

日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2026年7月19日
聖霊降臨後第8主日
「収穫の時まで」
マタイによる福音書
13章24~30
+36~43節
AIの技術の進歩には、驚くものがあります。例えばある歌手が歌っているプロモーション・ビデオの動画でも、それが正真正銘の人間が歌っているものなのか、あるいは生成AIが作成したものなのかは、すぐには判りません。少し前だったら、なんとなく全体の動きがぎこちない感じがして、それが生成AIによって作成したものだと多少は判別もついたのですが、最近のものは、より精巧に出来ていて、素人目には画像も声さえも、区別するのが難しいのです。そして、問題なのは、そうした生成AIによって作成された動画が、いわゆる「フェイク・ニュース(偽のニュース)」を流すのに、しばしば利用されることです。例えば、現存する政治家が何らかの「発言」をしている画像を生成AIで作成して、SNSなどにアップすることで、あたかもその政治家本人が「発言」したかのように、多くの視聴者に「思わせる」ことが容易くなるのです。もちろん日頃その政治家の主張や発言を聞いている人にとっては、その「発言」内容が事実かどうかの判断は、それほど難しくはないでしょう。でも、少なからぬ人たちは、その「発言」が「本当のこと」だと信じてしまうわけです。
AIの技術は、私たちの生活に確かに利便性をもたらしましたが、その一方で、何が本当の事実で何が「偽」の情報なのか、何が正しくて何が誤ったことなのか、判別することをいよいよ難しくさせてもいます。
「天の国は次のようにたとえられる。」 イエス様は、こう話されてから、「毒麦の譬え」を語り始めました。
ある人(人の子・イエス様自身)が良い種(み国の子ら)を畑(世界)に蒔いた。その畑に知らぬうちに敵(悪魔)が来て、麦の中に密かに毒麦(悪い者の子ら)を蒔いた。麦が実ってみると、毒麦も一緒に現れたので、僕たちは『どこからか入った毒麦を抜き集めましょうか』と主人(イエス様)に聞いた。しかし、主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれないから、刈り入れ(世の終わり)まで、どちらも育つままにしておきなさい」と答えた。そして、「『刈り入れ(世の終わり)の時に、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れるようにしなさい』と刈り取る者(天使たち)に命じなさい」と言いつけた。つまり、世の終わりには、人の子が天使たちを遣わし、「つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる。」 一方、良い麦である「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」「耳のある者は聞きなさい」と。
ドクムギというイネ科の植物が、実際にあるそうで、しかもこのドクムギは、家畜がうっかり口にすると、死に至ることもあるほどの毒を持っているそうです。困ったことにドクムギは、若いうちは姿かたちが小麦ととてもよく似ていて、いったん小麦に混じって生えてしまうと、穂が出るまでは判別が難しいといいます。そして、もっと厄介なのは、成長する過程でその根が周囲の小麦に絡みつき、無理に引き抜こうとすれば、小麦までも一緒に抜くことになりかねない。根こそぎにするのは難しく、穂が出るのを待って、小麦だけを選別して収穫するほか選択肢はないそうです。
「天の国」とは、神様が支配されている状態のことを指しています。そして、この譬えが現している「天の国」は、どこか遠くにあるものではありません。そこで語られる「天の国」は、今あるこの世界に、「良い麦の種が蒔かれている」という形で、すでに存在しているのです。イエス様の言葉やわざに促された人たちが、「み国の子ら」として、イエス様に倣って生きていこうとするとき、「天の国」は、現実のこの世界の中に、「今ここに」存在しているのです。そして、その「天の国」は、完成途上のものでもあります。それは、時が満ちて「世の終わり」が来る時、「み国の子ら」が「正しい人々」として、「父なる神様」に受け入れられた時、完成するのです。
ただ問題なのは、その場所には、同時に「毒麦(悪い者の子ら)」、神様の目から見て「正しくない人々」も存在しているということです。そして、その人たちは、実際のドクムギがそうであるように、「良い麦」である「み国の子ら」と、一見よく似て区別がつかないということです。それが「良い麦」・「み国の子ら」か、「毒麦」・「悪い者の子ら」なのかは、その「実り」によって判断するしかなのです。つまり、人の「思いと言葉と行い」が、最終的に「良い麦」であるか「毒麦」であるかを決定するのです。
しかも問題をより難しくしているのは、人間一人ひとりが、その心の内にしばしば「良い麦」と「毒麦」の両方を持っているということです。神様に従いたいという気持ちを持ちながらも、それとは裏腹に、反って神様から遠ざかっていくような生き方を、時として人は選んでしまうこともあるからです。怒りや恨み、嫉妬という感情、何かに執着する思いは、人生においてしばしば「悪い」結果を生じさせます。また喜びや楽しみといった一見ポジティヴな感情も、それが自己中心的なものであるならば、やはり「悪い実り」しかもたらしません。ただ考えるべきなのは、実際のドクムギは、良い小麦に変化することはありえませんが、人間は、「悔い改め」て「神様を仰ぎ見る」ことで、「良く」「正しい」「み国の子ら」へと変わることもできることです。それゆえ、人には簡単に、誰が「良い麦」なのか、誰が「毒麦」なのかを判断できないのです。
私たちの生きているこの現実の世界は、「毒麦の譬え」の示す通りだとつくづく感じます。毎日のニュースを見ても、人のいのちや尊厳が蔑ろにされたり粗末に扱われ、更には簡単に損なわれる現実があります。世界的な規模で見ても、キリストの名を語りながら対立を煽って人々を分断し、また他国の主権を平然と侵害し、戦争を正当化する「説教」や「教会」が、大手を振ってのし歩いています。「神の正義」を自己正当化のために振りかざすことは、明らかな誤用であり、「毒麦」の実りでしかありません。
そこに感じるのは、人の心にある「悪」の存在です。「悪」が、どこから来て、いつから存在したのかは謎です。にも拘わらず、その「悪」は、時として私たちに不安を抱かせ、恐怖に怯えさせ、私たちの存在を脅かし、いのちを奪い取ります。しかもその「悪」は、すぐには「悪」とは判らない姿、例えば「光、善、真実」、あるいは物事を刷新するという形をとって、また歴史的必然性や、社会的正義という形でも現れ、人間に近づき、人の心に入り込み、人の持つ欲望を刺激して、人を間違った行為や道へと誘うのです。これを神学者のⅮ・ボンヘッファーは、「光の形をとった悪」と呼んでいます。しかもその「悪」は、「この世」だけでなく、「聖徒の交わり」である教会の中にも入り込む可能性があるのです。マタイ福音書に記されている「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という言葉は、そのことを表しています。そこでは、たとえ人が神への信仰を言い表していたとしても、主の再臨の日には、正しい者とそうでない者とに分けられる、と語られているのです。
ルーテル教会の信仰の基準ともいうべきアウグスブルグ信仰告白は、第八条「教会とはなにか」で、そのことを次のように言い表しています。「キリスト教会はもともと全信徒と聖徒の集まりにほかならないが、しかしこの世にあっては、多くのにせキリスト者や偽善者、また明らかな罪人が、信仰ある人々の中にまじっているのである。」 ルターをはじめとする宗教改革者たちは、当時の教会の中に、「毒麦の譬え」が示しているような状況があることを、はっきりと認識していたわけです。
「良い麦」・「み国の子ら」と「毒麦」・「悪い者の子ら」とが混在するこの世界。ではそこで、私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。
教会の長い歴史の中では、人は、往々にして自分たちで「良い麦」と「毒麦」を選別することを試みることがありました。例えば、教会が、信仰の「正しさ」や「純粋さ」を保とうとすることはもちろん大切ですが、ただそれが行き過ぎれば、人は寛容さを失いがちになり、人が「悔い改めて」変化していくことを考慮することなく、時として他の人を断罪し、傷つけ、排除することも起こってしまいます。それは「真面目」であるがゆえに、反って高慢に陥る過ちでもあります。しかし、先にも言ったように、誰が「良い麦」で、誰が「毒麦」なのかを判断するのは、それほど簡単なことではありません。
今日の日課で大事なことは、誰がこの世界で「み国の子ら」として相応しく生きたのか、誰が「悪い者の子ら」として、神様のみ心に背いて生きたのかを判断し選別するのは、神様ご自身だということです。その時が来たなら、み使い・「天使たち」が、「人の子」であるイエス様のみ心に沿って、「良い麦」と「毒麦」を見分けて、選り分けていくというのです。
使徒パウロ(と宗教改革者ルター)は、こう語っています。私たちキリスト者というのは、イエス様の十字架の出来事によって罪を赦され、神様の目から見て相応しいと宣言された義人である、と。その罪赦された人間は、一方で日々、罪を犯すかもしれない、あるいは知らない間に罪を犯しながら、現実の中で生活している存在でもある。それゆえに、私たちは、常に、日々、悔い改めを必要とする、と。
ですから、私たちにできることは、イエス様の語っている「刈り入れ」、「世の終わり」、「天の国」、「神の国」の完成の時までは、人間の限界をわきまえて、神様の前に謙虚に立って生きることです。もちろんそれは、ただ何もしないで待つということを意味しません。私たちは、自らの「実らせた穂」、すなわち、自分自身の「思いと言葉と行い」が、はたして神様のみ心に適ったものであるかどうかを、その時、その時、適切に判断していかなくてはなりません。
そして、イエス様が、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と語っておられるように、私たちもまた、「神の正義と公正の実現」を求めていくことです。それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方を生きることです。互いに尊敬を持って、相手を敬い、大切にし、愛し合うこと、そして、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合い、労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合うとすることです。また自分の人生を通して、イエス様に倣って、神様の愛を分かち合い、「天の国」、「神の国」の到来を待ち望みつつ、福音を妨げ、阻む力に対して抗っていくことです。そして、なによりも、今困難の中にいる誰かのための存在として働くことです。「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」ように。「聖徒の交わり」の実現がそこにあります。

2026年7月12日
聖霊降臨後第7主日
「心を耕す」
マタイによる福音書
13章1~9
+18~23節
もう三十年以上前になりますが、最初に赴任した教会は、おもしろいことに付属施設として牧場を持っていました。そこには教会設立の歴史的な背景もあるのですが、それはさて置き、私は教会の牧師の傍ら、牧場の仕事も手伝う機会を持ちました。
あるとき、牧草地に乾燥肥料を撒くことになりました。乾燥肥料の粒が入った袋を脇に抱えて、広い牧草地の端っこに牧場の職員と私の四人が、間隔を空けて並んで立ちました。そして、袋の中の乾燥肥料の粒を手に握って、一歩ずつゆっくりと歩きながら、出来るだけ広くばら撒いて行きました。そのとき、私の頭に浮かんだのは、フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーが描いた「種まく人」という絵の情景でした。
一人の農夫が、耕された畑の上に、今まさに種を播こうとしている瞬間を描いた作品です。彼は、種を広く撒こうとして、その手を思い切り振りきって投げようとしています。その一瞬を切り取った情景は、躍動感に溢れています。それがミレーの絵「種まく人」です。
今日の日課の譬え話を読むとき、私はやっぱり、いつもその「種まく人」の絵を思い出すのです。
農夫が、種を播きに畑へと出かけていきました。彼が播いた種の中には、畑の上ばかりでなくいろいろな場所に落ちるものもありました。踏み固められた道端に落ちるもの、石地に薄く土が被さっている所に落ちるもの、茨の生えている場所に落ちるもの。そうした種は、鳥に食べられてしまったり、根がつかずに枯れてしまったり、他の野草や茨に負けてしまったりしました。しかし、よく耕された畑に播かれた種は、芽を出し根をつけ、豊かに育ち、何十倍にも実りをもたらしました。「耳のある者は聞きなさい。」 これがイエス様の語った種まきの譬えです。
18節~23節は、この種まきの譬えの、イエス様による解説です。内容は単純明快なものです。
イエス様はこの種を「み国の言葉」、あるいは「み言葉」、つまり「福音」の譬えとして話しています。
「み国の言葉」とは、つまりそれは、イエス様の語った言葉であり、イエス様が示している生き方そのもの、あるいはイエス様の存在そのものを意味します。ですからここでの種を播く農夫とは、イエス様ご自身、あるいは神様ご自身のことを表しているのです。そして、譬えで語られる様々な状態の土地や畑は、町や村でイエス様が出会った人々の状況を、それぞれ描いているともいえます。
「踏み固められた道端」とは人の心が頑なになっている状態といえます。そのとき人は、「み国の言葉」を聞いても悟ることなく、かえって心の中に蒔かれた「み言葉」の種を、この世の価値観や常識といったもので判断して、疑うこともなく退けてしまう。つまり「悪い者」に奪い取られてしまうわけです。
「石地に薄く土が被さっている」状態とは、好奇心はあって目新しいものに飛びつくけれども、理解が浅いことを指しているといえます。ですから、「み言葉」を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、生活の中に根付かないので、艱難や迫害が起こると、躓いてしまうわけです。
「茨の生えている場所」とは、その人の心の内に、様々な思い煩いや欲望がある状態をいうのかもしれません。そのため、播かれた種が、鳥に食べられてしまったり、根がつかずに枯れてしまったり、他の野草や茨に負けてしまったりするように、世の思い煩いや富の誘惑が先だって、イエス様の「み言葉」を覆いふさぎ、実りをもたらさないわけです。
その一方で、「耕地に適した場所」とは、イエス様の「み言葉」に進んで耳を傾け、自分の生き方を変えたいとする姿勢を持つことを表していると云えます。そのような人は、イエス様の「み言葉」を聞いて悟り、自分の生き方を具体的に変えて、播かれた種が豊かに何十倍も実を結ぶように、豊かな人生を送ることができるのです。
ここで興味深いのは、「聞いて受け入れる」ことと、「聞いて悟る」こととが区別されていることです。この「悟る」ことは、「聞く」だけにとどまらずに、「聞いて従う」こと、「聞いて行う」ことを意味しています。従来の自分の生き方を顧みて、神様に向かって姿勢を改め、イエス様の教えとわざとに従うことが、イメージされているといえます。
ところで、種まきの譬えは、農夫が耕地に適した場所に種を播くならばその種は育ち、「三十倍、六十倍、百倍もの実をつける」ことを教えていますが、実際のところは、耕地に適しているからといって、農夫が肥料や水をやりすぎたりしても、作物が育たなかったり、根を腐らせてしまうこともあります。しかも土地の状態は、いつまでも同じではありません。それとは反対に、河川の氾濫に見舞われていた土地や泥炭地を、灌漑農業を行うことで地味豊かな耕地へと変えていった実例もあります。耕し方や管理の仕方によっては、土地は更に豊かな耕地にも、痩せた不毛な大地にも変ってしまうのです。
人の心もまたそれと同じです。同じ聖書の言葉を読んだとしても、その人の年齢や経験の深まりによっては、言葉の理解も違って変化することがあります。それまでとは、まったく新しい理解を「発見する」場合もありますし、新鮮な思いでそこに示された「福音」を受け止めることができる場合もあります。
と同時に、人がいつでもイエス様の示す福音を素直に理解できるわけでもありません。人は時として頑迷になることがあります。自分の中で一度固まってしまった価値観が邪魔をして、イエス様の言葉や行動への理解が、以前ほど容易にできなくなることもあります。あるいは意固地になったり、頑固になって、イエス様の「み言葉」に素直に耳を傾けることができなくなる場合もあります。本当は判っているのだけれど、なぜか心が素直になれないで、イエス様の言葉に反発してしまう時があります。心がささくれ立って荒んでいたり、他人に対して妬ましく思っていたりすると、その相手を通して語られるイエス様の言葉を受け入れられなくなったりもします。人の状態や心の動きも不変ではないからです。滋味豊かだった土地が、痩せた土地に変わってしまうように。
それだけに、人は、「今、自分は、どのような土地の状態、心の状態にあるのか」を、ある意味、しっかりと見つめ直すことが必要だと思うのです。
今、私の心は、踏み固められた固い道端のように柔軟性を失って、イエス様の「み言葉」に耳を傾けられなくなっていないだろうか。私は、はたして「み国の言葉」を、「今、聞けて」いるのだろうか。イエス様の言葉に反発を感じていないだろうか。イエス様の「み言葉」を、「聞くには聞くが聞いていない」状態なのか、それとも「聞いて理解し、認め、悟っている」状態なのだろうか。私の中に何かこだわりや先入観、偏見かがあって、イエス様の教えてくれている信仰の生き方を邪魔していないだろうか、云々。
ある意味、この「種蒔く人」の譬え話は、常に新しく私たちに問いかけてきます。「あなたは、あなた自身の心を耕していますか」と。そのとき、私たちは、気持ちを新たに聖書と向き合うことを、イエス様から促されていると思うのです。
と同時に忘れてならない大切なことがあります。それは、神様は、様々に異なった生活状況の中にいて、違った心の状態にいる人たちに向けて、すでに「み言葉」を播いているということです。神様の「み言葉」は、私たちのうちに宿っているのです。たとえ、今は、イエス様の「み言葉」を「悟らずに」いたとしても、また、この世の流行に翻弄されて「薄っぺらな理解に」とどまっていたとしても、思い患いや誘惑に晒されていたとしても、私たちの内には「み言葉」の種が播かれているのです。いつか芽を出すことを神様から期待されて。預言者イザヤは、こう語っています。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/ むなしく天に戻ることはない。// それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/ 種蒔く人には種を与え/ 食べる人には糧を与える。」 天から降る雨や雪のように「わたし(主なる神)の口から出るわたし(主)の言葉も/ むなしくは、わたしのもとに戻らない。」 そして、その神様の「み言葉」は、「わたし(主)の望むことを成し遂げ/ わたし(主)が与えた使命を必ず果たす」と。(イザヤ55章10~13節)
私たちも、自分の心を耕しましょう。播かれた「み言葉」の種がよく育つように。始めから畑に適した土地はなかなかありません。原野を開墾した話を聞いたことがあります。大きな木を切り倒し、その根を起こします。灌木は伐採し、生い茂る雑草、蔓草や茨などを刈り取ります。何度も土を起こしては、石ころを丹念に取り除いていきます。肥料をやり、土を肥やし、そうして、ようやく耕すによい土地になるのです。
心を耕すことも同じです。それは先ず神様の前に謙虚になることから始まります。「自分が、自分が」という我を張らずに、心静めて今の私の心持ちを顧みることです。今の自分を正直に省みて、無理やり否定せずに、先ず受け入れることです。そのとき、自分の心の中にある固く根を下ろした障害物、意固地になっている原因、たとえば沽券、面子、しがらみなどに気づくことができます。あるいは自分が持ってしまった先入観や偏見、頑固さの正体や原因が見えてくるかもしれません。ポジティブなものであれネガティブなものであれ、自分の感情を受け止めることです。そして、そうした心の問題や課題を解決してください、とイエス様に委ねて祈ることです。
またイエス様の言葉を自分のこととして読んでみることです。イエス様が何を私に、あるいは私たちに語っているのか、考えながら読んでいくことです。それが、心の石や茨を取り除くことにつながります。自分と一緒に祈りをあわせてくれる姉妹や兄弟と思いを分かち合うことも大切です。信仰の友による私のための執り成しの祈りは、慰めや励ましとなり、心の肥料となります。自分の心の土を豊かにします。
そうするとき、私たちは、神様によって私の中に播かれた「神の言葉」、「福音」という種の存在に、改めて気づくことができるでしょう。「福音の種」が私の、あなたの中で、すでに芽を出し、根を張っていることがわかるでしょう。
神様が、私たちの中に播いてくださった「み言葉」の種を、いよいよ豊かに成長させ、実りをもたらすために、私の、あなたの心の畑を耕しましょう。

2026年7月5日
聖霊降臨後第6主日
「新しい
生き方への招き」
マタイによる福音書
11章16~19
+25~30節
「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(11章16~19節)
今日の日課で、イエス様は先ず、広場で子供たちに呼びかけられているにも拘らず、その声を無視する「ほかの者」にたとえて、イエス様自身や洗礼者ヨハネを、その語った言葉や教え、行ったわざなどではなく、ただ表面的な行動や振る舞いなどによって、嘲笑し、拒絶している「今の時代」の人々のことを弾劾します。そして続けて、イエス様は、「神様の裁きと救い」が「今の時代」の、特にファリサイ派や律法学者たちのような「知恵ある者や賢い者」にではなくて、「幼子」、つまり洗礼者ヨハネの言葉を聞いて率直に受け入れ洗礼を受けた人々や、イエス様の教えとわざに素直に神様のメッセージを聞き取った人々に示されたことを感謝します。
その上で、イエス様は、次の招きの言葉を語るのです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。(マタイ11章29~30節)
この箇所での前提となるのが、実は旧約聖書の律法です。
律法とは、ユダヤ人共同体が生活していく上での、規則(ルール)、法律であり、また倫理の教えを言いました。その最も根本的なものは、出エジプト記にある「十戒」です。それは、ユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出し、カナンの地(パレスティナの土地)で暮らすため、神様から与えられたものでした。共同体のメンバーが、農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、お互いの権利と生活を保障しあうルールでした。またそれは共同体の結束を強め、助け合うためにも必要なものでした。
そして、ユダヤ教の世界では、たとえば旧約聖書外典のシラの書にあるように、知恵、もしくは律法のたとえとして、軛という言葉が用いられています。「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」という言葉がそれです。その意味は、つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ちなみに、ここで言及されている軛とは、本来家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常は二頭の動物を左右に並べて担わせました。
ではイエス様の言葉は、この軛としてたとえられた伝統の知恵を学べ、模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。
「わたしの軛」とイエス様が語るとき、そこには律法学者や祭司といった人たちが理解し、教えてきた律法や伝統とは異なった「知恵」、生活の規範がイメージされています。イエス様はこう言われます。それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだと。イエス様は、新しい生き方を示されたのです。なぜなら、イエス様の目から見ると、律法学者や祭司といった高い教育を受けた人々の語る伝統や律法は、その当時の人々を、社会的にも心理的にも縛りつけ圧迫するものでもあったからです。
法律や規則は常に二面性を持ちます。それは、社会において個々人の権利を保障する一方で、その個々人の生活を何らかの形で制約し、縛りつける側面も持っているということです。
聖書のユダヤ人共同体のことでいえば、時間が経って、彼らがパレスティナで定着するに従って、初めには予想されなかったような様々な試練が共同体を襲いました。また共同体の中でも判断に迷うような問題も生じてきました。その度に律法の新しい解釈が要求されて来ました。そして、今度はそれが一つの伝統となって、人々の行動の判断の基準ともなっていきました。そのような律法解釈の伝統が積み重なり、今度は微に入り細にわたり人々の日常生活に当てはめられていきました。そのとき、それは個人の権利を保障する以上に、個人の自由な行動や判断に、強い影響力を持つようになりました。
イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映ったのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。本来人を自由にすべき律法が、人を不自由な存在においていると。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。
イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法から、またこの世(当時のユダヤ人社会)の常識や尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいと示しているのです。
「わたしの軛をとって自分に負う」とは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。
それは、たとえば「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
そのためには、先ず、神様の前に謙虚になり、自分の感情を正直に認め、受け入れることが必要です。そのことによって、人は「古い自分」、つまり自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことができるし、そのとき私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方、自分を適切に制御しながら、自分と人とに向き合う新しい生き方を見出すことが可能になるのです。
「イエス様と一緒に軛を担うこと」はまた、「他者のための存在」として生きるということです。それは、イエス様が示されたように自分の人生を通して神様の愛を示すことです。それが弟子として、キリスト者として生きていくことです。そして、それはイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを共感し、人々の感じている痛みや苦しさを取り除けようとすること、「主の祈り」にあるように、神様の国の到来を願って、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方を選んでいくことなのです。
それは、古い軛を捨てながらも、また新たな軛を背負うことかもしれません。ただし、その軛は一人で背負う必要はないのです。なぜなら、それは「イエス様の軛」、イエス様が今まさに自ら負っている軛であるからです。その軛は、イエス様と私、あるいはイエス様とあなたが、二人で一緒に負うものだからです。それゆえに負担が軽く担いやすいものなのです。
「どのように生きるべきなのか― 大昔から繰り返されてきたこの問いは、現代社会にあっても喫緊の課題である」とは、現代イギリスのある思想家の言葉です。ある意味、今日の日課は、この問いに対する一つの大きな答えであるといえるでしょう。
私たちは、様々な心配や課題を抱えて生きています。競争を強いる社会の中で生きなければならないストレスがあります。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいるかもしれません。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えているでしょう。また生きがいが見つからずにいるかもしれません。孤独を感じているかもしれません。生きる上での課題は、誰にでもあります。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」
この言葉は、そうした課題を抱えた人たちにこそ向けられています。
新約聖書の福音書に記された、イエス様の教えとわざが示す新しい生き方は、私の目の前に、一つのはっきりとした道を開いてくれるものです。しかもイエス様の言葉とわざは、私たちの人生の歩みと歩調を合わせながら、人の年齢や経験の深まりに応じて、いろいろな可能性を私たちに示してくれます。イエス様は、私たちと人生の道を一緒に歩んでくれるのです。
むろん困難は続くかもしれません。しかし、イエス様は、そのしんどさを分け合いながら共に歩んで下さいます。また、様々な方法で、たとえば問題を一緒に担い合ってくれる仲間の存在を通して、私たちを助けて下さいます。
課題は、共に担うことができます。だからこそ私たちは安心して、それこそ「安らぎを覚えながら」その道を、その道筋を辿って行くことが出来るのです。もう一人で苦しまなくてもいいのです。だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思うなら、今こそ、イエス様の招きの声に耳を傾けたいのです。
「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
