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礼拝メッセージ
       (当分の間、毎週更新します)
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202312 日 
待降節第1主日

「希望を持つ

ということ」

​マルコによる福音書
1324節~37

 今日から待降節が始まりました。待降節(アドベント)、それはイエス・キリストの誕生を記念するクリスマスのために、準備をする季節です。聖壇の布は、悔い改めを表す紫色に代えられました。悔い改めとは、心の向きを変えることです。神様の前に自らを省みて、心を低くして、謙虚になり、イエス様の降誕に備えるときを持つのです。

 さて、今日、待降節の間飾られるアドベント・クランツの一本目のロウソクに火が灯されました。このロウソクは、希望を表すとされています。今日は、この希望について、聖書から、福音書の日課から聞いていきたいと思います。

 

 今日の日課マルコによる福音書13章24節以下は、小黙示録とも言われています。そこでは、天地の消滅と人の子の来臨が、旧約聖書のダニエル書の言葉を用いながら、予告されています。

 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(24~26節)

 「それらの日には」、この世の歴史が終わるというだけではなく、神様が創造された宇宙全体が、天体そのものが消滅する。そして、その時に「人の子」、すなわちキリストが再臨し、公正な裁きのために、「天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集め」ることを、イエス様は弟子たちに語ります。

 しかしイエス様は、この預言に先立って、こうも言われています。

 地震や異常気象といった天変地異、あるいは戦争や飢饉、疫病などの発生は、「人の子」キリストの来臨の徴(しるし)ではないし、それらの現象が起こったからといって、世の終わりだと怯える必要はない。だから、そのような天変地異や戦争などを口実にして、「私こそが再臨のキリストだ」と名乗る者が出て来たとしても、その言葉に惑わされないようにしなさいと。

 人間が深刻で悲惨な状況に陥ることがあっても、そのたびに、それを、「世の終わり」と悲観的に考える必要はないということです。「世の終わり」は、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」すなわち天体の消滅と、「人の子」の来臨という出来事がすべて起こったときに訪れる。「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」と、イエス様は言われるのです。

 しかし同時に、イエス様は、「世の終わり」が、いつか必ず訪れることも、ここで告げているのです。そして、イチジクの木になぞらえて、私たちが注意深く「時の徴(しるし)」を観察し、常にその時に備えているべきことを、教えておられます。

 私たちは、「世の終わり」を、すべてが消失する恐ろしい時だと考えて、怯える必要はありません。それは、「人の子」が再び来られ、正しい裁きが行われ、神様が支配する「神の国」が到来し、すべてが新しくなる時なのです。

 それゆえ、私たちは、この「終わりの日」を信じて、期待を寄せて、目を覚まして、その時を待たなければなりません。信じることなく、期待せず、現状に諦めてしまっていたり、現状に満足してしまっている人は、「突然訪れる」救いの時に、気づくことは出来ないのです。今日の福音書の日課が語っているのは、「神の国」の到来を常に希望すること、信じながら期待して待つことの大切さなのです。

 

 ところで、なぜ、救い主(キリスト)であるイエス様の誕生のお祝いを準備する季節に、世の「終わりの日」、神様の支配が新たに始まる日についての預言の言葉が読まれるのでしょうか。

 なぜなら、イエス様の誕生、イエス様がこの世界に来られたこと自体が、キリストの再臨によって完成する「神の国」の到来の始まりだからです。

 後に成長したイエス様は、人々に「悔い改めよ、神の国は近づいた。」と呼びかけました。イエス様が語る「神の国」、それは「神様が公正と正義をもって支配する世界」であり、人を縛りつけているいろいろなしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる世界を意味します。イエス様は、すべての人が「幸い」とされる神の国について語るのです。「その日は、近い」、いや、そのときはすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しました。

 イエス様が生きた時代のユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありましたが、そこには、もちろん現代の私たちの時代同様、やはり不正義と不公正があり、たくさんの救いを求め願う人々が生活していました。零細な小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病や障がいに苦しみ、また職業のゆえに差別されていた人々がいました。イエス様がこの地上に「人として」生まれたのは、そうした人々に神様の愛と救いを、そして、神様の国の接近を告げ知らせるためでした。

 クリスマスの物語において、イエス様の誕生の告知は、イエス様を身籠った母マリア、養い親のヨセフ、後に洗礼者ヨハネとなる赤ん坊の母親エリサベツだけに明かされたものでした。東の国の占星術の学者たちは、星の光を通してだけ、救い主の誕生を予告されていました。そして、野宿をして羊の番をしていた羊飼いたちは、突然夜空に現れた天使の軍勢によって、イエスの誕生を知らされたのです。

 イエス様の母マリアは、旅先の地で、しかも家畜を飼う小屋の中で、ひっそりとイエス様を出産しましたが、その誕生を祝ったのは、天使から知らせを受けた羊飼いたちと、東方から星を頼りにはるばるやってきた占星術の博士たちだけでした。

 そしてイエス様が生まれた後も、この幼子が救い主であることを知っていたのは、長い間、その到来を期待して待っていたシメオンとアンナという預言者でした。

  大事なことは、イエス様、神の子の誕生に気がついて、その良き知らせを受け入れたのは、救い主の誕生を信じて、期待して、待っていた人たちだけだったということです。そうでない大半の人々は、救い主であるイエス様の誕生に気づくことはなく、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」のです。まさに、救い主イエス様の誕生は、希望を持っていた人たちだけに、限られて明らかにされた出来事だったのです。

 

 さて、希望を持つということは、ある意味、自分が置かれている状況がたとえ不本意で望まないものであったとしても、人がその状況に耐えて、より良い状況が開けてくるのを待ち続けられるということかもしれません。

 たとえば、慢性的な、あるいは急性の病気に罹ることは、誰にでもあり得ることです。そのとき人は、適切な治療を受けながら(それが忍耐を要するものであっても)、回復すること、病状が軽くなることを信じて待つことは大切です。

 たとえ、その病気の回復が見込めないような場合であっても、なんとか病気とうまく付き合いながら、「今、自分が過ごしているこの時間」「この瞬間」「一日一日」を大切にし、きっと良いものにしていけると信じて、そのためにはどうしたらよいかと考え、工夫することが、その人の人生を豊かなものにします。そのとき希望は、文字通り生きる力となるのです。

 しかし、精神的若しくは肉体的に著しい苦痛を伴うような過酷な状況の場合、人が希望を持ち続けることは、決して容易ではないこともまた事実です。

 現在も、ウクライナでは、ロシア軍の終わりの見えない軍事侵攻によって、大切な家族の命を奪われたり、住む家やインフラを破壊され、故郷を離れて、不安の中で不自由な避難生活を送っている人々が大勢います。また、男性の多くは、ロシア軍との戦いのために、家族と別れて従軍しなければなりません。もし彼らに、自分たちの自由と尊厳を必ず守り通し、いつか故郷に帰り生活を取り戻すという希望が持てなければ、そのような状況に耐え続けることはできないでしょう。

 パレスティナのガザ地区では、絶望的なまでに破壊された都市で、イスラエル軍の攻撃に一方的に曝され、避難する手立てもない人々にとっては、今、少しでも希望を見い出すことができるのかどうか、現場から遠く離れた私たちには伺い知ることはできません。しかし、数日間の一時的休戦があった時、イスラエルによって拘留されていたパレスティナ人が釈放されたことは、ガザ地区の人々にとって、報道された画面を見る限りでは、わずかではあれ希望の光を与えたであったろうと、理解することができます。再会して抱擁し合う人々の見せる涙と笑みとは、生きていることが、希望を持つことであるのを表しています。

 先の見えない不安は、私たちを押しつぶそうとするかもしれません。どうにもならない状況が、私たちから希望を見失わせます。あるいは、これまで自分の希望したことが自分の望んだ通りには叶わなかった、という経験の積み重ねが、希望を持つことをあきらめさせてしまうことも起こります。

 しかし、聖書は「希望は決して、失望に終わることはない」と語ります。そして、その希望が神様に対するものである限り、「希望はいつまでも存続する」と語っています。

 へブル人の手紙には、このように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」と。人が神様を信仰するということは、希望を抱くことなのです。

 

 イエス様がこの不条理で「罪深い」地上に、幼子の姿をとって誕生したことは、人は神様に希望を持っていいというしるしです。

 神様は、すべての人たちが「幸い」とされ、この世界の誰もが喜びをもって、そのいのちと人生とを全うすることを望んでおられる。そのことに、私たちは希望を見出すのです。

 人は、希望を見出すことが出来たときに初めて、現状を変えるために行動する力や知恵が与えられます。たとえ私たちを取り巻く現実が、希望を持ちにくい状況だとしても、私たちは、より良い未来を信じて期待して、歩みたいのです。そして、大勢の人々が、希望を持つにはあまりに過酷な状況の中で、自分の人生を諦めてしまっているとするならば、なおさら、私たちは、人々が希望を見出せるように、イエス様の福音を伝えていきたいと思うのです。希望という言葉が、手垢のついた安易な気休めや、空虚な空手形ではないことを示していきたいのです。

 待降節のこのとき、主よ、来て下さいと祈りましょう、「その日、その時」を待ちながら。そして私たちが、私たち自身と私たちを取り巻く社会、またこの世界の現実のただ中で、なおも希望を見出し、主の平和と救い、祝福と憐れみとが、すべての人たちの上に豊かに与えられることを願い求めていきましょう。

202311月 26 日 
聖霊降臨後最終主日

「主よ、

来てください」

​マタイによる福音書
2531節~46

 イギリスで制作された「覆面社長の職場訪問」というテレビ番組を観たことがありました。ある有名なレストラン・チェーンの社長が、アルバイトに変装して自分の会社の店舗や工場で何日間か働くという、ある種の「ドッキリ」企画でした。

 他の社員はもちろん彼のことを社長とは知りません。ですから常々感じている職場や仕事上の問題、あるいは個人的に抱えている問題などを、その変装した社長に、隠すことなく自由に話しました。そのアルバイト(実は社長)が、うまく話を聞きだすからなのかもしれませんが、まじめに仕事に取り組んでいる社員ほど、職場での改善すべき問題点などについて、自分の意見を語りました。「もう少し休暇が取れたなら、社員のやる気も上がるのに。」「お客からリクエストがある店のオリジナル・メニューは、実は正式のレストランのメニューではない。売れるのに残念だ。」「もう一人、ホールの担当が増えれば、みんな余裕をもって働けるのに。」等々。

 社長は、何日かごとに、店舗や倉庫、工場などと仕事場を変えては、そうした現場の率直な、忖度のない意見を聴き、やがてアルバイトとしての期間を終えて、(変装を止めて)自分のオフィスに戻りました。そして、それまでいろいろな意見を話してくれた社員たちを、社長室に呼びました。もちろん、自分がアルバイトに化けていたことは、彼らにばらさずに。社員たちは、とにかく何事かと思って、緊張しながら社長室にやってきました。そして、社長が実はあのアルバイトだったことに気付いて驚きました。中には、「そうと知っていたら、あんなこと話さなかったのに」、といくらか後悔しながら(可哀そうに)涙目になる社員もいました。

 しかし、彼らをもっと驚かせたのは、彼らが知らず知らず提案していた「改善すべき問題点に関する意見」を、社長が受け入れ、すぐに実行すると約束してくれたことでした。ある社員は、職場改善のプロジェクト・リーダーに抜擢されました。新メニューの開発を任された社員もいました。そして、最後に社長は、職場ごとに特別休暇を取ることを彼らに約束しました。もちろん、テレビ番組ですから、番組はハッピー・エンドで終わりましたが、アルバイトの男性が社長と知った時の社員の驚きは、本物でした。

 さて、今日の日課では、ある意味、イエス様がちょうどこの「覆面社長」のように、私たちの傍におられるのだということを示しています。

 

 今日の日課は、24章から始まる世界の終りについてのイエス様による一連の説教の一つです。再び地上に来られるキリストは、ここでは裁き主として登場します。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に就く。そして、すべての民族がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」 対象は、すべての民族、すべての人々で、分けられた右側は、救われて、御国を受け継ぐ人々。左側は、叱責され、永遠の罰を受ける人々のことです。

 興味深いのは、右側に分けられ、「始めの時から用意されている御国」を受け継ぐことになる人々は、自分たちが何をしたから、御国を受け継ぐことになるのか、という理由を知りません。

 再臨の主は言われます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と。

 この主の言葉を聞いた人たち、つまり祝福を宣言されている人たちの反応は、意外なことを聞いたというようなものです。「私たちがいつ(あなたに対して)そうしたのでしょうか。」 彼らは、まさか自分たちのしたことが、「主」に対してのものだった、とは思っていなかったということを表しています。

 言いかえれば、祝福されている人たちは、「主」からの見返りを期待して何かを行ったわけではないということです。相手がだれであれ、必要とされる助けを、その時々に適って為したにすぎないのです。彼らの態度は、直面している課題に黙々と取り組んで、それを誇らないあり方といえます。「右手のしたことを左手には知らさない」(マタイ6章3~4節)あり方です。

 一方、左側に分けられ、叱責され、永遠の罰を受ける人々は、反対の反応をします。「私たちがいつ(あなたに対して)そうしなかったでしょうか」と。この言葉は、「あなたはいつ飢え、渇き、裸であり、住む所がなかったのですか」と問うているようにも思えます。そして、それはまた、「相手が主(あなた)であることを意識していたときは、そのように行ったではありませんか」とも聞こえますし、あるいは「主よ、あなただとわかっていたら、私たちはそのようにしたでしょう。」とも聞こえます。どちらにもせよ、罰せられる人たちは、「主」を意識したときには人を助けるが、そうでないと判断したときには、助けることをしなかった、つまり、自分の利益になるかならないかを打算的に判断して、行動していたということが読み取れるわけです。

 「主」からの見返りを期待せずに人を助けるのか、あるいは「主」からの見返りを見越して人を助けるのか、問題は、どちらが、神様の目から見て義とされるのか、ということです。

 

 再び来られたイエス様はいわれます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 ここで示されている再臨のキリストによる裁きの基準は、人が生前、「この最も小さい者たち」に対して、どのような行いをしたのか、という具体的な行為です。

 では、その「最も小さい者」とは、いったい誰のことでしょうか。 

 イエス様の言葉を借りるならば、それは社会的に、小さく、弱い立場に置かれている人々。社会から排除され、周縁に追いやられている人々のことです。食べることに困窮し、満足に着る物も持っていなかったり、住むところを失って、旅人として過ごさなければならなかったり、病気で弱っていても十分な医療を受けられず、世話をする人もないような人々です。貧しさゆえに犯罪を犯してしまったり、何か不当な理由で逮捕されても、申し開きをすることもできない人々です。

 そして、私たちがもし少しでも関心を持って周囲を見渡せば、それらの人々が決して特殊な例ではなくて、実は、この世界の、この日本の、いたるところに存在するという事実に、すぐに気がつくことができるでしょう。

 こどもを育てている母親が孤立して、ときとしてこどもへの虐待を生んでしまうことがあります。家庭内暴力や性暴力被害などを避けて、家を逃げ出してきた女性や少女たちがいます。こどもの六人ないしは七人に一人が貧困家庭であるといいます。

 孤立して孤独のうちに死んでいく高齢者の問題があります。生活保護をもらうにもらえない人たち、保護を受けても、仕事を探すこともできない人たち、未だ路上で生活せざるを得ない人たちがいます。非正規雇用の人たちの中には、雇い止めになった人たちがいますし、解雇され失業と同時に住居を失った人もいます。

 政策的に「移民」を認めていないにもかかわらず、外国人労働者や外国人技能実習生を来日させ、過酷な条件の下で働かせる一方で、彼らに対する福祉的なバックアップ体制は整っておらず、生活に困っている人たちがいます。また、日本で暮らしている外国人の中には、長年日本で暮らしていてこどもや配偶者がいて、祖国には戻る場所がない人たちや、何らかの理由で滞在資格、在留資格を喪失した非正規滞在の人たちがいます。また、難民申請中で、祖国に戻ると迫害されたり、投獄あるいは死刑にされる恐れのある人たちもいます。そうした人たちが、在留資格を持たないことを理由に、収容される入国管理局の施設では、人権が無視される待遇が続いています。また、祖国に強制送還される場合、日本で生まれ育ったこどもたちも、事情を考慮されることなく送還される事態も起こっています。

 人が社会的に排除されたり、周縁に追いやられたりすることは、当たり前に起こっているのです。

 そして、イエス様は、ある意味、そうした「最も小さい者の一人」として、今現に起こっているこれらの困窮した状況を経験している、といえるでしょう。

 「最も小さい者」、そうした人々は、私たちのすぐ隣りにいるかもしれないし、あるいは、私たち自身が、いつそのような、社会的に弱い立場に置かれるかも知れないということを、忘れてはならないと思います。明日健康を害し、あるいは災害に巻き込まれて、仕事や財産を失うかも知れません。そうした出来事は、誰にでも起こりえるのです。

 ですから、イエス様が、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と言われた行為とは、人が生きていくために必要な衣食住に関するサポートや、病気になった時に適切な治療や介護が受けられるよう手助けすることです。あるいは、失意や不安や孤独の中にいる人の傍らで話を聞き、その思いに共感し、受け止めることです。その人たちに寄り添い、労り、慰め、励ますことです。または、直接そうした働きや助けを行うことが出来なくても、助けを必要とする人たちの存在を忘れずに、祈り、ときには金銭的な援助などによって支えることです。

 困窮するその人のいのちと尊厳を守り、生きる希望を守るために成す行為、それが「最も小さい者の一人にしたこと」なのです。

 そして、最も大切なことは、それを何か特別な善行をしているとは思わず、自分自身もそうした助けを必要とする一人として、ごくあたりまえのこととして行うこと。それが、主イエス・キリストによって認められる行為、祝福の基となるということなのです。

 

 最後に、この福音書の日課で問われているのは、今、私たちの目の前にある現実に取り組む、私たち自身の姿勢です。主が来られる日まで、どのように生きたのかが、それぞれにとって、その日には、明らかになるであろう。だから、心してあなたの人生を生きなさいという言葉なのです。今苦しんでいる人、悲しんでいる人、今苦労している人たちのために、「最も小さい者の一人」のために、共に祈り、助け合いなさい、と。

 来週から待降節が始まります。待降節は、イエス様の誕生を覚えて祝うクリスマスの準備の期間です。と同時に、やがて再びこの地上に来られるキリストを、「主よ、来てください」と祈り、待つ季節でもあります。

 再臨のキリストを待ちながら、私たちも祈りましょう。

 「主よ、あなたが来られる時まで、私たちを相応しく備えさせてください。そして、困窮し、悩みのうちにいる人たちのために、また私たちのために、一日も早く来てください」と。

202311月 19 日 
聖霊降臨後第25主日

「勇気を持って

生きる」

​マタイによる福音書
2514節~30

 「資産運用しませんか」という銀行や金融関連の会社の宣伝をよく目にします。そして、金融会社の奨める「商品」のパンフレットを見ると、いかにも堅実に利益を上げられるかのように書かれています。

 もしも、その人がこれまでに何か新しいビジネスを始めた経験があるか、金融や投資についてしっかりと勉強していれば、自分の手元にある資産を運用することに抵抗はないかもしれません。

 しかし、これまで何かの事業に携わった経験のない者、ましてや投資などしたことがない者にしてみれば、それは一つの大きな冒険です。挑戦する機会であったとしても、二の足を踏むでしょう。自分の手元にあるお金がまとまったものであったとして、第一それを元手に運用するのは、手堅そうに見えても、失敗したら損をしてしまうかもしれないし、挙句の果てには、元手を失うだけでなく負債・借金を作ってしまい、持っている財産の一切合切を取られてしまうかもしれない。怖いですし、もしそうなったとしたら、それこそ元も子もないお話です。

 今日の日課マタイによる福音書25章14節以下には、似たようなお話が記されています。

 

 今日の日課は、「主人から預けられたタラント」の譬え話です。

 三人の僕が、旅に出ようとしている主人から、一人一人能力に応じて、財産の一部を預かりました。一人は5タラント、もう一人は2タラント、そして三人目は1タラントでした。(この1タラント、今の価値で言えば、推定で約6千万円ほどだそうです。)

 三人はそれぞれに、主人が戻ってくるまでの間、預かったお金をどうにかします。僕のうち二人は、商売をして儲けて、それぞれ元手を倍に増やします。しかし一人の僕は、預かった元手をどこかの土地に穴を掘って、埋めて隠してしまいます。ユダヤ教のラビ(教師)の解釈でいえば、盗難に対する一番安全な方法とされているそうですが、そのかわり利子も尽きません。

 やがて主人が戻ったとき、三人の僕は、それぞれ預かったお金をどうしたのかを報告しました。元手を二倍に増やした二人の僕は、主人から褒められます。運用の仕方は問われていません。むしろ主人の意図、あるいは主人が寄せている信頼に「忠実に」応えて、どうすれば儲かるのかを考えて取り組んだことが褒められています。三人目は、預かったお金1タラントをそっくりそのまま差し出してからことの顛末を話します。

 「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」

 

 この僕が何を心配していたのかは、彼の言葉でわかります。「あなたは(中略)厳しい方なので、恐ろしかったのです。」という言葉がそれを表しています。その僕にとっては、主人は他人に厳しく、罰する人でしかないわけです。だから、とにかく怒りを買わないようにしよう。損をして元手を減らすと何を言われ、何をされるかもわからない。だったら、この元手は使わずにそのまま返そう。損するよりはいいだろう、と。

 彼は、元金が減るのを恐れたというよりは、元手を減らしたことの責任を取らされるのを恐れるのです。咎められるのを恐れるわけです。元金を守ることよりも、自分を守ることが優先しているともいえるでしょう。

 また、彼は、主人がお金を預けた意図を計りかねています。彼は、なぜ主人が自分たち三人に大金を託していったのか、という意図と、そこに示された主人の彼らへの信頼を想像することができません。ただただ、主人の怒りを買うことのないように、何もしないほうが良いと思って、預かった大金を埋めて隠しておくのです。

 しかし実はその振る舞いが主人の怒りを買うのです。主人が咎めているのは実にこうした僕の姿勢、態度なのです。自分が責任を負わされることを恐れる態度、咎められさえしなければよいとする姿勢です。主人の信頼を考えることもない姿勢です。

 「怠け者の悪い僕だ」と訳されている個所、原文では「悪しき僕よ、臆病者よ」とも訳せるそうです。つまり、主人が判断しているのは、三人目の僕の「臆病さ」にあるようです。冒険をしない臆病さ、挑戦しないで、日々過ごしている小心さ。それが主人の判断の基準にあります。僕が慎重すぎるくらい慎重であって、自分には冒険はできないと判断するなら、それならそれで、何かの方法を探ることはできたはずです。知恵を絞って考えれば、主人も言及したように、銀行に預けることもできたわけです。

 でも三人目の僕の言動からは、そうした知恵を絞った努力の跡が見えてこない。というよりも、後々災いが起こるのを恐れ、何事も起きないようにしたい。「ことなかれ主義」です。この大金を手元に置くだけでも怖い。だから、いっそ埋めてしまえ。

 慎重であることも過ぎれば、臆病につながるのかもしれません。結局のところ、三人目の僕は、その度胸の無さと工夫の足りなさを問題視され、預かっていたお金を取り上げられ、彼に預けられていたお金は最も儲けた人間に渡され、本人は外に放り出されてしまいます。

 

 さて、この譬え話を理解する上で大切なのは、これが「天の国・神の国の到来」と関連して語られていることです。

 これまでにマタイ福音書の「天の国」についての譬え話を連続して読んできました。どの譬えでも、問われているのは、「天の国・神の国の到来」の際に、弟子たち、キリストを信じる者が、どのような備えをするかということでした。それはまた、自分がこの世界で、どのように信仰を持ち、どのように生きるのかということでもあります。

 今日の日課の譬えで、旅に出かける主人はイエス様、お金を預けられた僕は弟子たちと理解することが出来ます。

 このタラントが何を指しているのかは、様々な解釈ができると思いますが、そのうえで、三人の僕のそれぞれが、どのように主人の意図に沿って、自分たちに預けられたものを活用するかという「課題」に取り組んだのか、それがイエス様によって問われたとも言えます。

 タラントを増やした僕は、主人から褒められていますが、主人が評価しているのは、何かを成し遂げた結果よりも、主人の意図、もしくは主人が示した信頼に応えたことにあります。失敗するかもしれない危険はあったわけですが、しかし、そこで「課題」に挑戦していったこと、取り組む姿勢が褒められているのです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であった」という言葉は、そのことを示しています。大金であるタラントが「少しのもの」ということは、それを預けた主人の財産・富の豊かさを表すのかもしれません。

 言い換えれば、弟子である一人一人が、神様の豊かな恵みの中から、大きなものを預けられている、ということです。では、現代に生きるイエス様の弟子である私たちは、どのようなタラントを神様から預けられているのか。それを考えることが必要です。

 

 先ずこのタラントは、神様から授けられた能力や才能、資質と考えることができます。つまり、私たち一人一人も、小さい大きいにかかわらず、それぞれに異なった形ではあっても、その人にしかない固有の能力や才能が備えられている。そして、それらのタラントは、磨かれ、より豊かなものとなる可能性を持っていて、どのようにそれを磨き、豊かな実りを生み出すかは、私たちの生き方次第だということです。

 また、このタラントを、弟子である者一人ひとりに与えられている命だ、と考えることもできます。一人一人が神様から命を預かっている。その命をどう生かすのかが、それぞれに委ねられているのです。

 あるいは、このタラントを神の言葉、イエス様の教え、神の国が実現するヴィジョンだと理解することもできるかもしれません。預けられたタラントを活用することとは、神の言葉やイエス様の教えを活かすこと、その言葉に従って人生を生きることを意味するともいえます。

 でもこの場合、一番適切なのは、神様が私たちに預けられているのは、神様の愛だということができるかもしれません。「僕たちの能力に応じて」という言葉を、私たちの「個性に応じて」と読み替えることも可能です。私たちは一人一人個性が違います。性格も、好みも、人との接し方も、それぞれが特徴をもって生きています。その私たちの個性に応じて、なお与えられている神様の愛。それは、一人一人が違った仕方で、「自分を愛する(大切にする)ように、隣人を愛する」ということを表していくことでもあります。だから、もし私が、自分自身の命を大切にして慈しみ、活き活きと生きて、そして、神様の示された愛を、その周りの人たちにも与えることができるなら、私は、自分の人生だけでなしに、周りの人たちの人生をも豊かにすることができます。そのとき、悲しんでいる人が慰められ、力を奪われてしまった人がもう一度立ち上がることができるようになり、絶望していた人が生き生きとした生活を回復する。それこそが、タラントが増える、利殖を生む、より豊かな価値を生むことと考えられるのではないでしょうか。

 ですから、私には能力や才能などないし、資質もないと考えて諦めてしまうことは、譬えに出てくる三人目の僕と同じに振舞うことになってしまいます。諦めてしまうことは、自分のタラントの持つ可能性を穴の中に埋めることになってしまうからです。

 私たちが、自分の人生の中で、目の前にある「課題」を解決しようと向き合うとき、私たちは一人一人が、委ねられたタラントを活かすための挑戦の機会を持つのです。神様から私たちが委ねられたタラントを活かすこと。それはもちろん、ある意味では人生における一つの挑戦です。もちろん未来は不確実なもので、失敗や挫折は起こるかもしれません。しかし、大切なのは、そこでなおも希望を持って、神様の助けを信じて、自分の人生を活き活きしたものにしようと挑戦していくことです。そして、そのような者を、再臨されたイエス様は、「忠実な良い僕」と呼んでくださるのです。

 しばしば、人が最期を迎える時、その人の人生を振り返るときを持つといいます。それはいわば神様の前で、自分の人生の総決算をすることと言えるかもしれません。その時に神様の前に頭をあげて、「神様、私はこのように勇気をもって挑戦して、生きました。あなたから託されたものをこのように活用しました。」と言える人生を、私たちも送りたいものです。

202311月 12 日 
聖霊降臨後第24主日

「来るべき

明日に備えて」

​マタイによる福音書
25節~13

 もしも、皆さんの家を誰かが訪ねてくることが、前もって(ある程度時間的にゆとりがあって)判っている場合、皆さんはどうしますか。

 少なくとも客を通す部屋の掃除はするでしょうし、もちろん玄関の靴も揃えて整理しておく。なんなら消臭スプレーぐらい撒いておく。常に家中、整理が行き届いていて、毎日掃除が完璧にできていれば問題はないでしょうが、そうでなければ、片付いていない部屋は、戸を閉めてなるべく見られないようにしておく。そんなところでしょうか。

 では、不意の来客があって、どうしても家に上がってもらわなければならない状況になったとしたら、どうでしょう。客間でもあれば別ですが、そうでなければ取り繕うわけではないけれども、「少しお待ちください」とか何とか云って、とりあえず見られたくない雑多なものは、隣の部屋や押し入れに押しこんで、そこそこに見栄えを良くしてから、居間に上がってもらうのではないでしょうか。牧師館も、いつ人が来てもすぐに対応できるように居間ぐらいは整えておけばいいのだけれど、いかんせん猫はいるわ、たたんでいない洗濯物はあるわ、郵便物は整理できていないわ、それよりなにより、ちゃんと人前に出られる格好でいたいわけで、あたふたして、訪ねてこられた人を玄関先で待たせてしまうということがよくあります。

 十字架にかけられ死んで黄泉に下り、三日後に復活されたイエス・キリストは、天に上られた後、再びこの地上に来られる。その時、地上の歴史は終わりを告げ、神様の支配する「神の国、天の国」が始まるという信仰を、少なくとも二千年前から、キリスト教は堅く守って生きてきました。

 このキリストの再臨という出来事の到来は、喩えて言うなら、あらかじめ知らされていた来客を迎えるようなものです。厄介(?)なのは、「その日、その時」がいつになるのかが、はっきりしていないことです。聖書には、「キリストは再びやって来る。」それも「盗人がやって来るように、突然やって来る。」としか書いていないからです。つまり、突然やってくるという意味では、不意の来客とも言えます。

 キリストがいつ来たとしてもいいように、キリストを迎える万全の準備ができていれば問題はないのかもしれませんが、実際には、私たちは、キリストの再臨という約束を信じて待ちながらも、私たちの日常は、「その日、その時」まで続いていくのであり、毎日の生活の中で、私たちは日々起こる小さな、或いは大きな出来事に何かしら気をとられて、「キリストが突然やってくるかもしれない」ということに現実味が感じられなかったり、あるいは「いつ来られてもいいようにしておく」という緊張感を忘れているのではないでしょうか。

 

 今日の日課、マタイによる福音書25章1節から13節には、その「突然訪れる神の国、天の国」について、イエス様が語った譬え話が記されています。

 この十人の少女たちの譬えでは、婚礼に遅れている花婿は、再臨するキリストを表しています。そして、花婿が到着した時に、明かりを持って出迎えるという大切な役割を仰せつかって、婚礼の席に呼ばれている十人の少女たちは、キリストを信じ、その再臨を待ち望んでいる人々を指しています。

 この譬え話の中で、花婿の到着は遅れていて、いつになるのかわかりません。それゆえ、少女たちは待ちくたびれて、とうとう眠ってしまい、花婿の到着と共に慌てて起きるわけですが、それは人の日常生活のサイクルを表していると言えるでしょう。朝起きても、夜には疲れて寝てしまうという当たり前の繰り返しが、その人が生きている限り、キリストの再臨のその時まで続くということです。

 実は、このマタイ福音書が書かれた時代、イエス・キリストの復活を信じた多くの人々は、「主の再臨がすぐにも起こる」と信じ、またそのことを強く期待していました。しかし期待した通りには、再臨のキリスト、イエス様はすぐにはやって来ませんでした。

 イエス様がいつ来られるのかは明言されなかった以上、それは明日かもしれないし、あるいはもっと未来かもしれない。明日来るかもしれないキリストの再臨に備えて、日常の生活までも放り出して、常に緊張して過ごすことは出来ません。だからと言って、その時は当分やって来ないだろうとタカをくくって、怠惰に時を過ごすうちに、キリストの教えから離れてしまい、この世の終わりの審判を迎えることにもなりかねません。

 そのようにこの譬え話を読んでいくとき、実は、主の再臨までの期間をどのように備えて過ごすべきなのかという、福音書記者マタイの問題意識が、イエス様の教えと警告として、表されていることがわかります。

 この譬え話の中で、「賢いおとめたち」と「愚かなおとめたち」に分けられているのは、花婿が遅れた場合を想定して、花婿を迎えるために夜通し灯していたランプ(あるいはたいまつ)の、予備の油を用意していたか、いなかったかということによります。十人の少女たち全員が、疲れて眠ってしまったこと、それ自体は、愚かなこととはどこにも書かれていません。到着の知らせを受けてから、起き出せば良いことだからです。

 問題とされるのは、ランプの油が切れかかってしまった時のために、彼女たちが予備の油を用意していたかどうかということです。   

 十人の少女たちは、「先のことまでよくよく考えて、準備をする賢い者」と、「目の前のことにばかり心を奪われて、突然の出来事を想定していなかった者」とに分かれてしまったということです。

 ごく近い将来にしか目を向けず、主の再臨の「その時」が遅くなる可能性を考えないでいることも、また「その時」は当分来ないだろうと考えることも、譬えでいうところの予備の油を用意しなかった五人の少女と同じだといえます。いつ「その時」が来てもよいように、期待しつつも冷静に、常に備えていることが求められているのです。

 

 さて、今でこそ、携帯電話やスマートフォンがありますが、一昔前までは、他の人と待ち合わせしたときに、連絡を取り合うことは容易ではありませんでした。約束の時間に遅れてしまったり、相手が見つからなかったときには、果たして相手と出会えるかどうか判らず、もどかしさや心細さ、不安を感じたものです。

また、人が、自分の期待している出来事や、自分の夢や願望が実現するのを待つ時も、その人が持っている願いや期待が大きければ大きいほど、待つ時間というものは長く感じられ、そのために他のことが手につかないほどそわそわしたり、あるいは、本当にそれは実現するのだろうかと、疑ってしまったり不安に駆られたりもするでしょう。

 「人間は待つ存在である」と、言われます。

 人は生きている限り、期待しながら、あるいは半信半疑でも、何かの出来事を待っているかもしれません。人はおそらく誰でも、誰かに愛されたり、愛したりすることを、誰かと出会い、誰かと共に過ごすことを待っていると言えるのではないでしょうか。あるいは、自分を束縛しているものや自分を苦しめるものからの解放を、また自分の罪の赦しが与えられることを、待ち望んでいるかもしれません。そして、人は、自分が望むと望まないとにかかわらず、誰かとの別れの時を待っています。それは地上の命の終わりという形かもしれません。人が生きることは、まさに待つことなのです。

 問題なのは、待つことが、ときにはその人にとって、耐え忍ばなければならない経験であるかもしれないということです。それゆえ、ある人は、待つことに疲れて、あるいは痺れを切らして、諦めてしまったり、期待することを止めてしまうかもしれません。また、ある人は、失望することを恐れて、早々と待つことを止めてしまうかもしれません。人が待つために、望みを持ち続けること、信じ続けることは容易ではありません。

 神学者のボンヘッファーは、「楽観主義」という文章の中で、世界の終わりを待ち望むことによって、この世でのよりよい将来を望み、「そのために準備すること」を諦めてしまったり、現実から逃避することを戒めています。「最後の審判の日は、明日突然来るかもしれない。そうなったら、われわれは喜んでより良き将来のための仕事なるものを放棄してもいい。だが、それ以前はそうはすまい。」

 宗教改革者のマルティン・ルターも同様の言葉を語っています。「明日、世界の終りが来るとしても、私は今日、リンゴの木を植える。」と。

 未来に対して絶望して、未来が開かれていくことをあきらめてしまう、時間の長さに耐えかねて、何かに酔って忘れようとしたり、その場限りの楽しみに没頭する、人は時としてそのような誘惑にかられます。しかし、神様は、人が自分の未来を何者かに譲り渡すことを、決して望んではおられないのです。

 

 私たちにとっては、再臨のキリストを待つということは、文字通りの意味だけでなく、同時によりよい「将来・明日」への希望と信頼をもつことを意味します。言い換えればそれは、私たちが今直面している問題や課題への、よりよい解決を諦めないということです。今日よりもよい明日を求めて、そのために努力し、準備するということであり、今の私たちだけでなく、未来の世代の人たちのためにも、世界を整えていくということです。

 それは、暗い闇夜の中を、遠くに見えるかすかな光を目当てに、山道を歩くのに似ているかもしれません。私たちにできることは、手に持ったともし火、あるいはたいまつの光を頼りに、足元を確認しながら、一歩一歩確かに歩みを進めることかもしれません。大切なのは、たとえ休み休みではあっても、歩むことを諦めないということです。夜明け前の闇が一番暗いといいます。しかし、夜は明けます。閉塞的な状況であっても、私たちのなすべき務めを果たす、その努力を止めないことです。それが、私たちの日常生活を大切に生きて、キリストの再臨に備えるということです。

 キリストが再臨する時は、私たち一人ひとりが束縛から解放され、全てが新しくされる時です。「喜びと祝い」の時です。「その日、その時」への確かな信頼と信仰を持つことが、十人の少女たちが必要としている「油」を用意すること、持つことなのかもしれません。

 もうすぐ主の降誕を待ち望む待降節を迎えます。待降節は、主の生誕を祝うクリスマスの準備の時期というだけではありません。再び来たりたもう主イエス・キリストを待つための季節でもあるのです。ですから、今私たちもまた、一つの覚悟を持つ必要があります。私たちの明日を、将来を、未来を、絶望や不安に譲渡さない覚悟が、私たちの夢をなくさない覚悟が、必要なのです。

「主よ、遅れないでください。」と祈りましょう。そして、「正義を洪水のように╲恵みの業を大河のように╲尽きることなく流れさせ」てくださいと、祈りましょう。

202311月 5 日 
全聖徒主日

「幸いなる

人々」

​マタイによる福音書
節~12

 今日、私たちは、ここで全聖徒主日の礼拝を持とうとしています。教会の暦では、天に召されたすべての信徒を記念して覚える日です。聖壇の前には天に召された姉妹・兄弟の写真が飾られています。

 死者を悼む、それは死者を思い、偲ぶにとどまりません。私たちが別れを告げた死者たちと、私たちの人生を重ね合わせて顧みる時間でもあるのです。

 毎年お話しすることですが、亡くなられた姉妹・兄弟を思い起こす時に、私たちは、死の問題と向き合っているともいえます。

 人は、いつかは死ぬ存在です。それは紛れもない厳然とした事実です。人は初めから限界をもった存在です。そして、人の生と死は交差しています。人の生のすぐそばに、同時に死が存在しているのです。死は生の対極にあるというよりも、傍らにあります。人はいつ訪れるかわからない死の傍らで生きている、といえるでしょう。

 釜ヶ崎で出会った一人の高齢の男性を思い出します。長く日雇い労働者として働いてきたその男性は、非常に陽気で前向きな方でした。その人と路上で出会って、「こんにちわ、元気」と聞くといつもこう返事が返ってきました。「元気だよ。俺は死ぬまで生きるよ。」 「当たり前やん」と突っ込みを入れたくなるのですが、よくよく考えれば、深いことを彼は言っているようにも思ったりもしました。

 私たちは死のその瞬間まで生きるわけです。その死が予感されたり、あるいは不意に訪れたものであったとしても、私たちはその死の瞬間まで、私たちの人生、生命を生きるのです。

 神様から与えられ、また託された命を私たちは生きている訳です。先に天に召された姉妹・兄弟たちのように。

 召天者記念礼拝では、天に召された姉妹・兄弟のお名前を読み上げます。生前交わりのあった方々にとっては、彼らの面影、あるいはその声や姿を思い出すのではないでしょうか。いろいろな機会に、亡くなられた姉妹・兄弟の思い出を、ご家族から、或いは友人であった方々から伺うことがありますが、そうした思い出やお話を通して、生前の姉妹・兄弟たちの姿が生き生きと浮かんでくる思いがします。様々な人生がそこにあり、一人の人が確かに生きて来た歴史を感じるのです。

 生前の姉妹・兄弟たちもまた、両親の下に子どもとして生まれ、育ち、学び、また働き、家族を養い育て、歩んできました。青年の頃、夢をもち、友人や家族と語り合ってきた時間がありました。そして、私たちのそれぞれが、彼らと共に過ごしてきた時間の記憶があります。私たちは、今しばらくの間、天に召された姉妹・兄弟たちを偲びながら、彼らの人生と、そして私たち自身の人生に思いを馳せていきたいと思うのです。

 

 今日、与えられている日課は、マタイによる福音書5章1節から12節、山上の説教と呼ばれるものの一部です。

 イエス様は、小高い丘の上に登り、座られて集まって来た人々と弟子たちを前にして語られました。

 

 それは、「幸いである」で始まる祝福の言葉でした。そこで、「幸いである」とされる人たちは、次のような人たちでした。「心貧しい人」とは、心底貧しい人のことをいいます。「悲しむ人」は、慰めを必要とする人のことです。「柔和な人」とは、神様の前に謙遜な人のことです。「義に飢え渇く人」とは、神様の正義と公正を求める人のことをいいます。「憐れみ深い人」、「心の清い人」とは、文字通り慈悲深く、善良で愛に満ちた人たちのことです。それは、また「平和のために働く人」のことでもあり、「正義のために迫害される人」のことでもあります。あるいはまた、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」人々も、その祝福の対象でした。

 それはおそらくは、イエス様の前に集まっていた人々、様々な思いを携えてやって来た人々の状態を現わしているとも言えます。

 もしも彼らが、貧しく圧迫され、悲しみを負っていたとするならば、そして、彼らの一人一人が、柔和であるがゆえに不当なことにも耐え、正義を求めてやまず、憐れみに満ちて心清らかで、平和を求めるがゆえに、迫害されていたからだとしたら、それは、「幸い」、「幸福」とはかけ離れた状態にも思えます。貧困や飢え、暴力、病気、死が引き起こす悲しみや嘆き、痛みは、決して幸いなことではなく、それは辛いことだからです。

 にもかかわらず、イエス様は、そのような人たちを幸いと祝福します。そのように毎日を生きている一人一人が、ここで祝福を受けているのです。

 ではなぜ、イエス様は彼らを「あなたがたは幸いだ」というのでしょうか。それは、彼らが「天の国を手に入れ」、「慰められ」、「地を受け継ぐ」からです。彼らはまた、「満たされ」、「憐れみを受ける。」「神を見」、「神の子と呼ばれる」からです。そして、彼らは、「喜ぶような」「天に大きな報いがある」からです。今、辛い状態にある彼らが、神様によって、満たされ、報われるという約束が与えられているからです。

 つまり、この祝福の言葉は、いわば一つの宣言なのです。毎日の生活の中で、貧しさと戦い、悲しみを堪えて、神様の正義と平和を求める人への宣言なのです。神様が「幸い」と祝福されるのは、あなたがたを置いて他にはいない。あなたがたが幸せにならなくてどうするのか。あなたがたの上に神様の約束が実現するのだ。だからあなたがたは幸いなのだ。そんなイエス様の思いがこの宣言には込められているのです。私たちはここに福音を聞きます。喜ばしい音信を聞くのです。

 そのことは、逆説として、一つのことを示しています。つまり、もしも、この祝福の言葉を、今現在、実際に喜ばしい音信、福音として聞くことができるとするなら、そのような人一人一人は、「心貧しい者」であり、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く人」、そして、「憐れみ深い者」、「心の清い者」であり、「平和のために働く人」、「正義のために迫害された人」なのだということです。

 人が、この祝福の言葉を福音として聞くことができるならば、それは、「幸いなる人」だということです。なぜなら、その人は神様に覚えられているからです。もちろん、その人は、今は、乗り越えなければならない課題や問題を抱えているかもしれない。しかし、その人は、神様の祝福にとどまり、約束の実現を待つことができるからです。その人の上に神様が働き、神様が共にその課題や問題を、様々な助けを通して乗り越えてくれるからです。

 今日の福音書の日課が、全聖徒の日に読まれる意味がここにあります。

 私たちが記憶の内に覚えている姉妹・兄弟もまた、この地上で生涯の間、貧しさも悲しみも経験し、福音を聴き、イエス様を信じ、柔和な者、心清い者として、憐れみ深く、神様の正義と公正、正義を求めて生きてきたのではないでしょうか。それゆえ、彼らは、「幸いな人」と祝福を受け、また天の国を受け継ぐのです。神様の祝福の約束が成就するのです。

 また、そのことは、生前にはイエス様と出会うことがなかった姉妹・兄弟にも同様に言えることです。姉妹・兄弟がたとえ天に召された時、信仰者ではなかったとしても、その人生において、時に「貧しく」、「義に飢え」、「悲しみを覚え」、悩み、労苦したとするならば、その経験そのものを通して、「あなたがたは幸いである」という神様の恵みと祝福が与えられているのです。

 彼らは、「天の国を受け継ぎ、慰められ、満たされる」のです。   

 今日の使徒書の日課、ヨハネの黙示録7章14節後半から17節にはこう記してあります。

 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。/それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。/彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。/玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 この約束のもとに、天に召された彼らも、また私たちも生かされているのです。

 さて、最後に、しばしば私たちは、死を孤独なものとして捉えます。「私たちはそれぞれ、ひとりで生まれ、ひとりで死んでいく」と言う言葉は、それを現わします。それはある意味では真理です。しかし、キリスト教においては、もう一つの死の捉え方がある。

 宗教改革者ルターはこう記しています。

 「キリスト者は誰でも臨終に際しては、自分が一人だけで死んでいくのではないということを疑わず、多くの目が自分に注がれていることを確信しなければならない。第一に神とキリストご自身の目が注がれる。次には天使と聖徒たちとすべてのキリスト者たちが見守っている。これらの人々は、ちょうど全身がこぞってその部分を助けるように、一体となって彼のもとへ馳せ参じ、彼がその死と罪と陰府を克服するのを助け、すべての重荷を、彼と共に担うということは疑いないからである。こうして、そこに愛のわざと聖徒の交わりとが真実に力強く実現するのである。」

 私たちは、聖徒たちとの共同性の中に生きていているといルターは語っています。

 神学校のある先生が、興味深いことを教えてくれたことがあります。それは、聖餐式の時に私たちは聖卓を囲んで半円を作りますが、その聖卓のもう半分には、天に召された聖徒たちが集っているという理解です。

 この世の死は終わりではないのです。聖徒たちの死は新しい誕生といわれる。私たちは、先に天に召された聖徒たちと、姉妹・兄弟たちと、キリストにおいて、今も確かにつながっているのです。

 ここに写真が飾られ、また名前が読み上げられる姉妹・兄弟たちが、そのいのちを確かに生きていて、地上ですごした生活があったことを覚える時を持ちましょう。そして、今、生きている私たちも、神様の御手に確かに守られて、いのちの歩みの軌跡をたどっていることを覚えましょう。

 今日の賛美唱、詩編の34篇で詩人はこう詠っています。

 「主を仰ぎ見る人は光と輝き、╲辱めに顔を伏せることはない。╲╲この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、╲苦難から常に救ってくださった。╲╲主の使いがその周りに陣を敷き、╲主を畏れる人を守り助けてくださった。╲╲味わい、見よ、主の恵み深さを。╲いかに幸いなことか、みもとに身を寄せる人は。╲╲主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。╲主を畏れる人には何も欠けることがない。」

20231029日 
​宗教改革主日

「私たちを

自由にする真理」

​ヨハネによる福音書
章 3節~36

 バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)という言葉をご存じでしょうか。もともとは力学上の一つの理論を表していますが、「蝶の羽の羽ばたきのような小さな行動も、遠く離れた場所で大きな影響を与える」という意味としても用いられます。

 今日は、宗教改革主日です。私たち、ルーテル教会(ルター派教会)の出発点ともいえる宗教改革という出来事を覚える日です。

 そして、この宗教改革という出来事も、ある意味では、このバタフライ・エフェクトの一つの実例とも言うことができます。

 1517年10月31日、中部ドイツのヴィッテンベルクという町の城教会の扉に、大学の教師でもあった一人の修道士が、ある神学的な討論のための提題を掲示しました。修道士の名は、マルティン・ルター。彼は、その提題によって、当時広く、(カトリック)教会によって行われていた贖宥券(免罪符)の発行と販売についての是非を問う討論を呼び掛けていました。

 本来、神様の前で悔い改めることなしには赦されることのない罪のすべてが、贖宥券(免罪符)を購入することで、ローマ教皇によって免除されるというのは、明らかな間違いだとルターは、提題の中で、厳しく批判しました。それによって人々は、悔い改めを軽視するようになり、安易な平安のみを求めるようになるだけでなく、贖宥券に金銭を費やすことで、貧しい人々を助けるという愛のわざからも遠ざかるようになる、とルターは主張したのです。

 この彼の討論の呼びかけへの反応は、初めはほとんどありませんでした。ただ、その提題を読んだ大司教が、それをローマ教皇庁に送ったのと、ルターの属していたアウグスティヌス派修道会に働きかけて、彼がこれ以上この贖宥券の問題について話さないよう圧力をかけたのです。歴史に「もしも」はありませんが、「もしも」この時、ルターの討論の呼びかけに大司教が違った対応を試みて、正式な神学的討論がなされていたとしたら、後年宗教改革と呼ばれた一連の運動は、全く異なっていたかもしれません。

 表面上は、教会からほとんど相手にされなかったように見えたルターの提題でしたが、実際のところ、いつのまにかルターの思惑をはるかに超えて多くの人に知られることとなり、その反響は大きく拡がっていきました。もともとラテン語で書かれたものがドイツ語に翻訳され、当時発明されたばかりの印刷機で印刷されて、ドイツ中にばら撒かれたからです。その結果、贖宥券について多くの人々が感じていた疑問を明らかにすることになったのです。

 これが宗教改革の発端、「蝶の羽の小さな羽ばたき」だったのです。

 

 今日の福音書の日課は、ヨハネによる福音書8章31節から36節です。ここには、エルサレムの神殿で、イエス様とユダヤ人たちとが行った論争が描かれています。

 イエス様を信じたユダヤ人たちを前にして、イエス様はこのように語ります。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは、真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と。

 イエス様が、こう語ったとき、聞いていたユダヤ人たちは、それを理解していません。彼らはイエス様にいいます。「わたしたちは、アブラハムの子孫で、未だかつて誰にも隷属したことなどない。今更自由は入らない」。

 ユダヤ人たちは、自分たちの出自、アブラハム以来の正当なユダヤ人であることを主張します。または、身分的なこと、奴隷の地位にいるのではないことなどを問題にするのです。何にも束縛されていないと感じていたユダヤ人たちにとっては、ある意味では当然の反応かもしれません。

 しかし、それに対して、イエス様は「その人の出自や身分」などの外面的なことを問題にはせず、その人の内面の罪を指摘し、「罪を犯す者は罪の奴隷である」と言われるのです。

 また、イエス様は、真理という言葉で、何かの知恵や知識のことを考えているのではありません。それは、具体的にはイエス様の言葉にとどまることを意味しています。つまり、イエス様の言葉とわざに聴き従うこと、あるいはイエス様の生涯そのものに自分の生き方の基準を置くということです。つまり、真理を知るとは、イエス様の言葉とわざを知ることと同じであり、そのことが、人を罪から救うのです。それによってのみ人は罪から解放されるのです。そこには、外面的な違い、差別は存在しません。誰であれ、罪を犯したことに不自由さを感じている者はすべて、罪から「自由」にされるのです。

 その罪を赦すのは、神の子である自分、イエスである。

 「子があなたがたを自由にするならば、あなたがたは、本当に自由になるだろう」。

 残念ながら、この時イエス様の周りにいたユダヤ人たちは、それをまったく理解しませんでした。理解したくなかったのかもしれません。なぜなら、それを認めれば、自分たちが「罪人」であることも認めることになるからです。律法に違反もせず「まっとうに」生活している彼らにとって、今更ながら、自分が「罪人」であることを認めるのは、耐えがたいことです。だから彼らは、イエス様に抵抗し、イエス様の言葉を否定していきます。そして、議論がかみ合わないままにどんどん言葉がエスカレートして、最後には、イエス様の殺害を企てるまでに発展していくのです。

 イエス様が語る真理、イエス様の言葉とわざに聴き従うとき、人は常に、イエス様の言葉とわざに立ち返り、批判的な視点と言いますか、これで本当にいいのかという問いかけを、その人自身が持つことができる。またはその人自身が自らを、あるいは自分の生きている世界を、イエス様の視点から眺めることができるわけです。自分の様子に気づく、この世界の様子に気づく。そのとき、私は、私自身を生活の中で束縛しているものが何かを見出す。自分の罪の状態に気付くわけです。そして、それを見出すことが、自由にされていく、解放されていくことの始まりなのです。

 

 ルターもまた、このイエス様への信仰による救いという真理を知ることで、まさに自由を得ていきます。それは、彼がそれまで縛られていた誤った考え方や常識から、また内面の罪の意識から解き放たれることで得た自由でした。

 ルターは、このイエス様が教えてくださった真理で、世界、あるいは自分の属している教会を省みたとき、ローマ教皇も教会も完全ではなく、間違うことがあるということを理解します。そして、彼は本当に大切なのは何かを見極めるのです。

 「教会とは信仰の集団で、この世に生きながら、この世とは、別な原理に生きている集団です」という言葉があります。言い換えれば、教会は、この世界の内にありながら、この世の原理を良しとしない集団であるということです。

 しかし、実際には、この世とは別な原理で生きているはずの教会の中に、世俗的な、この世で支配的な制度や価値観が当たり前のように、世間の常識として持ちこまれてしまっている。

 ルターは、真理ではない別な原理が持ち込まれているにもかかわらず、教会がそのことを批判しないでよしとしてしまう、そのこと自体をおかしいと言い切ります。ルターは、彼自身がその組織に組み込まれながらも、その教会全体を第三者として見つめることができました。彼がつかんだ真理によって、彼は自分を縛りつけているものから自由になることへと促されていくわけなのです。

 ルターはもともとカトリック教会と別な教会、宗教を立ち上げようと考えたわけではありません。彼自身の中では、あくまでイエス・キリストの信仰による教会の刷新を意図していたのです。

 ルターは、聖書にしるされたイエス・キリストの福音が現実の教会の中でないがしろにされ、救いを求めている人々が放り出されている現状を憂いています。その一方で、聖職者と呼ばれる人々が政治的支配者と結託して、あるいは自ら政治的な支配者となって暴利を貪っている、そうした現実があることに憤っています。教会はイエス様の信仰に立ち返るべきだ、と考えていましたが、今のような形でカトリック教会とわかれてしまうことは、彼の本意ではなかったわけです。

 しかし、彼の主張はカトリック教会からみれば、ローマ教皇の権威や教会の制度そのものを揺るがすような過激なものとされ、彼は数度の審問の結果、ローマ法王から破門をされ、そして、ついには神聖ローマ帝国皇帝の前で直接審問されることになるのです。それは、まかり間違えば、異端として捕らえられ、死刑に処されるかもしれないことを意味していました。

 しかし、ルターは、彼の確信した真理を撤回しませんでした。

 ルターはいいます。「私の良心に従って、私の主張を取り消すことはできません。」「もし私が間違ったことを語ったのならば、間違いであることを、旧約聖書と福音書にもとづいて証明して下さい。過ちを犯し、矛盾しているローマ法王や教会会議の言葉では、信頼できないからです。私は私の良心と神の言葉につながれたままです。私は何も取り消すことはできません」。そして、最後にこう述べたといわれています。

 「私はここに立っています。私は他のことをすることができません。神よ、私をお助け下さい」。

 彼が、聖書と真剣に取り組んだ結果、見出した主張を、信念を、信仰の核心を、取り消さなければどのような危険が自身を襲うかもしれない。一度は彼も、火あぶりの薪の束が目の前にちらついたとも話しています。でも、彼は、その信仰のゆえに見出した真理を取り消すことはしませんでした。もちろんその時の彼には、その後自分がどうなっていくのかは、分かってはいません。先の見えない状況の中で、しかし、ルターは自分自身の良心と神様の言葉への信仰に堅く立っていくのです。頭を高く上げていくのです。

 

 ルターの行動も、蝶の羽ばたきのようなほんの小さな始まりでした。しかし、それは大きな波紋を起こし、教会という組織を刷新するだけにとどまらず、人々を束縛していた伝統や常識、決まりきった「信仰」の考え方から解き放ち、その後の人々の精神的な在り方そのものを変化させていきます。

 火あぶりで死刑になっても当然だったルターは、その後、ローマ教皇と教会のやり方に対して批判的だった封建領主によって保護され、1521年以降は積極的に、これまでの教会の在り方や具体的な制度の改革を行っていきました。ルターと彼の同志たちの動きに触発されて、その直後から当時のヨーロッパの各地で、同じような教会改革が起こっていきます。そうして政治的な変化とも相まってヨーロッパ全域に広がる大きな運動となって行きました。これが宗教改革であり、そのことを記念して覚えるのがこの主日なのです。

 そして、宗教改革とは、約五百年前に起こった歴史上の出来事だけを意味しません。私たちが、常にキリスト教の信仰の在り方を反省し、見直すとき、そして、この現代社会において、自分の、そして自分たちの置かれた状況の中で、自らの信仰を告白し、人々を救いと解放へ、自由へと導いていく「神様の正義と公平」を実現しようとするとき、私たちは、宗教改革の精神を生きることができるのです。

20231022日 
​聖霊降臨後第21主日

「神のものを

神に返す」

​マタイによる福音書
2215節~22

 皆さんにひとつ質問です。もしもある日、神様の使いが皆さんのところに現れて(それは間違いなく神様からの「本物の」使いだという確証があってですが)、「あなたが神様から受けた(頂いた)ものを返してください」と云ったら、皆さんは(あなたは)、何を神様に返さなければならないと思うでしょうか。返すものなど何もないと思うでしょうか。それとも、何か心当たりがあって、返すとすればこれだと思うでしょうか。

 もしも、私たちが神様から何かを借りているとするならば、借りたものを返すのは当たり前のことです。だとすればなおさら、今日の日課にある「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という言葉が、本当のところ何を表しているのかを、少し考えていきたいと思います。

 

 エルサレムに入城し、毎日神殿で人々に教え、癒しを行っていたイエス様に対して、「祭司長や町の長老たち」、特に「ファリサイ派の人々は」、「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談」します。そして、とにかくイエス様を陥れるために知恵を絞って、イエス様が何か失言をするように仕向けるのです。そのために、彼らは日頃は対立しているヘロデ王家の支持者たちと手を組んで、共通の敵であるイエス様のもとへと出かけて行きました。

 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」

 悪というものは、しばしば善の仮面をつけて立ち現れるという言葉がありますが、ファリサイ派の人々は、先ず下手に出て、心にもない言葉、お世辞を語ってイエス様に近づきます。それは偽善です。彼らは、あたかも偉い先生の教えを賜りたいとでもいうように、慇懃に振舞いながら、イエス様を罠にかけようとします。

 「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」これが彼らの仕掛けた罠でした。

 

 質問は、税金と律法の関係、つまりローマ皇帝に税金を納めるのは、(旧約)聖書の律法に適っているかいないかということでした。しかし、これはある意味で、イエス様の政治的な立場を明らかにさせようとする質問でもありました。

 この時代の税金は、今日の「民主主義国家」のそれとは違って、国民や市民に還元される公共の事業や福祉などの財源ではなくて、支配者(と国家)のために徴収されるものでした。ときのユダヤ・サマリヤ地方一帯は、ローマ帝国の直轄領になっていましたが、そのためその地方の住民は直接税(人頭税)として、住民一人につき一定の金額をローマ帝国に支払う義務が生じていたのです。そして、この人頭税を肯定することは、ローマ帝国の支配に反感を持っていた人たちからは、異邦人であるローマ帝国に味方する行為だと受け止められていたのです。とはいえ住民たちは、もちろん支払わなければなりませんでしたが、内心はいやいや支払っていたろうと思います。

 ですから、イエス様がもしも、この問いに対して、「ローマ皇帝に税を支払うのは律法に適っている」といえば、イエス様は「ローマ帝国寄り」の立場と見なされて、そのことで多くの民衆の信頼を失うことになります。ファリサイ派は基本的には異邦人であるローマ帝国への納税を、快くは思っていなかったからです。

 反対に「適っていないので支払う必要はない」といえば、「イエスはローマ帝国の政策に反対した」と、親ローマ帝国の立場であるヘロデ派から、告発される可能性があったわけです。

 どちらに転んでも、イエス様を追い込められる、とファリサイ派もヘロデ派も思っていました。それだけこの問いは、イエス様への民衆の信頼を大きく左右するものでもあったわけです。

 このときイエス様は、彼らの悪意に気づいていました。そして、イエス様は、この質問には正面から答えません。「律法にはこのように書いてある」とか、あるいは「律法の精神から言えばこのように考えられる」とは答えません。

 そうではなくて、税金を納めるのに使用する貨幣を持ってこさせて、その貨幣にどんな肖像と銘が彫ってあるかどうかを確かめさせます。彼らが持ってきたデナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が彫ってありました。彼らが、「(銀貨にある肖像と銘は)皇帝のものです」と言うと、イエス様は言われます。

 「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 それは、「ローマ帝国で流通している貨幣だから、それならローマ帝国側に返しなさい」とも言っているように聞こえます。ただし「神のものは神に返しなさい」と付け加えて。この「神のもの」、一説ではすべてのユダヤ人が納める義務を負っていた「神殿税」(エルサレム神殿の維持のために徴収された税金)のこととも言われています。「あなたたちが神殿税を納めなければならないのと同じように」の意味でしょうか。ただし、イエス様がここで、税金の制度について何かの考えを明らかにしたというのではありません。とにかく、イエス様は彼を陥れようとする質問に、付け入る隙を与えません。「皇帝への納税」が、律法に適法かどうかは答えていません。しかし、このイエス様の答えにファリサイ派もヘロデ派も驚き、イエス様をその場に残して立ち去るのです。

 

 さて、この「神のもの」という言葉について、もう少し考えてみたいと思います。

 先ず考えられるのは、「神のもの」を愛だと理解することです。

 「神は愛なのだから、愛は神のものであり、神のものは神に返せというのは、神に愛を、兄弟愛を献げろということだ」というのです。ある人は、旧約聖書のホセア書の言葉から、「神がわれわれから望まれるものは、犠牲ではなく(また燔祭などの宗教的崇拝でもなく)、愛と慈しみであり」、「神のものを神に返す」とは、私たち人間が受けた「神様からの愛」を、今度は具体的な形で隣人への愛と慈しみとして表していくことだと云います。

 それはまた、イザヤ書の58章6節以下の言葉にも記されています。(神様が私たちに望むのは、)「飢えた人にあなたのパンを裂き与え╲さまよう貧しい人を家に招き入れ╲裸の人に会えば衣を着せかけ╲同胞に助けを惜しまないこと」であり、それが、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて╲虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること」なのだ、というものです。人々と互いに愛し合い、大切に思い合い、助け合うために、モノや富を分かち合うということだ、と考えるのです。

 言い換えれば、イエス様がファリサイ派やヘロデ派の人々に対して、「神のものを神に返しなさい」と語ったのは、自分たちが受けた「神様からの愛」を、具体的に隣人への愛として表すことが、あなたたちにはない、という批判でもあると思われます。自分たちの恵まれた生活に対して感謝を持って省みることもなく、民衆と互いに愛し合い、大切に思い合い、助け合ってモノや富を分かち合うということを、彼らはしていない。だから、イエス様はそれを指摘したのだといえるでしょう。

 

 もう一つの「神のもの」についての具体的なイメージは、例えば宗教改革者のマルティン・ルタ―が、「主の祈り」の「日毎の糧」に関する解説で書いているように、私たちの生命を保ち維持していくために欠かせないものすべてです。

 「(日毎の糧とは)からだの栄養と維持のために必要なすべてのもの」を云い、それは「食べ物と飲み物、衣服と履き物、家と屋敷、畑と家畜、お金と財産」などの生活必需品に止まらず、「信仰深い」家族、安全をもたらす政府や国、平和な状態と自然環境、健康や教育、職業、そして、「よい友人、信頼できる隣人など」多岐にわたっています。ルターが掲げたものは、現代でも私たちの生活を維持するうえでも欠かせないものですが、こうしたものを私たちは、与えられ、また手に入れて、生命をつないでいるわけです。つまり、そのような一切のものが「神様から頂いたもの」とも言えます。

 また、私たちの生命そのものが、「神様から頂いたもの」です。一つの生命がこの地上で生まれ、成長し、そして時を経て、死の時を迎え、神様のもとへと帰っていく。それもまた、「神のものを神に返していく」プロセス(過程)なのではないかとも思うのです。

 そう考えていくとき、この「神のものを神に返す」という言葉は、より豊かなものとしてイメージされ、より具体的なものとして形に表されていくのではないでしょうか。

 

 ただ、神様がすべての人に生命を与え、それを保ち、生活を維持していくための一切のものをくださっているにもかかわらず、現実には、誰もがそうした「生命を保ち、生活を維持するためのもの」を受けられてはいない状況があります。国や地域によっては、貧困や飢餓、病気や障碍、失業や生活格差、戦争や内戦、環境破壊などの問題によって、生活が損なわれ、生命の危険に脅かされている人々がいます。その原因は、一部の人が、神様から頂いている恵みを感謝せず、貪り、「神に返していく」ことをしないからではないでしょうか。

 それだけに、私たちが受け取ることのできた「神様から頂いたもの」を、今度は私たちが「神様に返していく」ことは大切です。

 そして、そうした私たちが必要としてきた一切のものが、与えられてきたことに対して、私たちは、喜びを持って、感謝すべきであるとも言えます。つまり、「神のものを神に返す」ということは、実はそういった感謝の思いと行為であるともいえるでしょう。その意味では、私たちが礼拝で献げる献金も、私たちが「神様から受けてきた一切のもの」に対する感謝のしるしです。その喜びと感謝の思いを、姉妹・兄弟の共同体の働きのために、形にしていく一つの在り方です。

 それはまた、ある意味では自分自身の生き方として現すこともできます。それは、神様に喜ばれる生き方を生きる。神様に喜ばれるような人生を歩むということかもしれません。

 アルベルト・シュヴァイツアーは、20代の頃には、哲学、神学、音楽の学位を取得し、聖書学やJ・S・バッハの研究者であり、そして優秀なオルガン奏者でした。しかし、30歳の時に進路を変えて医者になり、アフリカでハンセン病の患者の病院を設立し、数十年にわたって活動を続けました。人の役に立ちたいという情熱に突き動かされての行動でした。隣人のため、「他者のため」に働き、生きる。隣人を活かすために、私は生きる。それもまた、一つの「神のものを神に返す」あり方だといえるでしょう。

 私たちも「心と、思いと、精神を尽くして」、自分自身の持てる全てを尽くして、「神様から頂いたものを神様に返していく」ように、努めていきたいと思います。

2020年8月30 日(聖霊降臨後第13主日)

「キリストに倣う」 

 マタイによる福音書

 ​16章21節~28節

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 中村哲という日本人医師が、活動していたアフガニスタンで何者かに襲われ、命を落としてから、すでに九ヶ月が経ちました。

 中村さんは、著書「医者、用水路を拓く」にも書いておられますが、医療活動を行うだけでなく、水源を確保する事業を進めていました。

 中村さんは、1978年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によって発生した、多くのアフガン人難民を救援するため、1984年にパキスタンで医療活動を始めます。そして、数年後にはパキスタン北西部の山岳地帯やソ連軍撤退後のアフガニスタン東部で、診療所を開設していきます。

 そうした活動を続ける中で、彼は、人々の栄養状態や衛生環境が改善されていかないと、人々を病気から救う抜本的な対策にはならないことを痛感していきます。

 特にアフガニスタンでは、内戦と長期間に及ぶ旱魃の影響から、本来の穀倉地帯でも大地が干上がり荒れ果てていました。さらに水不足から赤痢やコレラが急増し、全土で多くの国民、農民たちが難民化している状況がありました。

 そこで中村さんは、医療活動に併せて、水源確保のための事業を始めます。中村さんは地元の協力を得て、飲料用や灌漑用の井戸を掘り、伝統的な地下水路を再生していきます。また、約25キロの用水路を建設し、砂漠を農場に変えていきます。干上がっていた荒れ地と砂漠であった場所は、オリーブやナツメヤシの茂る農地や麦畑に変わりました。また畜産業やサトウキビの栽培、黒砂糖の生産も始まるのです。

 ただ、こうした活動は、死の危険と隣り合わせでした。武装勢力に襲撃される危険が常にあったのです。2008年には、中村さんと一緒に活動していた日本人が一人、身代金目的で武装勢力に誘拐され、救出に向かった警察との銃撃戦の最中に殺害されています。中村さん自身もそのことは、十分承知していました。周囲の日本人からも、「危ないから」といつも声をかけられていたようです。

 しかし、彼は、ここでは先ず何よりも食べること、食料を得ることが回復されなければならないこと、自ら働いて、食料を作り、安心して十分に食べることができるようにしていくことが、病気を治すだけにとどまらず、病気の原因を減らす抜本的な取り組みであること、また、人々が安心して農業を続けることができれば、貧困にも陥らず、戦争を起こすこともなくなり、結果として平和をもたらすこともできると考え、一連の事業を続けていきます。

 しかし、昨年12月4日に襲撃され殺されてしまいました。誰が行ったのか、なぜ殺されたのかは未だ判っていません。

 キリスト者であった中村さんは、ある意味では、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業を、大勢のアフガン難民の命を救う働き、「自分の十字架」と意識していたのではないかと思います。それこそ、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」、イエス様に従ったのではないでしょうか。

 困難の中にあって、「飼う者のいない羊のようなありさま」のたくさんの人々を救う、イエス様の生き方を自分の生き方にしていく姿が、そこにはありした。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 この言葉は、イエス様が、弟子たちに自分の受難、つまり十字架による処刑と、その後の復活の出来事を打ち明けた後に、重ねてペテロと弟子たちに向かって語ったものです。

 イエス様の受難と復活についての発言は、ペテロを困惑させました。彼は、強い調子でイエス様を諌め始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 

 しかし、イエス様は、ペテロを叱りつけられます。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と。簡単に言えば、「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」ということでしょうか。

 ただ、イエス様がペテロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の旅の目的とその意味を、理解していないことを示しているといえます。イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を、判っていないことを表しています。

 イエス様の受難と復活の予告は、ある意味、冷静に自分の語る言葉や行動を見据えた発言です。

 イエス様は、宣教の旅の行く先々で、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけます。病や日常の生活に苦しんでいる多くの人たち。その人たちを救うためのイエス様のわざや教え。そこで示されるイエス様の価値観、それは、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の価値観とは大きく違っていました。

 それは、例えば、「世間」が低く評価する境遇にいる人々、貧しい人、飢えている人、苦しんでいる人、病気や障害を負っている人たちこそが、神様の救いに真っ先に与れるというものでした。差別されたり、疎んじられている「取税人」や「遊女」たちが、神の国に入れるというものでした。神様の救いは、イエス様の癒しのわざを通して、それらの人々の上に現れるというものでした。

 あるいは、宗教的な制度が人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は変えられなければならない、と語るものでした。

 だからこそ、イエス様の語る教えは、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものだったわけです。それゆえにイエス様は「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」ことになるのです。

 人々を病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するために、神様の愛と、神の国の希望、すなわち福音を語り、具体的な行いをもって指し示すこと。それが、イエス様の使命です。しかし、人を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていく福音を伝える使命が、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、イエス様ははっきり理解しているのです。

 イエス様がエルサレムに行こうとしたのは、そこでもイエス様の救いの業と教えとを必要としている人々、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々がいたからだと思うのです。それを邪魔してはいけないと、イエス様は言われたのです。

 イエス様に従う者は、どのように生きるべきなのか、それが今日の日課の主題です。

 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、今までの自分の生き方を否定して、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことといえます。

 イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、自分の人生の道標として生きていくことです。

 具体的には、神様の正義と公正が地上で実現することを求めることです。貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに想いを寄せ、寄り添い、彼らが今の境遇から救われること、解放されることを共に望み、目指すことです。そのために彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決する方法を探ることです。

 ただ、そのような生き方を、信念を持って貫こうとすれば、様々な抵抗にあうこともあります。とりわけ、貧しい人々や弱い立場にいる人々を搾取し、それによって利益を得ている人々、自分さえよければかまわないと考える人々からは、きっと疎まれるに違いありません。

 しかし、イエス様は私たちに「わたしに従いなさい」と語ると同時に、一つ約束されています。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」

 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。

 その福音の実現のために、人生をかけるなら、その人は永遠の命を受けるとされるのです。たとえ、「この世」の力が圧倒的であったとしても、イエス様の言葉とわざに従い、福音の実現のために力を尽くし、なすべき課題を行おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取る。そうイエス様は約束されるのです。

 

 冒頭でお話しした中村哲医師は、「誰もやらない活動なら、俺がやる」といって、パキスタンとアフガニスタンでの活動を続けられたと聞きます。

 現地の言葉を話し、土地の文化と伝統を尊重して、目の前に現れる課題を、現地の農民と共に汗を流して解決していく中村さんのその姿に、現地の人が感謝をし、深く信頼を寄せたといいます。村人の要請を受けて、モスクと学校を建設もしています。キリスト者がなぜ、モスクを建設したのか問われて、それは現地の人たちの誇りを取り戻すことでもあったと、中村さんは語っています。村の人たちは、外国の文化が押し寄せる中で、自分たちの文化はだめなのか、劣っているのかと劣等感を持っていたそうです。でもモスクが建設されたことで、彼らは誇りを取り戻すことが出来たそうです。

 水源の確保も、荒れ果てた大地を回復し、農民のいのちと生活を回復していくわざであったと言えます。それは、人々に勇気を与え、生きる力を回復する、福音の実現といえるのではないでしょうか。

 不幸にして中村さんは、事業半ばにして凶弾に倒れましたが、彼の仕事は、彼の後援会であったペシャワール会が引き継いでいくそうです。

 誰もが中村医師のようには働けるわけではありませんが、しかしその姿勢に倣うことはできます。たとえ困難を前にしたとしても、イエス様を信じる者として、一緒に生きている人たちと、ともに祈り、重荷を担い合って、福音の実現のために、目の前の様々な課題を引き受けて、乗り越えていきたいと思います。

2020年8月2日 平和主日

 「平和の基」 

 ヨハネによる福音書

 ​15章9節~12節

 イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。

 ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。

 その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。

 イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。

 イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 

 それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。

 

 イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。

 「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。

 しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。

 もちろん、注意しなければならないことはあります。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。

 最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。

 と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。

 「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。

 「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。

 

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。

 

 私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。

 それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。

 なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。

 日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。

 昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。

 そこでは、次のような祈りがささげられました。

 「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」

 「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」

 「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」

 「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」

 「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」

 「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」

 「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」

 「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」

 

 「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。

 平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。

 人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。

 「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン

2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)

 「天の国の実現」 

 マタイによる福音書

 ​13章31節~33節

   +44節~50節

 イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。

 私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。

 イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。

 

 先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。

 からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。

 讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。

 「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」

 球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。

 からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。

 

 次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。

 パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。

 パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。

 「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。

 また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。

 

 「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。

 もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。

 そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。

 もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。

 44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。

 二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。 

 つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。

 イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。

 現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。

 しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。

 

 「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。

 日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。

 「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。

 2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)

「生き直すということ」 

 マタイによる福音書

 ​11章28節~30節

 人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。

 競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。 

 行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。

 生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。

 

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。

 軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。

 ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。

 つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。

 ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。

 「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。

 

 旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。

 ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。

 イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。

 本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。

 イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。

 と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。

 

 「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。

 それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。

 それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。

 またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。

 

 イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。

 この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。

 生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。

 だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。

 だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。

2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)

 「あなたが花束」 

 マタイによる福音書

 ​10章40節~42節

 「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。

 歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。

 「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。

 それは、その相手を励ましたいからです。

 「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。

 歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。

 歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。

 「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。

 「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。

 その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。

 歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。

 そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。

 「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。

 この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。

 いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。

 自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。

 そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。

 「あなたが花束」になっていくのです。

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。

 今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。

 ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。

 そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

 「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。

 弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。

 

 二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。

 使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。

 福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。

 もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。

 たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。

 生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。

 

 弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。

 教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。

 それが、弟子の使命です。

 どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。

 2020年1月26

「天の国は近づいた」 

 マタイによる福音書4章12~18

 

 韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。

 

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

共に平和をつくり 共に生きる その町で

平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら

貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で

平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で

私たちの労働が お祭りになる その日に向かって

共に生きる町 小さくても 美しい町

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

教えてください 教えてください 共に生きる町を

  詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。

 その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。

 この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。

 一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。

 と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。

 この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。

 八〇年代​、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。

 このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。

「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。

 明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。

 勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの

かもしれません。

 いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。

 「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」

 イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。

 ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。

 具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。

 不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。

 それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。

 悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。

 この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。

 私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。

 大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。

 それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。

 それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。

 確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。

 「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。

 「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。

 「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います

 

(2020年1月26日)

 

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