙の向こうで、あるいは古い写真や日記、記録や記憶を通して、人は、「私のために祈る誰か」を意識できるし、時間や空間を越えて「共に」「一緒に」「いる」こと、「生きる」ことができるのではないでしょうか。
弟子たちに向けた四つの言葉、それは、言い換えれば弟子たちのためのイエス様の祈り、また私たちのためのイエス様の祈りであるともいえます。
時空を越えて、私たちと「共にいる」ことを願い、祈るイエス様を、私たちはそこに見出すのです。
「私たちは一人ぼっちではない。なぜなら、聖霊が、イエス様が、そして父なる神様が一緒にいるからだ」。例え瞬時にその返事が返って来なくても、今現にイエス様と「つながっている」こと、神様が「共にいる」ことを覚えたいのです。孤立して誰からの助けもないように感じられる時であったとしても、イエス様が「共に」私たちのそばにいて、「別な助け主」である聖霊を送り、様々な形で私たちを支え、助けてくださるのです。
だから、私たちは安心して、毎日を送っていいのです。信じて、誰かに助けを呼び求めてもいいのです。
