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礼拝メッセージ
       (当分の間、毎週更新します)
2024月 2日 
​復活節第4主日

「主はわたしの

羊飼い」

​ヨハネによる福音書
10章 11~18節

 YouTubeの動画で、興味深いものを見つけました。

 牧場の道を一頭の牝牛がかなり速いスピードで走ってきました。その前には、一人の女性が立っていました。あわやその女性が撥ねられると思った瞬間、牛はその女性の前で止まると、女性の顔に自分の頬をこすりつけ、甘え始めました。その女性も大きく両手を広げて、牛の顔をハグしました。彼女はその牧場の娘さんで、彼女はその牝牛が子牛の時から、ミルクを上げたり、大切に面倒を見ていたようでした。だから、牝牛は(しばらくぶりに帰省した)彼女を見つけると、大好きな彼女のところに急いでやって来たわけです。 

 もう一つの動画には、小羊が映っていました。牧草地にいる小羊が、飼い主の姿を見つけた瞬間、すぐにその(カメラを構えて動画を撮っていた)飼い主のところまで、走って来て、レンズが曇るくらい鼻先を近づけてきて、飼い主に甘えたのです。その小羊もやはり、その飼い主から大切に育てられているのでしょう。

 どちらの動画も、飼われている動物とその飼い主との間に、とても深い信頼関係ができていることを証ししています。言い換えれば、牝牛と小羊にとって、その飼い主は、彼らに安心と安全を与えてくれる心強い存在であるということです。

 

 羊などの家畜は世話をされること、気遣われることがなければ、生きて行くことができません。家畜を飼うことは、人を世話するのと同様、本来繊細さと注意深さが要求されます。家畜は言葉を使って話すことが出来ない分、飼い主の配慮が必要となるからです。

 一頭一頭の性格もあります。そして群れの中で自分勝手に行動することは死につながる危険もあります。「優しく」接するだけでは家畜は管理できません。たとえば羊は頑固で同じ道だけ歩くそうで、群れをそのままにしておくと、豊かな土地でも荒れ果てさせてしまうことがあるといいます。その代わり、絶えず放牧地を変えながら、羊にまんべんなく草を食べさせて行くならば、そして羊飼いが放牧地をしっかり管理するなら、土地は羊によって豊かさを増すともいわれています。

 今日の賛美唱、詩編23篇にある「鞭と杖」は、厳しさと配慮を表しています。時には厳しさを伴う配慮がないと、羊は害になる雑草さえ食べてしまいますし、寄生虫にも脅かされます。季節ごとに、寄生虫や羽虫に襲われないように薬剤・油を体に散布することも必要になります。「油を頭に注ぐ」のもそうした世話をする行為を表します。体重がつきすぎたり、毛で重くなりすぎると羊は自分で支えきれなくて倒れしまい、自分も重みで動けなくなってしまいます。その結果、弱ってしまったり、他の獣に襲われる危険が増してしまいます。だからこそ、羊飼いの世話が不可欠なのです。

 

 今日の日課で、イエス様は、「わたしが良い羊飼いである。」と語っています。

 この「わたしが良い羊飼いである」という言葉は、何とも大胆な言葉です。「自分こそが聖書に記されている羊飼いだ。」という宣言だからです。「あなたは何者なのか」、「あなたはキリスト・救い主なのか」と問うファリサイ派の人たちに向って、「わたしが真の指導者である」と言い切った言葉です。

 さて、イエス様が語る「良い羊飼い」の第一の条件は、羊のために命を捨てる、ということです。家畜を飼うことは、命を預かることです。そのために羊飼いの生活は家畜を中心に回ります。丸々休みの一日はありません。放牧や食べる草、飼料の心配、家畜の日々の体調管理、病気や妊娠、出産等々、配慮することは山のようにあるからです。

 それと同じで、イエス様は、人々の命を救うために、ご自分の命を捨てられました。今日の使徒書の日課、ヨハネの手紙一の第3章16~17節にはこう書かれています。

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

 イエス様は、羊飼いが群れの羊を配慮するように、神様に救いを求める人々を「深く憐れみ」顧みられました。三年にわたる福音宣教の旅の間、病気で苦しんでいる人の身体を治すだけでなく、その心をも癒しました。その福音の言葉をもって、生きる力を失いかけた人々に力を与え、神様の道を示されました。そして、その生涯の最後には、人を罪から解放するために、自ら十字架に架かり、死なれました。イエス様の受難と十字架は、人々へのイエス様の愛を表す行為なのです。そこにイエス様、そして神様の愛があるのです。

 悪い羊飼いは、それとは反対に描かれます。

 「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

 悪い羊飼いは、自分の責任を引き受けません。他人からさせられているという気持ちで、何ごとにつけ及び腰になります。狼などの野生動物が現れると、自分の身を守ることを第一に考えます。そして、羊を放り出してそこから逃げ出してしまうか、あるいはその言い訳を考えます。彼らにとって、羊の命は二の次なのです。

 旧約聖書、特に預言書には、イスラエルの民を羊の群れ、そして政治的・宗教的な指導者を「牧者」、羊飼いと表現している記述がいくつか見られます。預言者のエゼキエルもエレミヤも、その時の政治的・宗教的指導者たちを、羊の群れであるイスラエルの民を顧みずに「滅ぼし、追い散らす牧者」であり、「災い」として弾劾し、その「悪い行いを罰する」とした神様の言葉を書き記しています。悪しき指導者たちが、語るべき時に語らなかったり、なすべき時に行わないことは、羊を置いて「逃げ出す」ことに等しいことだったからです。

 

 「よい羊飼い」の二番目の条件は、自分の羊たちのことを知るということです。実際の話、羊飼いは、自分の群れの羊を知らなければなりません。そこには臆病な羊もいれば、好奇心旺盛な羊、頑固な羊もいるからです。体格や健康状態、性格の違いも含めて、良い羊飼いは、羊たちの命を守り、充分に世話をするためにも、自分の羊をよく知っておかなければなりません。そして、どんなに泥だらけになっていても、雨風で汚れていても、その声を聞き分けるのです。それゆえに、羊たちもまた自分たちの飼い主、自分たちの世話をしてくれる羊飼いの声を、信頼し、安心してしっかりと聞き分けるのです。(冒頭で紹介した動画のように。)

 イエス様も、「わたしは自分の羊を知っている。」と語ります。それは、ご自分の声を聞き分けて、後をついてくる人々と弟子たちの命を育み守るために、彼らをよく知っているのだ、と云うことです。そして、それはちょうど、父なる神様が、独り子であるイエス様の心と思いをよく知り、その苦しみと痛みとを受け止めたことと一緒だというのです。

 さらに、この良い羊飼いであるイエス様の配慮と導きとは、常に外に向かっても開かれているとされています。

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 イエス様の呼びかけは、特別な人にだけ向けられていません。イエス様に従う群れ、キリストの共同体は、閉ざされた集団でも特権を持った集団をも意味しません。羊飼いを必要としている「飼う者のいない羊」のような人々、ただイエス様の声を聞こうとする人々が、そこに招かれているのです。囲いの外、枠の外にいるとかいないとかという基準で、排除されないのです。ただイエス様の声を聞き分け、その人が一歩足を踏み出すことが大切なのです。

 

 「わたしは良い羊飼いである。」というイエス様の宣言を前にして、私たちはどのように応答できるでしょうか。

 私は、その応答の言葉を、冒頭でも触れた詩篇23篇の中に見出します。

 「主はわたしの羊飼い、/わたしには何も欠けることがない。//主はわたしを緑の野に休ませ、/ 憩いの水のほとりに伴い、わたしの魂を生き返らせてくださる。」

 そこには、王であるダビデが、自分自身の経験の中から、自分を羊飼いに導かれ、守られる「羊」として、例えた言葉が記されています。

 ある意味、旧約聖書が人間を羊に例えるのは、羊の姿の中に度し難い人間自身の姿を見たからかもしません。問題を抱えている人間の姿が表現されているともいえます。私たちは、「羊はかわいらしく、優しく、弱い動物で、自分もそう例えられている」と勘違いして、思いこんではいけないのです。頑固で融通がきかなくて、臆病で、他からの助けや世話がなければ生きられない動物、それが人間であるのです。やはり、神様の配慮と守りと導きとを必要とした存在なのです。

 ダビデは、この詩篇を通して、自分もまた、その神様の守りと導きを必要とする人間であり、神様の配慮と支えによって、自分の人生を歩むことができたと、告白していると云えます。

 「主はみ名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。/死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。//あなたがわたしと共にいてくださる。/あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

 牧草地に至るまでの「死の陰の谷を行く」ような、険しい谷間の道、それは、例えば人間が死を予感するような危機の経験を云います。その危機の最中にも、羊飼いの配慮ある導きによって「わたしは」乗り切ることが出来た。ダビデはそうした神様の守りへの感謝と信頼を込めて、「主はわたしの羊飼い」と詠ったのです。

 今、私たちもまた、「主はわたしの羊飼い」と告白していきたいのです。私たちのことを「自分の羊」と呼ぶイエス様の声に従って、今に至るまで、自分の人生を歩んでこれたことに感謝して、私たちははっきりと、「主はわたしの羊飼い」と告白していきたいのです。 

 そして、これからもイエス様の教えと言葉が、私たちにとって歩むべき道標であり、その声が、私たちを慰め、労り、励まし、また力を与え、活き活きとさせてくれることを、確信して、告白していきたいのです。自分たちのこの世界や社会に対する責任を引き受け、「語るべき時に」語り、「なすべき時に」行い、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合う」ために。

 「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。/主の家にわたしは帰り、いつまでも、そこにとどまる」と。

202414日 

「キリストの

​復活節第3主日

証し人になる」

​ルカによる福音書
24章 36~49節

 もしも、亡くなった人が、それもとても近しく親しい人が自分の前に姿を現して自分の名前を呼んで、生前と同じように親しげに話しかけてきたとしたら、皆さんはどのように反応するでしょうか。

 信じられない出来事に遭遇して、驚き、何が起こったのか理解できず、おたおたする。あるいは、その人が本当に生きているのか、それとも幽霊なのか確かめようとする。でも、その姿を現した相手が、穏やかに、にこやかに笑いかけながら、親しみと愛情のこもったまなざしで、私を╲自分を見つめてきて話しかけてきたら、私もおずおずとその言葉に応えるかもしれない。そして、なつかしさに、いつのまにか時間のたつのも忘れて、話し込んでしまうかもしれない。また会えてうれしいという気持ちが、心から沸き起こってくるのを感じるかもしれない。私にはそう思えるのです。

 イエス様が復活されて弟子たちの前に姿を現した時、彼らもまさにそのように振舞いました。今日の日課ルカ福音書の24章36節以下には、その再会の様子が描かれています。

 

 二人の弟子たちがエマオへの旅の途中、復活されたイエス様と再会をしたと言います。エルサレムに戻ったこの弟子たちが、他の弟子たちに彼らのエマオでの体験を話し始めたその時、そこにイエス様が姿を現わしたのです。「あなたがたに平和があるように。」と言って。

 それまで「本当にイエス様は復活してシモン・ペトロの前に姿を現した」、「私たちはエマオで主に出会った」とみんなで話していたにもかかわらず、イエス様を見た弟子たちは、「おたおたし、恐れにおちいって」、亡霊を見ているのだと思いました。

 その弟子たちに向かって、イエス様は言いました。

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

 私には、そのイエス様の声が、動揺する弟子たちの心をなだめるように、穏やかな調子だったように思えます。微笑みながら、弟子たち一人一人の顔を見て、驚いている弟子たちの傍に来て、手足を見せるイエス様。なんなら一人一人に手足を触らせて、自分が幽霊でないことを示したかもしれません。弟子たちもおずおずとイエス様に近づいて、イエス様の手を触れて、「復活されたのは本当だった」と思って、喜び始めたのかもしれません。たぶんそこに居た誰もが笑顔になったのではないかと思います。でも、まだ弟子たちが「不思議がって」いると、イエス様はこう言いました。「何か食べ物があるか」と。そして、差し出された一切れの焼いた魚を、イエス様は取って食べ始めたのです。「ほら、私は魚を食べることもできるよ。」とでもいうように。

 ルカ福音書には、イエス様が、生き返らせた少女に「何か食べ物を与えなさい」と命じる記事が記されていますが、ある意味それは、死者がほんとうに蘇ったことを証明する行為でした。それと同じように、イエス様は、弟子たちが処刑されたイエス様の復活を信じることが出来るように、手足の傷跡を見せ、自分の体を触らせるだけでなく、目の前で魚を食べて見せたと云えるでしょう。

 「イエス様は本当に復活されたのだ」と弟子たちもようやく納得して、その場は再会の喜びに満たされたことでしょう。ひとしきりイエス様と握手したり、言葉を交わし抱き合ったりした後で、イエス様は改めて弟子たちに、大切なことを語り始めました。

 

 イエス様が語られたこと、それはイエス様が十字架に架けられる前に弟子たちに言っておいたことで、「律法と預言者と詩編」(すなわち旧約聖書)に書かれている「わたし(イエス)についての事」柄は、「必ずすべて実現する」というものでした。そして、イエス様は、「聖書を悟らせるために」、彼らの心を開き、救い主・キリストの受難と死、復活について解き明かし、弟子たちに次のような新たな使命を委ねていくのです。

 「『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名(キリストの名)によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、イエス様が福音宣教の初めから語られた言葉、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ。」という呼びかけです。それは、神様の方へと顔を向け直す生き方の方向転換の呼びかけであり、弟子たちもまた、その働きをイエス様から委ねられていったのです。

 「キリストの名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」とは、その働きの委託が、救い主・キリストによるものであることが示されています。そして、神様の救いの出来事は、ユダヤ人にのみ限られて示されるものではなく、この地上のすべての人々の救いであるのだということです。

 「あなたがたはこれらのことの証人なのだ。」という言葉は、弟子たちにとって、大変に重要な響きを持っていました。それは、イエス様が、弟子たちを再び選んで、召し出していく言葉だったからです。

 どの福音書を読んでも、イエス様が逮捕されて処刑され、墓に葬られ、そして蘇られたわずか三日の間、弟子たちがどのような態度をとったのかは、包み隠さずに記されています。彼らは、散り散りに逃げ去り、イエス様が十字架上で亡くなった後も姿を隠していました。かろうじて法廷までついていったペテロも、「お前も弟子の一人だろう」と言われると、イエス様のことなど知らないと否認しました。そして、女性たちが「イエス様が復活した」と知らせても、彼らはそれを信じようとはせずに、復活されたイエス様を前にしても、恐れに陥って疑いを持ったのでした。以前、イエス様が、三度もご自分の死と復活を予告しておいたにもかかわらず。

 その弟子たちが、ここで改めて、「これらのこと」、つまりイエス様の福音宣教の初めから、その生涯の、受難と十字架を経て、復活の出来事に関する一切のことの証人とされているのです。再び弟子として選ばれて行ったのです。それは、言い換えれば、弟子たちにとっての復活の体験でもあったということです。

 

 「わたしは、父が約束された者をあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい。」

 その時、弟子たちは、イエス様のわざを引き継ぐという新しい使命に遣わされて行こうとしていましたが、このわざを果たすための「力」が必要でした。その神様から与えられる「力」は、「聖霊」でした。「聖霊」とは、神様からの「新しいいのちの息、派遣されるものに新たな力を与える息」のことです。復活されたイエス様は、弟子たちにそう約束されたのです。

 その約束の言葉は、弟子たちを勇気づけたと思います。

 イエス様の処刑による死という衝撃の前で、一度は折れてしまった心が強められ、萎えてしまった心が蘇った思いがしたはずです。それは、イザヤ書の「弱った手に力を込め/よろめく膝を強く」(35:3)するような体験であり、弟子たち一人一人が、挫折を味わった心を奮い立たせ、「もう一度始めてみよう」と思い直すことが出来たと思うのです。

 イエス様による派遣の言葉は、実は様々な弟子たちの思い、葛藤や思惑を包み込んで、受け入れてくださる愛に溢れたイエス様による選びの言葉であるのです。

 「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」という言葉が示すように、神様の選びは、人の思いや決断に先立って起こります。私たちにとっての信仰の決断も、よく考えてみれば、イエス様がすでに選んで待っていることを、私が認識した結果としてあるのです。

 イエス様の選びは、恵みなのです。

 

 皆さんは、これらの福音書にあるイエス様の復活の物語を聞いて(あるいは読んで)、どのように感じられるでしょうか。弟子たちが体験した驚きや恐れ、また喜びを身近に感じられるでしょうか。

 そして、皆さんにとって、イエス様の復活は、どのようなものでしょうか。どのような体験であり、どのような意味を持つ出来事なのでしょうか。

 イエス様を身近に感じてみたいと思います。今ここに、イエス様は、生きておられる。そのことを、「思いを尽くし、精神を尽くし」、心を傾けて、感じてみたいと思います。

 そしてまた、弟子たちがそうであったように、私たちもまた、イエス様に愛され、「キリストの証人」として呼び集められていることを覚えたいのです。

 キリストの証人となる。それは、イエス様の出来事を伝え、癒しのわざを行うことです。イエス様のように、苦しんでいる人、差別された人、抑圧を受けている人々に解放と自由を告げることです。疲れた人を慰め、労ること、力づけ、励まして一緒に生きることです。あるいはその人の傍で、ともかく一緒にいることです。神様の愛を、私たちの言葉やわざを通して表すことです。

 復活の主イエス・キリストが、生きておられます。

 私は、個人的にですが、すでに亡くなった親しい人たち、近しい人たちが、時折、傍にいるように感じるときがあります。そのように、復活されたイエス様も、私╲あなたの傍らで、私たちを見守り、私たちに(心の内に、あるいは別な誰かの言葉を通して)語りかけ、一緒に歩きながら、生きておられます。そして、時には必要な助けを、様々な仕方で与えながら、私たちを支えてくださっています。私たちを選び、また、私たちに聖霊を下さり、力づけてくださるイエス様に感謝したいと思います。そして、その託された務めを自覚し、イエス様に従うという責任を今、恐れずに引き受けていきたいと思うのです。

 私たちもまたイエス様の示す福音と使信が実現することを願って力を尽くしたいし、神様の正義と公正が実現することに備えて待ちつつ生きたいと思うのです。

 復活された主と共に。

2024日 
​復活節第2主日

「信じるため

疑う」

​ヨハネによる福音書
20章 19~31節

 疑うことは、悪いことなのでしょうか。自分が誰かから聞いたことに何か違和感があって、慎重に考えたいと思い、鵜吞みにせずにそれが本当のことかどうかを、確かめたいと思うこと。それもまた、疑うことと云えばそうなのかもしれません。

 もちろん、いつどんなときであっても、何でもかんでも疑ってかかることは、適切でない場合もあります。慎重さも度を過ぎれば、臆病ともなります。しかし、慎重さと思慮深さは、ある意味大切なことです。すぐに、感覚的に、感情的に反応しないで、一呼吸おいてから、今自分が、何をすることが適切な行動であるのかをよく考えて、物事をいったん整理して、判断することは、誤った行動をせずに済みます。「石橋を叩いて渡る。」 疑うことも大事なことかもしれません。

 

 イエス様の弟子の一人であったトマスは、今日の日課のせいか、「疑い迷うトマス」と(讃美歌の歌詞に)云われたりもします。

 何をトマスは疑ったのか。それは、イエス様が復活され、弟子たちの前に姿を現したという知らせでした。

 イエス様が復活され、マグダラのマリアの前に姿を現したその日の夕方、イエス様は、今度は弟子たちの前に姿を現しました。弟子たちが、イエス様の十字架による処刑の後、「恐れて」家に閉じこもっていると、その閉ざされた部屋の中に、突然イエス・キリストが姿を現しました。そして、「平安があるように」と言ってから、イエス様は弟子たちにご自分の傷を見せたのです。イエス様が見せた手とわき腹の傷跡は、自分が紛れもなく三日前に十字架で処刑されたことを示すためでした。その様子を見て弟子たちは喜びます。その弟子たちにイエス様は、「あなた方を遣わす」と言って、息を吹きかけて、聖霊と力とを与えられたのでした。

 ちょうどその時、何かの所用で出かけていて、その場に居合わせなかったトマスは、あとから、「イエス様が甦って、自分たちの前に現れた。イエス様は復活された」ことを他の弟子たちから聞きました。その時、トマスは自分の疑いを口にしたのです。「イエス様を自分の目で見て、その声を聞いて、話をして、その傷口を触って確かめない限り、あなたたちの話は信じない」と。

 

 このトマスの言葉が、後々、彼を「疑い迷う人」、あるいは「疑い深い人」と印象付けてしまうのです。しかしはたして、トマスは他の弟子よりも疑い深かったのでしょうか。

 実は、他の福音書には、復活したイエス様に出会った女性たちが、そのことを弟子たちに告げた時、弟子たちは「女たちがたわ言を言っている」と問題にしなかった、と記されています。その弟子たちがイエス様の復活を信じたのは、女性たちが知らせた言葉を聞いてではなく、あくまでも復活されたイエス様が彼らの前に直接姿を現したことによってでした。知らせを聞いても復活の事実を信じられなかったということでは、トマスも他の弟子たちも変わりはなかったのです。

 そして、トマスが、「自分で傷口に触れなければ信じない」と語った裏には、疑ったというだけでなしに、もう少し複雑な気持ちがあったのではないかと思われるのです。

 自分の大切に思う人が亡くなってしまう、それも不慮の死を迎えた時、人は、そのショックの大きさゆえに、その死の事実を、すぐには受け入れることができないことが多々あります。親しい者、近しい者の死を受け入れるというのは、時間が経ったからといって、容易なものではなく、精神的にたいへんな作業だからです。

 トマスにしてみれば、イエス様が処刑されて墓に葬られてから、まだほんの三日しか経っていませんでした。トマスが、その数日間を、イエス様が死んでもうここにはいないという事実と、彼に生きていて欲しかったという気持ちに、なんとか折り合いをつけようと過ごしていただろうことは、想像がつきます。

 ところが、出先から帰って来たトマスに向かって、「イエス様が生き返って、自分たちの前に姿を現した」と、他の弟子たちが口々に話して聞かせたのです。トマスが、精神的に激しく揺すぶられたとしても不思議ではありません。「それはどういうことなのだ」と、思考停止状態になったかもしれません。すぐに気持ちの切り替えが出来なかった彼にとって、いろいろな感情が沸き上がっただろうと思うのです。「ほんとにそうだろうか」というすぐには信じられない気持ち。どう反応していいのかわからない気持ち。ここは慎重に事実を確認していこうという理性的な、そして思慮を巡らせようとする気持ち。それ以外にも、「そもそも、なぜ私がいないときに(復活された)イエス様が姿を現したのか。」という疎外感。そして他の弟子たちを羨む気持ち。彼は、そうした混乱した気持ちから、「自分で傷口に触れなければ信じない」と言ったのではないでしょうか。実際に顔を合わせてもいない自分が素直に喜べない。そうして頑なになって、困惑した気持ちを抱えながら、トマスは、他の弟子たちが喜んでいるのを、冷ややかな目で眺めていたのかもしれません。

 常識的に考えれば、トマスが、「イエス様の傷口を自分の手で触ってみなければ、信じない」と語るのは、信じるための確証を求めることであり、ごく当たり前のことです。ただ、そこから、イエス様が甦ったという事実を受け入れ、「信じる」ためには、もう一つの後押しが必要でした。それがもう一度イエス様が姿を表すこと、顕現することだったのです。

 「八日後」、また弟子たちはみんなで部屋にこもっていました。トマスも一緒に。その弟子たちの前にイエスは姿を表しました。そして、誰でもないトマスに向って、「わたしの手の釘跡とわき腹の傷跡に触れてみなさい」と語ったのです。

 

 「自分で傷口に触れなければ信じない」とトマスが語ったのは、復活したイエス様と顔を合わせたいと、切に願っていたからです。

 他の弟子たちが体験したように、自分もイエス様の傷跡を見て、話をしたい。聖霊も受けたい。他の弟子たちへの羨ましさもあり、それだけに素直になれずに頑なになってしまい、「自分で傷口に触れなければ信じない」と意固地になってしまった。だからこそ、なおさら、イエス様が復活されたという「知らせを聞いただけでは」、彼は満足できなかったのです。トマスは求めるがゆえに疑っていたのです。

 そのトマスの頑なさや意固地になっていた心を和らげ、溶かしたのは、イエス様の顕現でした。イエス様が、トマスに向かって言った「わたしの手の釘跡とわき腹の傷跡に触れてみなさい」という言葉は、彼の硬く閉ざされた心を砕きました。再び現れたイエス様の姿と彼に向けて語られた言葉は、トマスに素直さを取り戻させたともいえます。

 「聞いただけでは納得していない自分のために、イエス様が現れた。」「私(トマス)を弟子として認めてくれている。」

 そのことに彼は気付くとともに、イエス様に対して、「意地を張ってごめんなさい」という謝罪の気持ちと、「お会いできてうれしいです」という喜びを感じたのではないでしょうか。イエス様の傷を触ることなく、「私の主よ」という信仰の告白をしたことは、イエス様の復活への驚きと喜びを表しているとも言えますし、改めてイエス様の弟子として歩んで行こうという、トマスの決心を示しているとも言えます。

 イエス様の「見たから信じたのか」という言葉は、トマスが疑いを持ったことを非難し咎めた言葉ではないと思えます。そうではなくて、トマスが頑なになり、疑いを持つことを見越していた言葉とも取れます。「お前が疑いを持つとしても不思議ではない」、「疑ったとしても当然かもしれない」という言葉。それはイエス様のトマスへの愛情を表しているのではないでしょうか。求めるがゆえに疑うトマスと、そのトマスを、愛情を持って見つめて、なおも弟子として再び呼び起こすイエス様。復活の事実をトマスにも受け入れて欲しいと願い、そのためならば何度でも姿を表そうとするイエス様。それは、トマスへの「あなたを愛しているよ。大切に思っているよ」というメッセージです。そのメッセージにトマスははっきりと気づたのです。

 

 「熱しやすく、冷めやすい。」 それは、何かことを始めるときは、熱中して行動するけれども、しばらくすると気持ちが覚めてしまい、始めたことも止めてしまう、そんな状態を云います。ある意味では、それは「よく考える時間を持つことなしに、思い立ったらすぐに行動する」浅はかな人、あるいは「配慮や考えを及ぼすことなく行動する」軽率な人とも云えなくもありません。

 人が信仰を持つ、神様を信じるということにおいて、そのような「熱しやすく、冷めやすい」あり方は、避けたいものです。信仰者の在り方として求められるのは、慎重で思慮深くあること、信じる確証を求める姿かもしれません。トマスのように。

 私たちが生きている世界は、様々な問題や矛盾に満ちています。場合によっては、私たちは、神様に信頼を寄せることが難しい状況に直面することもあります。神様の正義と公正とはどこにあるのかと疑いたくなる現実と状況があります。そして、困難な状況に陥ったとき、人は得てして、神様の助けがすぐに目に見える形で現れることを求めて、目先の成果に一喜一憂することがあります。そして、目の前の結果だけで、神様に絶望し、「今ここには、神様は働いていない」と判断してしまうことさえ起こります。

 しかし、困難なときであるからこそ、私たちにとって必要なのは、イエス様の福音の働きを、思慮深く見極める目です。目先の成果や結果に目を奪われるのではなく、常にイエス様の福音とそのわざに自分の生き方の軸を定めて、なおも「望んでいる事柄を確信し」、まだ「見えない事実を確認すること」です。「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様の声は、トマスにだけでなく、今現代に生きる私たちにこそ向けられているのです。

 主イエス・キリストは生きておられます。イエス様は、トマスの心の傷を癒し、彼を愛して受け入れたように、私たちをも弟子として、仲間として受け入れ、励まし、力づけて下さいます。

 復活の主よ、来てくださいと祈りましょう。

202431日 
​復活祭(イースター)

復活の朝に

​ヨハネによる福音書
20章 1~18節

 今日、私たちは復活祭(イースター)を迎えました。

 イースター、復活祭とは、イエス・キリストが十字架に架けられて死んで、三日後に甦ったことを記念して祝われるものであり、キリスト教の最も古く大切にされてきたお祭りです。

 今日は、ヨハネ福音書の「イエス様の復活についての証言」を読みながら、その出来事に込められたメッセージを聴いて行きたいと思います。

 死と墓を砕き復活された主イエス・キリストから、皆さんの上に、豊かな祝福と平安とがありますように。アーメン

 

 さて、復活の物語は、イエス様が十字架で処刑されてから三日後の日曜日の朝、マグダラ(の町)出身でマリアという女性が、イエス様が葬られたお墓にやって来るところから、始まります。

 このマリア、別な福音書に記されたところでは、イエス様によって七つの悪霊を追い出してもらったという経験を持っていました。何かの原因で重い病気に苦しんでいたマリアが、イエス様と出会うことで、その苦しみの状態から癒され、解放されたことは、感謝してもしきれないくらいの大きな経験だったはずです。彼女にとっては、イエス様による癒しは、彼女が一度は見失ったかに見えた自分の人生と命を取り戻す出来事だったと思うのです。おそらくは、そのときから、イエス様はマリアにとって生きがいになったし、彼女はイエス様に従ってエルサレムへも付いて来たのだと思います。それだけに、イエス様が、どう考えても無実の罪で十字架に磔になり、処刑されたことは(彼女には)大変なショックでした。それは彼女にとって、とても理解しがたい状況であり、イエス様が捕まってから死なれるまでの数日間は、どうしていいのかわからないくらい混乱した時間だったに違いありません。マリアは悲しんでいました。イエス様が十字架上で死なれ、埋葬されてしまったから。イエス様は、もうこの地上には生きておられないから。

 その彼女が、この日の朝、もう一度ショックを受けたのです。

 墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除かれ、イエス様の遺体がなくなっていたからです。マリアは、このとき、何者かがイエス様の遺体を奪ってしまった、と考えたようでした。

 ともかく、驚いたマリアは、すぐにペテロたちに、「誰かが主のご遺体を持ち去った」と知らせに走りました。その知らせを聞いて、ペテロともう一人の弟子が墓までそれを、確かめに行きました。二人は急いで墓に向かいました。そして墓で彼らが目にしたものは、空の墓でした。二人の弟子たちは家に帰っていきましたが、喜んでいたとは書いてありません。ともかく説明のつかないなにか不可解なことが起こったに違いないと、驚きながら彼らは帰っていきます。(一人の弟子は、「見て、信じた」とありますから、イエス様が復活されたことは、漠然とではあれ信じてはいます。) ただ、ペテロは、戸惑っていました。

 一方、マリアは一人墓の前に残って泣いていました。イエス様の遺体はなくなり、思い出さえも彼女から取り去られようとするかのように、生前のイエス様を偲ぶその墓までも荒らされてしまった。そのことがただただ悲しく、マリアは泣いていました。泣きながら、マリアはもう一度墓を覘きました。そうすると、さっきまでいなかった神様の使いが二人墓の中にいて、彼女に向かって「なぜ泣いているのか」と尋ねました。マリアは答えました。「私の主が取り去られたから。」

 興味深いのは、このときすでにイエス様がマリアの傍に立っていたことです。しかし、悲しみに沈んでいる彼女は、その姿に気づかず、そればかりか彼を園丁だと思って、「あなたがあの方の遺体を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と話しかけました。ここで、イエス様は彼女に話しかけました。「マリア、わたしは、ここにいるよ」と。その声は、彼女の知っていたイエス様のものでした。

 このエピソードが示しているのは、復活されたイエス様は、見ることでは判りませんが、名前を呼ばれる関係、名前を呼び合う関係の中に彼女を再び引き戻したとき、彼女が気付いたということです。イエス様がそこにいる、と。

 マリアは、イエス様に呼びかけました。「ラボニ、先生」と。

 

 「わたしにすがりつくのはよしなさい」 この言葉は、復活されたイエス様が、そのときのマグダラのマリアに向けて語られたものです。この言葉は、元々は、「わたしに触れてはいけない」と、「わたしを引き止めてはならない」という二つの意味を表します。再会のうれしさのあまり、イエス様の方に自然に伸びていたマリアの手を、イエス様は、押しとどめたのでしょうか。

 その言葉は、マグダラのマリアとよみがえったイエス様との関係が、以前のものとは確かに別な新しいものになっていることを感じさせます。懐かしむのは一瞬のことであったとしても、イエス様とマリアの関係は、その以前の関係に止まることは出来ないことを、イエス様の言葉は表しています。そしてそこでは、自立すること、悲しみから自分で立ちあがって行くことが求められているのです。

 「マリアよ、私に触れてはいけない。以前のような関係にとどまってはならない。私にすがりついて依存するのではなく、自分の足で立ちなさい。」

 嘆き悼む者の悲しみを喜びに変えていく、復活されたイエス・キリスト。悲しみのうちに沈んでいたマリアは、よみがえったイエス様によって、再び立ち上がることが出来るのです。

 決定的なのは、墓の前で「泣いていた」マリアが、復活したイエス様によって、再び立ち上がって、主の「兄弟たち」、つまり弟子たちに対して、イエス様の復活の知らせを伝える者、喜ばしい知らせを取り次ぐ者として、立てられていったことです。教えを乞う者から、自立して教えを伝える者へと変えられて行ったのです。

 

 復活の物語が私たちに示しているいくつかのことがあります。  

 一つは、復活とは、死がすべての終わりではないことを現わしています。死がすべてを取り去ったり、飲み込んでしまうのではないことが現わされたからです。

 それはまた、イエス様の福音宣教は、その言葉とわざは決して空しくはないということです。朽ちるべき遺体がないということは、その言葉もわざも、そのまま朽ちてしまうのではないことを示しているのです。神様はそれを無にしない、ということが、はっきりとされたのです。

 そしてそれは絶望しなくてもよいというメッセージを私たちに伝えています。なぜなら、死がすべてを破壊するのではなく、絶望することがすべてを終わりにするからです。

 二番目に復活は、人間にとっての罪の赦しの宣言、罪の状態から解放されることの宣言であるということです。なぜなら、十字架の出来事を通して人の罪の姿があらわになりました。その罪の姿と向き合うことで、人はその状態から解放される機会を持つからです。人の罪によって死んだイエス様が甦った。神様は罪に克つことができる。人の罪の状態は神様を殺すことはできないのです。また復活は和解のしるしでもあります。罪によって、神様から離反してしまった人間が、神様と和解することができる、そのしるしなのです。

 三番目に、復活は人を新しい関係に招き入れる、ということです。復活・甦りとは、すべてがただ元通りになったということではありません。何もかもが同じ状態に戻ったわけではないのです。むしろそれ以上のことを意味しています。それは、たとえば、イエス様がマグダラのマリアに向かって、「私に触れてはいけない」と語ったように、復活されたイエス様は、マグダラのマリアと、弟子たちと、そして私たちと、新しい関係の中で、新しい人間性をまとって、新しい希望をもって、再び出会うことを望んでいるということなのです。イエス様の復活とは、人が新しく生きなおすための、やり直すための招きのしるしです。

 それが復活のメッセージであるのです。

 

 イエス様の復活の出来事は、聖書の、しかもそれぞれに異なった福音書の証言にのみ語られています。それ以外には、歴史的な確たる証拠はありませんし、その証言もイエス様を信じていた者にのみ姿を現したというものです。

 「イエス様が復活された。」

 その証言は信仰の出来事です。しかし、その証言とその後の弟子たちの働きとは、ひとつのことを力強く証ししています。

 主イエス・キリストは生きておられます。主は死から甦られました。その甦ったイエス・キリストは、弟子たちを力づけ、励まし教会を創られました。また、常に歴史の中で働き、その時代、その時代の良心として、教会の歩みを導き、時に正し、支えられました。

 主イエスは、生きて、今も働かれています。

 イエス・キリストの復活は、新しい希望なのです。私たちはイエス・キリストという希望に招かれています。マグダラのマリアに向けられたイエス様の言葉は、そのまま私╲私たちにかけられた言葉なのです。その希望によって、私たちは立ち上がり、人生を新しく、出発することが出来るのです。何度でも。

 「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネによる福音書11章25節)

 イースターの喜びが皆さんと共にありますように。アーメン

202424日 
​受 難 主 日

痛む神

​マルコによる福音書
15章 21~41節

 今日、私たちは受難主日としてこの礼拝を守ろうとしています。  

 先ほどお読みした日課、マルコによる福音書15章21節~41節から、イエス様の受難と十字架の出来事が、私たちに示しているメッセージを聞いていきたいと思います。

 イエス様がエルサレムに入城してから六日目、彼は、祭司長や律法学者といったユダヤ教の宗教的な指導者たちによって、逮捕され、その日の内に裁判にかけられました。

 それは、いわば不当なでっちあげ、冤罪でした。ユダヤ教の宗教的指導者たちにとって、イエス様の教えやわざは、律法の伝統的な解釈を変え、ユダヤ教の権威をないがしろにするものであり、さらには自分たちの権益を脅かす、赦しがたいものでした。しかも、イエス様に対する民衆の期待と信頼は高まるばかりで、その影響力は彼らにとって脅威となっていました。その怖れは、イエス様がエルサレムに入られた時に、大勢の群衆が棕櫚の葉を振って出迎えたのを見て、頂点に達しました。ですから、ユダヤ教の指導者たちは、なんとかしてイエス様を葬り去りたかったのです。

 彼らは、数人の者たちに、イエス様が神殿の庭で商売する者たちを追い払おうとした時に、「この神殿を打ち壊し、自分が三日で新しい神殿を建てる」と言うのを聞いたと偽証させ、神殿を冒涜した罪で、死刑の判決を下したのです。

 しかもユダヤ教の指導者たちは、この判決の責任を自分たちが負わなくてもよいように、ローマ帝国の総督に、イエス様を政治犯として死刑にするようにと迫りました。ローマ総督ピラトはイエス様を取り調べて、無罪であることを確信しますが、ユダヤ人の暴動を恐れて、イエス様を十字架に磔にするよう命令します。

 

 政治的な算段で、イエス様を不当に逮捕し、しかも彼を死刑にしようと計画しながらも、その責任を負いたがらないユダヤ教の指導者たちの姿。彼らの行動の裏には、これまでイエス様から受けた批判に対する恨みや、その教えの正しさの前で感じる後ろめたさ、そして嫉妬が渦巻いています。

 彼らにとっては、切実な悩みを抱え、救いを求めてイエス様のもとを訪れ、悪霊を追い出してもらったり、病を癒してもらった人々のことや、その教えによって慰められ、希望を見いだした人々のことなど、どうでもよかったのです。彼らは宗教指導者でありながら、世の人々の苦しみにはまったく関心が無く、ただただ自分たちの立場や面子を守るそのためには、平気で人の命まで奪おうとするのです。

 ローマ総督のピラトもまた、イエス様に対する死刑の正当な理由が見いだせないにもかかわらず、暴動が起きた時の自分の責任逃れを優先させ、死刑を執行させます。

 そうした思惑が、イエス様を十字架に架けて殺したのです。

 また、そこには、この政治的な裁判のために、買収され人を陥れるようと偽証した証人たちや、当然のように囚人であるイエス様を殴りつけ、辱めたローマの兵士たち、あるいは十字架につけよと叫び、また十字架に架けられたイエス様を痛ましいとも思わず、嘲笑し、からかう群衆たちの罪の姿があらわにされています。彼らは、他者の苦しみに無頓着なばかりか、他人が苦しむのを、自分たちの楽しみにさえしています。

 イエス様の十字架は、そんな人間の罪に対する、裁きのしるしでもあるのです。なぜなら、その場所で罪をあらわにした人々によって、イエス様は十字架に架けられたからです。「神の独り子」として、人々に悔い改めを説き、神様に立ち返ることをイエス様は促しました。しかし、この世の人々は、そのイエス様を拒み、その命を奪おうとしたのです。十字架は私たちに、本来裁かれるべきは誰なのかを突き付けてきます。

 「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

 この言葉は、マルコ福音書によれば、イエス様の十字架上での最後の言葉とされています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というのは、イエス様が日頃話していたアラム語です。これを詩編の引用とする解釈もありますが、イエス様が耐えがたい最後の苦しみの中で絞り出した、悲鳴にも似た苦痛の叫びであったことは間違いないでしょう。その響きは、あたかもイエス様の絶望を表しているかのように聞こえたかもしれません。

 受け入れがたい現実、耐え難い苦しみの渦中にあって、人は神様に対し、「主よ、どうしてですか」「なぜ、こんな目に遭わなくてはならないのですか」と、抗議にも似た問いかけをします。それは同時に、「どうか、この現実を取り除けてください」という、悲痛な嘆きであり訴えです。イエス様の十字架上の叫びは、そうした人々の叫びと重なります。

 今から5か月前、パレスティナのガザ地区へイスラエル軍が圧倒的兵力を持って軍事侵攻しました。町への空爆によって市街地が破壊され、人々が避難していた病院までもが攻撃の対象になったとき、一人の女性がテレビ報道のリポーターの前で叫んだ言葉が忘れられません。彼女はこう語ったのです。「キリスト教の神も、イスラムの神も、そしてユダヤの神も、どうして黙っているのか」と。町が破壊され、砲爆撃によってたくさんの人々が亡くなり、あるいは傷つき、生命も心も、損なわれていく状況を前にして、彼女は、(キリスト教の、イスラム教の、そしてユダヤ教の)神様に訴えているのです。「どうか、黙っていないでください。沈黙しないで、傷ついた人々を、肉親を亡くした人々を、生活のすべてを失った人々を、顧みて、救ってください。どうぞ、戦争を停めてください」と。叫んで訴えたからと言って、目の前の悲惨な状況が変わるわけでもないのは、彼女にも判っているでしょう。しかし、だからこそ、彼女は「神」に訴えざるを得なかった、そう私には思えるのです。

 これまでの歴史の中で幾度も、そして今も、世界中の至る所で、また日本でも、人々が自由を奪われ、抑圧され、苦痛を強いられ、人の命が軽視され、簡単に損なわれていく絶望的ともいえる状況の中で、「主よ、どうしてですか」、「主よ、なぜなのですか」、「神様、沈黙しないでください。」という問いと訴えが発せられてきました。

 もし「神」が全能ならば、どうして問題を解決し、人々を苦しみから今すぐ救わないのか、と思う人は多いでしょう。しかし、神様は、そうではなく、そのかわりに、大切な「独り子」をこの世界に送り、十字架につけて、苦難の中で神から見捨てられたと感じている人々と同じ苦しみを与えられたのです。

 なぜなら、この世から人の罪が無くならない限り、悲惨な出来事は起こり続けるからです。

 

 イエス様は、弟子たちに三度、自分が受ける受難と死を、そして復活を予告しました。「人の子、すなわちキリストは、宗教指導者たちに引き渡され、死刑を宣告される。また異邦人(ローマ人)に引き渡された後、侮辱され、つばをかけられ、鞭打たれ苦しみを受け、殺される。そして、人の子は三日後に復活する」と。

 その「受難と死」の目的をイエス様は、こう語っています。

 「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多く人の贖い(の身代金)として自分のいのちを捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

 旧約聖書のレビ記という書物に、贖罪の山羊、身代わりの山羊の話が出てきます。年に一度、ユダヤ人共同体の人々、あるいは個々人が犯した罪を神様に告白し、咎めと罰を受けるべき人々の代りに、祭司が一頭の雄山羊にこの罪を移し背負わせて、荒野の奥に放つという儀式です。雄山羊が荒野で死ぬことで、背負わされたすべての人の罪が赦されることを意味します。

 このイエス様の言葉は、人々の罪のための身代わりの山羊として、自分のいのちを捧げるということを意味しています。それは、罪ある人間が、十字架に架かられたイエス様を見上げ、再び罪を繰り返さないようにと、悔い改めるために他なりません。

 イエス様の受難と十字架の死は、人の罪の結果を神様自らが引き受け、信じた人々の罪を帳消しにするかわりに、互いに愛し合い、大切にしあう、新しいいのちに生きられるようにするための出来事なのです。

 そして、イエス様の十字架の上の悲痛な叫びは、神様が、悲惨な状況の中にいる人々の苦しみと痛みを、共に担おうとされていることを証ししています。大切な我が子を地上に送り、十字架に磔としなければならなかった親の痛みと嘆き、悲しみを、神様ご自身が経験されたのです。

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエス様は、イザヤ書53章にあるように、「軽蔑され、人々に見捨てられ」、「多くの痛みを背負い」、「わたしたちの背きと咎のため」に、十字架上で苦しまれました。

 それによって神様は、人間の罪のゆえに、苦しみの中で傷つけられ、痛みを受けている人々、またこの社会で無視されたり、差別を受けて存在を葬り去られようとしている人々の苦しみと痛みを、いっそう自らのこととして感じ、共に背負って歩んでおられるということです。共に痛む神、共に苦しみを経験する神様の姿がそこにはあるのです。

 

 十字架が告発する人の罪の姿。現代も繰り返される戦争、貧しさや困窮、飢餓があります。あるいはそのような現実があるにもかかわらず、自分の関心領域だけに閉じ籠っている無関心さ、お互いへの配慮を欠いた社会があります。そうした人の罪の根深さを思うとき、神様の前で咎めを受けるべきなのは、本当は誰だったのか、あるいは誰なのかを考えさせられます。

 受難週、キリストの受難を覚え祈るときです。それはまた私自身と向き合う時間でもあります。私自身を省みていく時間でもあります。私自身をキリストに投げ出す、委ねることが許される時間でもあります。キリストの十字架の前で、正直に自分自身の姿と向き合い、その罪を顧み、悔い改めることが求められています。

 そのとき、人の罪の赦しと贖いのためのキリストの受難と十字架は、私たち一人一人の新生のしるしとなるのです。私たち一人一人の尊厳が回復され、新しいいのちを生きることができるのです。

202417日 
​四旬節第5主日

「一粒の麦、

​死なずば」

​ヨハネによる福音書
12章 20~33節
​日本福音ルーテル大阪教会
​大柴譲治 牧師

 本日「四旬節(レント)第五主⽇」に与えられている福音書の日課はヨハネ 12;24 のよく知られたみ言葉で す。

 「はっきり⾔っておく。⼀粒の⻨は、地に落ちて死ななければ、⼀粒のままである。だが、死ねば、多くの実 を結ぶ」。

 これはヨハネ福音書だけが記録しているすばらしい言葉です。実はこのみ言葉は御子イエス・キ リストご自身の十字架の死を意味していて、御子の十字架の死によって多くの「義(救い)の実」を結ぶこと になるのです。これは先週の「神は、その独り⼦をお与えになったほどに、世を愛された。独り⼦を信じる者が ⼀⼈も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)に直接つながるみ言葉でもありましょう。

 それにしてもこの「⼀粒の⻨死なずば」という表現は実に味わい深いものです。

 「はっきり⾔っておく。⼀粒 の⻨は、地に落ちて死ななければ、⼀粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

 ここで「よく⾔ってお く」という表現はギリシア語では「アーメン、アーメン、私はあなたがたに⾔う」という語です。そこでは「ア ーメン」(真実/然り)という語が二度繰り返される。それはイエスが大切なことを語る時の枕詞のようなもの です。口語訳聖書では「よくよく⾔っておく」と訳されていました(協会共同訳 2018 でも同じ)。共観福音書で は「アーメン、わたしは⾔う」となっていて、「アーメン」という語は一度だけなのですが、ヨハネでは二度繰 り返されています。調べて見ますと、それがなんとヨハネ福音書には 25 回も出てくるのです。

 「⼀粒の⻨は、地に落ちて死ななければ、⼀粒のままである」というのは、実に当たり前のことです。しかし私などは何度聞いても、「⼀粒の⻨が地に落ちて死ぬ」という表現にハッとさせられます。種としての麦の命が 終わって(一端「死んで」)、死んだ後にそこから新しい命が芽吹いてくるのです。私たちのこの世の人生も麦に譬えれば、一人残らず「死」によってその「命」は終わります。皆 100% 死ぬ。「死ななければ⼀粒のまま」 なのです。しかし、「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われている。これは実にすばらしい宣言であると 思います。「死んだら終わり」と思っていても実はそうではないのです。死んだ後に、多くの実を結ぶことになると言う。これは目からウロコが落ちるような宣言です。「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスの十字架上の死ですべてが The End、皆すべて終わったと思った。しかし主は三日目に死人の内から甦られたので した。主のご復活を経て、キリスト教会は二千年に渡ってキリストに倣って多くの「愛の実」を産み出してき ました。そのことは歴史が証明しています。「はっきり⾔っておく。⼀粒の⻨は、地に落ちて死ななければ、⼀ 粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

 

 特にこの後半の「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉に焦点を当ててみたいのです。

 これは復活の命が豊かな実を結ぶということを意味しています。キリストが十字架の上で死んで下さったことで私たちの罪は贖われ、私たちは復活の光の中に招き入れられました。死は終わりではなく墓は終着駅ではないということ が真実なこととして宣言された。しかし罪の贖いだけが射程に入っているのか。そうではありません。十字架 は確かに罪の赦しのためでありましたが、復活はそれだけではない。私は思います。闇の中から光の中へと、私たちはキリストによって招き入れられているのだと。私は以前に次のような言葉を読んでハッとさせられまし た。

 「私たちは⽣まれながらにして原罪を負っているのではなく、⽣まれながらに祝福されていると考えるべきで はありませんか」(サティシュ・クマール。インド生まれのイギリスの思想家。9 歳で出家しインドのジャイナ教の修行僧となる。ガンジーの非暴力と自立の思想に共鳴し、2 年半をかけて核兵器の放棄を説く 1 万 4 千キロの平和巡礼を行う)。その 通りではないか。「⼗字架による罪からの解放」が大切な問題ではなかったとは思いませんが、それと同様 に、否、それ以上に「復活による神の祝福の中への解放」も強調すべきではないかと。

 キリスト教は、特にカトリック教会を初めとする「⻄⽅キリスト教会」は、アウグスティヌス以降「原罪の教理」を重視し、それを強調してきました。プロテスタント教会もその西方教会の流れの中にあります。しかしクマールは「原罪の教理」に対して厳しく批判しています。私は現在木曜日の夕聖研でローマ書を読んでいて、 先週はローマ書 4 章を読んだのですが、改めてそこで「信仰の⽗」アブラハムが子孫たち(諸国民)のために 「祝福の源/基」(創世記 12 章)として召し出されたことを学びました。

 パウロはこう記しています。

 「『わたしはあなたを多くの⺠の⽗と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの⽗となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの⼦孫はこのようになる』と⾔われていたとおりに、多くの⺠の⽗となりました。そのころ彼は、 およそ百歳になっていて、既に⾃分の体が衰えており、そして妻サラの体も⼦を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりは しませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる⼒も、お持ちの⽅だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。 (ローマ 4:17-22)

 

 アブラムは創世記の 12 章で「神の召し出しの声に従い、⾏く先を知らない」でハランを出発した。アブラム 75 歳の出来事です。そして 17 章で彼は「約束の⼦イサクをあなたに与える」という神の約束の言葉を信じた のです。アブラハム 100 歳、サラ 90 歳の出来事でした。そして 22 章ではその「イサクを燔祭として献げよ」 という神の命に従ってモリヤの山に旅立ったのでした。アブラハムは常に神の御声に従順に従います。それに よって義と認められ、すべての民族の「祝福の源(口語訳聖書では「基」)」になることを宣言されています。

 「原罪」はこのアブラハムの「従順」とその「契約」によって既に止揚されていたのではないか。それがキリ ストの十字架と復活につながってゆくのです。エレミア書 31 章は「新しい契約」の締結を預言しています が、それはやがてキリストにおいて締結されてゆきます(聖餐の設定辞)。しかしそれはアブラハムを通して既 に予告されていた事柄でもあった。「原罪」は最終的にはキリストの十字架によって克服されました。

 ローマ 書 7 章でパウロは「わたしはなんと惨めな存在なのだろうか。だれがこの死のからだからわたしを救い出してくれ るだろうか」(24 節)と嘆きながら、その次の瞬間に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25 節)と神を讃美する。それができるのも、既に私たちがキリストによって救いの光の中に招き入れられているからなのです。ローマ書 7 章が描くキリストと出会う以前の「闇」の状態はローマ書 8 章によっ て完全に乗り越えられている。

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることは ありません」(8:1)。「キリスト以前」と「キリスト以降」では事態は完全に違っている。8 章にはこうあります。

 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったので す。では、これらのことについて何と⾔ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味⽅であるならば、だれがわたしたちに敵 対できますか。わたしたちすべてのために、その御⼦をさえ惜しまず死に渡された⽅は、御⼦と⼀緒にすべてのものをわたした ちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。⼈を義としてくださるのは神なのです。だ れがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ⽅、否、むしろ、復活させられた⽅であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができ ましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために⼀⽇中死にさらされ、 屠られる⽺のように⾒られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたした ちを愛してくださる⽅によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、⽀配するもの も、現在のものも、未来のものも、⼒あるものも、⾼い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたした ちの主キリスト・イエスによって⽰された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。 (8:30-39。下線は 大柴)

 

 「⼀粒の⻨死なずば、⼀粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」と言われたイエス・キリスト。ご自身の「⼗字架と復活」において結ばれた天と地の間の「新しい契約」(エレミア 31:31)を心に刻みながら、イエ ス・キリストのあとに従ってまいりましょう。 皆さまの上に祝福をお祈りいたします。アーメン

202410日 
​四旬節第4主日

「神様は、

​世界を愛している」

​ヨハネによる福音書
3章 13~21節

 キリスト教の信仰をもつということを、ある人は「方向転換、つまり自分の生き方の向きを変えることだ」といいます。確かに、信仰をもつことが、聖書に示されたイエス・キリストとの出会いを通して自分の価値観を変えられ、自分の人生の意味を新たに見出し、歩み出していくことであるならば、それは、その人にとっての方向転換を意味します。

 またある人は、信仰をもつことは、「自分の人生に根っこを持つこと」だといいます。信仰をもつことで自分の人生の基をしっかりとさせる、つまり、何事においても、聖書に記されているイエス・キリストの言葉とわざを思い起こし、それを手掛かりにしながら、自ら考え判断していく、ということです。それは、その人の人生を信念に貫かれた確実なものとします。

 しかし一方で、人がこれまでの自分の人生を改め、変えていこうとすること、更には、それを周囲に表明することは、とても勇気のいることです。私たちは、日々の生活の中で様々な事情や、しがらみを抱えています。そうした自らを取り巻く関係の中で、信仰を言い表し、新たな一歩を踏み出すことがなかなか難しく感じられることがあるでしょう。

 今日の日課に登場するニコデモも、ある意味、イエス様に期待を寄せつつ、信じることに躊躇する一人であったと云えます。

 

 ファリサイ派であり、ユダヤ教の長老の一人でもあったニコデモが、イエス様を訪ねてきました。彼は、イエス様を一人の尊敬できる先生(ラビ)として、話を聞くために訪れました。

 「さまざまな奇跡を行うあなたは、神様から遣わされたお方です。その奇跡は、神様があなたと共にいるという証明です。」 

 ただ彼は、イエス様を神の御子として信じ受け入れた、というわけではありませんでした。そのことは、彼の話が、イエス様の語ることと噛み合っていないことからわかります。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語るイエス様に、「年を取ったものがどうして生まれ変わることができましょう。もう一度母親の体内に入って生まれることができるでしょうか」とニコデモは問いかけます。それは、ある種の先入観です。生まれ変わることの意味を理解できていません。

 彼は、イエス様の奇跡を神様が共にいることのしるしとして理解し、そこに注目しています。しかし、そこには誤解も生じています。奇跡より大切なものを彼は、未だ見ていないのです。先入観が邪魔をしているのです。イエス様が示しているもの、それはしるしではなくて、実は、「知っていることを語り、見たことを証している」イエス様ご自身の言葉であり、行動そのものです。

 イエス様はいいます。

 「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 ここでイエス様は、自分が天から下って来た、神の御子であることを明らかにしています。また、自分が地上に来た目的が、人々の救いのため、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」ことを告げるのです。そして、その救いとは、自分が「上げられる」、すなわち、十字架の上に挙げられることと、復活の後、天に挙げられることによって、もたらされるのだと語るのです。

 それは、かつてエジプトを脱出したイスラエルの人々が経験した出来事と結びついている、とイエス様は語りました。

 モーセに率いられていたイスラエルの人々が、長旅に疲れ果て、神様に反抗したときのことです。神様は、その罰として、炎の蛇を人々の間に送りました。蛇は人々を噛み、多くの死者が出ました。後悔した人々が悔い改め、神様に願って、蛇を取り除いてくれるようモーセに頼むと、神様はモーセに言いました。「青銅で蛇を造り、その蛇を旗竿の先に掲げなさい。蛇に噛まれても、その人が青銅の蛇を仰ぎ見たならば、その人は命を得る。」 その神様の言葉に従った人々は、命を得たことが、民数記21章に出ています。

 この物語によってイエス様が示しているのは、繰り返しになりますが、何よりも、イエス様が十字架に架けられることと、その十字架を仰ぎ見ることによって、人々が救いを得るということに他なりません。青銅の蛇が反抗した人々を赦すしるしであったように、十字架は、人の罪の赦しのためのしるしであるのです。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 イエス様がニコデモに語ったこの言葉は、しばしば「小聖書」とも呼ばれますが、つまりここには聖書のメッセージの本質、エッセンスが凝縮されていると理解されるからです。

 「神様はそれほどに、この世界を大切に思い、愛おしんでおられる。だから、その独り子を差し出されたのだ。」ということです。

 この言葉には、神様のこの世界を愛しみ、人間を愛しむ心が、私たちが神様を愛するのに先立ってあるということを示しています。

 「お与えになる」、それは、人々の代りにイエス様が肉を裂かれ、血を流されたということです。イエス様の受難、つまり、逮捕され、不当な理由で裁判にかけられ、異邦人であるローマ人に引き渡され、死刑を宣告され、鞭打たれ、辱めを受け、十字架に架けられて、苦痛のうちに死の瞬間を迎えるその一連の出来事は、神様が人々の救いのために、そのようになさることなのだと、イエス様は語っているのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 それは、人々に向かって、イエス様を救い主として信じて受け入れ救われること、言い換えれば、人がその生き方を改めて、生き直して欲しいと願う神様の思いが、現れている言葉です。

 イエス様は、言います。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

 イエス様が来られた目的は、世を裁くためではないと語るのです。

 ただ注意したいことがあります。それは、そこには裁きの言葉が続いている、ということです。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と。ここには、神様の裁きは、今この瞬間のその人の決断によって下されることが記されています。

 イエス様を神の御子と信じ、イエス様に信頼して自らの生き方を変えて行くことを、今決心し、始めるかどうかに、その人の救いがかかっているというのです。信じる者は裁かれないが、信じない者はすでに裁かれているとは、言い換えれば、光であるイエス・キリストに従って歩もうとするのでなければ、その人は、この世界の闇の中にいつまでもとどまることになる、それ自体が裁きであり、その人が救われることはないということです。それを判断されるのは神様です。だからこそ、イエス様は、神様の願いはこの世界を救うことだと繰り返し語るのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 ここでのイエス様の言葉は、旧約聖書の預言者の言葉にも重なってきます。預言者の一人、エゼキエルの口を通して、神様は、罪を犯し、神様から離れ去っている人々を、呼び返そうとします。

 「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち返れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」 

 預言者エゼキエルは、人々に神様の裁きから逃れ、立ち返る機会を選ぶように呼びかけます。そして、こう続けます。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死も喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ』と主なる神は言われる。」

 イエス様が語られた、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉には、それと同じ神様の愛が示されているのです。

 この世界には、闇があります。いつの時代にもそうですが、現状を見ても、貧困や飢えがあり、争いや奪い合いがあり、戦争があり、環境破壊があります。それらは皆、人間の罪の創り出したものです。しかし一方で、そうした状況の中で、苦しみ、解放されたいと願う人たちがいる限り、神様は、けっしてこの世界を見捨てることはありません。すべての人が罪の束縛から解放され、また苦しみから解放され、自由な人々の列に戻されることを、神様は願っておられるのです。

 神様は「この世界を愛おしく思い、現状を憂いて」おられます。だからイエス様を信じる者たちが、「光の子」として自覚をもって歩むことが、その神様のまことの思いに応えて行くことになるのです。

 

 イエス・キリストに従う生き方。それは、真理を行うことであり、神様に従って歩むことである。そう聖書は語ります。

 この世界を愛おしく思う神様に信頼し、神様を仰ぎ、イエス様を信じ、自分の人生を委ね歩んでいく。そのとき、私たちは「永遠の命に入る」ことができる。そのように聖書は語っています。

 四旬節、私たちのために御自分の体と命を「与えてくださった」イエス様を思う季節です。それはまた、同時に自分の人生を思う季節です。あなたにとって、私にとって、イエス様とは、どのようなお方なのでしょうか。

 讃美歌の歌詞にこうあります。

 「わが罪とがを 主は負いたもう。/ 主はわがために 苦しみたもう / われここに立つ、恵みの主よ、/ 愛のまなざし そそぎたまえ。」 (教会讃美歌81番2節)

 神様の愛に応え、自らの人生を整えていきたいと思います。

2020年8月30 日(聖霊降臨後第13主日)

「キリストに倣う」 

 マタイによる福音書

 ​16章21節~28節

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 中村哲という日本人医師が、活動していたアフガニスタンで何者かに襲われ、命を落としてから、すでに九ヶ月が経ちました。

 中村さんは、著書「医者、用水路を拓く」にも書いておられますが、医療活動を行うだけでなく、水源を確保する事業を進めていました。

 中村さんは、1978年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によって発生した、多くのアフガン人難民を救援するため、1984年にパキスタンで医療活動を始めます。そして、数年後にはパキスタン北西部の山岳地帯やソ連軍撤退後のアフガニスタン東部で、診療所を開設していきます。

 そうした活動を続ける中で、彼は、人々の栄養状態や衛生環境が改善されていかないと、人々を病気から救う抜本的な対策にはならないことを痛感していきます。

 特にアフガニスタンでは、内戦と長期間に及ぶ旱魃の影響から、本来の穀倉地帯でも大地が干上がり荒れ果てていました。さらに水不足から赤痢やコレラが急増し、全土で多くの国民、農民たちが難民化している状況がありました。

 そこで中村さんは、医療活動に併せて、水源確保のための事業を始めます。中村さんは地元の協力を得て、飲料用や灌漑用の井戸を掘り、伝統的な地下水路を再生していきます。また、約25キロの用水路を建設し、砂漠を農場に変えていきます。干上がっていた荒れ地と砂漠であった場所は、オリーブやナツメヤシの茂る農地や麦畑に変わりました。また畜産業やサトウキビの栽培、黒砂糖の生産も始まるのです。

 ただ、こうした活動は、死の危険と隣り合わせでした。武装勢力に襲撃される危険が常にあったのです。2008年には、中村さんと一緒に活動していた日本人が一人、身代金目的で武装勢力に誘拐され、救出に向かった警察との銃撃戦の最中に殺害されています。中村さん自身もそのことは、十分承知していました。周囲の日本人からも、「危ないから」といつも声をかけられていたようです。

 しかし、彼は、ここでは先ず何よりも食べること、食料を得ることが回復されなければならないこと、自ら働いて、食料を作り、安心して十分に食べることができるようにしていくことが、病気を治すだけにとどまらず、病気の原因を減らす抜本的な取り組みであること、また、人々が安心して農業を続けることができれば、貧困にも陥らず、戦争を起こすこともなくなり、結果として平和をもたらすこともできると考え、一連の事業を続けていきます。

 しかし、昨年12月4日に襲撃され殺されてしまいました。誰が行ったのか、なぜ殺されたのかは未だ判っていません。

 キリスト者であった中村さんは、ある意味では、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業を、大勢のアフガン難民の命を救う働き、「自分の十字架」と意識していたのではないかと思います。それこそ、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」、イエス様に従ったのではないでしょうか。

 困難の中にあって、「飼う者のいない羊のようなありさま」のたくさんの人々を救う、イエス様の生き方を自分の生き方にしていく姿が、そこにはありした。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 この言葉は、イエス様が、弟子たちに自分の受難、つまり十字架による処刑と、その後の復活の出来事を打ち明けた後に、重ねてペテロと弟子たちに向かって語ったものです。

 イエス様の受難と復活についての発言は、ペテロを困惑させました。彼は、強い調子でイエス様を諌め始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 

 しかし、イエス様は、ペテロを叱りつけられます。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と。簡単に言えば、「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」ということでしょうか。

 ただ、イエス様がペテロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の旅の目的とその意味を、理解していないことを示しているといえます。イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を、判っていないことを表しています。

 イエス様の受難と復活の予告は、ある意味、冷静に自分の語る言葉や行動を見据えた発言です。

 イエス様は、宣教の旅の行く先々で、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけます。病や日常の生活に苦しんでいる多くの人たち。その人たちを救うためのイエス様のわざや教え。そこで示されるイエス様の価値観、それは、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の価値観とは大きく違っていました。

 それは、例えば、「世間」が低く評価する境遇にいる人々、貧しい人、飢えている人、苦しんでいる人、病気や障害を負っている人たちこそが、神様の救いに真っ先に与れるというものでした。差別されたり、疎んじられている「取税人」や「遊女」たちが、神の国に入れるというものでした。神様の救いは、イエス様の癒しのわざを通して、それらの人々の上に現れるというものでした。

 あるいは、宗教的な制度が人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は変えられなければならない、と語るものでした。

 だからこそ、イエス様の語る教えは、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものだったわけです。それゆえにイエス様は「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」ことになるのです。

 人々を病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するために、神様の愛と、神の国の希望、すなわち福音を語り、具体的な行いをもって指し示すこと。それが、イエス様の使命です。しかし、人を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていく福音を伝える使命が、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、イエス様ははっきり理解しているのです。

 イエス様がエルサレムに行こうとしたのは、そこでもイエス様の救いの業と教えとを必要としている人々、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々がいたからだと思うのです。それを邪魔してはいけないと、イエス様は言われたのです。

 イエス様に従う者は、どのように生きるべきなのか、それが今日の日課の主題です。

 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、今までの自分の生き方を否定して、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことといえます。

 イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、自分の人生の道標として生きていくことです。

 具体的には、神様の正義と公正が地上で実現することを求めることです。貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに想いを寄せ、寄り添い、彼らが今の境遇から救われること、解放されることを共に望み、目指すことです。そのために彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決する方法を探ることです。

 ただ、そのような生き方を、信念を持って貫こうとすれば、様々な抵抗にあうこともあります。とりわけ、貧しい人々や弱い立場にいる人々を搾取し、それによって利益を得ている人々、自分さえよければかまわないと考える人々からは、きっと疎まれるに違いありません。

 しかし、イエス様は私たちに「わたしに従いなさい」と語ると同時に、一つ約束されています。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」

 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。

 その福音の実現のために、人生をかけるなら、その人は永遠の命を受けるとされるのです。たとえ、「この世」の力が圧倒的であったとしても、イエス様の言葉とわざに従い、福音の実現のために力を尽くし、なすべき課題を行おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取る。そうイエス様は約束されるのです。

 

 冒頭でお話しした中村哲医師は、「誰もやらない活動なら、俺がやる」といって、パキスタンとアフガニスタンでの活動を続けられたと聞きます。

 現地の言葉を話し、土地の文化と伝統を尊重して、目の前に現れる課題を、現地の農民と共に汗を流して解決していく中村さんのその姿に、現地の人が感謝をし、深く信頼を寄せたといいます。村人の要請を受けて、モスクと学校を建設もしています。キリスト者がなぜ、モスクを建設したのか問われて、それは現地の人たちの誇りを取り戻すことでもあったと、中村さんは語っています。村の人たちは、外国の文化が押し寄せる中で、自分たちの文化はだめなのか、劣っているのかと劣等感を持っていたそうです。でもモスクが建設されたことで、彼らは誇りを取り戻すことが出来たそうです。

 水源の確保も、荒れ果てた大地を回復し、農民のいのちと生活を回復していくわざであったと言えます。それは、人々に勇気を与え、生きる力を回復する、福音の実現といえるのではないでしょうか。

 不幸にして中村さんは、事業半ばにして凶弾に倒れましたが、彼の仕事は、彼の後援会であったペシャワール会が引き継いでいくそうです。

 誰もが中村医師のようには働けるわけではありませんが、しかしその姿勢に倣うことはできます。たとえ困難を前にしたとしても、イエス様を信じる者として、一緒に生きている人たちと、ともに祈り、重荷を担い合って、福音の実現のために、目の前の様々な課題を引き受けて、乗り越えていきたいと思います。

2020年8月2日 平和主日

 「平和の基」 

 ヨハネによる福音書

 ​15章9節~12節

 イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。

 ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。

 その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。

 イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。

 イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 

 それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。

 

 イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。

 「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。

 しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。

 もちろん、注意しなければならないことはあります。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。

 最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。

 と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。

 「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。

 「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。

 

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。

 

 私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。

 それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。

 なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。

 日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。

 昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。

 そこでは、次のような祈りがささげられました。

 「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」

 「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」

 「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」

 「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」

 「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」

 「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」

 「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」

 「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」

 

 「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。

 平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。

 人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。

 「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン

2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)

 「天の国の実現」 

 マタイによる福音書

 ​13章31節~33節

   +44節~50節

 イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。

 私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。

 イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。

 

 先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。

 からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。

 讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。

 「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」

 球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。

 からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。

 

 次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。

 パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。

 パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。

 「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。

 また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。

 

 「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。

 もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。

 そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。

 もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。

 44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。

 二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。 

 つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。

 イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。

 現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。

 しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。

 

 「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。

 日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。

 「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。

 2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)

「生き直すということ」 

 マタイによる福音書

 ​11章28節~30節

 人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。

 競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。 

 行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。

 生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。

 

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。

 軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。

 ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。

 つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。

 ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。

 「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。

 

 旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。

 ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。

 イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。

 本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。

 イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。

 と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。

 

 「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。

 それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。

 それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。

 またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。

 

 イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。

 この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。

 生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。

 だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。

 だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。

2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)

 「あなたが花束」 

 マタイによる福音書

 ​10章40節~42節

 「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。

 歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。

 「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。

 それは、その相手を励ましたいからです。

 「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。

 歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。

 歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。

 「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。

 「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。

 その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。

 歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。

 そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。

 「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。

 この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。

 いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。

 自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。

 そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。

 「あなたが花束」になっていくのです。

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。

 今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。

 ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。

 そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

 「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。

 弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。

 

 二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。

 使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。

 福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。

 もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。

 たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。

 生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。

 

 弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。

 教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。

 それが、弟子の使命です。

 どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。

 2020年1月26

「天の国は近づいた」 

 マタイによる福音書4章12~18

 

 韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。

 

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

共に平和をつくり 共に生きる その町で

平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら

貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で

平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で

私たちの労働が お祭りになる その日に向かって

共に生きる町 小さくても 美しい町

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

教えてください 教えてください 共に生きる町を

  詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。

 その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。

 この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。

 一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。

 と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。

 この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。

 八〇年代​、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。

 このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。

「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。

 明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。

 勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの

かもしれません。

 いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。

 「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」

 イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。

 ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。

 具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。

 不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。

 それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。

 悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。

 この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。

 私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。

 大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。

 それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。

 それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。

 確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。

 「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。

 「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。

 「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います

 

(2020年1月26日)

 

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