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礼拝メッセージ
       (当分の間、毎週更新します)
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20251019日 
聖霊降臨後第19主日

「落ち込まないで、

諦めないで​」

​ルカによる福音書
18章1節 ~8節

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 「心が折れる」という表現があります。

 人が、解決しなければならない課題を抱えていたとします。その課題・問題を解決しようと何度も挑戦する。でも行く手を阻む何らかの壁にぶつかっては、その度にまた一からやり直さなければならない。そんな状況を重ねているうちに、それまで自分を支えていた何かが耐えられなくなって、心の踏ん張りがきかなくなってしまう。あるいは、人が、慢性的にストレスをずっと感じていて、何かの拍子にそれまで知らず知らず溜めていた我慢が限界に達してしまった時、緊張の糸が「プツン」と切れたように感じて、力が抜けてしまう。こうした現象を「心が折れる」と云うのです。それは一時的にそうなる場合もありますが、それこそ、人によっては、生きる「意味」を見失ったり、生きる力そのものを失って、すべてを諦めてしまうことも起こったりもします。

 今日の日課の「譬え」話で、イエス様は、こうした「心が折れそうになるような」状況を前にしたとき、私たちはどうすればいいのかを語っています。

 

 イエス様が弟子たちに向かって語った一つの譬えは、次のようなものでした。

 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わないような裁判官(律法学者、ラビ)がいた。その彼のもとを一人のやもめが裁判をしてもらおうと訪れた。その裁判官は、やもめの訴えを最初は取り合おうともしなかったが、やもめは、めげずに『自分を守ってくれ』と訴え続けた。ある時、とうとうその裁判官は、根負けしてこう云った。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』(それで彼は裁判をやもめに有利になるように取り計らってやることにした。)」

 本来、律法に基づいた裁判は、「神を畏れ」、人を尊重する律法学者(ラビ)によって、「神の正義と公正」を旨として行われるべきものであるはずです。しかし、譬えに登場する律法学者は、不遜で尊大で横柄で、およそ「神の正義」に基づいた公正な裁判などとは無縁な存在です。

 一方の「一人のやもめ」は、社会的に立場の弱い存在であり、有力な保護者を後ろ盾として持っていない場合には、自分の立場を守るためには、どうしても律法に基づく「正式な」裁判を行ってもらわなければなりません。だからこそ、彼女は「しつように」裁判官に訴え続けるわけです。たとえその裁判官が、人格的に問題があって期待できない相手であったとしても、その裁判官しかいないのですから。

 この譬えは、先ず、そうした力のない弱い存在であったとしても、「しつよう」に喰い下がることで、相手を動かすことができることを教えています。それはまた、自分は年をとっているから、あるいは社会的には力もないから、仕方がないとあきらめて泣き寝入りしないで、具体的に声を上げることをも教えています。そして、たとえ相手の動機が、「うるさくてかなわない」というように、ただただ自己中心的なものであったとしても、自分が臨む目的を達成するためには、やもめのように「気を落とさずに絶えず」祈り求めることが勧められているのです。

 

 ところで、このときイエス様は、弟子たちに具体的には何を祈れと教えていたのでしょうか。

 今日の日課の前の章で、イエス様はファリサイ派の人々から「神の国はどこにあるのか」と問われていますし、弟子たちからも「神の国はいつどこで実現するのか」と尋ねられています。つまり、この一人のやもめの譬え話は、文脈から云えば、直接には神の国が実現する、到来するのを願い求めることと、深いつながりを持っているお話なのです。

 イエス様は、神の国の実現を福音として人々に語りました。

 神様がこの地上も支配する日が来る。その日には、神様が正義と公平とを持って、この地上を治められる。不正はなくなり、飢えや貧しさから人々は解放される。わたし(イエス)が来たことはその始まりであり、実現しつつある徴だ。「神の国はあなたがたのただ中にある」のだ。 

 一方で、イエス様は遠くない将来に自分に降りかかる一連の事態を予測しています。エルサレムに行けば、自分は間違いなく逮捕され、十字架刑によって処刑され殺されてしまう、と。

 だからおそらく、イエス様はその「自分の刑死」の後で、弟子たちが信仰を失くしてしまうこと、生きる力を失くし、またその目的を見失ってしまうことを心配されたとも考えられます。

 神の国の到来がいつになるかは、明らかにはされていない。ただ、その時が来たらおのずとわかる。だからこそ、あなたがたは神の国の実現を求めること、そのために備えることをやめてはならない。ここで、神の国の実現を祈り求める相手は、もちろん神様です。が、同時に、その実現に備えるためには、神の国の実現を阻んでいる者たち―例えば尊大で不遜な裁判官のような存在―への具体的で直接の働きかけ、行動が必要だということです。場合によっては、しつこく、粘り強く、したたかに、しなやかに、求め続けねばならないと云うことなのです。

 イエス様はこのやもめの譬えを用いることで、弟子たちにそう伝えようとしたのではないでしょうか。

 

 では、あらためて、このイエス様の譬え話は、今の私たちにとって、どんな意味を持つのでしょうか。

 「気を落とさずに絶えず祈りなさい。」「神様は、あなたがたの呼びかける祈りの声を必ず聴かれるのだから。」

 神の国の到来を願う祈りと同じように、私たちが日々の生活の中で神様に向けて祈る祈りがあります。神様を賛美して、感謝の思いを伝えようとする祈りがあります。「ささやかであっても幸せに毎日を過ごしたい。」「心が平安で満たされていたい。」という願いがあります。あるいは「今、直面している困難な状況から、救ってください。」「病が癒されますように。」「必要な助けが与えられますように。」という切実な祈りがあります。

 だから、私たちは祈ります。神様を、イエス様を信頼して、心を込めて、願いを込めて、ある時は声に出さずに静かに心の内で、またある時は、思いを言葉に出して、私たちは祈ります。時として、言葉にならない「呻きのような」思いを呟くように、祈ることもあります。

 しかし、その一方で、祈っても祈っても、自分が望むようには事態が一向に進展しないように感じるときもあります。状況によっては、物事が変化しないばかりか、余計に事態が悪くなって行くことも、私たちは経験します。そんなとき、私たちの心の内に、囁くように湧き上がって来る問いがあります。「果たして祈りは聞かれるのか」、「本当に祈りは聞かれるのだろうか」と。そして、「心が折れそうに」感じることがあるのです。そして、祈ることそのものを諦めてしまうことも起こりかねないのです。

 「人の子、再臨のキリストがやって来るとき、はたして地上に信仰を持って歩みを起こす人々を見出すことができるだろうか。」というイエス様の言葉は、人が「心折れて」、失望してしまい、祈ること、望むことをやめてしまうこと、信仰すら失くしてしまうことへの心配を表していると云えるでしょう。

 「心が折れそうになる」「挫折」の経験は、たぶん大なり小なり、そして年齢にかかわりなく(幼い時は幼いなりに、年を重ねれば重ねたで)、誰しもが(私たちもまた)持っているのではないでしょうか。ただ同時に、そんな経験を通して、そしてその度ごとに、私たちは、「折れた心を」支え、また癒す言葉やわざに触れても来たのではないでしょうか。自ら祈ることができない状況にあったときも、誰かが自分のために執り成して、祈ってくれたのではないでしょうか。一緒にそばにいてくれたのではないでしょうか。

 

 ハンバートハンバートというデュオ・グループが歌う「笑ったり転んだり」という曲があります。(現在NHKで放映されている、朝ドラの主題歌です。)その歌詞の一節にこうあります。

 「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃだめだと怒ったり/これでもいいかと思ったり」「日に日に世界が悪くなる/気のせいかそうじゃない/そんなじゃだめだと焦ったり/生活しなきゃと座ったり」

 気が滅入りそうな歌詞にも思えるのですが、ある意味、私たちの生活の実相を表しているようにも思います。「毎日」感じるのは、生活が「難儀な」ものであり、「日に日に」「世界が悪く」なっているような状況です。でもだからと云って深刻になってしまうわけでもなく、「怒ったり」「焦ったり」する一方で、「これでもいいかと思ったり」、「生活しなきゃ」と思い直して座るような、そんな日常が歌われています。で、この曲の最後はこう書いてあります。「落ち込まないで諦めないで╲君のとなり歩くから╲今夜も散歩しましょうか。」 「君の/私の隣を歩く」存在がいる。だから、「落ち込まないで諦めないで」ね。「今夜も散歩」する生活は、昨日も今日も続いているのだから。それは私たちの日常の一コマです。

 祈ることを諦めてはなりません。

 祈りは、その人の信仰そのものを表します。祈りによって、その人の生活全体が、何を目指していて、何を生き方の中心に据えて、営まれているのかが明らかになります。ある人は言います。「祈ることと正義を行うことは、信仰の証だ」と。

 イエス様は、私/あなたに対して問うておられます。「あなたは、どこに立って、何をどう祈るのか」と。

 イエス様は云います。「ましてや神様が昼も夜も自分に向かって叫び続ける『選ばれた者たち』の訴えを聞かないことがあるだろうか。速やかに神様は訴えを聞き届けてくださる。」 だから気を落とさずに絶えず祈らなければならないのだ、と。

 「(神様によって)選ばれた者たち」。それは真っ先に救われなければならない人々、苦しみから解放されなければならない人々のことです。昼も夜も叫び求めている人々が、選ばれた人々です。現状に満足し、問題はないと見なす人々は後回しになるのです。今を変えようと望む者、希望を捨てずに諦めない人々、自分の人生を「運命」という名前で投げ出さないで、道が開けることを求める人々。それが、選ばれた人々です。

 その声は聞かれる。そして、私たちの隣をイエス様が一緒に歩いておられる。だから「落ち込まないで諦めないで」、たゆまずに祈りたいのです。「まず神の国と神の義、正義の実現を求め」たいのです。

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20251012日 
聖霊降臨後第18主日

「主の言葉に

​応えて」

​ルカによる福音書
17章11節 ~17節

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 アメリカの詩人、W・H・オーデンは、「見る前に跳べ」という詩の中でこう書いています。

 「道は確かに短い/また険しい//ここから見るとだらだら坂みたいだが。//見るのもよろしい、でもあなたは飛ばなくてはなりません。」

 人が歩む道は、たとえそれが「だらだら続くような坂に」見えたとしても、短く険しい。そこが危険か安全かを見極めるために、慎重に物事を「見て」分析するのもいいだろう。でも決断することを迫られた時には、「あなたは」、「まず行動してみること」、決心したら、「先ず跳べ」という意味だそうです。

 「救いは信仰の決定的飛躍によってのみ得られる」(キルケゴール)という言葉もあります。救いのチャンスを逃さないように、その時が来たと思ったら、信じて委ね、「飛躍すること」が大事だとのことです。

 それは、私たちの信仰の一つの姿を現す言葉かもしれません。

 

 今日の福音書の日課は、「十人の重い皮膚病に罹った人たち」の物語です。

 サマリヤとガリラヤの国境のある村の入り口で、「重い皮膚病を患っている十人の人」たちが、イエス様一行を出迎えました。ただし、彼らは、その「重い皮膚病」ゆえに、旧約聖書のレビ記(13章)にある戒めに従って、「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」、イエス様に呼びかけたのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。

 彼らは、律法によれば、「清くない者」「汚れた者」と見なされ、病が癒えるまでは、人々の住んでいる場所から離れて、一人で生活することが義務付けられていましたし、離れた所から周りの人に向けて、自分に近づかないよう警告するために、「私は汚れた者です」と服を裂いて叫ばなければならなかったからです。

 そんな彼らを見て、イエス様は彼らに触れたり、手をかざすわけでもなく、ただ「祭司のところに行って身体を見せなさい」と応えました。このイエス様の言葉に、十人の「重い皮膚病の」患者たちが促され、祭司の所へ向かう途中で、奇跡は起きました。「彼らは、そこへ行く途中で清くされた」のです。言い換えるなら、イエス様のその言葉は、「あなたがたは癒された。だから祭司に見せに行きなさい」という宣言でもあったわけです。

 イエス様は、彼らの叫びに込められた、切実な願いと祈り、「病を癒せるのはイエス様しかいない」という信頼を聞き取ったのです。その信頼に応えて、イエス様はただ言葉によって、病いを癒すという奇跡を行ったのです。

 今日の日課で先ず大切なのは、「重い皮膚病に罹った」彼らが、イエス様の言う通りに、すぐに祭司の下に向かって行ったということです。つまり、イエス様の言葉を信じて、結果を「見る前に跳んで」行動したことです。

 旧約聖書の日課、列王記下には、「重い皮膚病」に罹ったアラム人の将軍ナアマンが、預言者エリシャの「言葉」、それも「使いの者」に伝えさせた言葉に聞き従うことによって、病を癒されたと云う物語が記されています(五章十節、十四節)。しかもこの場合、将軍のナアマンは、預言者の言葉に半信半疑だったにもかかわらず、癒しは起こったのです。

 「重い皮膚病に罹った十人」には、イエス様の示す「憐れみ」への期待と願いが十分に感じられるのです。彼らがイエス様の奨めに対して、間髪を入れずに行動したことは、その真剣さとイエス様への信頼を表しています。その信仰が、彼らの上に「病の癒し」という奇跡をもたらし、彼らを救っていったのです。

 

 さて、この物語はここで終わりとはなりませんでした。

 「重い皮膚病」を癒やされた十人のうちの一人だけが、神様を賛美しながらイエス様の所へ戻ってきたのです。そして、その一人はユダヤ人ではなく、サマリヤ人だったのです。

 サマリヤ人は、ゲリジム山に聖所を置き、正統的なユダヤ教とは多少異なった形で旧約聖書を伝承していましたが、そのためユダヤ人たちから差別されていました。一方のサマリヤ人もまた、その差別に対して当然ながら反発し、ユダヤ人とはやはり対立し合っていたわけです。実は、この物語の背景には、民族差別の問題もあるのですが、興味深いのは、重い皮膚病に罹ったユダヤ人たちに混じって、本来差別を受けていたはずのサマリヤ人が、国境をまたぐ街道の「ある村」の近くで、一緒に生活していたことです。

 健康でいたときであれば、彼らは会話することもなかったでしょう。しかし、同じ「重い皮膚病」に罹ったことで、住んでいた村を出ざるを得なくなった彼らは、おそらく国境で偶然出会い、いつしか一緒に行動することになったとも考えられます。同じ辛い体験や境遇は、民族の違いを越えさせ、お互いに助け合い、支え合う関係を紡ぐことを容易にさせたのでしょう。しかし、「重い皮膚病」が癒されたことで、九人のユダヤ人は、祭司の所へ出向くために、ガリラヤの村へと戻っていきました。そして、サマリヤ人一人だけが、イエス様のところにやって来たのです。

 このサマリヤ人は、イエス様の「足もとにひれ伏して感謝」するのですが、その様子を見たイエス様は、弟子たちに向かって云いました。「清くされたのは十人ではなかったのか。あとの九人はどうしたのか。このサマリヤ人の他に神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」 そして、そのサマリヤ人を祝福してこう云ったのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と。

 

 このイエス様の「あとの九人はどうしたのか。このサマリヤ人の他に神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」という言葉ですが、これまでは、「感謝の心を忘れたユダヤ人」への、イエス様の嘆きの言葉、あるいはまた非難の言葉として解釈されることが多かったのも事実です。

 しかし、その場面を想像しながら考えてみるとき、「感謝を忘れたユダヤ人」という見方は、やや不当な解釈に思えます。

 なぜなら、病が癒やされた九人のユダヤ人たちは、その時点でイエス様の許に戻ることができなかった、とも云えるからです。

 彼らとて、病が癒されたことに気づいて、神様の救いが自分たちの上に現れたことを喜び、感謝をしていたと思うのです。ただ、如何せん、彼らが再びユダヤ人共同体の一員として復帰するためには、病の癒しが律法に従って証明されなければなりません。そのためには祭司が正式の手続きを踏んで、彼らが「清く」されたことを宣言し、また彼らも聖所で感謝の供え物を捧げる必要がありました。彼らがガリラヤへの家路を急ぐのは当然なことです。

 一方のサマリヤ人もまた、必要なのは、サマリヤの村で、そこの祭司に聖別してもらうことでした。ですから、彼は彼で、ガリラヤの村へ向かうユダヤ人たちとは途中まで一緒に行動したとしても、逆方向のサマリヤの村へと踵を返して向かったのでしょう。その途中で、彼は、サマリヤ地方を通る街道を進んでいたイエス様の一行に追いついたのだと思うのです。

 だから私には、「このサマリヤ人の他に神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」というイエス様の言葉は、戻って来なかった九人のユダヤ人に対する嘆きや非難としてではなくて、神様の救いはユダヤ人に限定されず、民族の違いは克服されるのだということを表しているように思うのです(列王記下に登場したアラム人の将軍ナアマンがそうであるように)。「今、ここで神の救いに感謝しているのは、あなたたちの同胞ではなく異邦人であるサマリヤ人だ。弟子たちよ、神の救いは民族の壁を越えて働くことを見なさい」と。イエス様は、恵みに対しての感謝を求めておられるのではないのです。

 

 「重い皮膚病を患った十人」の上に起きた、イエス様による神様の恵みとしての救い。サマリヤ人が、「大声で神を賛美しながら」、「イエスの足下にひれ伏し感謝した」ことは、その救いが病の苦痛からの解放への感謝であると同時に、重い皮膚病に対する偏見から自由にされたことを意味します。

 彼は、それまで彼自身の生活共同体から引き離され、存在しない者であるかのように扱われてきました。しかし、彼はイエス様によって、再び「自由な人々の列に戻される」(詩篇113篇)その救いを、しかも民族や文化の違いという壁を越えた普遍的な救いを体験したのです。言い換えれば、イエス様による救いとは、誰でもがイエス様の神様への執り成しによって、孤独から解き放たれ、奪われた人間性が回復され、新しいのちを与えられる、という出来事なのです。

 そして、ここで忘れてならないのは、イエス様の下に戻って来られなかった九人も、同様に癒やされているということです。たとえ彼らが、イエス様の目の前で直接、その感謝の思いを伝えることができなかったとしてもです。私には、九人のユダヤ人たちもまた、イエス様一行が向かった街道の先(サマリヤ)の方向に手を合わせて、自分たちの言葉を聞き届けて、病を癒してくださったイエス様に心から感謝したのではないかと思うのです。

 民族の壁を越えた関係が、病が癒されたことによって終わることは、当事者たちには寂しいことだったかもしれません。しかし、私には、「重い皮膚病を患った」がゆえに持った共同生活の体験は、サマリヤ人とユダヤ人の双方にとって、お互いの間にあった偏見という「隔ての壁」を壊し、その後の寛容で平和な世界を築いていくと云う、新しい地平を開いたのではないかとも思うのです。

 「ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝を捧げる。」「主は驚くべきみ業を記念するよう定められた。」「主は恵み深く憐れみ深い。」(詩編111篇1、4節)。

 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と、イエス様は、戻ってきたサマリヤ人を祝福し、故郷へと送り出しました。それは、また彼の新しい人生を励ますことでもありました。サマリヤ人は、その信仰によって、生きる力を、頭を上げて人生を生きる喜びを取り戻していったのです。

 そして、「あなたの信仰があなたを救った」というイエス様の祝福は、まちがいなく、その時戻って来ることの出来なかった九人にも向けられています。彼ら九人の心をイエス様は知り、また受け止めておられるからです。

 私たちもまた、イエス様を信頼し、期待を持って救いを求める者でありたいし、あり続けたいと思います。そして、これまでも、今も、またこれからも、聖書に記されたイエス様の言葉とわざ、生涯と十字架を信じて、その使信に自分の未来を委ね、勇気を持って応え、人生の一歩を歩み出したいと思うのです。それが、私たちの内に宿った信仰です。信じて「見る前に跳ぶ」、その決断を神様は祝福されます。そのとき、神様の救いは恵みとして私たちにもたらされるでしょう。私たちを苦痛や困窮から解き放ち、自分の人生を生きる力が与えられるでしょう。その救いに気づき、感謝するとき、「あなたの信仰が、あなたを救った」という祝福を、確かにイエス様から受けることができるでしょう。

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202510日 
聖霊降臨後第17主日

「信仰を持って

​生きる」

​ルカによる福音書
17章1節 ~10節

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 「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」(17章5~6節)

 私は、時々、自分が「小さい」、「弱く乏しい」と感じてしまうことがあります。難儀なこと、予想もしない困難にぶつかったとき、私の気持ちも動揺するからです。物事が必ずしも自分の思うようにはいかないとき、どっしりと構えることができず、気持ちが揺らいで自信を無くし、場合によっては、落ち込んだり、悲観的に考えたりしてしまいます。そんなとき、「もっと自分の信仰が強ければ」とか、「自分の信仰が乏しいからだ」という考えがわたしの中に湧いてきて、自然と神様に「力を与えてください」とか、「強くしてください」とか、あるいは「信仰を強めてください」、「堅い信仰を持たせてください」と祈っています。

 弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」とイエス様に願ったのは、もしかしたら、そのとき彼らも、自分たちのことを「小さく」「弱く」「乏しい」と感じて、自信を無くしてしまっていたのかもしれません。イエス様が直接弟子たちに語った言葉、特に弟子たちへの奨め・戒めにも似た言葉は、弟子たちが少しでも自分自身を省みれば、「守れます」とは断言できないものであったかもしれません。自分たちは「意思も弱く」、イエス様が云う通りには行う自信がない。だから、彼らは、イエス様に「私たちの信仰を増してください」と願ったのではないでしょうか。今以上の「信仰」を持つことができたなら、自分でもこれらの言葉・戒めを守ることができるかもしれない、と思ったのでしょう。そして、それは、ある意味、人間の自然な心の動きなのかもしれない、と思うのです。

 

 しかし、イエス様は、弟子たちの「信仰を増してください」という願いにこう応えました。

 「もし、あなたにからし種一粒ほどの信仰があるならば、桑の木に向かって『抜け出して海の中に移れ』というなら、その通りになるだろう」と。

 聞きようによっては、「桑の木に、『海に根を下ろせ』と云ってみろ。そうしたらお前の信仰があるかないかが分かるから」と人を試しているようにも思えます。あるいは「桑の木を海の中に移せないのは、お前には『からし種一粒ほど』の信仰もないのだ」と断定しているようにも受け取れます。

 でも、イエス様は、ここで「あなたの信仰の力の証明をしろ」と云っているわけではありません。そうではなくて、たとえ自分の信仰が、「からし種一粒ほど」の(極小さな)ものでしかないと思っていたとしても、それはすでにあなたたちの中にあるのだから、自分の信仰に自信を持ちなさいと語っているのです。

 「からし種一粒」は、極々小さなものです。では、例えばの話、それが「桃の種一粒」の大きさの信仰だったら、何か違うのでしょうか。「アボガドの種一粒」の大きさの信仰だったら、「椰子の実」ほどの大きさの信仰なら、何かもっと壮大な奇跡でも起こせるとでも云うのでしょうか。そんなことはないのです。信仰は他人と比較するものではないのです。そうではなくて、一人一人それぞれのうちにある信仰は、その潜在的に秘めた力は同じなのです。「からし種一粒」も、蒔かれると芽を出し、「どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ4章31~32節)木に成長するのです。

 だから、大切なのは、聖書を読み、学び、また実際に生活の中で考えることを通して、私たちの信仰を成長させることです。

 キリストへの信仰を持つと云うことは、読んだことや聞いたことを鵜呑みにすることではありません。イエス様の信仰やその生涯が、私にどう関わるのかを、よく考え、自らに問うことです。そして、それがただの知識としてではなく、私にとって、どのような意味を持つのか、腑に落ちたとき、私たちの信仰はより豊かなものになっていきます。私たち自身の経験の中で、成熟したものとなっていくのです。そして、それは聖霊の働きと助けによることなのです。

 仮に、このときイエス様が「わかった。そら、今あなたの信仰は大きくなった。安心して行きなさい」と、弟子たちに向かって云ったとしたらどうだったでしょうか。言葉だけで彼らは安心したでしょうか。やはり何かの証拠を、自分の信仰が大きく増し加わったかどうかを確かめるための証拠を、求めたのではないでしょうか。言い換えれば、弟子たちが、イエス様の言葉を信頼して、安心して歩みを、行動を起こさない限り、彼らの信仰は証されないということです。

 

 もし、人生に通信簿があって、そこに信仰という項目があるとします。その項目は、空欄にしてあるか、それでなければ満点が書き込んであるかのどちらかだといえるのではないでしょうか。信仰に、多い少ないも、大きい小さいもないのです。ましてやそれは、奇跡が起こせるから信仰がある、と判断されることでもありません。あるいは、信仰があるかないかを判断するのは、私自身ではないということなのです。

 使徒パウロは、同僚へあてた手紙の中で、信仰とは、人が「抱き」、人に「宿り」、「与えられる神の賜物」、「ゆだねられた良いもの」と呼んでいます。そしてそれは、「力と愛と思慮分別の霊」として、「わたしたちの内に住まわれる聖霊」によって守られるとされています。(第2テモテ1章5~7節、14節)  また、「ヘブライ人への手紙」にはこのように書いてあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11章1節) 

 信仰とは、人が、神様の愛と恵、すなわち神様がその人を愛して、大切にしていることに気づき、これを感謝して、希望を見出し、信頼を寄せることから起こります。あくまでも大切なのは、イエス・キリストに信頼して、人生の歩みを起こすことです。そのこと自体が信仰なのです。自分の信仰が、大きいか小さいかを気に病む必要もありません。今いる場所で、イエス様の言葉に希望を見出し、信頼して、自分の向き合うべき課題に取り組むこと、始めることが信仰の歩みそのものなのです。

 

 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 なぜイエス様は、この言葉を弟子たちに向けて語ったのでしょうか。ひょっとしたら、弟子たちの中で、福音宣教の働きを行うことは特別であり、人々から称賛される素晴らしい仕事だと思う心が生じていたからかもしれません。イエス様を見ていて、そう考える者がいたのかもしれません。自信がないと感じる者がいる一方で、称賛を求める心や自信過剰、慢心が生じていた者がいたのかもしれません。しかし、イエス様は、それを退けられます。神様のことを人々に伝える、証するということは、なすべきことを行ったに過ぎない。人々から褒められ、評価されるかどうかは、期待することではない、そう語っているのです。

 確かに、私たちが何かを行うとき、それに対する他人からの評価、反応は気になります。自分の働きを誰かから褒められ、認められたいと云った承認欲求です。そして、自分の仕事へのテンションが上がるか下がるかは、実は他人からの評価による場合もあるわけですが、しかし、他人からの評価は、あくまでも他人からの判断でしかありません。また、人々の称賛は必ずしも、その仕事の内容の価値とは一致しないこともあるからです。

 ただ、だからと云って、ここでイエス様のこの言葉を、「弟子であるあなたたちは、評価など求めずに、文句も言わずに黙って福音宣教のために働け」と、イエス様が言っていると誤解してもいけません。ましてやこの言葉を、誰かを服従させたり、抑え込んで支配するために振り回してもいけません。

 これは、ある意味、福音宣教に対するイエス様自身の姿勢を示した言葉であると思うのです。イエス様にとって、福音を宣べ伝えることは、神様から託された使命、「神の国の到来」を告げ知らせることでした。教えもわざも奇跡も、そのための徴でした。確かに、たくさんの人々が、イエス様の教えを聞き、癒やしに与りたいと願っていましたし、イエス様のことは人々の評判になりました。だからといってイエス様は、見返りも称賛も求めてはいません。また反対に、「この世」は必ずしも、そのイエス様の生き方や教えを褒め称えたわけでもありません。むしろそれを苦々しく思っていた人たちもいました。そしてそれは、その後、イエス様が十字架に架けられ殺されることで、明らかになります。あくまでも福音宣教は、イエス様にとっては、神様の前に遜って、「なすべきことをなした」にすぎなかったのです。

 イエス様の弟子であるということは、イエス様に倣うことです。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」というイエス様の言葉は、あなたがたがわたしの弟子であるなら、世の評判や評価に一喜一憂しなくてもいい。また自分の働きに自己満足せずに、私に倣って神様の前に謙虚で、自分の務めを果たすようにという奨めです。

 それは、あくまでも弟子たち一人一人が、自分自身に向けて語るべき心がけの言葉なのです。

 

 信仰者であることは、特別な人、スーパーマン、スーパーウーマンであることを意味しません。イエス様はそのことを良くご存じです。だから今日の日課を語るのです。

 「信仰を持って生きる者」は、日常の中で、揺れを感じ、行きつ戻りつしながら、生活している生身の人間です。「いい子」であること、「良い信仰者」であることを見せる必要はありません。そうではなくて、揺れたり、立ち止まったりしながらも、その度にイエス様の言葉や行動に立ち戻って考えて行くこと、そのうえで誤りは正し、自分の人生の道を定め、目の前にある課題を謙虚に担っていくこと、それが大切なのです。神様は、そんな「信じる人」である私たちと向き合い、聖霊を通して私たちを励まし、一緒に歩んでおられるのです。

 「信じる人」として、一日一日を、神様に信頼して、委ねて歩んで行きたいと思います。その歩みそのものが、「信じる人」、信仰者の証なのです。旧約聖書のハバクク書は語っています。 

 「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク書2章4節)

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202528日 
聖霊降臨後第16主日

「無関心でいる

​のではなくて」

​ルカによる福音書
16章19節 ~31節

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 先ほどお読みした、今日の日課「金持ちとラザロ」の譬え話は、イエス様が生きていた時代の、社会の現実を反映していると思われます。

 そして、それはある意味、今現在も、世界のどこかで起こっている現実であるといえます。例えば、アフリカやインド、南アメリカの大都市の路上で、ラザロと同じように横たわっている人たちの姿を、報道番組や何かの映像で私たちは目にしたことがあるはずです。南半球の貧しい地域で、高い失業率のゆえに、貧困から飢えている人たちがいます。満足な医療を受けることができずに、病気を悪化させている人たちがいます。

 いや、それはなにも、アフリカや南米だけのことではありません。ニューヨークでも、東京でも、大阪でも、大都市の路上で、長引く不況の中で、失業によって、貧しいまま、病気で横たわっている人たちがいます。アメリカやヨーロッパなどの先進国であっても、ホームレスのための無料の給食サービスを受ける人たちがいて、ホームレスのための臨時宿泊所(シェルター)に寝泊まりする人たちがいます。

 それは、実際の光景なのです。格差社会と呼ばれる現実がそこにはあるのです。経済的な「繁栄」を誇る社会の「門の前」に、横たわる「ラザロ」は、まだまだいなくなってはいないのです。だからこそ、この「金持ちとラザロ」の譬え話は、私たちに迫ってくるのです。

 

 イエス様は、この譬え話を三つの部分に分けて語っています。

 先ず、イエス様は、金持ちの生活とラザロの境遇とを対比するように描写しています。金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らして」いますが、一方のラザロは、「できものだらけ」で、「貧しく」て、金持ちの家の門前に横たわっています。そのラザロは、もしも願いが適うものであれば、金持ちの「食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思って」います。病気で働けない人や物乞いをする人が、金持ちの屋敷の門前に横たわっているのは、ユダヤの社会で、実際にあった光景でしょう。

 ところが、死後の世界では、金持ちとラザロの立場がひっくり返ります。やがて死を迎えたラザロは、天使たちによって天に運ばれ、神様のもとでアブラハムと一緒に宴席に連なることが許されます。一方、金持ちは、死んで葬られますが、彼は「陰府で」「炎の中で」さいなまれます。ここで金持ちはアブラハムに、「(苦しんでいる自分を)憐れんで」、ラザロを自分の所までよこして、「指先に水を浸し」、自分の「舌を冷やさせて」欲しいと懇願しますが、アブラハムはその願いを拒絶します。その理由は、「お前は生きているうちに良いものをもらった。ラザロは反対に悪いものをもらっていた。だからラザロは慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」というものでした。それは、「生前貧しく苦労した者は、その死後、神様によって報われて天国に入る。しかし、生前に豊かな富を受けて楽しんだ者は、すでに神様から報われたのだから、死後には陰府の国で苦しみを受ける。」とされているようにも思われます。

 しかしながら、イエス様は、このお話を、ただ「今貧しく苦しんでいる状態にある者への気休め」としては語っていません。むしろそこには、「金持ちとラザロ」の境遇を分けるその社会の在り様に対して、憤りにも似た感情が感じられるのです。

 

 イエス様は、社会の中で、「遊び暮らす金持ち」がいる一方で、貧しい者が病気にかかり、門前に横たわっている状況を、決してそのままでよいとは思っていません。それは、イエス様が、貧しく病気にかかり、金持ちの門前に横たわっていた男に、ラザロという名前を与えていることから判ります。実際には、路上で亡くなれば、名前などは記憶もされない「その他大勢」の一人としか扱われない男性。しかし、イエス様はその男にラザロという名を与えて、譬え話を語るのです。一方の金持ちは、「ある金持ち」とだけ語られます。社会的には、断然名の通った存在であり、力もあっただろう金持ちが、あえて名前を与えられていないのです。それは、この二人の物語を神様の視点から見るからです。神様の前では、「権力や名声、地位、富」などは、意味を持たない。むしろ、神様は「力のない者を高く上げ、名もない者を大切にされる」からです。

 それはちょうど、「主はその腕で力を奮い、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」と、「マリアの讃歌」で詠われたように。(ルカ福音書1章51~53節) 

 社会の中に格差がある状況、「金持ちとラザロ」がいる状態は、神様の公正と正義が実現するとき、なくならなければならない状態であるのです。

 「貧しい者は幸いである、神の国はあなたがたのものである。/今飢え渇いている人は幸いである、あなたがたは満たされる。/今泣いている人は幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(ルカ福音書6章20~21節)

 だからこそ、ラザロが慰めを受けるのは当然である、とイエス様は語るのです。それは、たぶん「無数のラザロ」が、路上で死んでいく現実を、イエス様が、ガリラヤの町や村々で目撃していたからかもしれません。

 イエス様はこの譬え話によって、先ず、今ある現実に対して、神の国が抗議していることを表したのです。

 

 さて、この譬え話は、アブラハムの拒絶に対して、金持ちが今度は別な願いを口にすることから、次の展開に入ります。それは、「人はどのように生きるのか」を主題としていると云えるでしょう。

 金持ちは、自分の兄弟たちには、こんな苦しい思いをさせたくないから、できれば、「アブラハムが彼らに言い聞かせて欲しい」。そうでなければ、「死んだ者の中から誰か」を、彼らの所に送って欲しいと願います。そうすれば、(自分と同じような生活をしているだろう)兄弟たちも悔い改めるに違いない、と云うのです。ここで、イエス様は、アブラハムの口を借りて、こう語ります。「もし、モーセと預言者の言葉(である聖書)に(彼らが)耳を傾けないならば、誰を派遣しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。悔い改めることはできず、陰府の苦しみから逃れることはできない」と。

 お話の中では、金持ちとラザロの関わりは何も描かれていません。ラザロは、「せめて金持ちの食卓から落ちたもので空腹を満たしたいと願っていた」にもかかわらず、そこではなにごとも起こらなかったようです。イエス様は、金持ちのことを、ことさら「貪欲で、あくどい」人物とは性格づけてはいません。が、しかし、ある意味では、その関わりをもたなかったこと自体が問題となっているわけです。

 モーセと預言者の言葉、すなわち聖書の言葉に耳を傾ける。それは、聖書の精神を実際に、生活の中で生きることを意味します。それは、旧約聖書にある戒めを守ると云うことに止まらない在り方です。例えば、それは神様の正義と公正を実現すること、具体的には、社会的な不公正をどのように正そうとしたのか、あるいは慈悲の行為として、貧しい境遇にある者にどのように関わったのか、と言ったことを指します。いいかえれば、この金持ちは生前、「モーセと預言者の言葉に耳を傾け」なかったからこそ、死後に陰府で苦しむことになったということです。

 マザー・テレサは、「愛の反対は、憎しみではなく、無関心であること」と語りました。譬え話の金持ちは、人間的な性格はどうあれ、門の前に身を横たえていたラザロに、関心を向けることはなかった。愛のある行い、聖書に示されたような慈悲をかけること、たとえ一時的な「施し」であったにせよ、それすらも行おうとはしなかった。金持ちにとっては、門の出入りの際に目に飛び込んでくるラザロの姿も、「いつもいる物乞い」であり、代り映えのしない風景の一部だったかもしれません。いや、その存在すら、金持ちの目には留まらなかったかもしれません。気付かずに、無関心で通り過ぎること、それが、金持ちの「罪」であり、陰府での苦しみの理由である、とイエス様は指摘しているとも云えます。 

 また、この金持ちは、「ぜいたくに遊び暮らしていた」わけで、それは、彼が、どのようにしてか手に入れた「富」「財産」を、隣人や社会に還元することもせずに、彼自身のためだけに遣っていたとも云えます。自分の生活にしか関心が向かず、今自分が置かれている境遇も、「あって当たり前」としか思っていない。自らを省みて考えることをしない。だから他人の痛みや苦しみ、悲しみに無関心であるとも云えるのでしょう。「今だけ、金だけ、自分だけ。」という言葉が、世相への批判として、ひと頃語られましたが、この金持ちの立場は、それをよく現しているとも云えます。

 先週の福音書の日課に、「人は神と富とに仕えることはできない」と書かれています。この金持ちは、聖書、つまり「モーセと預言者の言葉に耳を傾けること」をせずに、富に仕えることで、彼自身の罪を露わにしたというわけです。

 

 冒頭に述べたように、この譬えは、昔も今も、社会の現実、構造的な問題を反映しています。と同時に、譬えは、この社会の中で生きている私たちの意識についても、問いかけています。今直面している問題や課題に、私たちは無関心でいるのではないかと。ここ十数年来、「非正規雇用の労働者」の存在や、外国人労働者の存在に社会的な焦点が当てられてきましたが、もしも、私たちがそれを「あって当たり前」なことと捉えているなら、それは譬えに登場する「周囲のものごとに無関心な金持ち」の立場になっていると云えます。

 私たちも聖書を読んで、聖書に書かれている神様の教えを聞いています。それゆえに、「もし、モーセと預言者の言葉(である聖書)に(彼らが)耳を傾けないならば、誰を派遣しても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というイエス様の言葉は、私たちにも無縁ではないのです。福音のメッセージは明らかです。愛のある行い、無関心ではないあり方、この世界のために、より良い未来のために、何をしていくのか。目の前にある課題へのアプローチが求められています。

 毎日の生活の営みの中で、気になること、心にかかることが何かあるのなら、たとえそれが小さなことであっても、そこから「ワタシ」の、「アナタ」の関心は広がっていきます。私たちが、心のアンテナを広げて、少しだけ周囲の世界に目を向けて見るならば、そして、「今日のあなたは、明日の私」という思いをもって、起こっている出来事に関心をもって(我が事として)眺めてみるならば、今私たちの目の前に、見過ごしてはならない問題や課題がたくさんあることを知るでしょう。

 「人よ、何が善であり╲主が何をお前に求めておられるかは╲╲お前に告げられている。╲正義を行い、慈しみを愛し╲へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6章8節)

 イエス様の助けによって、私たちの心の中から、神様のみ心に適った愛のある行い、信仰にもとづいた「善いわざ」が、生み出されますように。アーメン。

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202521日 
聖霊降臨後第15主日

「富を生かす」

​ルカによる福音書
16章1節 ~13節

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 「情けは人の為ならず」という言葉があります。元々は、「他人に情けをかけることは、巡りめぐって、自分に恩恵が返って来る。だから、誰に対しても親切にしておきなさい。」という意味で用いられる言葉です。今日の福音書の日課、ルカによる福音書16章1節から13節にあるイエス様の喩え話は、文字通りこの「情けは人の為ならず」を表した内容とも云えます。

 イエス様の喩え話は次の通りです。

 地主から土地の管理を任されていた管理人がいました。彼は、「地主の財産を浪費した」として、誰かに密告され、クビになることが決まってしまいました。投獄されることはなさそうですが、ともかく明日からは失業者の一人になってしまうと考えた彼は、何とかして助けてくれる仲間を得たいと考えました。そして、その管理人は、地主に負債のある小作人たちに恩を売って、自分を助けてもらおうと考え、小作人たちの負債や借金の額を減らすのです。

 この行為をイエス様は、「主人は、この抜け目のないやり方を褒めた」といい、肯定して行くのです。

 

 イエス様の生きていた時代、地中海一帯はローマ帝国の支配下にありました。そして、このローマ帝国内で急速に進んでいた経済的な変化がありました。それは、それまで自分で土地を所有し耕していた自由農民が没落し、その土地を買い上げた地主が、大規模な農園を経営して行くという動きでした。地主は土地を買い占め、更に大きくなっていきますが、農民たちは、日雇いの労働者としてその地主の農園で働くか、小作人として働くしかなくなりました。ところで、小作人は地主から農具や肥料を手に入れなければ耕作することはできません。農作物の収穫が多くても、賃金や小作人の取り分は低く抑えられます。そのため油や小麦の借入額も半端なものではなくなります。日々利子がついていくことで雪だるま式に膨れ上がっていく借金のために、さらに貧しい状態に陥っていく小作人たち。いつの時代にもよくある話です。

 イエス様は、どこかで見聞きした実際にあった出来事を喩えに用いてもいます。ですから、この話もそうした喩えの一つといえるかも知れません。

 ただし、この喩えは、どう解釈していいか困る個所の一つでした。だから、昔からいろいろな解釈がなされてきました。

 ある人はこれを「借金の元金を減らしたのではなくて、地主の取り分にあたる利子の分を減らしたのだ」と解釈しています。「せめて利子分ぐらいでも棒引きしてやれ。元金を盗むわけじゃないんだから。」と管理人は考えたということです。しかし、私たちが何の疑問も持たずにこの個所を読むと、この管理人のしたことは、「横領」ではないにしろ、地主の財産に損害を与えたともいえる行為です。本来、小作人が返すべき借金の額を、管理人は「独断で」減額したのですから。そして、困惑させられるのは、明らかな「不正」を働いたこの管理人が、「主人は、この抜け目のないやり方を褒めた」と書かれているように、イエス様によって肯定されているように、読めるからなのです。なぜ、「不正を働いた管理人」は、褒められるのか、理解に苦しみます。

 でも、実は「誰にとって不正なのか」という問題があります。そして、この喩えを、小作人の立場から読んでみると、「不正」という言葉についての違う理解が見えてきます。小作人にしてみれば、膨れ上がった借金を軽減してもらえるのであり、この管理人には感謝しかないはずです。つまり、「不正な管理人」とは、あくまでも地主の立場を前提として、この喩えを聞いた場合の感想なのです。

 もう一つ付け加えれば、喩えにある「金持ち」が富・財産を貯め込むということは、正当といえるのかという問題があります。そこには「富の配分についての不公正」という問題があるのではないかということです。しかも利子や借金という本来は利益を生んではいけないものによる富の蓄積は、やはり「不正」ではないのか。

 「富が何か天から降ってきたというなら、それはおそらく、そんなに悪いものじゃないかもしれないが、しかし、明らかに富は他の人々の労働から出たものなんだからね。」とは、南米ニカラグアのある農民の言葉です。富は人々の労働の上に成り立っている。しかしその富を自分のものとして楽しむのは、働いた本人ではない。

 このイエス様の喩え話を理解するには、「富とは一体何か」、「お金を儲けるとはいったいどのようなことか」を考えることが、必要だと思うのです。

 現代でも、全世界の人口の上位1%の人たちがすべての富の約37.8%を保有し、上位10%の人たちは合わせて全資産の七六%を保有しているのに対して、全人口の下位50%の人たちは富の2%を所有するにとどまっている、という統計があります。一部の富裕層が全資産の大部分を独占し、貧困と経済格差が深刻化しているのです。

 私には、実はイエス様はこの喩えを話すとき、「富を貯め込んで行くことはそもそも不正なのだ」という感覚を持っていたのではないか、と思えてならないのです。

 

 さて、この話を聞かされた弟子たちは、しかし、漁師や農民でした。あるいは以前には、ローマ帝国やヘロデ王のための税金を集める収税人として働いていた者もいました。彼らは、その時点で大金を貯め込んだり、人々から集めた利子で食べて暮らしていたわけではありませんでした。彼らにとって、この喩え話は、どんな意味を持っていたのでしょうか。

 この喩え話を読み解くヒントは、この管理人の置かれた立場と状況を、自分たちの身に置き換えてみることかもしれません。

 つまり、人は(そして弟子たちは)、神様からこの世界の管理を任されているに過ぎないということです。いつかは、(この管理人のように)その決算を迫られるでしょう。そのとき、人はどんな態度を取るべきなのかが問われているととも云えます。

 「不正にまみれた富」という言葉は、実は「この世の富」といいかえることもできます。ここで奨められているのは、「この世の富」を真の友人を得るために、人を活かすことに使えということです。

 この管理人は、自分を小作人と同じ立場にいる存在であると理解しています。管理人が密告された、「地主の財産を浪費した」中身は、喩えの中ではなにも言及されていません。想像をたくましくすれば、以前から彼は、小作人たちのために、借金の目こぼしやいろいろな便宜を図っていて、それがために「地主の財産に損害を与えた」と云われたのかもしれません。ともかく彼は、この世の富よりも大切なものがあることに気がついています。その動機が、「自分を救おうする」ことであったとしても、結果としてそれによって救われた人たちがいたということは、神様の目から見て貴いのではないでしょうか。称賛されることなのではないでしょうか。

 弟子たちと同じように、現代の私たちも、社会のシステム、仕組みの中でしか生きられません。誰かが犠牲になって富を得るという構造の中で、一人一人が嫌でも生きているのです。たくさん稼ぐ人であっても、ぎりぎりいっぱいの生活をしている人であっても、その構造からは逃れられません。

 しかし、神様の視点から眺めて行くとき、その現実がそのまま認められていいわけではありません。やがて到来する神の国の理想とは、貧しさゆえに苦しむ者、泣く者がいなくなることです。人々が、困窮して、飢えて、病いで死んでいくことがなくなる世界です。だから、そうした世界が来ることに備えるために、今、稼いでいる人は、その富をどのように用いるかが神様から問われています。そして、日々の生活がいっぱいいっぱいな人もまた、自分だけでなく周りの人たちと一緒に幸せになる道を探す必要があるのです。管理人は、困窮している人を助けたことで、自分をも救っていきます。今風にいえば、管理人も借金をしていた人たちも、両方とも「ウイン・ウイン(Win-win)」の関係にあるといえます。管理していたその富を、心底人々から感謝され、友人として迎えられるように用いたからです。富を人々と自分自身の解放のために用いたからです。

 「主人は、この抜け目のないやり方を褒めた」と、イエス様が肯定していったのは、神様の視点からこの管理人の行為を眺めたからでしょう。神様の「正義と公正」のささやかな実現を予感させる喩えとして、イエス様は語ったのではないでしょうか。

 

 イエス様が喩えで語ったような出来事は、現実には起こらないでしょうし、もしあったとしたら、やはり「不正」という言葉で、判断されるでしょう。しかし、この喩え話にあるように、この世の在り方を視点を変えて眺めることは必要だと思うのです。この世の現実は、すべて肯定されていいわけがないのですから。

 人が自分の富や利益にだけ目を向けて、それを手放さずにいるとき、争いが起こり、国が自国の利益だけを考えるとき、戦争が起こるのです。あるいは自然環境が損なわれ、破壊されていくのです。だからこそ、私たちが託されている「この世の富」を、神様の前に誠実に、そして神様の目的に忠実に用いることを目指したいのです。「この世の富」に支配され、振り回されることなく、その「富」を人のいのちを救うためにこそ、用いていきたいのです。

 管理人が見い出したもの、それは人と人のつながりであり、助け合う関係を築くことでした。それが「情けは人の為ならず」を地で行く行為になりました。人と人のつながりは、神様の正義と公正の実現に備えるための、いわば「器」なのです。

 後の時代の教会は、この喩えから教会の務めを聞きとっていったと云います。富、財産は神様からの預かり物であり、だからこそ、それをみんなで分かち合えるように、社会全体に役立てること、還元することが求められていると理解して行きます。教会とは、組織や建物だけを意味しません。そこに集う人々の群れ、交わりそのものを意味しています。その群れそのものが富であり、財産です。それらの財産を、富を私たちはどのように生かし、用い、この世界に還元しているでしょうか。だから、私たちは、心底人々から感謝され、友人として迎えられるようなことのために、また人々と自分自身の解放のために、教会を、この共同体を、このつながりを用いることを考える必要があります。

 私たち教会もまた、先ず神の国と神の義を求めて、自らを誠実に、人々の利益になることに還元して行きましょう。「情けは人の為ならず」なのですから。

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202514日 
聖霊降臨後第14主日

「失われた

存在の回復」  

​ルカによる福音書
15章1節 ~10節

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 私が小学生の頃です。私は、毎年の夏休みを、母の実家の牧場で過ごしました。ただ遊んでいたわけでなく、叔父や叔母、たくさんいた従兄妹たちと、一緒に牧場の牛の世話をしてきました。  

 あるとき、放牧地で、犬と遊びながらですが、40頭ほどの牛の番をしていました。やがて牛を牛舎に入れる時間になって、牛の数を数えてみると、一頭足りなかったのです。何度数えても一頭足りません。牛を牛舎に入れに来た従兄弟たちに伝えて、とりあえず牛たちを牛舎まで連れて行ってから、改めて従兄弟たちといなくなった牛を探しました。放牧地は小高い丘の上にあり、片側が沢に面して切り立った5~6メートルぐらいの崖になっていました。沢沿いに面した草地で、一人の従兄弟が、不自然に草や木の枝が折れている跡を見つけ、そこからどうも牛が落ちたらしいことが判りました。従兄弟たちと私は、牛を探しに、放牧地の丘をぐるっと回って、沢まで下りていきました。

 沢を下流から少し上がっていくと、少し離れた場所で牛が鳴いているのが聞こえました。従兄弟たちは「べぇ、べぇ、べぇ」と呼びかけながら、鳴いている牛のところまで行くと、牛もその呼びかけに応えるかのように近寄ってきました。一人の従兄弟が牛に怪我がないかどうか調べました。幸い、おしりを少し擦りむいただけで、牛は元気でした。みんな、ホッと安心して、「よかった、よかった」と喜んで、その後、牛を静かに追いながら、牛の歩みに合わせて沢を下り、丘の下にある道路まで出て、牛舎まで帰りました。夕日に染まった牛と従兄弟たちの姿が、今も目に焼き付いています。そして、今日の福音書の日課を読むたびに、そのことを思い出すのです。

 

 「羊飼いが、迷い出た一匹の羊を探すためには、残りの九十九匹を置いてでも出かけ探し回るだろう。そしてその一匹を探し出せたら、見つけたその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて『見失った羊を見つけました。一緒に喜んでください』と言うだろう」。

 「迷い出た一匹の羊を探すためには、残りの九十九匹を置いてでも出かけ探し回る」と云うのは、一見リスク(危険)の大きな行動です。

 しかし、羊飼いにとっては、一匹の羊と九十九匹の群の羊とどちらに価値があるかという対比は意味を持ちません。小羊が生まれて、大きく育っていくのを見ていれば、どの羊も皆愛おしいからです。羊飼いにとっては、羊の命は、何ものにも代えられない。たとえそれが、やがては屠られて肉になって食べられてしまうにせよ、あるいは売られてしまうにせよ、その一匹の命は大切なのです。そこにいのちが生きている。その不思議さに心が触れるから。

 だから、もしも、一匹の羊が迷い出たなら、群れはとりあえず残してでも、その一匹を探し、見つかれば喜ぶのです。自分が世話をしている羊であればあるほど、羊飼いにとっては、一匹は簡単に取り替えの利く存在ではありません。一対九十九という数字ではなくて、「その一匹」なのです。それが、たとえすぐに群れから離れて迷惑をかける羊であったとしても、なにものにも代えがたい一匹なのです。だから、見つかれば、「よかった、よかった」と喜んで連れ帰ります。またそれは、どの羊でも同じだと云うことです。「残りの九十九匹」も、「迷い出た一匹の羊」と同じように、「その一匹」たちなのです。

 

 「ある女性が十枚の銀貨を持っていたが、そのうちの一枚を失くした。そうすると、その女性はその一枚の銀貨を見つけるまで、家の隅々まで探して、そして見つけたら友達や近所の女たちを呼び集めて『失くした銀貨を見つけました。一緒に喜んでください』と言うだろう。」

 銀貨を探していた女性は、自分の母親マリヤの姿だったかもしれません。ドラクメ銀貨十枚は、十日分の賃金に当たります。その一枚の銀貨を手に入れるために、その賃金を受け取るまでに、どれほどの労苦が、労働があったのでしょうか。ただ単に一枚の銀貨が惜しいのではないでしょう。その銀貨が、その家族にとって、どれだけ価値のあるものか、彼女には判るから、だから探すのです。その一枚を稼ぐのに、人がどれだけ働いたかが判るから、だから彼女は必死で探すのです。豊かな生活ではない中でやりくりしている人にとって、その一枚の銀貨を稼ぐために費やした労力が大きければ大きいほど、失くしたのではないかと思うと、やりきれない気持ちになるでしょう。「まだこれだけあるから大丈夫。一枚ぐらい無くなったってどうってことないよ」と言えるはずもありません。一枚の銀貨の価値は、比べることができないものですし、それだけにそれが見つかったときの安心感と喜びは、また大きいのです。

 イエス様が語ったこの二つの譬え話は、どちらも失われたものの回復とその喜びを表しています。どちらも、「友達や近所の人々を集めて『見失った羊を見つけました。一緒に喜んでください』と言うだろう」 「友達や近所の女たちを呼び集めて『失くした銀貨を見つけました。一緒に喜んでください』と言うだろう。」という表現で記されているように、人が失くしてしまったと思っていたものが、ありえない場所から出てきたときに感じる、驚きと大きな喜び、安堵感とうれしさを感じさせます。

 そしてそれは、言い換えれば、そうした人間の心情に触れながら、この二つの譬え話が、なによりも神様が、「一度は見失われた人が、再び自分のもとに帰ってくるのを待ち望んでいて」、損なわれたり、失われそうな人のいのちと尊厳を「探し」、「見つけたときには」、「喜ぶ」ことを語っているのです。羊を探す羊飼いも、銀貨を捜す女性も、神様のことを表しています。そして神様が、人々の一人一人の存在を、かけがえのないもの、失われてはならないものと見ておられることを示しているといえます。 

 小さな存在に目を向けて、価値を認める神様のまなざしを感じます。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」という言葉は、その神様の喜びの大きさを表しているのです。

 

 そして、この二つの譬え話はまた、イエス様が自分自身の使命をどう理解していたのかを明らかにしています。イエス様は「神から離れた人たち」を捜し、彼らを救い、彼らの人生を回復していかれました。そのために十字架に架かり、死なれ、そして三日後に甦られたのです。それは、神様の恵みであり、人々を愛されたゆえでした。

 このことは、今日の使徒書の日課、テモテへの手紙一においても記されています。そこには、使徒パウロが、「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者で」あったが、神の「憐れみを受け」、「主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられ」、「忠実な者と見なして務めに就かせてくださった」と書かれています。神様に忠実であろうとして、反って「神から離れ迷っていた」使徒パウロを、イエス様は捜し出し、彼に使命を与え、そのいのちを回復されたのです。(1章12~17節) 

 それはまた、ここに集っている私たち一人ひとりにも当てはまるものではないでしょうか。その人生において、何らかの形で「神から離れ、迷っていた」私たちを、愛されるがゆえに捜し出し、その愛で育むために、ここに集められたのではないでしょうか。そのことに先ず、感謝したいと思うのです。

 「迷い出た一匹の羊」と「失われた一枚の銀貨」の譬えは、また次のことを示しています。私╲あなたが、これから先、もし信仰から離れて人生の迷子になった時であっても、イエス様は必ずまたその私╲あなたを捜し出し、見つかれば喜んでくださるということを。そして、そのイエス様の愛は、私たち以外の「見失われた人々」、様々な形で社会の周縁に追いやられた人々に及んでいることを。そうした人々は、例えば、人生の目標を見失い生きる気力を失っている人かもしれません。また、何かの生きづらさを抱えて生活している人かもしれません。差別や抑圧を受けて苦しんでいる人たちかもしれません。そのような人々は、日本人も外国人も例外なく存在します。

 それゆえ、私たち教会はまた、イエス様に従い、その愛を伝える「務めに就き」、「見失われた人」を捜し出して、その命の回復を共に喜ぶことをしていきたいと思うのです。そのような群れとなっていきたいと思うのです。

 

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、/ わたしはあなたを愛し、/ あなたの身代わりとして人を与え  / 国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ書43章4節)

 一人の人の存在のいのちと尊さが回復されていくこと、それは神様にとって大きな喜びをもたらすのだ、とイエス様は語っています。神様の前で、一人の人が大切にされ、いのちが回復されることが、イエス様が語っている救いに他ならないからです。すべてのいのち、すべての存在は、神様にとっては同じ価値を持ち、それらを神様は愛し、大切に思っている。「迷える一匹の羊」、「見つかった一枚の銀貨」の譬えが示しているメッセージに、私たちは立ちたいと思います。小さな存在を軽視するのではなくて、大切に、愛し、慈しんで育んでいくことをしたいのです。

 私たちもまた、一人一人が色々な背景、個人の歴史をもって生きています。その存在のかけがえのなさは、数や人が下す評価に左右されてしまうものではありません。お互いに異なった経験をしてきた者同士が集まっているのです。「迷う者を連れ戻し」愛されえる神様に感謝しつつ、一人の人を大切に思い、自分と違った経験をしてきた人への尊敬の念を持って、お互いの気持ちを慮り合って、労りあって、祈り合って、支え合って、共々に歩んで行きたいと思います。私たちはお互いに「失われてはならない存在」なのですから。

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2025日 
聖霊降臨後第13主日

「わたしの行く道」  

​ルカによる福音書
14章25節 ~32節

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 イエス様は、彼についてきた大勢の群衆に向かって、弟子になるための条件を2つ挙げました。

 1つは、先ず何よりもよく考えて、いろいろな情報を集めて、「腰をすえて計算をして」見通しを立ててから、決めるということでした。そのことをイエス様は、「塔を建てる譬え」と「王が戦争を始める譬え」の2つを用いて教えています。

 「もしも誰かが、塔を建てようとするなら、十分な建設資金があるかどうか、予算をたてて見積もりも行うだろう。そうしないと、土台を築いただけで完成できない。」

 「また、どんな王でも、戦争をしようとするなら、相手の兵力と自分のそれを比べて、十分な勝ち目があるかどうかを計り、もしも勝てないと分かれば、外交で戦争を避けるだろう。」

 イエス様は、弟子たちに向かって、再三にわたって、弟子の覚悟についての言葉を語りました。それは、人間の意志や決心というものが、それほど強くないということを、イエス様自身がよく知っていたからだと思うのです。一時の高揚した気持ちや、雰囲気に流されて決めたことは、時間が経過して大変さが具体的に生じてくると、簡単に挫けてしまいがちです。後々ひどく後悔することも起こりかねません。自分の人生を方向付けるような決断には、その前に熟考することが必要なのです。だからこそ、イエス様は、この2つの譬えを用いることで、イエス様の弟子となり、福音宣教の旅についてくることの後先をよく考えるように、群衆に語っているのです。

 

 イエス様の弟子になる際の2つめの条件は、しがらみやこの世の動きに流されずに、ブレないで自分で決めていくとことです。  

 往々にして、人が、何かそれまでとは違った新しいことを始めようとする時、その人自身にとって身近な存在、例えば家族が、それに反対するということがあります。特に、「わたしが」始めようとすることが、家族にとって、まったく未知なことである場合、家族は不安を感じますし、心配のあまり反対するでしょう。家族にとっては、いつも「わたし」を身近で見ているから、「わたし」の問題や短所が目についてしまうからです。人が自立していこうとする時、ある意味では家族、肉親、身近な存在は、身近であるがゆえに手強い「抵抗勢力」になるのかもしれません。

 イエス様もまた、そうした家族の「抵抗」を経験しました。

 およそ三十歳になったイエス様が、洗礼者ヨハネによる洗礼を受けて以降始められた生活は、イエス様の家族にとっては、なかなか理解し難いものであったからです。

 マルコ福音書には、イエス様がおかしなことをしたり、話していると聞いて、身内がイエス様を取り押さえに来たこと、また母親のマリヤとイエス様の兄弟たちが連れだって、イエス様に会おうとして訪ねて来たことがあると記されています。たぶん、息子がとんでもないことを始めたと思って、家族みんなで説得に来て連れ帰ろうとしたという出来事があったのかもしれません。

 イエス様が弟子たちと一緒にガリラヤの町や村々を巡り、神の国の教えを宣べ伝え、病気の人たちを癒すことは、神様による救いの出来事を示し、人々をその救いへと導くという使命を果たすことでした。しかし、家族にしてみれば、豊かではないけれども、家族と一緒に過ごすナザレでの生活から離れて、イエス様が「おかしな」活動に熱中しているように映ったのかもしれません。家族には、イエス様がこの世界で、実際に何を見て、何を感じて、また何を目指しているのかは、まだまだ明らかではなかったからです。イエス様と家族の間に、なにかしら隔たりが生まれていたわけです。そして、その思いの隔たりゆえに、今日の福音書の日課の言葉が語られたのではないかと思うのです。

 「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。」

 ここには大変厳しい言葉、それも家族や肉親の存在を否定するように響く言葉があります。自分に与えられた使命を果たそうとするがゆえに、たとえ理解が得られなくても、自分の道を進まなければならない。家族や肉親の存在を、また「自分の命」を「憎む」という表現の背後には、そのようなしんどさをそれでも引き受けて行こうとする、イエス様の決意が垣間見えます。自分と家族との間にある隔たりを前に、立ち止まってはいられない、というイエス様の姿勢を感じるのです。

 

 しかし、イエス様は、家族との関係を「捨て去って、一切断ち切れ」と語っているわけではありません。そうではなくて、それまでの家族の一員、父親、母親であるとか、息子である娘であるという関係から抜け出して、改めて一人の独立した人として(家族の)一人一人が出会うことを勧めている、そう読むこともできます。

 イエス様の弟子となる、イエス様に従うという一つの選択をしたことによって、結果としてその人が「家族の関係」から飛び出して行くこと、「親離れ、子離れ」をした一人の自立した人間として、人が歩み出す道があると語っているのです。新しい関係を築くことを勧めているのです。母マリアもやがてはまた、そのようにイエス様と向き合っていきます。はじめは理解し得なかったイエス様を見守り、最後はイエス様が十字架の上で死を迎えるときに、そばにいたように。

 イエス様に従うこと。それは、いわば、私たちがそれまでは当たり前と思っていた生活や常識といった枠を、踏み越えて行くことと云えます。ですから、日課に出てくる発言で、イエス様が意図したことは、一つには、弟子となるしんどさを引き受けて行くことへの覚悟を説いたものだったろうし、親心だったかもしれない、と思うのです。

 「自分の十字架を背負う」。これは自分自身を引き受けていくこと、自分に対する責任を引き受けていくこととも読めます。大切なのは、自分の行くべき道は自分で責任を負って選ぶということでしょう。イエス様は、「もし、わたしに従って来たければ」、あるいは「わたしの弟子となりたければ」と語ります。イエス様につき従うかどうかは、そのように願う者自身の決断に委ねられています。従うかどうかは自由に選び取られなければならないのです。

 

 「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」という日課の最後にある言葉は、イエス様の福音宣教の目的が何かということと関連して理解されなければなりません。

 イエス様の福音宣教は、ガリラヤの村々や町で生活していた大勢の人々、特に貧しい人々や病の癒しを願う人、様々な困難を抱えて人生に希望を見い出せない人々に、神様の国の到来を伝え、教えを宣べ伝え、癒しのわざを行うものでした。それは、神様の正義と公正を実現するための働きであり、抑圧された人々に解放の約束を告げることでした。イエス様の弟子になるということは、その働きにすすんで参画するということです。

 イエス様が告知する神の国とは、すべての人の尊厳が尊重され、人が自分のためだけに生きるのではなく、隣人を愛し、お互いの存在を大切にし合う世界です。弟子たちの共同体は、その信仰を堅く保ちながら、この世にあっては「他者のための存在」として働くことが求められます。それゆえに、この世の「富」や「名誉や名声」に執着しないことが求められているのです。

 神様のみ心、すなわち神様の正義と公正が実現することとは、貧しさや飢えや差別といった、人々に苦しみをもたらす原因が解消されていくことです。すべての命の尊厳が守られる関係が築かれていくことであり、新たな貧困や抑圧を生まないことです。それゆえ、やみくもな「自己犠牲」を強いることはありえません。

 信仰を持つということは、人が、イエス様の言葉とわざに従って、そうした神様のみ心に適う生き方を、自分で考え、選び取っていくことです。そして、神様の前に立って、自分と隣人のいのちと尊厳に気づき、またそれを保持していく義務を果たそうとすることです。「自分の持ち物を一切捨て」るということは、そのために、人が「自分自身と(神様から)賜ったすべてのもの」を用いてくださいと、捧げていくことなのです。

 

 イエス様に従って生きるという決心は、その後の自分の人生の方向性を大きく変えることです。だからこそイエス様は、自分の思いをよく確かめて、自立して決心しなさいと語られたのです。

 しかし、たとえ躊躇したとしても、充分に考えた末、イエス様の示される道を選び取るならば、そこには苦労があっても、最後には豊かな実りの収穫の喜びが、神様によって約束されています。神様はその人を祝福し、聖霊を注ぎ、どんなときにも見守り、支え、励まし、力づけてくださるのです。

 私たちもまた、イエス様の弟子として、これからも共々に歩んで行きたいと思います。この教会という共同体を、イエス様の視点からこの世を見直す場として、この世にある「他者のための存在」の場として、大切に慈しみながら形作っていきたいのです。また、そこに集う者同士で、お互いに祈り合い、大切にし合いながら、助け合う者とされて、支え合いながら生きていきたいのです。そのとき、私たちは、今まで以上に、自分自身の内なる声を聴くことができるでしょう。神様と対話することによって。そして、聖霊の働きによって、今まで見えなかった救いを求める人々の姿を、世界の様々な場所で見い出すことができるでしょう。今まで聞こえなかった人々の声を、聴くことができるようになるでしょう。

 私たちも心揺さぶられ動かされ、一人のキリスト者として、助けを求める人々に、手を差し伸べるものでありたいと思います。主の再臨のその時まで、この世の出来事に、歴史に、責任ある関わりを続けていきましょう。

 「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、/傲慢な者と共に座らず、主の教えを喜び、主の教えを昼も夜も口ずさむ人。//その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」「神に従う人の道を主は知っていてくださる。」

(詩編1編1節~6節)

2020年8月30 日(聖霊降臨後第13主日)

「キリストに倣う」 

 マタイによる福音書

 ​16章21節~28節

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 中村哲という日本人医師が、活動していたアフガニスタンで何者かに襲われ、命を落としてから、すでに九ヶ月が経ちました。

 中村さんは、著書「医者、用水路を拓く」にも書いておられますが、医療活動を行うだけでなく、水源を確保する事業を進めていました。

 中村さんは、1978年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻によって発生した、多くのアフガン人難民を救援するため、1984年にパキスタンで医療活動を始めます。そして、数年後にはパキスタン北西部の山岳地帯やソ連軍撤退後のアフガニスタン東部で、診療所を開設していきます。

 そうした活動を続ける中で、彼は、人々の栄養状態や衛生環境が改善されていかないと、人々を病気から救う抜本的な対策にはならないことを痛感していきます。

 特にアフガニスタンでは、内戦と長期間に及ぶ旱魃の影響から、本来の穀倉地帯でも大地が干上がり荒れ果てていました。さらに水不足から赤痢やコレラが急増し、全土で多くの国民、農民たちが難民化している状況がありました。

 そこで中村さんは、医療活動に併せて、水源確保のための事業を始めます。中村さんは地元の協力を得て、飲料用や灌漑用の井戸を掘り、伝統的な地下水路を再生していきます。また、約25キロの用水路を建設し、砂漠を農場に変えていきます。干上がっていた荒れ地と砂漠であった場所は、オリーブやナツメヤシの茂る農地や麦畑に変わりました。また畜産業やサトウキビの栽培、黒砂糖の生産も始まるのです。

 ただ、こうした活動は、死の危険と隣り合わせでした。武装勢力に襲撃される危険が常にあったのです。2008年には、中村さんと一緒に活動していた日本人が一人、身代金目的で武装勢力に誘拐され、救出に向かった警察との銃撃戦の最中に殺害されています。中村さん自身もそのことは、十分承知していました。周囲の日本人からも、「危ないから」といつも声をかけられていたようです。

 しかし、彼は、ここでは先ず何よりも食べること、食料を得ることが回復されなければならないこと、自ら働いて、食料を作り、安心して十分に食べることができるようにしていくことが、病気を治すだけにとどまらず、病気の原因を減らす抜本的な取り組みであること、また、人々が安心して農業を続けることができれば、貧困にも陥らず、戦争を起こすこともなくなり、結果として平和をもたらすこともできると考え、一連の事業を続けていきます。

 しかし、昨年12月4日に襲撃され殺されてしまいました。誰が行ったのか、なぜ殺されたのかは未だ判っていません。

 キリスト者であった中村さんは、ある意味では、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業を、大勢のアフガン難民の命を救う働き、「自分の十字架」と意識していたのではないかと思います。それこそ、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」、イエス様に従ったのではないでしょうか。

 困難の中にあって、「飼う者のいない羊のようなありさま」のたくさんの人々を救う、イエス様の生き方を自分の生き方にしていく姿が、そこにはありした。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 この言葉は、イエス様が、弟子たちに自分の受難、つまり十字架による処刑と、その後の復活の出来事を打ち明けた後に、重ねてペテロと弟子たちに向かって語ったものです。

 イエス様の受難と復活についての発言は、ペテロを困惑させました。彼は、強い調子でイエス様を諌め始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 

 しかし、イエス様は、ペテロを叱りつけられます。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わずに、人のことを思っている」と。簡単に言えば、「あなたは自分のことしか考えていない。わたしの邪魔をするな」ということでしょうか。

 ただ、イエス様がペテロを叱ったのは、言い換えれば、ペトロが(そしてたぶん他の弟子たちも)、イエス様の旅の目的とその意味を、理解していないことを示しているといえます。イエス様の教えや行動が、現実の世界に対して持っている意味を、判っていないことを表しています。

 イエス様の受難と復活の予告は、ある意味、冷静に自分の語る言葉や行動を見据えた発言です。

 イエス様は、宣教の旅の行く先々で、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々を見かけます。病や日常の生活に苦しんでいる多くの人たち。その人たちを救うためのイエス様のわざや教え。そこで示されるイエス様の価値観、それは、当時のユダヤ人社会、いわゆる「世間」の価値観とは大きく違っていました。

 それは、例えば、「世間」が低く評価する境遇にいる人々、貧しい人、飢えている人、苦しんでいる人、病気や障害を負っている人たちこそが、神様の救いに真っ先に与れるというものでした。差別されたり、疎んじられている「取税人」や「遊女」たちが、神の国に入れるというものでした。神様の救いは、イエス様の癒しのわざを通して、それらの人々の上に現れるというものでした。

 あるいは、宗教的な制度が人を不自由にするのなら、その律法の解釈や制度は変えられなければならない、と語るものでした。

 だからこそ、イエス様の語る教えは、ユダヤ人社会の指導者と呼ばれる「長老や祭司長、律法学者たち」にとっては、許しがたいものだったわけです。それゆえにイエス様は「必ず多くの苦しみを受け」、「殺される」ことになるのです。

 人々を病や苦しみから救い、日々の負担や重荷から解放するために、神様の愛と、神の国の希望、すなわち福音を語り、具体的な行いをもって指し示すこと。それが、イエス様の使命です。しかし、人を解放し、自由にし、この世界のあり方そのものを動かし変えていく福音を伝える使命が、今自分が生きている社会の支配的な人々からは、受け入れられないだろうということを、イエス様ははっきり理解しているのです。

 イエス様がエルサレムに行こうとしたのは、そこでもイエス様の救いの業と教えとを必要としている人々、「飼う者のいない羊のようなありさま」の人々がいたからだと思うのです。それを邪魔してはいけないと、イエス様は言われたのです。

 イエス様に従う者は、どのように生きるべきなのか、それが今日の日課の主題です。

 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、今までの自分の生き方を否定して、イエス様の生き方を自分の生き方にしていくことといえます。

 イエス様の生き方を自分の生き方にする、イエス様に倣うということは、イエス様が何を大切にし、何を尊重しているのかを、自分の人生の道標として生きていくことです。

 具体的には、神様の正義と公正が地上で実現することを求めることです。貧しい者や飢えている人たち、病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、社会的に弱い立場に置かれている人たちに想いを寄せ、寄り添い、彼らが今の境遇から救われること、解放されることを共に望み、目指すことです。そのために彼らが抱えている問題や課題を一緒に担い、解決する方法を探ることです。

 ただ、そのような生き方を、信念を持って貫こうとすれば、様々な抵抗にあうこともあります。とりわけ、貧しい人々や弱い立場にいる人々を搾取し、それによって利益を得ている人々、自分さえよければかまわないと考える人々からは、きっと疎まれるに違いありません。

 しかし、イエス様は私たちに「わたしに従いなさい」と語ると同時に、一つ約束されています。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」

 「わたしのため」とは、イエス様の福音のためという意味です。

 その福音の実現のために、人生をかけるなら、その人は永遠の命を受けるとされるのです。たとえ、「この世」の力が圧倒的であったとしても、イエス様の言葉とわざに従い、福音の実現のために力を尽くし、なすべき課題を行おうとするなら、その人はイエス様の再臨の時に、「それぞれの行いに応じて報い」られ、永遠の命を受け取る。そうイエス様は約束されるのです。

 

 冒頭でお話しした中村哲医師は、「誰もやらない活動なら、俺がやる」といって、パキスタンとアフガニスタンでの活動を続けられたと聞きます。

 現地の言葉を話し、土地の文化と伝統を尊重して、目の前に現れる課題を、現地の農民と共に汗を流して解決していく中村さんのその姿に、現地の人が感謝をし、深く信頼を寄せたといいます。村人の要請を受けて、モスクと学校を建設もしています。キリスト者がなぜ、モスクを建設したのか問われて、それは現地の人たちの誇りを取り戻すことでもあったと、中村さんは語っています。村の人たちは、外国の文化が押し寄せる中で、自分たちの文化はだめなのか、劣っているのかと劣等感を持っていたそうです。でもモスクが建設されたことで、彼らは誇りを取り戻すことが出来たそうです。

 水源の確保も、荒れ果てた大地を回復し、農民のいのちと生活を回復していくわざであったと言えます。それは、人々に勇気を与え、生きる力を回復する、福音の実現といえるのではないでしょうか。

 不幸にして中村さんは、事業半ばにして凶弾に倒れましたが、彼の仕事は、彼の後援会であったペシャワール会が引き継いでいくそうです。

 誰もが中村医師のようには働けるわけではありませんが、しかしその姿勢に倣うことはできます。たとえ困難を前にしたとしても、イエス様を信じる者として、一緒に生きている人たちと、ともに祈り、重荷を担い合って、福音の実現のために、目の前の様々な課題を引き受けて、乗り越えていきたいと思います。

2020年8月2日 平和主日

 「平和の基」 

 ヨハネによる福音書

 ​15章9節~12節

 イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。

 ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。

 その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。

 イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。

 イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 

 それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。

 

 イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。

 「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。

 しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。

 もちろん、注意しなければならないことはあります。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。

 最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。

 と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。

 「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。

 「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。

 

「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」

 

 この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。

 

 私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。

 それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。

 なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。

 日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。

 昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。

 そこでは、次のような祈りがささげられました。

 「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」

 「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」

 「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」

 「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」

 「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」

 「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」

 「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」

 「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」

 

 「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。

 平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。

 人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。

 「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン

2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)

 「天の国の実現」 

 マタイによる福音書

 ​13章31節~33節

   +44節~50節

 イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。

 私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。

 イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。

 

 先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。

 からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。

 讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。

 「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」

 球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。

 からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。

 

 次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。

 パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。

 パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。

 「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。

 また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。

 

 「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。

 もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。

 そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。

 もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。

 44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。

 二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。 

 つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。

 イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。

 現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。

 しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。

 

 「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。

 日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。

 「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。

 2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)

「生き直すということ」 

 マタイによる福音書

 ​11章28節~30節

 人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。

 競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。 

 行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。

 生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。

 

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。

 軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。

 ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。

 つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。

 ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。

 「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。

 

 旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。

 ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。

 イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。

 本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。

 イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。

 と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。

 

 「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。

 それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。

 それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。

 あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。

 またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。

 

 イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。

 「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。

 この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。

 生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。

 だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。

 だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。

2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)

 「あなたが花束」 

 マタイによる福音書

 ​10章40節~42節

 「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。

 歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。

 「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。

 それは、その相手を励ましたいからです。

 「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。

 歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。

 歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。

 「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。

 「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。

 その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。

 歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。

 そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。

 「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。

 この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。

 いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。

 自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。

 そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。

 「あなたが花束」になっていくのです。

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。

 今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。

 ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。

 そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

 「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)

 この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。

 弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。

 

 二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。

 使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

 パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。

 福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。

 もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。

 たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。

 生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。

 

 弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。

 教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。

 それが、弟子の使命です。

 どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。

 2020年1月26

「天の国は近づいた」 

 マタイによる福音書4章12~18

 

 韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。

 

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

共に平和をつくり 共に生きる その町で

平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら

貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で

平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で

私たちの労働が お祭りになる その日に向かって

共に生きる町 小さくても 美しい町

共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか

教えてください 教えてください 共に生きる町を

  詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。

 その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。

 この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。

 一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。

 と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。

 この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。

 八〇年代​、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。

 このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。

「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。

 明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。

 勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの

かもしれません。

 いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。

 「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」

 イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。

 ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。

 具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。

 不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。

 それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。

 悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。

 この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。

 「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。

 私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。

 大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。

 それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。

 それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。

 確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。

 「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。

 「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。

 「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います

 

(2020年1月26日)

 

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