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礼拝メッセージ
       (当分の間、毎週更新します)
202419日 
​聖霊降臨祭

「聖霊が働く」

​使徒言行録
2章 1~21節

 「あなたがたの上に聖霊が降る。あなたがたが力を受けるために。そしてエルサレムだけでなくユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで、わたしの出来事の証人となる。」

 イエス様は天に挙げられる前、弟子たちに向かってこう語りました。この約束の言葉を信じて、弟子たちは待っていました。「別な助け主」である聖霊が彼らの上に降るのを。神様から宣教のための力を与えられ、彼らが、全世界に向けて、イエス様の出来事、福音の証人となることを。

 そして、イエス様が天に昇られたその時から十日目、ユダヤ教の伝統的な五旬節の祭りの当日、弟子たちは聖霊を受けたのです。

 弟子たちが、エルサレムの町で、一つに集まり、祈っていると、突然激しい風が吹いてくる音が天から聞こえました。吹き荒れる風の音、それは天地創造の出来事を思い起こさせます。神様は、人の鼻に息を吹き込んでいのちを与えました。風の音は、いのちをもたらす神様の息の音ともいえます。再びいのちを創造することを表しているともいえます。

 続いて、目に見える形で聖霊、つまり神様からの力が弟子たちに与えられます。弟子たちの上にとどまった炎のような舌。それはかつて、洗礼者ヨハネがイエス様について行った預言の成就を意味します。すなわち、イエス様は、火と聖霊による洗礼を人々に授けるだろうという預言です。炎は、まさにその預言が今成就していることを告げています。そして、舌。それは次のように書かれた出来事を示しています。「(弟子たちは) “霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めた。」 

 それが、弟子たちにとっての聖霊降臨という体験だったのです。

 

 聖霊が弟子たちに降ることで、彼らは、言葉を賜物として受けました。それは、弟子たちがイエス様の教えを聞く者から、イエス様の出来事を伝える者と変えられていったということです。もちろん、それまでにも、弟子たちは何度か、イエス様から教えを語り、癒しを行う権能・力を授けられ、方々の町や村々に派遣されたことがありました。にもかかわらず、弟子たちは依然として、イエス様の話を聴く存在でした。その弟子たちが、聖霊が働くことで、自ら語る者に変えられ、自らの言葉を得て、大胆に語り始めていったのです。しかもその時、弟子たちが語ったのは、五旬節の祭りに参加するために、異なった国々からエルサレムに滞在して、その場に居合わせた人々が理解できた、それぞれの国の言葉で語られた福音でした。それは一つの奇跡でした。

 しかし同時に、弟子たちによって異なる国の言葉で語られた福音は、ある人々の間に混乱を呼び起こしました。「彼らは酒に酔っているのだ。」という嘲りの声があり、ペトロの説教に「彼らはガリラヤ人たちではないか。」と戸惑う者たちがいました。

 ここには、宣教を始められたイエス様の物語と共通するものがあります。聖霊に満たされたイエス様が、会堂でイザヤ書を解き明かしましたが、人々はイエス様の言葉に驚きました。そして、イエス様の言葉を受け入れる者とあざける者がでてきました。「彼は大工の倅ではないか」と。

 聖霊が語らせる弟子たちの宣教の言葉は、その時と同じように、ある人々の間には疑問と戸惑い、嘲りを呼び起こしましたが、その一方では信仰者を起こしました。嘲る者であれ、信じる者であれ、人々はその聖霊の起こす風に、揺り動かされていったのです。

 さらに、聖霊は、特にペトロを強めて、説教を語らせました。その説教の初めでペトロは、今聖霊が弟子たちに降ったことは、ヨエル書の預言、つまり神の言葉を語る霊が、終末のときに、あらゆる人々へ注がれることの始まりであると告げています。

 「終わりの時に、╲わたしの霊をすべての人に注ぐ。╲するとあなたたちの息子と娘は預言し、╲若者は、幻を見、老人は夢を見る。╲わたしの僕やはしためにも、╲その時には、わたしの霊を注ぐ。╲すると彼らは預言する」と。それは、今、弟子たちに語らせている聖霊は、間違いなく聖書が予言しているものであり、神様からの力であることの証しだというのです。

 彼は、大勢の人々に向かって、大胆にイエス・キリストの出来事を証ししました。そして、その証を通して、聖霊はまた、共同体を作り上げていったのです。先ず、聖霊は、弟子たちが一つになって祈っている所に降りました。さらに聖霊は、その共同体を強め、交わりを生み出していきました。ペトロの説教を聞いた人々、およそ三千人が、洗礼を受けたのです。

 聖霊降臨という出来事は、先ず何よりも、弟子たちが人々に働きかける宣教の言葉と力を、神様から賜物として受けたということなのです。

 

 この聖霊降臨の物語はまた、一度は挫折した弟子たちの再生と再出発の出来事でもありました。

 イエス様の受難と十字架による処刑は、弟子たちの心に大きな傷を残しました。ユダはイエス様を裏切り、ペトロはイエス様を否認し、また他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げてしまうという大失態を演じたからです。そんな後悔とイエス様を失った衝撃と、また自分たちも捕らえられることへの恐怖も覚えていた弟子たちの前に、復活されたイエス様は出現されました。それは、彼らを喜ばせ、励まし、信仰の火を彼らの心の内に再び燃やすことになりました。そして、彼らに聖霊を与える約束がなされたことで、彼らは「キリストの弟子」としての自覚と決意を堅くすることが出来たのです。イエス様が召天された後、聖霊が弟子たちに臨んだことは、彼らが間違いなく福音宣教の新しい使命を託されたことを証明した出来事でした。

 聖霊が弟子たちに降臨することで、彼らの魂に命の息が再び吹き込まれていったのです。

 聖霊は、命の源である神様の息です。聖霊が吹きかけられることで、ちょうどエマオに赴いた二人の弟子が、復活されたイエス様と出会うことで「心が燃えた」ように、キリスト者の信仰はいよいよ「燃やされ」、強められ、堅く保たれていきます。

 あるいは、聖霊は、常に人々に働きかける神様からの力といえるかもしれません。聖霊が働くことで、人はその心の目が開かれ、神様からの恵みと賜物に気付き、それを受け止め、感謝することができます。それが信仰であり、それゆえ、宗教改革者マルティン・ルターが語るように、信仰は神様から与えられる賜物なのです。洗礼とは、その信仰を、神様と信仰の共同体に対して目に見える形で証しすることであり、同時にその信仰を明らかにする応答への神様からの祝福のしるしなのです。

 聖霊はまた、私たちの心の願いを、神様に執り成してくださいます。使徒であるパウロは、「ローマの信徒への手紙」の中でこう書いています。

「同様に、 “霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、 “霊”の思いが何であるかを知っておられます。 “霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8章26~27節)

 ヨハネ福音書にはまた、聖霊とは、「弁護者」であり、「真理の霊」、またキリストについて「証しをする」、つまりイエス様とは誰であり、何のために来られたのかを明らかにする、とも書かれています。 (15章26~27節) そして、聖霊は、「真理をことごとく悟らせ」、「(神から)聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがた(弟子たち)に告げる」と言われています。(16章13節)

 だからもしも人が、私が、あなたが、私たちが困難に出会い、心が挫けてしまったり、折れてしまったとしても、その心のために、聖霊は「言葉にならないうめきをもって執り成し」、私たちがもう一度命の力で満たされるように働きかけてくれるのです。「真理を悟らせ」、諦めてしまった心が、もう一度目的を定め直して、希望を持つことを助けてくれるのです。信仰の火を私たちの心の内に再び燃やしてくれるのです。

 

 神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは、こう書いています。「聖霊は、私に、私の犯したすべての罪の赦しを与えます。聖霊は、私に、罪を心から憎むことを教えます。聖霊は、私の心を、喜んで主に従うように造りかえ、死を通り越して永遠のいのちへと私を導きます。」 そして、この聖霊は、「私に永遠の生命の希望のための担保として与えられています。私はやがて死にますが、キリストは終わりの日に、私のからだを永遠のいのちへとよみがえらしめ、彼の御国に導きいれたもうでありましょう。」「私たちはみな、聖霊によって聖なるものとされた罪人です。」と。

 最後に、聖霊降臨とは、弟子たち一人一人が神様から、イエス様と同じわざを行い、言葉を語る力を与えられた出来事です。そして、そのことを通して、多様な宣教の言葉が与えられて、働き、この世に教会を、聖徒の交わりを誕生させたのです。

 ここで注意したいのは、その教会の始まりは、弟子たちの共同体が自ら計画して作り上げたものではないということです。弟子たちは、イエス・キリストの約束の言葉を信じ、祈り、備えの時を持ち、待つことの中で、聖霊が彼らに臨んだのです。そこには人の組織や計画を越えた神様の力の働きがあります。

 聖霊は、宣教する力であり、教会を全世界へと押し出す力の源です。聖霊は、私たちをキリストと結び付け、明日へと「前進させる」のです。そして、聖霊は、もちろん、今も、私たちに働いてくださいます。私たちが人と共に祈ることを通して、あるいはお互いに執り成し祈り合うことを通して、聖霊は私たちに働きます。私たちが自分で聖書を読み、御言葉を聞き、聖礼典と祝福に与るとき、私たちは聖霊を受けます。聖霊によって、私たちは、それぞれが、み言葉を聞く力と宣教の言葉を語る力を受けます。聖霊によって、私たちのお互いの交わりは、聖なるものとされ、日々新たにされていきます。

 聖霊が私たちの上に臨み、また私たちを通して強く働いていることを感謝したいと思います。今、行き先がなかなか見えない状況だとしても、私たちは、聖霊の導きを信じて、祈り求めて、歩んで行きたいのです。

 「聖霊を受けなさい。」 イエス様はそう命じられます。

 主であるイエス様に願いましょう。「聖霊を送ってください。私たちの交わりを聖なるものとしてください。教会を強めてください。教会に連なる一人一人を慰め、労わり、励ましてください」

202412日 
​主の昇天主日

「イエス様からの

宿題」

​使徒言行録
1章 1~11節
​ルカによる福音書
24章 44~51節

 今日は、教会の暦で昇天主日と云います。復活されたイエス様が、弟子たちの許を離れ、天に上げられたことを記念する日です。

 使徒言行録とルカ福音書には、その様子が記されています。

 復活された後、イエス様は40日間を弟子たちと共に過ごしました。その間、イエス様は何度も弟子たちの前に姿を現わし、共に食事をし、弟子たちを再び招き、「神の国」について教えられました。そして、イエス様は、弟子たちに一つの約束をしました。

 「あなたがたの上に聖霊が降る。あなたがたが力を受けるために。そしてエルサレムだけでなくユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで、わたしの出来事の証人となる。」

 弟子たちは、別な助け主である聖霊を受けて、神様から宣教のための力を与えられる。そして、全世界に向けて、イエス様の出来事、福音の証人となる、と。それは、弟子たちに一つの福音宣教の使命を託すことでもありました。そして、この約束をした後で、イエス様は弟子たちの目の前で、天に上げられていくのです。

 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」

 

 このイエス様の昇天について、エフェソ書は、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」と記しています。また、そのことを私たちは、礼拝の中で使徒信条を用いて、「(主イエス・キリストは)復活し、天に上り、全能の父なる神の右に座し、」と告白します。

 イエス様の昇天が意味するもの、それは何よりも先ず、イエス様が、神様のもとに帰り、「神様の右に座し」、この世の権力や支配すべてを超越する存在になったということです。

 それは、イエス様が、この地上の世界、この世の権力や支配を無力にしていくということです。この世界の力は、過ぎ去るもの、いずれは失われる存在であり、限界のあるものであることが露わにされたということなのです。そのことの宣言が、キリストの昇天なのです。

 イエス様の昇天は、また、イエス様が父なる神様のもとで、私たちの祈りを聴き、私たちのために執り成してくださることを表しています。へブル書には、「キリストは、今やわたしたちのために神のみ前に現れてくだ」さり、「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできにな」ると書かれています。あるいはまた、使徒パウロはローマ書で、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」とも記しています。なぜなら、イエス様は、神様と私たちを和解させるために、私たちのすべての罪を十字架の上で負われることで、私たちの代理人となられたからです。だから私たちは、「ただイエスの御名によってのみ」、「祈ることができる」のです。

 さらに、イエス様が天に挙げられたことは、救い主キリストの遍在、つまり、キリストであるイエス様は、二千年前のパレスチナという場所と時間にのみ限定されるのではなく、時間や空間を超えて(もちろん今この瞬間も)、人と共にあるということなのです。

 イエス様は死んだのではないし、失われたのでもない。天の父なる神様のみ許で(右ニ座シ)、復活された姿で生きておられ、そこからこの世界を見ている。そしてまた再び、いつの日かこの世界にやってくる。「その日、その時」が、すぐにか、それともまだ先かは隠されたままであったにせよ。

 エフェソ書にはこうも記されています。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

 弟子たちが、教会が、イエス様の教えられた福音にとどまり、示された教えとわざとを引き継いで行っていく限り、イエス様は彼らと一緒にいるのです。弟子たちと教会は、信仰において常にイエス様と共にいるのです。

 

 「ガリラヤの人たち、何故天を見上げて立っているのか。天に上げられたイエス様は、あなたがたが見たのと同じ様子で、またおいでになる」。

 イエス様が天に挙げられて行った後、弟子たちは天を見つめて立っていました。おそらく彼らは、天に挙げられていくイエス様の姿に感動して、その余韻に浸って、その場を動けずにいて、いつまでも佇んでいたのでしょう。そんな彼らに向かって、白い服を着た二人の人、神様の使いが語る言葉は、弟子たちを軽く叱っているようにも感じます。「何をボーっとしているのか」と。そして、この叱責の言葉によって、弟子たちは彼らが生きている現実へと引き戻されていきます。ただ、神様の使いは、同時に、「天に上げられたイエス様は、あなたがたが見たのと同じ様子で、またおいでになる」というもうひとつの喜びの知らせを告げてもいました。

 つまり、イエス様の昇天、神様のもとへの帰還とは、救い主キリストの再臨を約束するしるしでもあったということです。

 キリストの再臨は、イエス様の救いのわざが完成する時です。神様のみ国が到来し、神様のみ心が「この地上で」実現するときであり、救いを求める人々が、苦しみから解放され、傷を癒され、涙を拭われ、一人一人が尊厳を回復し、神様から祝福を受けるときです。神様の正義と公正の実現であり、争いはなくなり、憎しみではなく愛が人々を支配し、平和が訪れるときです。あるいはまた、人間が自然を破壊することがなくなり、神様が創造された世界に調和がもたらされるときです。このような究極の出来事が、キリストの再臨なのです。

 しかし、だからと言って、そのキリストの再臨の「その日、その時」を、弟子たちがただ漫然と待っていいわけではありません。なぜなら、彼らは、イエス様からひとつの使命を託されているからです。

 「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24章47~48節)

 彼らは、イエス様の出来事を、「エルサレムだけでなくユダヤとサマリヤ全土で、また地の果てに至るまで」、語り伝え、証ししていくこと、言い換えれば、この地上の現実の世界で、なおもイエス様の福音、わざと言葉を引き継いで伝えていくことが求められているのです。そして、使命を託されたということ、それは見方を変えれば、弟子たちが信頼され、期待されているということです。イエス様が十字架に架けられたときには逃げ出して、恐れて身を隠していたその弟子たちが、福音宣教のわざを託すに値すると信頼されたということなのです。だから、弟子たちは、イエス様を懐かしんで、時を忘れて思い出に浸って、無為に過ごしてはいけないのです。神様の使いが、「なぜ天を仰いで立っているのか」と弟子たちを叱責したのは、いわば、イエス様の再臨を受け身で待つことへの戒めでもあるのです。

 

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエス様は、弟子たちに福音宣教のわざを託されました。そして、そのために彼らは、「父(なる神)の約束されたもの」、「聖霊による洗礼」を授けられることになるのです。その聖霊は、イエス様の昇天からほぼ十日目に授けられました。その出来事が、来週、私たちが祝う聖霊降臨なのです。そしてそれはまた、再び来たりたもうイエス様を迎えるための準備の時が始まったことを意味するのです。

 さて、イエス様の福音宣教は、神様がこの世界に介入され、苦しみや悩みに沈んでいる人々に解放を告げ、救いをもたらすわざが行われたことを表しています。イエス様の言葉とわざとを通して、人々に生きる力が与えられ、希望が示され、神様が共にいることを人々は実感しました。私たちがそうであったように。

 ただ、私たちが世界を、社会を見廻して観るとき、イエス様の昇天の時からすでに二千年余りの時間が経過しても、その現実はなかなか変わっていないのも事実です。イエス様の救いのわざは未だ終わっていないのです。

 ウクライナやガザでの戦争や、ミャンマーでの紛争・内戦は今も続いています。飢饉や干ばつによって、多くの難民が発生しています。環境破壊や汚染によって気候変動が起こり、自然災害が引き起こされます。人災による原発の事故も発生しています。地球規模で経済的なあるいは社会的な格差が生じ、大勢の人たちが貧困や差別に苦しんでいます。

 人々が救いを必要としている環境も、事態も、そして、何より変わっていかなければならない人の心も、いまだ存在し続けています。「主よ、来てください(マラナ・タ)」という人々の叫びは、そこここで響いて聞こえてきます。

 

 それは、ある意味、やりかけの宿題帳が机の上に開かれたままと云えるのかもしれません。二千年前からずっと、取り組んでは中断し、時には忘れたかのようにして放り出してきた宿題帳が、今も、私たちの目の前に開かれている。

 今に生きる教会も、その宿題、福音宣教のわざを行うときなのです。弟子たちがイエス様から引き継いだように、私たちもまた、前の世代の教会から、その福音宣教の使命を、いわばリレーの襷のように、受け取っています。イエス様が再び来られるその日まで、「時が良くても、悪くても」根気よく、痺れを切らさずに、約束が成就することを信じて、あきらめないで語ること、神様の御心に適ったわざを行っていくことが、私たちの教会には求められているのです。たとえ、その宿題が私たちの時代には、すべて終えることができないにせよ、できる問題や課題に取り組んでいくことが求められているのです。

 福音宣教とは、ここに集う一人一人が、お互いに配慮し合い、大切に思い、祈り、声をかけ、支え合っていくことはもちろんですが、私たちが出会うあらゆる人たちに神様の愛を伝えていくことです。助けを必要とする人々に、具体的な助けを行い、癒し、慰め、励まし、共に生きていくことです。今、苦しんで困窮している人たち、神様の愛と正義と公正の実現を求めている人たちを覚えて、祈り、連帯していくことです。私たちにも聖霊が与えられています。その力によって、さらに福音を形にしていくことができます。それが、私たちに託された務めを果たしていくこと、イエス様の出来事と福音の証人となることなのです。イエス様の再臨への私たちの備えなのです。

2024日 
​復活節第6主日

「キリストの

友となる」

​ヨハネによる福音書
15章 9~17節

 作家の太宰治が、「走れメロス」という作品を書いています。

 シチリアの王ディオニスが、猜疑心から人を信頼せず次々に人を殺していると聞いたメロスは、「王を除かねばならない」と考え、王宮に向かいますが、捕えられて王の前に引き出され、死刑を宣告されます。メロスは、死を覚悟していましたが、一つだけ心残りがあると王に語ります。唯一の肉親である妹を、許嫁と結婚させてやりたい。もしできるなら、処刑までに三日間猶予を与えて欲しい。そうしたら、妹を結婚させて、ここまで戻って来る、と。

 もちろん猜疑心でいっぱいの王は、メロスの言葉を信用しませんが、メロスは、戻って来る約束の証として、この(シラクサ)市にいる「竹馬の友」、「無二の親友」であるセリヌンティウスを人質としておいていくと約束するのです。

 王宮に連れてこられたセリヌンティウスは、メロスから一切の事情を聞くと、「無言でうなずき」人質となることを承諾しました。そして、メロスは、三日目の日没までに戻ることを条件に、王宮から家までの「十里(40キロ)」をひたすら走るのです。

 物語が緊張するのは、二日目に妹の婚礼を終えた後でした。三日目の明け方、メロスはシラクサの王宮に向けて出発するのです。ただ、その帰路は順調とはいかず、前夜に降った大雨のせいで、川が激流となって橋を破壊していたため、メロスは、濁流をそれこそ命を賭して泳ぎ、また山中で襲ってきた山賊を撃退するというハプニングに見舞われます。一度は、メロスもあまりの疲れに、シラクサへ戻る気力を失いかけ、セリヌンティウスに詫びながら気を失いますが、そばを流れる湧き水の音で目を覚まし、その水を飲むと、気力を振り絞って、ひたすらセリヌンティウスの待つシラクサの市の広場まで走るのです。そして、メロスは、日没前、セリヌンティウスが磔になる寸前で、広場に到着して友の命を救うのですが、このメロスとセリヌンティウスの表した「友愛」、お互いを深く理解しあった友人同士の間に成り立つ愛の姿は、暴君ディオニスも感動させ、回心させていくのです。

 このメロスの心の支えになったのは、「自分はセリヌンティウスから信頼されている」という思い、「(自分のことを)少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ」という思いでした。「私は信じられている」 だから「私は、(その)信頼に報いねばならない」その気持ちによって、メロスは力を尽くすことができたのです。

 

 イエス様は、十字架で処刑される前に、弟子たちにそれとなく告別説教を残しました。この告別説教は、実は弟子たちと共にとった過ぎ越しの食事の際になされています。今日の日課は、先週の続きになりますが、その席上で、弟子たちに向かって語られたイエス様の言葉なのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(12~14節)と。またこうもいっています。「あなたはわたしの友である。なぜなら父である神様から伝えられたことをすべてあなた方に伝えたからだ」と。

 イエス様は、ここで、先ず、「わたし(イエス)の友とは誰か」を示しています。それは、イエス様自身がそうしたように、「お互いを愛する、大切にする」という戒めを守る者のことを云います。

 「お互いがお互いを大切にする。尊重する。」 それは、自分と向き合う相手を、人として、本来損なわれてはならない存在として、遇することです。しかもイエス様は、(別な福音書では)人が自分と向き合う相手を、尊厳を持って大切に接するときには、それはイエス様自身を、あるいは神様自身を大切にすることだと語っています。だから、もし、人が、私が、あなたが、神様に、イエス様に従おうと考えるなら、自分が出会う一人一人を大切にすることが大事になってくるわけです。

 もちろん人の感情は、難しいものです。相手のことを、誰でも好きになったり、好意を持つのは難しいことです。持てない相手もいます。しかし、敬意を払うことはできます。尊敬できるわけではなくても、大切な存在として遇することは可能です。

 相手を見くびったり、低く見たりすることは問題です。「相手が馬鹿に見える」、「自分が優れて感じられる」としたら、相手と対等な関係は作れるでしょうか。少なくとも優越感は友人を作りません。もし仮に相手が自分のことをそう思わないのなら、自分から相手を憎みその憎しみの虜になるよりも、その場を離れて、あとは神様に任せるべきでしょう。

 誰もが、本来は、損なわれていい相手ではありません。自分もそうであるように。

 

 イエス様は、次に、「お互いに愛し合いなさい」という言葉に続けて、その具体的な姿として、「友のために、命を捨てる、自分を投げ出す」ことを語ります。友のために自分も危険(リスク)を冒すことをいとわない姿が、具体的に友を愛する、大切にすることだと語っているのです。

 この「友のために自分もリスクを冒す、命を差し出す、自分を投げ出す」ということは、言い換えれば、実はイエス様自身の姿であるといえます。

 イエス様は、病に苦しみ、日々の生活の中で悩み、傷ついている人々を慰め励ますために、また罪の思いから救うために、自分の命をかけて言葉を語り、わざを行われました。そして、この世の罪を取り除き、多くの人々を救うために、十字架で磔になり死なれました。それは、言い換えるならば、「友である人々」を大切に思い、愛し、「自分を投げ出し」、「命を捨てた」姿です。イエス様自身が「友のために命を捨てられた」のです。

 その救いを必要とする人々の中には、弟子たちも含まれていました。裏切り者を出し、イエス様の逮捕の際には、イエス様を「見捨てて」散り散りに逃げ出してしまった弟子たち。「イエス様など知らない」とかかわりを否認してしまった弟子のペトロ。

 そうした彼らを含めた人々を救うために、イエス様は命を投げ出すのです。それは、「お互いに愛し合うこと」の模範です。

 

 さて、イエス様が「あなたがたは友である」といったとき、イエス様は、自分が十字架で処刑された後に、弟子たちが直面する衝撃とその影響を見通しています。イエス様には、彼らの心折れそうになる時間を過ごさなければならないつらさや苦しさが、容易に想像できたし、また後々彼らが抱えるであろう悲嘆、後悔や挫折感が、頭に浮かんできたと思うのです。

 その彼ら弟子たちを前にして、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と語るのです。

 それは、「どうかわたしがあなたがたに向けた愛を思い出して欲しい」という願いであったとも言えます。また、それは、「互いに愛し合うことで、お互いを支え合い、助け合って、困難な時を乗り越えて欲しい」という祈りだったかもしれません。そして、その根底には、弟子たちが衝撃や挫折にめげずに、もう一度自分たちの足で立ち上がれることへのイエス様の深い信頼があったと思うのです。弟子たちのことをよく知っているが故の信頼。一度は倒れたとしても、「あなたが立ち直るために祈る」イエス様の姿がそこにはあるように思うのです。

 もちろん日課でイエス様が語る愛は、神様による愛です。神様は、私たちに、イエス様を通して多くの恵みを与え、配慮し、責任を持って臨み、私たち一人一人が持つ尊厳を保ち、また私たちを知ってくださいます。

 「最後の晩餐」の席で、弟子たちの足を洗うという行為も含めて、イエス様が弟子たちに示しているのは、イエス様自身の弟子たちへの親しみと慈しみを込めた愛です。その愛に根差した言葉が、「あなたがたはわたしの友である」という発言なのです。

「あなたはわたしの友である。なぜなら父である神様から伝えられたことをすべてあなた方に伝えたからだ。」

 イエス様がここで語っているのは、もうすでに、自分の教えとわざ、行いによって、神様から伝えられていることはすべて、包み隠さずに弟子たちに明らかにされているということであり、そのこと自体が、弟子たちがすでにイエス様の友であるあかしだと語るのです。そして、弟子たちに求められているのは、むしろその伝えられたことをよく理解することです。イエス様の心を理解すること、そしてイエス様の思いに応えようとすることが、信仰である、と言い換えることができるかもしれません。

 イエス様の語る「友であること」とは、その相手の心を悲しみも喜びも含めて理解し、その思いを大切にし、尊重し、相手に応えて行くことといえるでしょう。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるため」なのです。

 最後にイエス様は、こう語っています。「わたしがあなたがたを任命した」と。イエス様は弟子たちに、そして私たちに期待しています。私たちが実りをもたらすこと、イエス様の言葉とわざとを引き続き伝え、行っていくことを、そして私たちがイエス様といつも一緒でいることを。そのことを通して、私たちが神様に願っていることが、かなえられていくこと、を。イエス様は、私たちを信じて待っておられるのです。小説「走れメロス」に登場するセリヌンティウスのように。

 弟子たちは、私は、あなたはイエス様によって選ばれているのです。働きを任命されているのです。

 

 私たちの一人一人に、お互いを大切に思う友人が与えられているということは、感謝すべきです。

 ある人の言葉ですが、「他者が自分との関係を切ったとしても、自分から他者との関係は切るな」と言われたことがあります。難しいことです。しかし、考えさせられる言葉です。

 忘れてならないのは、イエス・キリストは、だれよりも先に、この私を、そしてあなたを「友」と呼び、「心にかける者」と呼んでいることです。イエス様が私、あなたを見て、あなたがたはわたしの友人であると宣言しているのです。私も、あなたも一人ではないのです。

 友であるイエス様が傍におられるのです。

 イエス様は、私たち一人一人に、彼の友人としてとどまり続けてほしいと願っているのです。だからこそ、「お互いに大切にする」という戒めを守ってほしいと願っているのです。

 そのイエス様の「あなたを、私を大切に思う心」を受け止めていきたいと思います。その思いに感謝を持って、「互いに愛し合うこと、大切にし合うこと」に応えて行きたいと思います。

2024月 2日 
​復活節第5主日

「まことの

ぶどうの木」

​ヨハネによる福音書
15章 1~8節

 「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」

 イエス様が自分自身をぶどうの木に喩えられたこの聖句は、教会では、よく知られていて、また親しまれているものです。

 このぶどうの木、シリア・パレスティナ地方では、すでに旧約聖書の時代には、オリーブやいちじくなどと共に盛んに栽培されていました。そして、預言者の喩えでも言及され、福音書でもイエス様自身が喩え話の中でぶどう園を登場させたりもしています。また、キリスト教美術の世界では、イエス様と弟子たち、あるいは教会を表す、一つの比喩的な主題(モチーフ)として描かれたりもしています。

 さて、今日の福音書の日課では、イエス様は自分自身をぶどうの木に、その木を世話する農夫を父なる神様であると喩えています。また、この喩えを聴いている「あなたがた」、弟子たちを木の幹から生えている枝であるとするのです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

 そして、イエス様は続けて、このぶどうの木の喩えを通して、自分と弟子たちとの関係について語っていきます。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」(4節)

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と。(5節)

 

 私たちにとっておなじみのこの喩えですが、ある人はこれを、「つながっていない人は切り離され、取り除かれ、火で焼かれてしまう」と読み、むしろ仲間から取り除かれてしまう不安を掻き立てられる言葉、脅しともとれるような言葉として受け止めました。

 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2節)

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節)

 しかし、そのような喩えの読み方は、一面的です。なぜなら、イエス様と枝である「あなたがた」、弟子たちとの関係を、よく見ていないからです。

 先にも述べたように、イエス様は言っています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたとつながっている。」「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と。

 イエス様は、ここで、自分が弟子たちとつながっていることを確認しています。イエス様の方から枝を切り離すことはないと、そう言われているのです。イエス様の方から弟子たちを離れることはないとするのです。そして枝である弟子たちが、自分の方から木を離れるのでなければ、実を結ぶであろうし、枝が枯れることもないというのです。いや、どのような形であれ、人がイエス様とつながっていようとする時、その人はイエス様から捉えられているのです。つまり、「投げ捨てられ、火で焼かれる」のは、「つながっていながら、実をつけない枝」であり、自分の方から幹を離れてしまう枝なのです。

 ここで言われていることは、弟子であろうとする者への勧めであり、また弟子であり続けるための一つの要求です。あるいは弟子たちへの自戒の言葉とも言えます。ここでは、弟子たちは、キリストのわざと教えに従い「とどまり」、「良い実」をつけることが求められています。つまり、見かけだけの弟子とならないようにという注意なのです。

 さらに、ここで忘れてならないのは、「実によって」見かけと真実を見分け、判断し、選別するのは、イエス・キリストが父と呼び、「農夫」と呼ぶ神ご自身だということです。そして、それはキリストの再臨と世の終わりの出来事と共に起こることなのです。

 「キリストにつながっているかどうか」を問われているのは、誰でもない「弟子であると自認する者」、その人なのです。

 

 因みに、この「つながる」という言葉は、元々は「中に留まる」という意味ですが、それは、日課に続くイエス様の言葉にはっきりと述べられています。

 「父が私を愛したように、わたしもあなたがたを愛している。わたしの愛にとどまりなさい。」(9節)

 「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るならば、わたしの愛にとどまっていることになる。」(10節)

 つながるとは、イエス様の愛の内に「とどまる」ことをいいます。そして、その「愛にとどまっている」証とは、イエス様の掟を守ることをいうのです。ですから反対にいえば、イエス様を愛さない人、イエス様の掟を守らない人が、イエス様から離れる人を意味するのです。そして、実を結ぶとは、なによりも、イエス様の愛に感謝して、その愛に応えて生きようとする信仰をもつことです。あるいは、神様の前で自分を省みて、神様に自分を委ねてなおも従って行こうとすることであり、それはまた、愛のわざ、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という愛のわざを行う者となることをいいます。

 このイエス様の示される愛は、神様がイエス様を愛したことと同質のものです。今日の使徒書の日課ヨハネ第一の手紙4章には、こう書いてあります。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」 (4章9~10節)

 イエス様がその生涯、つまり言葉とわざ、そして受難と十字架を通して表しているのは神様の愛です。その神様の愛によって、私たちは生きるようになるのです。言い換えるなら、イエス様から愛といういのちの養分を受けて、枝である弟子たちは生きるということです。そして、その愛は、イエス様を求める人々をすでに包んでいると云われます。

 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)

 イエス様は私たちを愛されています。その愛を噛み締めて、受け入れることが、イエス様につながること、とどまることなのです。

 

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)

 イエス様は、弟子たちのうちに生まれた信仰によって、自分と弟子たちとの関係が続くこと、また弟子たちがイエス様の「言葉」、教えとわざとを「いつも」心にとめ、その「言葉」に基づいて生きようとするなら、彼らの願いや期待かななえられるといいます。そして、弟子たちの信仰と恵みによる愛のわざが、この世、社会で広がっていくこと、実践されていくことは、父である神様の栄光を顕すことにもなると、イエス様は語っています。

 「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(8節)

 だからこそ、弟子であろうと志す者は、自分のうちにイエス様への信仰を保ち、生きるようにとイエス様は勧められるのです。

 そして、この弟子たちへの勧め、それはまた、現代に生きる私たちへの勧めです。

 

 「新型コロナ・ウイルス」の世界的な流行は、この四年間、私たちの生活に大きな影響を及ぼしました。特に最初の二年半ほどは、感染予防のため、密閉、密集、密接のいわゆる三密を避けることを始めとして、対面での活動が著しく制限されました。私たちはこの期間、改めて孤立することのシンドさと、「誰かとつながる」ことの意味を、深く考えさせられましたし、実際に誰かと直接顔と顔を合わせて話をしたり、一緒に食事をすること、触れ合うことが、どれほど大切なことであった(ある)のかを思い知らされた感じもしました。

 と同時に、一方では、リモート・ワークなどで、「人とつながる」ことを補っても来ました。「人と人をつなげる」何らかの仕方・手段は以前よりも広がったのかもしれません。そうして、その限られた手段の中でやり取りされる言葉は、なにより私たちの「つながり」を具体的な形にするものであったと思います。

 同じ場所に集まって共に過ごすことも「つながること」であれば、たとえ距離は離れていても、言葉を介して思いを分かち合うこともまた、「つながること」の大切なしるしです。それだからこそ、私たちは、今この「コロナ禍後」の時代の中で、誰と、どうやって、どのような関係を紡いでいくのを真剣に考えたいのです。そして、私たちが「まことのぶどうの木」であるイエス様への信仰によって、お互いにつながることを求めたいのです。私たち自身が、イエス様の弟子として、その人生で、豊かに実を結んでいくことを求めたいのです。

 人によっては、「私は人を愛せないし、他の人を支えるなんてとても出来ない」と思うかもしれません。しかし、イエス様は言っています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたとつながっている。」と。私が、そしてあなたがイエス様の愛の内にあることに信頼し、イエス様につながっている限り、その信仰によって、私たちもまたお互いにつながっていることが出来ます。たとえ、一人で祈りと讃美を奉げるときがあったとしても、私たちは、一人ではない。イエス様が共におり、また、イエス・キリストの信仰に結ばれた無数の人たちと共にいるのです。そのことへの信頼を忘れないでいたいと思います。

 そして、私たちの隣人を気遣うような、日常の何気ない人と人のつながりを求める行為が、イエス様の御心に適うとき、その人は愛のわざを行うことになります。人がイエス様につながっていたいと思うことで、少しずつ、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という、愛のわざが出来るようにされていきます。それはまた、今、具体的に苦しんで悩んでいる人たち、困難を抱えている人たちを、慰め、支え、そして連帯すること、またできる限り実際に助けることへとつながっていくでしょう。具体的な人への奉仕が、神様への奉仕となるということなのです。それが豊かに実を結ぶことなのです。

2024月 2日 
​復活節第4主日

「主はわたしの

羊飼い」

​ヨハネによる福音書
10章 11~18節

 YouTubeの動画で、興味深いものを見つけました。

 牧場の道を一頭の牝牛がかなり速いスピードで走ってきました。その前には、一人の女性が立っていました。あわやその女性が撥ねられると思った瞬間、牛はその女性の前で止まると、女性の顔に自分の頬をこすりつけ、甘え始めました。その女性も大きく両手を広げて、牛の顔をハグしました。彼女はその牧場の娘さんで、彼女はその牝牛が子牛の時から、ミルクを上げたり、大切に面倒を見ていたようでした。だから、牝牛は(しばらくぶりに帰省した)彼女を見つけると、大好きな彼女のところに急いでやって来たわけです。 

 もう一つの動画には、小羊が映っていました。牧草地にいる小羊が、飼い主の姿を見つけた瞬間、すぐにその(カメラを構えて動画を撮っていた)飼い主のところまで、走って来て、レンズが曇るくらい鼻先を近づけてきて、飼い主に甘えたのです。その小羊もやはり、その飼い主から大切に育てられているのでしょう。

 どちらの動画も、飼われている動物とその飼い主との間に、とても深い信頼関係ができていることを証ししています。言い換えれば、牝牛と小羊にとって、その飼い主は、彼らに安心と安全を与えてくれる心強い存在であるということです。

 

 羊などの家畜は世話をされること、気遣われることがなければ、生きて行くことができません。家畜を飼うことは、人を世話するのと同様、本来繊細さと注意深さが要求されます。家畜は言葉を使って話すことが出来ない分、飼い主の配慮が必要となるからです。

 一頭一頭の性格もあります。そして群れの中で自分勝手に行動することは死につながる危険もあります。「優しく」接するだけでは家畜は管理できません。たとえば羊は頑固で同じ道だけ歩くそうで、群れをそのままにしておくと、豊かな土地でも荒れ果てさせてしまうことがあるといいます。その代わり、絶えず放牧地を変えながら、羊にまんべんなく草を食べさせて行くならば、そして羊飼いが放牧地をしっかり管理するなら、土地は羊によって豊かさを増すともいわれています。

 今日の賛美唱、詩編23篇にある「鞭と杖」は、厳しさと配慮を表しています。時には厳しさを伴う配慮がないと、羊は害になる雑草さえ食べてしまいますし、寄生虫にも脅かされます。季節ごとに、寄生虫や羽虫に襲われないように薬剤・油を体に散布することも必要になります。「油を頭に注ぐ」のもそうした世話をする行為を表します。体重がつきすぎたり、毛で重くなりすぎると羊は自分で支えきれなくて倒れしまい、自分も重みで動けなくなってしまいます。その結果、弱ってしまったり、他の獣に襲われる危険が増してしまいます。だからこそ、羊飼いの世話が不可欠なのです。

 

 今日の日課で、イエス様は、「わたしが良い羊飼いである。」と語っています。

 この「わたしが良い羊飼いである」という言葉は、何とも大胆な言葉です。「自分こそが聖書に記されている羊飼いだ。」という宣言だからです。「あなたは何者なのか」、「あなたはキリスト・救い主なのか」と問うファリサイ派の人たちに向って、「わたしが真の指導者である」と言い切った言葉です。

 さて、イエス様が語る「良い羊飼い」の第一の条件は、羊のために命を捨てる、ということです。家畜を飼うことは、命を預かることです。そのために羊飼いの生活は家畜を中心に回ります。丸々休みの一日はありません。放牧や食べる草、飼料の心配、家畜の日々の体調管理、病気や妊娠、出産等々、配慮することは山のようにあるからです。

 それと同じで、イエス様は、人々の命を救うために、ご自分の命を捨てられました。今日の使徒書の日課、ヨハネの手紙一の第3章16~17節にはこう書かれています。

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

 イエス様は、羊飼いが群れの羊を配慮するように、神様に救いを求める人々を「深く憐れみ」顧みられました。三年にわたる福音宣教の旅の間、病気で苦しんでいる人の身体を治すだけでなく、その心をも癒しました。その福音の言葉をもって、生きる力を失いかけた人々に力を与え、神様の道を示されました。そして、その生涯の最後には、人を罪から解放するために、自ら十字架に架かり、死なれました。イエス様の受難と十字架は、人々へのイエス様の愛を表す行為なのです。そこにイエス様、そして神様の愛があるのです。

 悪い羊飼いは、それとは反対に描かれます。

 「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

 悪い羊飼いは、自分の責任を引き受けません。他人からさせられているという気持ちで、何ごとにつけ及び腰になります。狼などの野生動物が現れると、自分の身を守ることを第一に考えます。そして、羊を放り出してそこから逃げ出してしまうか、あるいはその言い訳を考えます。彼らにとって、羊の命は二の次なのです。

 旧約聖書、特に預言書には、イスラエルの民を羊の群れ、そして政治的・宗教的な指導者を「牧者」、羊飼いと表現している記述がいくつか見られます。預言者のエゼキエルもエレミヤも、その時の政治的・宗教的指導者たちを、羊の群れであるイスラエルの民を顧みずに「滅ぼし、追い散らす牧者」であり、「災い」として弾劾し、その「悪い行いを罰する」とした神様の言葉を書き記しています。悪しき指導者たちが、語るべき時に語らなかったり、なすべき時に行わないことは、羊を置いて「逃げ出す」ことに等しいことだったからです。

 

 「よい羊飼い」の二番目の条件は、自分の羊たちのことを知るということです。実際の話、羊飼いは、自分の群れの羊を知らなければなりません。そこには臆病な羊もいれば、好奇心旺盛な羊、頑固な羊もいるからです。体格や健康状態、性格の違いも含めて、良い羊飼いは、羊たちの命を守り、充分に世話をするためにも、自分の羊をよく知っておかなければなりません。そして、どんなに泥だらけになっていても、雨風で汚れていても、その声を聞き分けるのです。それゆえに、羊たちもまた自分たちの飼い主、自分たちの世話をしてくれる羊飼いの声を、信頼し、安心してしっかりと聞き分けるのです。(冒頭で紹介した動画のように。)

 イエス様も、「わたしは自分の羊を知っている。」と語ります。それは、ご自分の声を聞き分けて、後をついてくる人々と弟子たちの命を育み守るために、彼らをよく知っているのだ、と云うことです。そして、それはちょうど、父なる神様が、独り子であるイエス様の心と思いをよく知り、その苦しみと痛みとを受け止めたことと一緒だというのです。

 さらに、この良い羊飼いであるイエス様の配慮と導きとは、常に外に向かっても開かれているとされています。

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 イエス様の呼びかけは、特別な人にだけ向けられていません。イエス様に従う群れ、キリストの共同体は、閉ざされた集団でも特権を持った集団をも意味しません。羊飼いを必要としている「飼う者のいない羊」のような人々、ただイエス様の声を聞こうとする人々が、そこに招かれているのです。囲いの外、枠の外にいるとかいないとかという基準で、排除されないのです。ただイエス様の声を聞き分け、その人が一歩足を踏み出すことが大切なのです。

 

 「わたしは良い羊飼いである。」というイエス様の宣言を前にして、私たちはどのように応答できるでしょうか。

 私は、その応答の言葉を、冒頭でも触れた詩篇23篇の中に見出します。

 「主はわたしの羊飼い、/わたしには何も欠けることがない。//主はわたしを緑の野に休ませ、/ 憩いの水のほとりに伴い、わたしの魂を生き返らせてくださる。」

 そこには、王であるダビデが、自分自身の経験の中から、自分を羊飼いに導かれ、守られる「羊」として、例えた言葉が記されています。

 ある意味、旧約聖書が人間を羊に例えるのは、羊の姿の中に度し難い人間自身の姿を見たからかもしません。問題を抱えている人間の姿が表現されているともいえます。私たちは、「羊はかわいらしく、優しく、弱い動物で、自分もそう例えられている」と勘違いして、思いこんではいけないのです。頑固で融通がきかなくて、臆病で、他からの助けや世話がなければ生きられない動物、それが人間であるのです。やはり、神様の配慮と守りと導きとを必要とした存在なのです。

 ダビデは、この詩篇を通して、自分もまた、その神様の守りと導きを必要とする人間であり、神様の配慮と支えによって、自分の人生を歩むことができたと、告白していると云えます。

 「主はみ名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。/死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。//あなたがわたしと共にいてくださる。/あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

 牧草地に至るまでの「死の陰の谷を行く」ような、険しい谷間の道、それは、例えば人間が死を予感するような危機の経験を云います。その危機の最中にも、羊飼いの配慮ある導きによって「わたしは」乗り切ることが出来た。ダビデはそうした神様の守りへの感謝と信頼を込めて、「主はわたしの羊飼い」と詠ったのです。

 今、私たちもまた、「主はわたしの羊飼い」と告白していきたいのです。私たちのことを「自分の羊」と呼ぶイエス様の声に従って、今に至るまで、自分の人生を歩んでこれたことに感謝して、私たちははっきりと、「主はわたしの羊飼い」と告白していきたいのです。 

 そして、これからもイエス様の教えと言葉が、私たちにとって歩むべき道標であり、その声が、私たちを慰め、労り、励まし、また力を与え、活き活きとさせてくれることを、確信して、告白していきたいのです。自分たちのこの世界や社会に対する責任を引き受け、「語るべき時に」語り、「なすべき時に」行い、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合う」ために。

 「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。/主の家にわたしは帰り、いつまでも、そこにとどまる」と。

202414日 

「キリストの

​復活節第3主日

証し人になる」

​ルカによる福音書
24章 36~49節

 もしも、亡くなった人が、それもとても近しく親しい人が自分の前に姿を現して自分の名前を呼んで、生前と同じように親しげに話しかけてきたとしたら、皆さんはどのように反応するでしょうか。

 信じられない出来事に遭遇して、驚き、何が起こったのか理解できず、おたおたする。あるいは、その人が本当に生きているのか、それとも幽霊なのか確かめようとする。でも、その姿を現した相手が、穏やかに、にこやかに笑いかけながら、親しみと愛情のこもったまなざしで、私を╲自分を見つめてきて話しかけてきたら、私もおずおずとその言葉に応えるかもしれない。そして、なつかしさに、いつのまにか時間のたつのも忘れて、話し込んでしまうかもしれない。また会えてうれしいという気持ちが、心から沸き起こってくるのを感じるかもしれない。私にはそう思えるのです。

 イエス様が復活されて弟子たちの前に姿を現した時、彼らもまさにそのように振舞いました。今日の日課ルカ福音書の24章36節以下には、その再会の様子が描かれています。

 

 二人の弟子たちがエマオへの旅の途中、復活されたイエス様と再会をしたと言います。エルサレムに戻ったこの弟子たちが、他の弟子たちに彼らのエマオでの体験を話し始めたその時、そこにイエス様が姿を現わしたのです。「あなたがたに平和があるように。」と言って。

 それまで「本当にイエス様は復活してシモン・ペトロの前に姿を現した」、「私たちはエマオで主に出会った」とみんなで話していたにもかかわらず、イエス様を見た弟子たちは、「おたおたし、恐れにおちいって」、亡霊を見ているのだと思いました。

 その弟子たちに向かって、イエス様は言いました。

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

 私には、そのイエス様の声が、動揺する弟子たちの心をなだめるように、穏やかな調子だったように思えます。微笑みながら、弟子たち一人一人の顔を見て、驚いている弟子たちの傍に来て、手足を見せるイエス様。なんなら一人一人に手足を触らせて、自分が幽霊でないことを示したかもしれません。弟子たちもおずおずとイエス様に近づいて、イエス様の手を触れて、「復活されたのは本当だった」と思って、喜び始めたのかもしれません。たぶんそこに居た誰もが笑顔になったのではないかと思います。でも、まだ弟子たちが「不思議がって」いると、イエス様はこう言いました。「何か食べ物があるか」と。そして、差し出された一切れの焼いた魚を、イエス様は取って食べ始めたのです。「ほら、私は魚を食べることもできるよ。」とでもいうように。

 ルカ福音書には、イエス様が、生き返らせた少女に「何か食べ物を与えなさい」と命じる記事が記されていますが、ある意味それは、死者がほんとうに蘇ったことを証明する行為でした。それと同じように、イエス様は、弟子たちが処刑されたイエス様の復活を信じることが出来るように、手足の傷跡を見せ、自分の体を触らせるだけでなく、目の前で魚を食べて見せたと云えるでしょう。

 「イエス様は本当に復活されたのだ」と弟子たちもようやく納得して、その場は再会の喜びに満たされたことでしょう。ひとしきりイエス様と握手したり、言葉を交わし抱き合ったりした後で、イエス様は改めて弟子たちに、大切なことを語り始めました。

 

 イエス様が語られたこと、それはイエス様が十字架に架けられる前に弟子たちに言っておいたことで、「律法と預言者と詩編」(すなわち旧約聖書)に書かれている「わたし(イエス)についての事」柄は、「必ずすべて実現する」というものでした。そして、イエス様は、「聖書を悟らせるために」、彼らの心を開き、救い主・キリストの受難と死、復活について解き明かし、弟子たちに次のような新たな使命を委ねていくのです。

 「『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名(キリストの名)によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、イエス様が福音宣教の初めから語られた言葉、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ。」という呼びかけです。それは、神様の方へと顔を向け直す生き方の方向転換の呼びかけであり、弟子たちもまた、その働きをイエス様から委ねられていったのです。

 「キリストの名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」とは、その働きの委託が、救い主・キリストによるものであることが示されています。そして、神様の救いの出来事は、ユダヤ人にのみ限られて示されるものではなく、この地上のすべての人々の救いであるのだということです。

 「あなたがたはこれらのことの証人なのだ。」という言葉は、弟子たちにとって、大変に重要な響きを持っていました。それは、イエス様が、弟子たちを再び選んで、召し出していく言葉だったからです。

 どの福音書を読んでも、イエス様が逮捕されて処刑され、墓に葬られ、そして蘇られたわずか三日の間、弟子たちがどのような態度をとったのかは、包み隠さずに記されています。彼らは、散り散りに逃げ去り、イエス様が十字架上で亡くなった後も姿を隠していました。かろうじて法廷までついていったペテロも、「お前も弟子の一人だろう」と言われると、イエス様のことなど知らないと否認しました。そして、女性たちが「イエス様が復活した」と知らせても、彼らはそれを信じようとはせずに、復活されたイエス様を前にしても、恐れに陥って疑いを持ったのでした。以前、イエス様が、三度もご自分の死と復活を予告しておいたにもかかわらず。

 その弟子たちが、ここで改めて、「これらのこと」、つまりイエス様の福音宣教の初めから、その生涯の、受難と十字架を経て、復活の出来事に関する一切のことの証人とされているのです。再び弟子として選ばれて行ったのです。それは、言い換えれば、弟子たちにとっての復活の体験でもあったということです。

 

 「わたしは、父が約束された者をあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい。」

 その時、弟子たちは、イエス様のわざを引き継ぐという新しい使命に遣わされて行こうとしていましたが、このわざを果たすための「力」が必要でした。その神様から与えられる「力」は、「聖霊」でした。「聖霊」とは、神様からの「新しいいのちの息、派遣されるものに新たな力を与える息」のことです。復活されたイエス様は、弟子たちにそう約束されたのです。

 その約束の言葉は、弟子たちを勇気づけたと思います。

 イエス様の処刑による死という衝撃の前で、一度は折れてしまった心が強められ、萎えてしまった心が蘇った思いがしたはずです。それは、イザヤ書の「弱った手に力を込め/よろめく膝を強く」(35:3)するような体験であり、弟子たち一人一人が、挫折を味わった心を奮い立たせ、「もう一度始めてみよう」と思い直すことが出来たと思うのです。

 イエス様による派遣の言葉は、実は様々な弟子たちの思い、葛藤や思惑を包み込んで、受け入れてくださる愛に溢れたイエス様による選びの言葉であるのです。

 「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」という言葉が示すように、神様の選びは、人の思いや決断に先立って起こります。私たちにとっての信仰の決断も、よく考えてみれば、イエス様がすでに選んで待っていることを、私が認識した結果としてあるのです。

 イエス様の選びは、恵みなのです。

 

 皆さんは、これらの福音書にあるイエス様の復活の物語を聞いて(あるいは読んで)、どのように感じられるでしょうか。弟子たちが体験した驚きや恐れ、また喜びを身近に感じられるでしょうか。

 そして、皆さんにとって、イエス様の復活は、どのようなものでしょうか。どのような体験であり、どのような意味を持つ出来事なのでしょうか。

 イエス様を身近に感じてみたいと思います。今ここに、イエス様は、生きておられる。そのことを、「思いを尽くし、精神を尽くし」、心を傾けて、感じてみたいと思います。

 そしてまた、弟子たちがそうであったように、私たちもまた、イエス様に愛され、「キリストの証人」として呼び集められていることを覚えたいのです。

 キリストの証人となる。それは、イエス様の出来事を伝え、癒しのわざを行うことです。イエス様のように、苦しんでいる人、差別された人、抑圧を受けている人々に解放と自由を告げることです。疲れた人を慰め、労ること、力づけ、励まして一緒に生きることです。あるいはその人の傍で、ともかく一緒にいることです。神様の愛を、私たちの言葉やわざを通して表すことです。

 復活の主イエス・キリストが、生きておられます。

 私は、個人的にですが、すでに亡くなった親しい人たち、近しい人たちが、時折、傍にいるように感じるときがあります。そのように、復活されたイエス様も、私╲あなたの傍らで、私たちを見守り、私たちに(心の内に、あるいは別な誰かの言葉を通して)語りかけ、一緒に歩きながら、生きておられます。そして、時には必要な助けを、様々な仕方で与えながら、私たちを支えてくださっています。私たちを選び、また、私たちに聖霊を下さり、力づけてくださるイエス様に感謝したいと思います。そして、その託された務めを自覚し、イエス様に従うという責任を今、恐れずに引き受けていきたいと思うのです。

 私たちもまたイエス様の示す福音と使信が実現することを願って力を尽くしたいし、神様の正義と公正が実現することに備えて待ちつつ生きたいと思うのです。

 復活された主と共に。

2024日 
​復活節第2主日

「信じるため

疑う」

​ヨハネによる福音書
20章 19~31節

 疑うことは、悪いことなのでしょうか。自分が誰かから聞いたことに何か違和感があって、慎重に考えたいと思い、鵜吞みにせずにそれが本当のことかどうかを、確かめたいと思うこと。それもまた、疑うことと云えばそうなのかもしれません。

 もちろん、いつどんなときであっても、何でもかんでも疑ってかかることは、適切でない場合もあります。慎重さも度を過ぎれば、臆病ともなります。しかし、慎重さと思慮深さは、ある意味大切なことです。すぐに、感覚的に、感情的に反応しないで、一呼吸おいてから、今自分が、何をすることが適切な行動であるのかをよく考えて、物事をいったん整理して、判断することは、誤った行動をせずに済みます。「石橋を叩いて渡る。」 疑うことも大事なことかもしれません。

 

 イエス様の弟子の一人であったトマスは、今日の日課のせいか、「疑い迷うトマス」と(讃美歌の歌詞に)云われたりもします。

 何をトマスは疑ったのか。それは、イエス様が復活され、弟子たちの前に姿を現したという知らせでした。

 イエス様が復活され、マグダラのマリアの前に姿を現したその日の夕方、イエス様は、今度は弟子たちの前に姿を現しました。弟子たちが、イエス様の十字架による処刑の後、「恐れて」家に閉じこもっていると、その閉ざされた部屋の中に、突然イエス・キリストが姿を現しました。そして、「平安があるように」と言ってから、イエス様は弟子たちにご自分の傷を見せたのです。イエス様が見せた手とわき腹の傷跡は、自分が紛れもなく三日前に十字架で処刑されたことを示すためでした。その様子を見て弟子たちは喜びます。その弟子たちにイエス様は、「あなた方を遣わす」と言って、息を吹きかけて、聖霊と力とを与えられたのでした。

 ちょうどその時、何かの所用で出かけていて、その場に居合わせなかったトマスは、あとから、「イエス様が甦って、自分たちの前に現れた。イエス様は復活された」ことを他の弟子たちから聞きました。その時、トマスは自分の疑いを口にしたのです。「イエス様を自分の目で見て、その声を聞いて、話をして、その傷口を触って確かめない限り、あなたたちの話は信じない」と。

 

 このトマスの言葉が、後々、彼を「疑い迷う人」、あるいは「疑い深い人」と印象付けてしまうのです。しかしはたして、トマスは他の弟子よりも疑い深かったのでしょうか。

 実は、他の福音書には、復活したイエス様に出会った女性たちが、そのことを弟子たちに告げた時、弟子たちは「女たちがたわ言を言っている」と問題にしなかった、と記されています。その弟子たちがイエス様の復活を信じたのは、女性たちが知らせた言葉を聞いてではなく、あくまでも復活されたイエス様が彼らの前に直接姿を現したことによってでした。知らせを聞いても復活の事実を信じられなかったということでは、トマスも他の弟子たちも変わりはなかったのです。

 そして、トマスが、「自分で傷口に触れなければ信じない」と語った裏には、疑ったというだけでなしに、もう少し複雑な気持ちがあったのではないかと思われるのです。

 自分の大切に思う人が亡くなってしまう、それも不慮の死を迎えた時、人は、そのショックの大きさゆえに、その死の事実を、すぐには受け入れることができないことが多々あります。親しい者、近しい者の死を受け入れるというのは、時間が経ったからといって、容易なものではなく、精神的にたいへんな作業だからです。

 トマスにしてみれば、イエス様が処刑されて墓に葬られてから、まだほんの三日しか経っていませんでした。トマスが、その数日間を、イエス様が死んでもうここにはいないという事実と、彼に生きていて欲しかったという気持ちに、なんとか折り合いをつけようと過ごしていただろうことは、想像がつきます。

 ところが、出先から帰って来たトマスに向かって、「イエス様が生き返って、自分たちの前に姿を現した」と、他の弟子たちが口々に話して聞かせたのです。トマスが、精神的に激しく揺すぶられたとしても不思議ではありません。「それはどういうことなのだ」と、思考停止状態になったかもしれません。すぐに気持ちの切り替えが出来なかった彼にとって、いろいろな感情が沸き上がっただろうと思うのです。「ほんとにそうだろうか」というすぐには信じられない気持ち。どう反応していいのかわからない気持ち。ここは慎重に事実を確認していこうという理性的な、そして思慮を巡らせようとする気持ち。それ以外にも、「そもそも、なぜ私がいないときに(復活された)イエス様が姿を現したのか。」という疎外感。そして他の弟子たちを羨む気持ち。彼は、そうした混乱した気持ちから、「自分で傷口に触れなければ信じない」と言ったのではないでしょうか。実際に顔を合わせてもいない自分が素直に喜べない。そうして頑なになって、困惑した気持ちを抱えながら、トマスは、他の弟子たちが喜んでいるのを、冷ややかな目で眺めていたのかもしれません。

 常識的に考えれば、トマスが、「イエス様の傷口を自分の手で触ってみなければ、信じない」と語るのは、信じるための確証を求めることであり、ごく当たり前のことです。ただ、そこから、イエス様が甦ったという事実を受け入れ、「信じる」ためには、もう一つの後押しが必要でした。それがもう一度イエス様が姿を表すこと、顕現することだったのです。

 「八日後」、また弟子たちはみんなで部屋にこもっていました。トマスも一緒に。その弟子たちの前にイエスは姿を表しました。そして、誰でもないトマスに向って、「わたしの手の釘跡とわき腹の傷跡に触れてみなさい」と語ったのです。

 

 「自分で傷口に触れなければ信じない」とトマスが語ったのは、復活したイエス様と顔を合わせたいと、切に願っていたからです。

 他の弟子たちが体験したように、自分もイエス様の傷跡を見て、話をしたい。聖霊も受けたい。他の弟子たちへの羨ましさもあり、それだけに素直になれずに頑なになってしまい、「自分で傷口に触れなければ信じない」と意固地になってしまった。だからこそ、なおさら、イエス様が復活されたという「知らせを聞いただけでは」、彼は満足できなかったのです。トマスは求めるがゆえに疑っていたのです。

 そのトマスの頑なさや意固地になっていた心を和らげ、溶かしたのは、イエス様の顕現でした。イエス様が、トマスに向かって言った「わたしの手の釘跡とわき腹の傷跡に触れてみなさい」という言葉は、彼の硬く閉ざされた心を砕きました。再び現れたイエス様の姿と彼に向けて語られた言葉は、トマスに素直さを取り戻させたともいえます。

 「聞いただけでは納得していない自分のために、イエス様が現れた。」「私(トマス)を弟子として認めてくれている。」

 そのことに彼は気付くとともに、イエス様に対して、「意地を張ってごめんなさい」という謝罪の気持ちと、「お会いできてうれしいです」という喜びを感じたのではないでしょうか。イエス様の傷を触ることなく、「私の主よ」という信仰の告白をしたことは、イエス様の復活への驚きと喜びを表しているとも言えますし、改めてイエス様の弟子として歩んで行こうという、トマスの決心を示しているとも言えます。

 イエス様の「見たから信じたのか」という言葉は、トマスが疑いを持ったことを非難し咎めた言葉ではないと思えます。そうではなくて、トマスが頑なになり、疑いを持つことを見越していた言葉とも取れます。「お前が疑いを持つとしても不思議ではない」、「疑ったとしても当然かもしれない」という言葉。それはイエス様のトマスへの愛情を表しているのではないでしょうか。求めるがゆえに疑うトマスと、そのトマスを、愛情を持って見つめて、なおも弟子として再び呼び起こすイエス様。復活の事実をトマスにも受け入れて欲しいと願い、そのためならば何度でも姿を表そうとするイエス様。それは、トマスへの「あなたを愛しているよ。大切に思っているよ」というメッセージです。そのメッセージにトマスははっきりと気づたのです。

 

 「熱しやすく、冷めやすい。」 それは、何かことを始めるときは、熱中して行動するけれども、しばらくすると気持ちが覚めてしまい、始めたことも止めてしまう、そんな状態を云います。ある意味では、それは「よく考える時間を持つことなしに、思い立ったらすぐに行動する」浅はかな人、あるいは「配慮や考えを及ぼすことなく行動する」軽率な人とも云えなくもありません。

 人が信仰を持つ、神様を信じるということにおいて、そのような「熱しやすく、冷めやすい」あり方は、避けたいものです。信仰者の在り方として求められるのは、慎重で思慮深くあること、信じる確証を求める姿かもしれません。トマスのように。

 私たちが生きている世界は、様々な問題や矛盾に満ちています。場合によっては、私たちは、神様に信頼を寄せることが難しい状況に直面することもあります。神様の正義と公正とはどこにあるのかと疑いたくなる現実と状況があります。そして、困難な状況に陥ったとき、人は得てして、神様の助けがすぐに目に見える形で現れることを求めて、目先の成果に一喜一憂することがあります。そして、目の前の結果だけで、神様に絶望し、「今ここには、神様は働いていない」と判断してしまうことさえ起こります。

 しかし、困難なときであるからこそ、私たちにとって必要なのは、イエス様の福音の働きを、思慮深く見極める目です。目先の成果や結果に目を奪われるのではなく、常にイエス様の福音とそのわざに自分の生き方の軸を定めて、なおも「望んでいる事柄を確信し」、まだ「見えない事実を確認すること」です。「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様の声は、トマスにだけでなく、今現代に生きる私たちにこそ向けられているのです。

 主イエス・キリストは生きておられます。イエス様は、トマスの心の傷を癒し、彼を愛して受け入れたように、私たちをも弟子として、仲間として受け入れ、励まし、力づけて下さいます。

 復活の主よ、来てくださいと祈りましょう。

2020年8月30 日(聖霊降臨後第13主日)

「キリストに倣う」 

 マタイによる福音書

 ​16章21節~28節

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 中村哲という日本人医師が、活動していたアフガニスタンで何者かに襲われ、命を落としてから、すでに九ヶ月が経ちました。

 中村さんは、著書「医者、用水路を拓く」にも書いておられますが、医療活動を行うだけでなく、水源を確保する事業を進めていました。

 中村さんは、1978年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によって発生した、多くのアフガン人難民を救援するため、1984年にパキスタンで医療活動を始めます。そして、数年後にはパキスタン北西部の山岳地帯やソ連軍撤退後のアフガニスタン東部で、診療所を開設していきます。

 そうした活動を続ける中で、彼は、人々の栄養状態や衛生環境が改善されていかないと、人々を病気から救う抜本的な対策にはならないことを痛感していきます。

 特にアフガニスタンでは、内戦と長期間に及ぶ旱魃の影響から、本来の穀倉地帯でも大地が干上がり荒れ果てていました。さらに水不足から赤痢やコレラが急増し、全土で多くの国民、農民たちが難民化している状況がありました。

 そこで中村さんは、医療活動に併せて、水源確保のための事業を始めます。中村さんは地元の協力を得て、飲料用や灌漑用の井戸を掘り、伝統的な地下水路を再生していきます。また、約25キロの用水路を建設し、砂漠を農場に変えていきます。干上がっていた荒れ地と砂漠であった場所は、オリーブやナツメヤシの茂る農地や麦畑に変わりました。また畜産業やサトウキビの栽培、黒砂糖の生産も始まるのです。

 ただ、こうした活動は、死の危険と隣り合わせでした。武装勢力に襲撃される危険が常にあったのです。2008年には、中村さんと一緒に活動していた日本人が一人、身代金目的で武装勢力に誘拐され、救出に向かった警察との銃撃戦の最中に殺害されています。中村さん自身もそのことは、十分承知していました。周囲の日本人からも、「危ないから」といつも声をかけられていたようです。

 しかし、彼は、ここでは先ず何よりも食べること、食料を得ることが回復されなければならないこと、自ら働いて、食料を作り、安心して十分に食べることができるようにしていくことが、病気を治すだけにとどまらず、病気の原因を減らす抜本的な取り組みであること、また、人々が安心して農業を続けることができれば、貧困にも陥らず、戦争を起こすこともなくなり、結果として平和をもたらすこともできると考え、一連の事業を続けていきます。

 しかし、昨年12月4日に襲撃され殺されてしまいました。誰が行ったのか、なぜ殺されたのかは未だ判っていません。

 キリスト者であった中村さんは、ある意味では、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業を、大勢のアフガン難民の命を救う働き、「自分の十字架」と意識していたのではないかと思います。それこそ、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」、イエス様に従ったのではないでしょうか。

 困難の中にあって、「飼う者のいない羊のようなありさま」のたくさんの人々を救う、イエス様の生き方を自分の生き方にしていく姿が、そこにはありした。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 この言葉は、イエス様が、弟子たちに自分の受難、つまり十字架による処刑と、その後の復活の出来事を打ち明けた後に、重ねてペテロと弟子たちに向かって語ったものです。

 イエス様の受難と復活についての発言は、ペテロを困惑させました。彼は、強い調子でイエス様を諌め始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 

 しかし、イエス様は、ペテロを叱りつけられます。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と。簡単に言えば、「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」ということでしょうか。

 ただ、イエス様がペテロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の旅の目的とその意味を、理解していないことを示しているといえます。イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を、判っていないことを表しています。

 イエス様の受難と復活の予告は、ある意味、冷静に自分の語る言葉や行動を見据えた発言です。

 イエス様は、宣教の旅の行く先々で、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけます。病や日常の生活に苦しんでいる多くの人たち。その人たちを救うためのイエス様のわざや教え。そこで示されるイエス様の価値観、それは、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の価値観とは大きく違っていました。

 それは、例えば、「世間」が低く評価する境遇にいる人々、貧しい人、飢えている人、苦しんでいる人、病気や障害を負っている人たちこそが、神様の救いに真っ先に与れるというものでした。差別されたり、疎んじられている「取税人」や「遊女」たちが、神の国に入れるというものでした。神様の救いは、イエス様の癒しのわざを通して、それらの人々の上に現れるというものでした。

 あるいは、宗教的な制度が人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は変えられなければならない、と語るものでした。

 だからこそ、イエス様の語る教えは、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものだったわけです。それゆえにイエス様は「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」ことになるのです。

 人々を病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するために、神様の愛と、神の国の希望、すなわち福音を語り、具体的な行いをもって指し示すこと。それが、イエス様の使命です。しかし、人を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていく福音を伝える使命が、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、イエス様ははっきり理解しているのです。

 イエス様がエルサレムに行こうとしたのは、そこでもイエス様の救いの業と教えとを必要としている人々、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々がいたからだと思うのです。それを邪魔してはいけないと、イエス様は言われたのです。

 イエス様に従う者は、どのように生きるべきなのか、それが今日の日課の主題です。

 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、今までの自分の生き方を否定して、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことといえます。

 イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、自分の人生の道標として生きていくことです。

 具体的には、神様の正義と公正が地上で実現することを求めることです。貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに想いを寄せ、寄り添い、彼らが今の境遇から救われること、解放されることを共に望み、目指すことです。そのために彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決する方法を探ることです。

 ただ、そのような生き方を、信念を持って貫こうとすれば、様々な抵抗にあうこともあります。とりわけ、貧しい人々や弱い立場にいる人々を搾取し、それによって利益を得ている人々、自分さえよければかまわないと考える人々からは、きっと疎まれるに違いありません。

 しかし、イエス様は私たちに「わたしに従いなさい」と語ると同時に、一つ約束されています。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」

 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。

 その福音の実現のために、人生をかけるなら、その人は永遠の命を受けるとされるのです。たとえ、「この世」の力が圧倒的であったとしても、イエス様の言葉とわざに従い、福音の実現のために力を尽くし、なすべき課題を行おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取る。そうイエス様は約束されるのです。

 

 冒頭でお話しした中村哲医師は、「誰もやらない活動なら、俺がやる」といって、パキスタンとアフガニスタンでの活動を続けられたと聞きます。

 現地の言葉を話し、土地の文化と伝統を尊重して、目の前に現れる課題を、現地の農民と共に汗を流して解決していく中村さんのその姿に、現地の人が感謝をし、深く信頼を寄せたといいます。村人の要請を受けて、モスクと学校を建設もしています。キリスト者がなぜ、モスクを建設したのか問われて、それは現地の人たちの誇りを取り戻すことでもあったと、中村さんは語っています。村の人たちは、外国の文化が押し寄せる中で、自分たちの文化はだめなのか、劣っているのかと劣等感を持っていたそうです。でもモスクが建設されたことで、彼らは誇りを取り戻すことが出来たそうです。

 水源の確保も、荒れ果てた大地を回復し、農民のいのちと生活を回復していくわざであったと言えます。それは、人々に勇気を与え、生きる力を回復する、福音の実現といえるのではないでしょうか。

 不幸にして中村さんは、事業半ばにして凶弾に倒れましたが、彼の仕事は、彼の後援会であったペシャワール会が引き継いでいくそうです。

 誰もが中村医師のようには働けるわけではありませんが、しかしその姿勢に倣うことはできます。たとえ困難を前にしたとしても、イエス様を信じる者として、一緒に生きている人たちと、ともに祈り、重荷を担い合って、福音の実現のために、目の前の様々な課題を引き受けて、乗り越えていきたいと思います。

2020年8月2日 平和主日

 「平和の基」 

 ヨハネによる福音書

 ​15章9節~12節

 イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。

 ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。

 その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。

 イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。

 イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 

 それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。

 

 イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。

 「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。

 しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。

 もちろん、注意しなければならないことはあります。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。

 最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。

 と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。

 「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。

 「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。

 

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。

 

 私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。

 それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。

 なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。

 日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。

 昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。

 そこでは、次のような祈りがささげられました。

 「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」

 「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」

 「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」

 「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」

 「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」

 「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」

 「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」

 「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」

 

 「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。

 平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。

 人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。

 「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン

2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)

 「天の国の実現」 

 マタイによる福音書

 ​13章31節~33節

   +44節~50節

 イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。

 私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。

 イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。

 

 先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。

 からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。

 讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。

 「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」

 球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。

 からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。

 

 次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。

 パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。

 パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。

 「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。

 また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。

 

 「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。

 もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。

 そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。

 もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。

 44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。

 二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。 

 つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。

 イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。

 現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。

 しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。

 

 「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。

 日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。

 「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。

 2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)

「生き直すということ」 

 マタイによる福音書

 ​11章28節~30節

 人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。

 競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。 

 行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。

 生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。

 

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。

 軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。

 ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。

 つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。

 ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。

 「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。

 

 旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。

 ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。

 イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。

 本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。

 イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。

 と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。

 

 「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。

 それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。

 それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。

 またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。

 

 イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。

 この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。

 生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。

 だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。

 だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。

2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)

 「あなたが花束」 

 マタイによる福音書

 ​10章40節~42節

 「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。

 歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。

 「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。

 それは、その相手を励ましたいからです。

 「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。

 歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。

 歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。

 「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。

 「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。

 その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。

 歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。

 そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。

 「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。

 この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。

 いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。

 自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。

 そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。

 「あなたが花束」になっていくのです。

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。

 今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。

 ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。

 そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

 「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。

 弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。

 

 二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。

 使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。

 福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。

 もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。

 たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。

 生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。

 

 弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。

 教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。

 それが、弟子の使命です。

 どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。

 2020年1月26

「天の国は近づいた」 

 マタイによる福音書4章12~18

 

 韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。

 

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

共に平和をつくり 共に生きる その町で

平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら

貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で

平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で

私たちの労働が お祭りになる その日に向かって

共に生きる町 小さくても 美しい町

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

教えてください 教えてください 共に生きる町を

  詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。

 その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。

 この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。

 一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。

 と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。

 この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。

 八〇年代​、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。

 このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。

「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。

 明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。

 勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの

かもしれません。

 いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。

 「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」

 イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。

 ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。

 具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。

 不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。

 それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。

 悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。

 この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。

 私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。

 大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。

 それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。

 それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。

 確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。

 「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。

 「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。

 「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います

 

(2020年1月26日)

 

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