
日本福音ルーテル豊中教会
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礼拝メッセージ
(当分の間、毎週更新します)

2025年12月7日
待降節第2主日
「道を備えよ」
マタイによる福音書
3章1節 ~12節
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」
洗礼者ヨハネは、福音書の中で、イエス・キリストの登場に先立って出てくる、いわば“露払い”、つまり先触れとして描かれています。旧約聖書の預言者であるイザヤとマラキが、かつて預言した神様の使者、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と荒野に呼ばわり、道を整える者です。
荒野、それは人里離れた原野を指しています。それは、旧約聖書の叙述に光を当ててみれば、たとえばモーセが荒野で神様と出会い、神様に導かれていったように、神様と出会う場所を指します。洗礼者ヨハネは、「ラクダの毛衣を着て、腰に帯びをしめ、イナゴと野蜜を食べ物と」していました。一見すると彼は、この世の生活、俗世を捨てて、人里を離れて隠遁生活を送っていたようにも思えますが、そうではなくて、むしろ、彼は神様と出会い、その声を聞こうとして、人々の喧噪を避けて、荒野に住んだと言えます。
その荒野で、ヨハネが行っていたのは、「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」、それは人々に悔い改めを迫るものでした。
この時、洗礼者ヨハネのところには、「エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川の地方一帯から」たくさんの人々が、やってきたと、聖書には記されています。彼らは、罪を告白し、来るべき神様の裁きから赦されることを求め、悔い改めのしるしとしての洗礼を受けようとして、洗礼者の住む荒野までやって来たのです。
さて、ここで聖書は、洗礼を受けに来た人々の中に、ファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる宗教指導者たちもいたことに触れています。なぜ彼らが、わざわざ洗礼を受けようと思ったのか、日課の記述だけでは判りませんが、彼らなりに、「身を浄めるために」名の通った「聖者」のところに出かけてきたのかもしれません。荒野まで来るくらいですから、彼らは真面目だったのかもしれませんが、しかし、彼らに対する洗礼者ヨハネの言葉は、特に厳しく恐ろしいものでした。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちはアブラハムの子孫だ。だから救われるなどと間違えても思うな。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」だろう、と。
ファリサイ派もサドカイ派の人々も、本来は人々を救いへと導くべき指導的な立場にありました。それだけに、洗礼者は、彼らの悔い改めがうわべだけのものでしかないかどうかを、厳しく問うていたわけです。社会的・宗教的指導者たちだからこそ、より真剣に、真摯に神様の前に謙虚になり、悔い改めることが求められていたのです。悔い改めとは、心の中で思うだけでなく、「ふさわしい実を結」ぶような行動にあらわされなければならないからです。
言い換えれば、彼の言葉の厳しさは、裁かれることへの警告の言葉であると同時に、人々が等しく救われることへの、熱心さゆえの激しい言葉であるということです。それは、洗礼者ヨハネが、人々に対する神様の愛を、神様が人々を本当に大切に思う気持ちを、今このときに、伝えたいがための、熱意からの叫びだったということです。
ある意味、彼自身が、悔い改めの必要性を十分すぎるくらい実感していたからかもしれません。そして、何よりも神様がその悔い改めに対して応えてくださることへの信頼があるからでした。だから、彼は荒野で人々に向かって叫ぶのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、人々が神様の愛へとたちかえることを求めて叫んでいくのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
悔い改め、それは方向転換を意味します。ある聖書学者は、これを「低身に立って見直す」と翻訳しました。自分の立ち位置を変えて、低い場所からすべてを見直してみるとの意味です。
聖書が語る「罪」とは、もともとの意味からいえば、「的外れ」と言い換えることもできます。つまり、この場合の悔い改めるとは、外れてしまった生き方、心の向き、目線の向きを神様の方に変えること、自分の姿勢と生き方を神様の示す方向に変えることを意味するものです。
そして、ヨハネにとっては、この悔い改めが、やがて到来する「主なる神」の道筋(大路)を整えることの意味なのです。
日課に引用されている預言者イザヤの言葉には、続きがあります。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。/険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40章4節)
ここで預言者が語っている「山や丘、谷」は、神様の到来を妨げようとするもの、あるいは人が神様と出会う機会を妨げる存在を意味します。険しい山や谷が、交通を妨げ、人の行く手を阻むのと同じように、人が神様と出会うことを阻もうとする何らかの存在が、人と神様との間には、横たわっているといえます。
ある人は、この「山や丘、谷」という存在を、人間の陥っている「悲惨さ、不自由、貧困、無知」、または、「力(権力・暴力)、富、知識」であるといいます。「虚偽や、罪責や、自分の手で作り出したものや、自己愛に自分を引き込む落とし穴」であるとも語っています。「悲惨さ、不自由、貧困、無知」は、他者の状況を顧みる余裕を人から失わせます。「力(権力・暴力)、富、知識」は、人を高慢にさせたり、傲慢さを生み出します。先入観や偏見、思い込み、自分への過信は、人と人の関係を一方的なものにしたり、あるいは抑圧する関係にしてしまうことがあります。
それら一切は、人が神様と出会いたいと思うときに、それを邪魔する存在です。いや神様とだけでなく、人が人と出会うことを阻むものでもあります。もちろん、「救い主」は、自ら到来すると聖書にはありますが、だからこそ、人が高慢になったり、歪んだ自己愛に落ちったりすることで、人が「救い主」の到来を認識しないこと、気づかずにいるということが起こるのです。人が実は、「山や丘、谷」を知らず知らずに自分たちで築き上げていることによって。
それだからこそ、人は、「悔い改めて」、自分たちの内なる「高い山と丘は低くされ」なければならず、自分たちの周囲にある「深い谷は高くされ」なければならないのです。自分の姿勢と生き方を神様の示す方向に変えることをしなければならないのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
「悔い改め」、それはまた内面的な反省や洞察といったものにとどまりません。具体的に人と人の間での関係を変えることであり、人と人の心を通わすことにつながるものです。
中南米ニカラグアのソレンチナーメという漁村の教会(共同体)の人々は、このヨハネについて書かれた預言の言葉、「荒野に呼ばわる者の声がする。山は低くされ、谷は埋められる」を、社会的な平等が訪れる言葉として読みました。人々の生活の格差、社会的な階級や階層の格差、不平等がなくなっていくこと、それが「山が低くされ、谷が埋められていくこと」だと理解するのです。それは。確かにそうかもしれません。世界的な規模でも、また日本国内を見ても、「山は低くされ、谷は埋められ」なければならないでしょう。あるいは、それはまた、人と人を隔てる意識や価値観の差や広がりの距離、ギャップといった「山や谷」を平らにしたり、埋め戻していくことをも指すのかもしれません。
悔い改めとは、生き方を変えて「生き直す」ことの準備であり、自分の中にある、あるいは自分の身の回りにある「山と丘、谷」を低くし、または埋めていくことです。そして、これから進むべき道筋を、見極めて行く、目標を定めて行くことなのです。
ヨハネが人々に施した洗礼は、神様に向けて生き方を変えるという決心の「しるし」でした。そして、イエス様が施す聖霊による洗礼は、神様が「生き直そう」とするその人の思いを、「義(ただ)しいこと」として受けとめた約束の証なのです。
ヨハネは、善き知らせを告げます。ただしそれは予告編としての知らせです。洗礼者ヨハネの言葉は、福音そのものではないわけです。彼はいいます。「私の後から私よりも力のある方がおいでになる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。私はあなたがたに水で洗礼を施したが、その方はあなたがたに聖霊で洗礼を施すだろう」と。福音を告げ知らせる者の到来を予告する、洗礼者ヨハネの叫び。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
待降節第二週を迎えて、アドヴェント・クランツの二本目のロウソクに火が灯されました。このロウソクは平和を意味します。
平和とは、私とあなた、そしてすべての人の上に、平安が訪れることです。その平安は、なによりも一人一人の身体の安全と安心が保障されていくということです。その生活と権利、自由と尊厳とが保障されているということです。
確かに、今の私たちを取り巻く世界は、平和とは言えない状況にあります。人々の所有欲や支配欲といった欲望が、憎悪や恐れと云った感情が、人を神様から遠ざけ、人々を引き裂きます。他人への無関心や鈍感さもまた「山と谷」として存在しています。人と人を隔てる意識や価値観の差や広がりの距離があります。そうした人と人を隔てる「山や谷」を平らにしたり、埋め戻していくことが必要です。この世界に存在する戦争や内戦、社会的な格差、性別や民族による不当な差別や不平等、貧困や暴力によって苦しむ人たちが、いなくなっていくことが求められます。
だからこそ、私たちは、毎年、待降節にロウソクの火が灯される度ごとに、希望や平和について考え、思いを新たにする必要があるのです。
クリスマスとは、この世界に私たちの救い主イエス・キリストが誕生したことを覚える日です。神様の愛がこの世界に、イエス様という形をとって現れたことを覚える日です。
救い主であるイエス様は、すでにこの世界に人として、存在したのです。神様の愛は、福音は、すでに存在しているのです。それゆえにこそ、私たちは、イエス様と出会い、神様の平和が実現するために、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という洗礼者ヨハネの声を聞く者でありたいし、神様の愛と平和の予告に促されて生きる者でありたいのです。
「心の向きを変えて、悔い改めよ、それが主イエスの降臨に備え、主の道を整えることである。」という洗礼者ヨハネの言葉は、この現代の世界に響いてきます。

2025年11月30日
待降節第1主日
「主よ、
来てください」
イザヤ書
2章1節 ~5節
マタイによる福音書
24章36節 ~44節
今日から待降節が始まりました。クリスマス、イエス様の誕生を記念しお祝いするその日のために、準備をする季節が始まりました。そして、その待降節のために飾られたアドベント・クランツの最初のロウソクに火が点されました。この季節、私たちは日課を通して、クリスマスの意味を学びます。それは言い換えれば、クリスマスとは、誰を、どんなお方を、私たちの救い主・キリストとして、この地上に迎えたのかを学ぶことなのです。
さて、「マラナ・タ(主よ、来てください)」とは、元々はアラム語やヘブライ語で、「主なる神が来られるように」と祈る言葉です。そして、その言葉は、そのままキリスト教の教会で、復活されたイエス様が天に挙げられてから今日まで、二千年もの間、キリストの再臨を待ち望む祈りの言葉として、何度となく繰り返し繰り返し、時には声高く、時には密やかに、唱えられてきたのです(コリント第一の手紙16章22節)。
「マラナ・タ(主よ、来てください)」。その祈りには、それぞれ時代に生きた人々の様々な思いや願いが込められています。
原始キリスト教の教会の人々は、迫害や弾圧の中で、「再び来たりたもうキリスト」を切に待ち望みました。「キリストの差し迫った帰還(再臨)の希望が原始キリスト教の生活を支配していた」わけです。なぜなら、イエス様は、天に挙げられた時、こう約束されたからです。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と。
だから、時代を経ても戦争や内乱、疫病の蔓延や飢饉、飢餓 といった、そうした危機的な状況を迎えるたびごとに、教会に集まった人々は、この祈りを口にしてきました。「マラナ・タ(主よ、来てください)」と。それは、自分たちを襲う危機がやがては終わり、歴史と世界が一新して、「神の国」が、神様による支配が始まると信じていたからです。だから、彼らは、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と絶えず祈ったのです。
この神様による支配、「神の国」の実現。それはたとえば、今日の旧約聖書の日課、イザヤ書2章1節から5節に記された預言の言葉に描かれています。
ここで預言者は、壮大なヴィジョン、幻を描きます。
預言者は言います。終わりの日、すなわち主なる神がすべてを支配するその日が来たならば、主の神殿が据えられている山は、大いなるものとされる。その日が来たならば、イスラエルの民だけでなく他の諸国民も集まり、神様に従う生き方、神様の道を知るために、その神殿に集まって来る。そのとき、教えはイスラエルの民から、み言葉はエルサレムから語られる。そして、主なる神は、全世界を治め、国々を裁き、人と人の間を仲裁する。それゆえに戦争はなくなる。戦争の道具、武器である剣や槍は、鋤や鎌などの農具にかえられる。国同士の争いもなくなる。戦争の技術も必要なくなる。ヤコブの民、イスラエルの民よ、主なる神の許に帰れ、主なる神の光の中を歩め、と。
預言者の言葉は、明るく希望に満ちています。ただし、この預言の言葉が語られた時、預言者とユダヤ人たちを取り巻く状況は決して明るいものではありませんでした。
彼が生きていたユダ王国は、アッシリア帝国という超大国に服従していました。しかも、そのアッシリアは、何度かエルサレムを包囲し、ユダの国王が降伏を申し出て、都はやっと破壊を免れるありさまでした。明日は、都エルサレムが、アッシリア軍に攻め落とされ、破壊されるかもしれない。その不安と恐怖、緊張を預言者も経験しています。外国の軍隊による包囲が長引くつれ、食料の配給が少なくなり、人々が目に見えて弱っていくのを彼は見ています。多くの人々が病気になっていきました。飢えの前に、先ず病人が、そして次に年寄りや小さなこどもたちが倒れて行くのを、イザヤは見ています。隣国の北王国イスラエルがアッシリアの軍隊に攻め滅ぼされたとき、すでに彼は預言者として活動していました。大勢のイスラエルの住民が戦乱をさけて、ユダ王国に難民として避難してきたことも、彼は知っています。戦争のために土地や家を失い、ときには家族もばらばらになって、多くの人たちが身体一つで、避難してきます。もちろん、食料や生活に必要な最低限の物すら、満足には持っていません。命からがら逃れて来た人々をやがて、飢えと無気力が襲います。その彼らの嘆きやあきらめの言葉を預言者イザヤも聞いたはずです。
預言者イザヤが実際に目にしていたもの、それは、預言にあるように明るい調子で語られる希望とは、程遠い出来事だったわけです。そんな世界に生きている人々に向けて、イザヤはこの預言を語ったのです。なぜなら、それが神様の意志だからです。神様にとって、このままの世界が続いていいはずがなかったからです。この無慈悲な「世界」の歴史は終わりを告げ、神様自身が望む平和に満ちた「新しい世界」の時間がやがて始まる。だからこそ、「その日、その時」が到来することを信じて、期待し、目を覚まして、その時に備えて待ちなさいと、預言者は語っているのです。
では「その日」はいったいいつやって来るのか。預言者イザヤが語った幻(ヴィジョン)に希望を見出す者たちは、いつまで待てばよいのか。そのことについて語っているのが、今日の福音書の日課です。「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである。」(マタイによる福音書24章36節)
「終わりの日、その日」がいつやって来るのかは、実は明らかではない、そう聖書は語ります。それは、かつてノアの洪水が起こったのと同じように、人々にとっては、日常生活が続いている日に、突然到来するとされているのです。むろん、その日に誰が救われるのかも明らかではありません。「その日」は、突然帰ってくる主人や泥棒に例えられて、人々の思いもかけない時、予想もしない時に訪れるといわれるのです。だからこそ、「あなたがた」、神様の支配する「その日」の到来を待ち望む者たちは、日頃から「目を覚まして」、「用意して」いることが必要なのだと勧められているのです。突然やって来る再臨のキリストに怯えたり、パニックを起こすのではなく、しっかりと時の徴を見極めることが必要になるのです。
ではなぜ、救い主・キリストの誕生のお祝いを準備するこの季節に、歴史の「終わりの日」、神様の支配が始まる日に関する預言の言葉が語られるのでしょうか。それは、イエス様の誕生が、神の国の実現の約束のしるしでもあるからです。
イエス様がこの地上に生まれたのは、不正義と不公正の下で苦しんでいるたくさんの人々、救いを求め願う人々に、神様の愛と救いを、神様の国の接近を告げ知らせるためでした。イエス様は人々に「悔い改めよ、神の国は近づいた。」と呼びかけました。「その日は、近い」、いや、そのときはすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しました。
ただ、ここで大事なことは、救い主の誕生を信じ、期待して、待っていた人たちだけが、イエス様、神の子の誕生に気がついて、その良き知らせを受け入れたということです。
考えてみれば、イエス様の誕生もまた、突然の出来事でした。その到来・誕生の徴は、大勢の人々には分からないものでした。ただ、イエス様を身籠った母マリア、養い親のヨセフ、後に洗礼者ヨハネとなる赤ん坊の母親エリサベツだけに明かされたものでした。もちろん、その誕生の次第も多くの人々にとっては隠されたものでした。母マリアは、旅先の地で、しかも家畜を飼う洞窟の中で、イエス様を、たぶん誰の助けも借りることなく出産したのです。その誕生を祝ったのは、天使から知らせを受けた野宿をしていた羊飼いたちと、東方から救い主の誕生を知らせる星を頼りにはるばるやってきた占星術の博士たちだけでした。また、誕生した後でも、幼子のイエス様が救い主であることは、長年その到来を期待して待っていたシメオンとアンナという女預言者だけが知っていることでした。イエス様が三十歳で公の活動を始めるときまでは。その時生きていた大半の人々は、救い主・キリストの誕生に気づくことはありませんでした。「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」わけです。
だからこそ、私たちは、イエス様の誕生を覚える時に、また同時に、再臨されるキリストのことを待ち望み、意識し、「目覚めて」いることを求められるのです。この地上に神様の正義と公平が成就すること、神様による平和が実現することを、私たちが忘れずに、また諦めずに願い求め続けるために。私たち教会がそのことへの希望を、神様の平和への幻(ヴィジョン)を語り続けるために。「その日、その時」がやってくることを、常に覚え続けるために。
待降節を迎えて、今改めて、私たちはどのような時代に生きているだろうかを考えてしまいます。何事も起こらない平和な世界が続いているわけではありません。国の内外で、平和とは程遠い現実があります。多くの人たちが平和を願いながらも、自分の人生やいのちを脅かされていたり、将来への不安を抱えています。預言者イザヤが直面していた状況が、現代でも繰り返されています。それゆえに、「神の国」が到来することが求められているのです。
クリスマスのメッセージ、それは、クリスマスに「平和の王」がこの地上に誕生したということです。神様は、この不正と不公平が支配的な地上に、憐れみと愛を示して、「平和」を実現することを望んでおられる。そのために救い主・キリストはこの地上に誕生されたのです。そして、やがてはもう一度、この地上に到来(帰還)されるのです。だから、私たちは待降節に再臨のキリストの予告を読むのです。
アドベント・クランツの最初のロウソクは、「希望」を意味すると云います。希望は、より良い未来を信じて期待することです。つまり、私たちがイエス様の誕生を祝うことは、より良い明日を信じ期待して、再び来られるキリストを待つことでもあるのです。
「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈りましょう。そして「神の国」、「神の支配」が到来し、主の平和、正義と公正、主の憐れみとがこの地上で実現するのを、祈り求めましょう。
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」 (ローマ13章11 ~12節)

2025年11月23日
聖霊降臨後最終主日
「わたしは
あなたと共にいる」
ルカによる福音書
23章33節 ~43節
耐え難いほどの苦しみの中にいる人間が、たとえば神様への信仰を保つと云うことは、簡単なことでは無いと思います。もちろん、その信仰によって人は、その時渦中にある苦しみや痛みを耐え忍んで、乗り越えることが可能になるでしょう。しかしながら、時として人はその苦しみの中で、自分の信仰の対象である神様に対して疑問を持ったり、神様に文句を言ったり、怒りをぶつけることがあります。なぜ、自分は今こんな苦しみを受けなければならないのかを、神様に問い糾すかもしれません。
第二次世界大戦の時、時のナチス・ドイツ帝国がポーランドに建てたユダヤ人の強制(絶滅)収容所アウシュヴィッツでのことです。年に一度のユダヤ教で重要な祭り、「贖罪の日」を迎えようとしていたときのことです。収容されていたあるユダヤ人のラビが、一緒に作業をしていた少年にこう言ったそうです。「僕は、今度の贖罪の日に、断食をしない」と。彼は、その理由をこう言ったそうです。「僕は決心したんだ。今まではすべてを受け入れてきた。苦情も言わずに。ぼくはずっとこう思っていた。『神は自分のしていることを知っておられる』とね。ぼくはみ心に従っていたんだ。今はもうたくさんだ。ぎりぎりのところまで来てしまった。」「神が自分のしていることを知っているんなら、ことは重大だよ。だから神にこう言う決心をしたんだ。『もう騙されませんよ』」
すべてを奪われて、強制労働に従事させられて、慢性的に飢えに苦しみ、病気になれば(もちろんならなくても)ガス室へ送られると云う、常に死と隣り合わせの過酷な、そして不条理な環境。その時点でアウシュヴィッツだけでも、何万と云うユダヤ人や収容者たちが、殺されていた状況は、そのラビにとってはもはや耐え難いものでした。ですから一年の自分の罪を贖ってもらうべき「贖罪の日」は、彼にとっては、神様に向かって抗議すべき時になったのです。「贖罪の日」の翌日、彼は以前よりもいっそう青白く、いっそうやつれて見えたそうです。ラビは、少年に声をかけました。「君に打ち明けなければならないのだが、ぼくは断食をしたよ。他のユダヤ教徒たちのようにね。でもね、理由は違うんだよ。ここではね、憤激の声を届けることができるのは、断食を守ることによってなのでね。そうだよ、君に知ってもらいたいのは、断食は、ぼくにとっては神への愛ゆえではなくて、神への反抗なのだよ。」 まもなくラビは、衰弱したために、飢餓室へと送られていきます。そのとき、彼は少年に頼むのです。「僕が死んだときには、タルムードの一節を唱えてくれ」と。
そのラビは、信仰を失っていたのでしょうか。それとも、信じていたからこそ、神様に喰い下がって、問い糾し続けたのでしょうか。旧約聖書のヨブ記に記されたヨブの物語のように。
今日は聖霊降臨後最終主日、教会の暦では一年の最後の主日です。今日の福音書の日課は、ルカによる福音書23章33節から43節、イエス様が、エルサレムの城壁の外にあった「されこうべ(ゴルゴダ)」の丘で、十字架に架けられた時の出来事です。
この十字架刑と云うのは、古代でも、「人間の残虐さが思いついた最も戦慄すべき処刑法に数えられ」たそうです。十字架刑ですが、裁判で死刑を宣告された罪人は、衣服をはぎ取られ、鞭打たれ、その後、地面の上で「両腕を伸ばした姿勢でまず横木に釘付けにされ、」「それからそれを自分で背負って処刑場まで引いてゆかねばならなかった」そうです。そして、処刑場に着くと、「横木は罪人の身体もろとも吊るし上げられ、垂直に立てられた柱に固定され、さらにこの柱に両足が釘付けされた」と云います。その処刑は、長時間にわたって肉体的な苦痛が続く「極刑」だったわけです。また、この十字架刑は、「とりわけ皇帝への反乱を企てたり、唆した者」、政治犯のような「重犯罪者」に適用されたと云います。
日課の場面では、イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の「犯罪人」が登場します。彼らも、イエス様と同様に、十字架に磔になりました。ですから、二人の「犯罪者」は、ローマ帝国にとっては、「政治犯」と見なされていたと考えられます。
さて、ここで、一人の「犯罪者」がイエス様を「罵った」と書かれています。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。しかし、もう一人の「犯罪人」は、その罵った男をたしなめます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、イエス様にこう言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。
すると、その言葉に応えて、イエス様はこう言いました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と。
「犯罪者」の一人が云った「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」という「罵り」の言葉。一見すると、この言葉は、十字架刑に立ち会っていた「議員たち」、あるいはローマの「兵士たち」のイエス様を嘲笑う声、侮辱する声と同じに思えます。しかし、果たしてそうなのだろうか。私には、違うように思えてならないのです。
前述したように、十字架刑というのは、肉体的な苦痛を長時間にわたり受刑者に与える「極刑」だったわけです。注意したいのは、イエス様を「罵った」男は、イエス様と同様に、手足を釘付けにされて十字架に架けられていたわけで、どう考えても、耐え難い苦痛に絶えず襲われていたはずです。彼がイエス様に向けた言葉、叫びは、私には、ですから「嘲笑」の「罵り」だったとは思えないのです。そうではなくて、十字架刑による苦痛と絶望のあまりに、混濁した意識の中で「お前がメシア(救い主)なら、俺を救って、痛みから解放してくれ。どうか助けてくれ。」と、絞り出すように呻いた言葉であったかもしれません。それはある意味、神様へ向けた助けを求める呻きの、そして同時に、この不条理な状況への抗議の声であったかもしれないとも思うのです。
一方、もう一人は、苦痛の中でも、少なくともイエス様が無実の罪であり十字架で処刑されることは、極めて不当だと理解していたように描かれています。また、彼は、「我々は、自分のやったことの報いを受けている」と語っているように、自分の行った行為、何らかの形でのローマ帝国への抵抗若しくは反逆の行為が、ローマ帝国によって裁かれ有罪となることも理解していました。ひょっとすると、彼は、イエス様をメシア(救い主)ではないかと思っていたかもしれません。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉は、彼のイエス様へのかすかな信頼と希望とを表しています。そして、日課を読む限りでは、イエス様の「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」という言葉は、このもう一人の「犯罪人」のイエス様への信頼に応えたものと云えます。彼が確かに、イエスの「楽園の約束」を受け取ることができたのは、イエス様へ向けた信頼(信仰と云ってもよいでしょう)によるのです。
しかし、果たして、イエス様の「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」という言葉は、二人目の「犯罪人」にだけ向けた言葉だったのでしょうか。確かにこの二人の「犯罪人」は、イエス様に対する態度、言葉においては対称的にも思えます。(一人はイエス様を「罵り」、もう一人は、イエス様に「信頼を寄せた」、姿で) ただ、ある神学者が、ここで忘れてはならない大切なことがある、と指摘しています。それはつまり、この二人の犯罪人の間の「区別」「対立」を見ることは大切なのだが、それ以上に、イエス様が、「これらの犯罪人のいずれとも共にいますということであり」、イエス様の約束の言葉は、「彼らのいずれに対しても与えられているということだ」というのです。
つまり、イエス様は、苦痛のあまりに自分を「罵る」ように「助け」を求める者とも、また自分に信頼を寄せる者とも、その場所に居られるということです。さらには、彼らが苦しんでいる十字架の苦痛を、イエス様自身も「共に」負っているのです。
イエス様に信頼を寄せる者は、確かに「楽園に」行くことができます。しかしながら、イエス様の願いは、そして使命は、「罪ある者」を救うことであり、彼らを神様に立ち返るよう「悔い改め」を促し、神様の愛を伝えることでした。その救いの言葉は、イエス様に向かって(また神様に向かって)、苦痛と絶望のぎりぎりのところから、憤りをぶつけ、抗議する一見「罪ある者」にこそ向けられている、とも云えるのではないでしょうか。「贖罪の日」に「断食することで、神様に「憤激の声」を上げ、「反抗すること」を試みたラビに対するのと同じように。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 この約束の言葉、慰めの宣言を聞きたいと思います。
私たちも人生の中で、様々な形で苦難に遭遇するかもしれません。そのとき、私たちがなおも信仰を堅く保って、その苦しみを乗り越えられるかどうかは、不確実と云えます。時には神様に自分が直面する苦難や問題について、「神様、なぜなのですか、いつまでなのですか。」と問い糾し、抗議してしまうかもしれません。希望を見失い、自暴自棄になることがあるかもしれません。
しかし、聖書は、人間のそうした思いや考え方が決して不信仰な在り方ではないとも語っています。一人の「犯罪人」が「罵る」ような言葉で、実はイエス様に助けを願ったように、アウシュヴィッツに収容されていたラビのように、私たちもむしろ神様に向かって嘆き、呻いても、向き合っていくことが許されているのです。
そして、今日の日課が示しているのは、何よりも私たちが直面するその苦難の中で、危機のただ中で、イエス様が共におられると云うことです。イエス様の十字架は、イエス様が苦しむ者と共におられることのしるしでもあります。イエス様は苦しむ者に寄り添い、その苦しみを理解してくださいます。イエス様は私たちと苦難と痛みを共にしてくださいます。だから、私たちが苦難の中にあるとしても、神様の愛とイエス様の執り成しに信頼して自分自身を委ねて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、イエス様に向き合う者でありたいのです。なぜなら、私たちは、イエス様の祝福と約束の許に生きているのですから。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
来週から、イエス様の降誕を祝う降誕祭の準備の季節、待降節が始まります。過ぎ去った一年を省みて、自分の至らなさや犯した過ちや罪を懺悔し、またその私たちを神様が愛し、守り導いてくれたことを、感謝をもって振り返り、来るべき日々を、希望をもって迎えたいと思います。
「そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ1章11~13節)

2025年11月16日
聖霊降臨後第23主日
「待ちつつ、
祈りつつ」
ルカによる福音書
21章5節 ~19節
今日の日課は、「世の終わり」、すなわち、私たちの生きているこの「世界の歴史の終り」のことです。人生に誕生という始まりがあり、死と言う終わりがあるように、この世界も神様の創造という始まりがあり、やがてはその歴史も終焉を迎えるという意味です。
話のきっかけは、イエス様によるエルサレム神殿の崩壊の予告でした。
イエス様は、ある人たちが、エルサレムの「神殿が見事な石と奉納物で飾られていること」を話題にしているのを聞いて、彼らにこう告げられました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と。その言葉は、聞いていた者の不安を掻き立てました。彼らは、イエス様に、その出来事がいつ起こるのか、また、その時にはどのような徴があるのかを尋ねました。その問いに対してイエス様が答えたのが、次の言葉でした。
「『私こそが再臨のキリストだ』と名乗る者が出てきたとしても、その言葉に惑わされないようにしなさい。戦争や飢饉、疫病などが起こっても怯えてはならない。地震や異常現象といった天変地異が起こるかもしれない。それらの現象が起こったからといって、世の終わりはすぐには来ない。」
この日課の中で注意すべきなのは、「それらの現象が起こったからといって、世の終わりはすぐには来ない」と言う言葉です。
そして、「『私こそが再臨のキリストだ』と名乗る者が出てきたとしても、その言葉に惑わされないようにしなさい。」と言う言葉です。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」
考えて見れば、現代の私たちには、不安があります。
これまでの文明による環境破壊は地球温暖化をもたらし、その結果、気候変動による異常気象が発生しています。旱魃や洪水による飢饉が起こっています。新しいウイルスによる感染症が地球規模で広がりました。原発事故による放射能汚染の不安はぬぐい去られません。そして、日課のイエス様の言葉にあるように、「戦争とか暴動のこと」を私たちは連日、聞いています。戦争や内戦が起こり、今も続いていて、核戦争の危機だって、すぐ目の前にあるのです。そうした事象は、私たちの今の生活を壊す出来事です。だから私たちは不安なのです。
それだけに人々を「惑わせる者」も出現します。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか『時が近づいた』とか云う」とイエス様が云われたように、危機的な状況に際しては、そのように人々に語り、誤った道へと導こうとする者が現れるのです。かつて、在るキリスト教の新興宗教は、第一次世界大戦が「世の終わりの始まり」だと考えました。今だから冷静に見れるかもしれませんが、その時、その時代に巻き込まれていた人々にとっては、それが「世界の終わり」に感じられたのです。幸いにして、それは、「世界の終わり」ではありませんでしたが。
でも不安は常にあるのです。今現在も。だからこそ、「惑わされないように気をつけなさい」と云うイエス様の言葉は大変に重要なのです。
なぜなら、不安や恐れが昂じることで、私たちはある意味、いとも簡単に不確かな情報に踊らされたり、惑わされたりすることがあるからです。ある人たちは、危機感を募らせるあまり、社会の動きに過剰に反応して、「過度の興奮や偶像崇拝的な態度で没頭」してしまいます。またある人たちは、反対に、不安や恐れに背を向けて眼をつむり、そして、「一切が旧態依然とした状態で続くかのように生き」、「無気力な霊的怠惰や無関心や呑気さ」に陥ってしまいます。しかし、どちらの態度も、私たちが抱く不安や恐れを克服することにはなりません。大切なのは、理性的で冷静な判断です。私たちの耳に入って来る情報の何が正しくて、何が誤っているのか、何が根拠のないものかを見極めることです。そのためにも、私たちはイエス様の言葉とわざとに立つ必要があります。
イエス様が何を大切にしたのかを基準にしながら、物事を判断することです。それが、「惑わされないように気をつけ」ることになるのです。
ただ、ここで忘れてならないことがあります。それは、「世の終わり」は、決してすべての滅びではないと云うことです。本来不安を感じたり、恐れを持つ必要のない事柄だからです。
なぜなら、聖書では、世界全体の終わりは、キリストが再び来られることによって起こるとされているからです。そして、その時に神様の支配が始まるとされているからです。
今日の日課に続く箇所には、旧約聖書のダニエル書の預言の言葉を引用して、天地の終わり、消滅と人の子の来臨が予告されています。「人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
神様の支配、それは神様の正義と公平がこの世界全体を包み込むことです。その時、人と人の関係も、人と自然の関係も、すべてが変わります。イエス様はそのことを語っているのです。ただしいつそれが訪れるかは、明らかではありません。
それゆえに、ここで私たちが取るべき姿勢は、キリストの再臨に備えながら、その時を、惑わされずに、慌てずに、怯えずに、目を覚まして、注意して、待つことであり、同時にその時の瞬間まで、自分に与えられた目の前の課題に取り組んで生きるということなのです。「その日、その時」に至るまで、この世界にイエス様の言葉を伝え、愛のわざを行い、神の国の到来、神様の正義と公正の実現を告げることです。「時が良くても悪くても」、勇気をもって、信仰の言葉を証しすることなのです。たとえそれが、迫害や弾圧につながるとしても。
「それよりも、あなたがた弟子たちが、注意しなければならないのは、キリストの弟子であるという理由で、弾圧を受けることだ。(中略)しかし、そのときは一つの機会である。それは、私キリストの言葉と教え、わざを示す一つの機会である。神の正義と公平を証しする機会である。だからといって弁明のことは心配しなくてもよい。ただそのときのために、心を決めていること。めげずに忍耐し、立ち続けなさい。」
この言葉は、弟子たちに(また教会に)差し迫っている危機についての警告です。と同時に、この世界に対して、私たちが持っている責任を軽々しく放棄してはいけないという奨めでもあるのです。
神学者のD・ボンヘッファーは、次のように書いています。
「この世のよりより未来を望むこと、またそのような未来のために準備をすることを不真面目だと考える人たちや、不信仰だと考えるキリスト者がいる。彼らは、混沌、無秩序、破滅を現在のさまざまな出来事の意味だと信じ、生命の保存、新しい建設、次の時代の人々に対する責任から逃れ、この世から敬虔さを装って逃避してしまっているのである。終末の日が明日突然くるということであれば、われわれは喜んでよりよき未来のための仕事を放棄しよう。しかし、それまではそうしてはならない」。
今、私たちが生きている日本で、キリストを信じるが故に、目に見える形で迫害されたり命を奪われるということは、考えにくいことかもしれません。しかし、もし私たち教会が、イエス様の言葉をこの時代に向けて語り、必要とされるわざを行うとき、状況によっては、周囲から反発を買うことがあるかもしれません。
とりわけ神様の正義と公正を語り、実現しようとすることが、時の政府や権力とぶつかることは十分考えられます。あるいは「この世」の多数派から攻撃されるかもしれません。例えば、外国人への排外感情が高まり、ヘイトスピーチ(憎悪言説)やヘイトクライム(憎悪犯罪)などが半ば公然と行われている今日、在日外国人の権利擁護のために教会が声を上げることは、教会を攻撃の対象にさせてしまうかもしれません。その意味で言えば、弾圧と迫害は簡単に起こり得るといえます。
一方で、こうした目に見える形での迫害や弾圧とは別な形で、私たちはまた、私たちの信仰を試されているともいえます。たとえば、周りの環境や社会が、なかなかキリスト教に関心を示さないことで、私たち自身があきらめてしまっていないだろうか。教会に人が来ないので、どうせ駄目だという気持ちに支配されていないだろうか、と。伝道しましょうと言われ続けて、なおも、人が目に見えて増えないことで、無力感が私たちを覆うとき、私たちの信仰はやはり揺さぶられているといえるでしょう。そのことは、イエス様に従うということの中身を、見失うことにもなりかねません。
厳しい迫害などの外からの力も、無力感や無気力、絶望といった形で内側から私たちの心を蝕んでいく仕方でも、私たちの信仰は試されています。
だからこそ、この時代の中で、心を決めていること。めげずに忍耐し、立ち続けなさい。それが私の命令を守ることにつながる。そうイエス様は、私たちに語りかけているのです。
再び主が来られたら、そのとき私はどのような顔をして主にま見えるでしょうか。人と人との関わりや人と自然の関わりが、日常的に脅かされているにもかかわらず、私たちは自らの生き方の中でキリストの教えとわざを示す、証しすることが出来ているだろうか。私と出会い、向き合っている隣人に対して、そこにキリストを見いだして、私は暖かい心と公平さを持って関わりを持っているだろうか。証しにふさわしい生き方であったろうか。
そう考え、自らを省みるとき、内心忸怩たるものがあります。が、その私を、また私たち一人一人を、イエス様は、呼び出しておられます。そして約束されています。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光とを帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、実を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)。
「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。」(マラキ書3章20節)

2025年11月9日
聖霊降臨後第22主日
「生きている
者の神」
ルカによる福音書
20章27節 ~40節
人は死んだ後どうなるのか。この問題について、聖書、特に旧約聖書は、二つの興味深い答え、場合によっては相反する解釈を提供しています。
一つは、旧約聖書のモーセ五書(創世記から申命記まで)では、人はその死によって、「祖先の一人に加えられ」るだけであり、肉体の死は霊魂の終わりを意味し、そこですべてがなくなるし、死者の復活などはないとする見解です。もう一つは、紀元前三世紀ごろに成立したダニエル書などの黙示文学に見られる、死者、特に義人の復活はあり得ると云う思想です。
因みに、イエス様が生きておられた時代、神殿の祭司たちや貴族たちで構成されたサドカイ派と呼ばれる人々は、前者の見解にしたがって、復活はないと主張していました。一方、庶民層の律法学者などを中心とするファリサイ派は、後者の思想的な解釈から、死者(義人)の復活を積極的に認める立場でした。
さて、イエス様がエルサレムに入城されてからのことですが、あるときサドカイ派の何人かが、イエス様に、わざわざ「人の復活に関する」問いを投げかけました。
「七人の兄弟の長男が妻をめとったが、子がないまま死んだ。次男、三男と次々にこの女を妻としたが、結局七人ともこどもがないまま死んだ。最後にその女も死んだ。復活のとき、その女は誰の妻になるのか」と。
サドカイ派は、本来、復活などないと主張していたわけですから、この問いは、あくまでもイエス様の矛盾を突いてやろう、揚げ足を取ってやろうとしてなされたものです(サドカイ派にとっては、イエス様もファリサイ派と同じ主張をしている同類と見なされていたようです)。しかも、それは具体的な問題の解決のためではない、議論のための議論でしかなかったわけです。
ところで、このサドカイ派が問題にしている7回結婚した女性の話は、当時のユダヤ人社会で一つの慣習として行われていたことが前提になっています。
それは、もしも、兄弟の長男が妻を娶ってこどもをもうけずに亡くなったときには、家を絶やさない(一族の跡を継ぐ)ために、遺された兄嫁は次男と結婚して、後継ぎをもうけねばならない、というレヴィラート婚と呼ばれるものでした。同じような風習は、かつては日本にもあっって、やはりその家を絶やさずに一族を継ぐため、家を守るためのもの行われていたそうです。おそらくは、女性の意志や思いに関係なく、多分に一族の長老、家長(一族の有力者)の意見や思惑の方が、優先したのだろうと想像するのです。
一つの例として、旧約聖書の創世記には、ユダと息子の嫁タマルの話が出てきます。ユダは、三人の息子の父でしたが、長男の嫁としてタマルを迎えます。しかし、長男は神様の眼に悪いことをして、こどもをもうけずに死んでしまいます。するとユダは、タマルを次男と結婚させます。しかし、次男も神様の意に背き、そのことで死ぬと、ユダは原因がタマルにあると思い、彼女を今度は、三男と結婚させずに、実家に帰してしまうのです(38章6~11節)。このお話に描かれている嫁の立場は、きわめて弱いものであり、家長のユダの権力の下にあるということです。
また、旧約聖書の続編(外典)にある「トビト書」には、「七人の男に嫁いだが、初夜を過ごす前に、そのつど悪魔アスモダイが(夫となる)男を殺してしまった」「ラグエルの娘サラ」の話が記されています(トビト書3章7~9節)。
サドカイ派が問いかけた7回結婚した女性の例えは、あくまでも議論のための想定です。しかし、その当時、実際に、家や一族の家門を守るために、レヴィラート婚を強いられた女性はいたでしょうし、彼女たちは、一族の有力者に命じられるままに、再婚を強いられ、我慢せざるを得なかったわけです。当時の古代パレスティナで、結婚は十二~三才で、すぐにこどもを産んでいたことを考えれば、家を守るためにレヴィラート婚を受け入れざるを得なかった女性たちが、それこそどんな思いでいたのか、彼女たちにとって、「救い」とは一体どんなもので、何を意味していたのか、考えてしまいます。
あくまで議論のためのお話であるにせよ、サドカイ派の連中の頭には、そうした現実に生きていた女性たちのことは、少しも浮かんでいたわけではないと思うのです。彼女たちの救いを求める切実な思いは、想像できなかったに違いないと思うのです。
このサドカイ派が吹っかけてきた議論に対し、イエス様が語ったのが、次の答えでした。
「この世では人々はめとったり嫁いだりする。しかし、次の世と死者からの復活にふさわしいとされた人たちは、めとることも嫁ぐこともない。彼らはもはや死ぬことはあり得ない。彼らは、み使い(天使)に等しい者、天の存在であり、死者から復活した者として神の子だからだ」。
このイエス様が語る「次の世」とは、単に人の死後の世界のことではなく、「来たるべき神の国」、やがて訪れる神様の支配する世界を意味しているといえます。
そして、イエス様の理解はこうです。
「次の世」は、決して現実の「この世」の延長上にあるものではない。「この世」の生活が「次の世」でも続くわけではない。むしろ、その「次の世」で「復活するにふさわしいとされた人」は、現実の「この世」における人間関係から、すべて解き放たれる。だから「めとったり嫁いだりする」生活やしきたり、慣習に、縛られることはない。人は、あらゆる属性から解放されて、一人の新しい「個人」として、また天使に等しく、神のこどもとされ神様の前に立つのだと。「彼らはもはや死ぬことはあり得ない」のだと。
別な見方をするならば、イエス様の「次の世と死者からの復活にふさわしいとされた人たちは、めとったり嫁いだりしない。」という言葉は、ある意味では、強いられた結婚(レヴィラート婚も含めて)をせざるを得なかった女性たちにとって、「救われる」ということが、どんな状態を意味するのかを表しているともいえます。それは、つまり、自由を制限され、周囲の思惑で自分の人生が左右されてしまうような、女性の意に添わない結婚などしなくてもよいのだ、ということです。
さらに、この答えに続く言葉で、イエス様は、死者の復活の根拠として、出エジプト記にあるモーセの言葉(3章6節)を持ちだしながら、次のように語っています。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
もし、「アブラハムやイサク、ヤコブ」などの族長たちが、その死によって、肉体だけでなく霊魂も滅びているとするならば、どうしてモーセは、生ける神を「死者である」彼ら族長たちの神と呼ぶのか。「神は死者の神ではない。生きている者の神である。」 それだから、すでにこの世を去った人々も、今、救いを必要として求めている人々もまた、どちらも神様のみ許で生きているし、「来たるべき神の国において」復活に与るのだ、とイエス様は主張するのです。
「次の世と死者からの復活にふさわしいとされた人たちは、めとったり嫁いだりしない。彼らはもはや死ぬことはあり得ない。彼らは、み使い(天使)に等しい者、天の存在であり、死者から復活した者として神の子だからだ」。
このイエス様の言葉は、来たるべき「次の世」における死者の復活とは、「神様によってもたらされる救いの実現だ」、ということを意味します。
また、イエス様の「神は死者の神ではない。生きている者たちの神であり、すべての人は神によって生きている」と云う言葉は、神様が今も私たちに向き合っている姿を指し示しています。
すべての人は神様によって生かされている。神様の息(霊)を吹きこまれて、人はいのちを受ける。そう聖書は語ります。肉体の死によって、息は取り去られます。しかし、そのいのちは神様のみもとに帰って生きる。いのちの源である神様とともに生きる。そうイエス様は、語っているのです。すべての人、すなわち地上の生を終えた人たちも、ましてや今地上での生を生きている人たちはなおさら、神様によって生かされている。「すべての人は、神によって生きているからである。」という言葉は、特にそのことを表しています。
そして、それはまた次のことも示しています。いのち、魂が神様のみ許で生きている、とするならば、私たちが自らの地上での生を終えるとしても、そのときはまた、私たちは、先に天の神様のみ許に召された懐かしい人々と、神様の前で再び顔を合わせることができると云うことなのです。そうイエス様は宣言されているのです。そのことを信じて歩む者でありたいのです。
だから私たちは、死後の世界のことをあれこれ詮索したり、死後の世界のことで悩んだり、そうした議論で時間を費やす必要はないのです。そのことは神様を信頼し委ねて、神様が来られるのに備えて、今を生きたいのです。その今、この時の生き方そのものが、私たちが「次の世と死者からの復活にふさわしい」かどうかを、決定づけるのです。
「この世の現実」を越えていく「神様の国」が実現することを求めていきたいのです。主の祈りの中で、「み国がきますように。
み心が天においてなるように、地上でも実現しますように」と祈るように、イエス様の宣言を信じて生きたいのです。
来たるべき「次の世」とは、神の国を云います。そして、この神の国は、地上において、いわば先取りとして、教会という形をとって姿を表しているとされます。それゆえ教会は、神の国の実現に備えることを、その使命としても担っているといえます。
今このときも、生きている神様が私たちに臨んでいます。私に救いをもたらし、私のいのちと人生とを新しい関係の中に生かし、私を包むこの世界を新しく変えてくださる、「生きている者の神様」が、共におられるのです。

2025年11月2日
全聖徒主日
「幸いな人」
ルカによる福音書
6章20節 ~31節
皆さん、今日、私たちはこの礼拝を、全聖徒主日として、そして召天者記念礼拝として守っています。全聖徒の日とは、教会の暦で、私たちに先立って天に召されたすべての信徒・死者を記念して覚える日です。それは、亡くなられた方々の生涯に思いを馳せる日です。そして、それは、同時に、今生きている私たちの「生と死」を見つめる日でもあります。その私たちを生かしている「いのち」について、考える日でもあるのです。
今日の福音書の日課は、ルカによる福音書6章20から31節です。
イエス様の許に、「大勢の弟子」の他に、ユダヤ全土、エルサレム、海岸沿いの地方からも「おびただしい民衆」がやって来ました。彼らは、イエス様の教えを聞くことと、病気の癒しや悪霊からの解放を願って、そこに集まったのです。想像するのですが、そこには、おそらくたくさんの貧しい人々、様々なものに事欠いて生活に支障をきたしている人たちがいたはずです。仕事がなく、またたとえ仕事にありつけても、毎日のパン、食事の心配をしなければならない人たち、住むところもなく、病気のことで泣いている人々がいたでしょう。あるいは、イエス様を信じることで、「憎まれ」、「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」経験をした人々もいたかもしれません。
そのように生きている一人一人が、イエス様の教えに、あるいは癒しのわざに、具体的な悩みや問題からの救いを求めて、今まさにイエス様の前に集まっていたのです。その人々を、イエス様は、「(あなたがたは)幸い」と祝福されたのです。
「貧しい人々は幸いである。/今飢えている人々は幸いである。/今泣いている人は幸いである」と。
イエス様は、またこうも語りました。
「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」
しかしながら、実際に、貧しいことや飢え渇き、嘆き悲しむこと、迫害を受けることは、決して「幸い」なこととは云えません。それは辛いことですし、多くの人たちにとっては避けたいことであるはずです。にもかかわらず、イエス様は、そのような人たちを「幸い」と祝福しているのです。
なぜなら、そこにはイエス様の約束があるからです。そして、全聖徒の日にこの日課が読まれる理由がそこにあります。「天で大きな報いを受ける」という言葉が、それを示しています。
つまり、それは、天に召されたすべての姉妹・兄弟たち、亡くなられた方々は、たとえその生涯においては、貧しさや飢えに苦しみ、悲しみに耐え、神様の正義と公正を求め続けたとしても、あなたは「神の国を手に入れ」、「満たされ」、「笑うようになる」からです。たとえ今は「(イエス様のゆえに)人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ」ているとしても、あなたは、「天で大きな(喜び踊るくらいの)報いを受ける」のだと。イエス様の「幸い」という祝福の成就が、「天」の神様のみ許であるのだ。だからあなたがたは「幸い」。
私たちはここに福音を聞きます。喜ばしい音信を聞くのです。
大切なのは、その祝福は、二千年の時を越えて、今現在の私たちにも同じように向けられていると云うことです。私たちに先立って天に召された姉妹・兄弟たちも、そして私たちも、このイエス様の祝福の言葉によって、神様に覚えられているのです。
今日の使徒書の日課エフェソの信徒への手紙には、こう書かれています。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(1章13~14節)
今日、聖壇の前に、天に召された姉妹・兄弟たちの写真が飾られています。礼拝の中で、お名前を読み上げる時、あるいは、写真を眺める時、皆さんの中には生前の懐かしい思い出、とても大切な思い出が、一つひとつ浮かぶことと思います。生前の姉妹・兄弟の人生は、実に私たちの人生の一部でもあったからです。そうした信仰の先達であった姉妹・兄弟たちは、地上での生涯において、それぞれに「貧しさ」や「悲しみ」を経験し、その中で福音を聴き、イエス様を信じ、正義を求めて生きた。とするならば、彼らは、「約束された聖霊で証印を押され」、「御国を受け継ぐため」の保証を受け、「贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえ」ているわけです。それゆえ、彼らは、「幸いである」と祝福を受け、神の国を受け継いでいるのです。神様の祝福の約束は確かに成就するのです。
また、そのことは、生前にイエス様と出会うことがなかった姉妹・兄弟たちにも同じように云えます。たとえ姉妹・兄弟たちが天に召された時、信仰者ではなかったとしても、その人生において、時に「貧しく」、「飢え」、「悲しみ」、悩み、労苦していたとするならば、その経験そのものを通して、「あなたがたは幸い」という神様の恵みと祝福の約束が与えられているのです。
彼らは、「神の国を受け継ぎ、慰められ、満たされる」のです。
ヨハネの黙示録にはこう記してあります。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。/それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。/彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。/玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(7章14b~17節)
この約束のもとに、彼らも、また私たちも生かされています。
キリスト者とは、この信仰によって生きる者です。
メキシコでは、11月の1日(諸聖人の日)から2日(すべての魂の日)にかけ、「死者の日」を祝う習慣があると云います。はるか昔、九世紀から十六世紀にかけて栄えたアステカ文明に由来する風習と、スペイン帝国によって持ち込まれたキリスト教文化が融合し、この期間中は、国の多くの地域で、「死」をテーマにした飾りやお菓子、おもちゃで溢れると云います。それは「祝祭」であり、この期間中には、亡くなった人たちの魂が生きている人たちのもとに帰って来ると云われます(ちょうどお盆のように)。そして、人々は「墓地に詰めかけ、死んだ親戚の墓を掃除し、死者の魂を敬ってそこで夜を明かす」そうです。
ある意味では、「死者の日」は、死を相対化し、死が恐いものではないことを告げているかのようです。また、「死者の日」は、死が私たちの人生の傍らに常にあることを教え、そして、たとえ「この世」での「生」が終わりを迎えたとしても、魂は神様の許で永遠に生きていることを、表わしているとも云えます。全聖徒の日は、「死者」の魂の記憶と、今生きている者の人生が交差する時であると云えるでしょう。
宗教改革者ルターは、「死への準備についての説教」の中で、こう記しています。
「キリスト者は誰でも臨終に際しては、自分が一人だけで死んでいくのではないということを疑わず、多くの目が自分に注がれていることを確信しなければならない。第一に神とキリストご自身の目が注がれる。次には天使と聖徒たちとすべてのキリスト者たちが見守っている。これらの人々は、ちょうど全身がこぞってその部分を助けるように、一体となって彼のもとへ馳せ参じ、彼がその死と罪と陰府を克服するのを助け、すべての重荷を、彼と共に担うということは疑いないからである。こうして、そこに愛のわざと聖徒の交わりとが真実に力強く実現するのである。」
私たちは、聖徒たちとの共同性の中に生きているとルターは語るのです。私たちは、先に天に召された聖徒たち、姉妹・兄弟たちと、キリストにおいて、今も確かにつながっているのです。
詩編の139篇には、このように記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(13節)「秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。//胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの所にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」(15~16節)
一人の人が神様から与えられたその命を、短い長いに関わらず、この地上で生きていたということは、かけがえのないことです。
天に召された姉妹・兄弟たち一人一人に、生まれ、育ち、学び、また働き、家族と一緒に歩んできた時間があります。夢をもち、友人や家族と語り合ってきた時間があり、その記憶があります。彼らは、その命を確かに生きて、地上ですごした生活を持っていたのです。そこでは、宣教師や牧師たちとの出会いと交わりがあったでしょう。教会の仲間たちによって、慰められ、また励まされ、祈られてきた人生がそこにありました。その人生を思うとき、それはちょうど、今日の福音書の日課にある「幸いとされる人」のような人生ではなかったか、と思うのです。
私たちもまた、神様から与えられ、また託された命を生きている者として、「幸いな人」としての人生を生きていきたいと思うのです。
天に召された姉妹・兄弟たちのように、あなたがたは「幸い」という祝福を、福音として聞く者であり続けたいと思います。その約束の実現を望みながら、人生を過ごしたいのです。そして、この地上での「生」が終わりを迎えたなら、その命を、また魂を神様のみ手に委ねて、今度は神様のみ許で永遠の命を生きたいのです。聖徒たちの死は「新しい誕生」と云われるのですから。
「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1章5~19節)

2025年10月19日
聖霊降臨後第19主日
「落ち込まないで、
諦めないで」
ルカによる福音書
18章1節 ~8節
「心が折れる」という表現があります。
人が、解決しなければならない課題を抱えていたとします。その課題・問題を解決しようと何度も挑戦する。でも行く手を阻む何らかの壁にぶつかっては、その度にまた一からやり直さなければならない。そんな状況を重ねているうちに、それまで自分を支えていた何かが耐えられなくなって、心の踏ん張りがきかなくなってしまう。あるいは、人が、慢性的にストレスをずっと感じていて、何かの拍子にそれまで知らず知らず溜めていた我慢が限界に達してしまった時、緊張の糸が「プツン」と切れたように感じて、力が抜けてしまう。こうした現象を「心が折れる」と云うのです。それは一時的にそうなる場合もありますが、それこそ、人によっては、生きる「意味」を見失ったり、生きる力そのものを失って、すべてを諦めてしまうことも起こったりもします。
今日の日課の「譬え」話で、イエス様は、こうした「心が折れそうになるような」状況を前にしたとき、私たちはどうすればいいのかを語っています。
イエス様が弟子たちに向かって語った一つの譬えは、次のようなものでした。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わないような裁判官(律法学者、ラビ)がいた。その彼のもとを一人のやもめが裁判をしてもらおうと訪れた。その裁判官は、やもめの訴えを最初は取り合おうともしなかったが、やもめは、めげずに『自分を守ってくれ』と訴え続けた。ある時、とうとうその裁判官は、根負けしてこう云った。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』(それで彼は裁判をやもめに有利になるように取り計らってやることにした。)」
本来、律法に基づいた裁判は、「神を畏れ」、人を尊重する律法学者(ラビ)によって、「神の正義と公正」を旨として行われるべきものであるはずです。しかし、譬えに登場する律法学者は、不遜で尊大で横柄で、およそ「神の正義」に基づいた公正な裁判などとは無縁な存在です。
一方の「一人のやもめ」は、社会的に立場の弱い存在であり、有力な保護者を後ろ盾として持っていない場合には、自分の立場を守るためには、どうしても律法に基づく「正式な」裁判を行ってもらわなければなりません。だからこそ、彼女は「しつように」裁判官に訴え続けるわけです。たとえその裁判官が、人格的に問題があって期待できない相手であったとしても、その裁判官しかいないのですから。
この譬えは、先ず、そうした力のない弱い存在であったとしても、「しつよう」に喰い下がることで、相手を動かすことができることを教えています。それはまた、自分は年をとっているから、あるいは社会的には力もないから、仕方がないとあきらめて泣き寝入りしないで、具体的に声を上げることをも教えています。そして、たとえ相手の動機が、「うるさくてかなわない」というように、ただただ自己中心的なものであったとしても、自分が臨む目的を達成するためには、やもめのように「気を落とさずに絶えず」祈り求めることが勧められているのです。
ところで、このときイエス様は、弟子たちに具体的には何を祈れと教えていたのでしょうか。
今日の日課の前の章で、イエス様はファリサイ派の人々から「神の国はどこにあるのか」と問われていますし、弟子たちからも「神の国はいつどこで実現するのか」と尋ねられています。つまり、この一人のやもめの譬え話は、文脈から云えば、直接には神の国が実現する、到来するのを願い求めることと、深いつながりを持っているお話なのです。
イエス様は、神の国の実現を福音として人々に語りました。
神様がこの地上も支配する日が来る。その日には、神様が正義と公平とを持って、この地上を治められる。不正はなくなり、飢えや貧しさから人々は解放される。わたし(イエス)が来たことはその始まりであり、実現しつつある徴だ。「神の国はあなたがたのただ中にある」のだ。
一方で、イエス様は遠くない将来に自分に降りかかる一連の事態を予測しています。エルサレムに行けば、自分は間違いなく逮捕され、十字架刑によって処刑され殺されてしまう、と。
だからおそらく、イエス様はその「自分の刑死」の後で、弟子たちが信仰を失くしてしまうこと、生きる力を失くし、またその目的を見失ってしまうことを心配されたとも考えられます。
神の国の到来がいつになるかは、明らかにはされていない。ただ、その時が来たらおのずとわかる。だからこそ、あなたがたは神の国の実現を求めること、そのために備えることをやめてはならない。ここで、神の国の実現を祈り求める相手は、もちろん神様です。が、同時に、その実現に備えるためには、神の国の実現を阻んでいる者たち―例えば尊大で不遜な裁判官のような存在―への具体的で直接の働きかけ、行動が必要だということです。場合によっては、しつこく、粘り強く、したたかに、しなやかに、求め続けねばならないと云うことなのです。
イエス様はこのやもめの譬えを用いることで、弟子たちにそう伝えようとしたのではないでしょうか。
では、あらためて、このイエス様の譬え話は、今の私たちにとって、どんな意味を持つのでしょうか。
「気を落とさずに絶えず祈りなさい。」「神様は、あなたがたの呼びかける祈りの声を必ず聴かれるのだから。」
神の国の到来を願う祈りと同じように、私たちが日々の生活の中で神様に向けて祈る祈りがあります。神様を賛美して、感謝の思いを伝えようとする祈りがあります。「ささやかであっても幸せに毎日を過ごしたい。」「心が平安で満たされていたい。」という願いがあります。あるいは「今、直面している困難な状況から、救ってください。」「病が癒されますように。」「必要な助けが与えられますように。」という切実な祈りがあります。
だから、私たちは祈ります。神様を、イエス様を信頼して、心を込めて、願いを込めて、ある時は声に出さずに静かに心の内で、またある時は、思いを言葉に出して、私たちは祈ります。時として、言葉にならない「呻きのような」思いを呟くように、祈ることもあります。
しかし、その一方で、祈っても祈っても、自分が望むようには事態が一向に進展しないように感じるときもあります。状況によっては、物事が変化しないばかりか、余計に事態が悪くなって行くことも、私たちは経験します。そんなとき、私たちの心の内に、囁くように湧き上がって来る問いがあります。「果たして祈りは聞かれるのか」、「本当に祈りは聞かれるのだろうか」と。そして、「心が折れそうに」感じることがあるのです。そして、祈ることそのものを諦めてしまうことも起こりかねないのです。
「人の子、再臨のキリストがやって来るとき、はたして地上に信仰を持って歩みを起こす人々を見出すことができるだろうか。」というイエス様の言葉は、人が「心折れて」、失望してしまい、祈ること、望むことをやめてしまうこと、信仰すら失くしてしまうことへの心配を表していると云えるでしょう。
「心が折れそうになる」「挫折」の経験は、たぶん大なり小なり、そして年齢にかかわりなく(幼い時は幼いなりに、年を重ねれば重ねたで)、誰しもが(私たちもまた)持っているのではないでしょうか。ただ同時に、そんな経験を通して、そしてその度ごとに、私たちは、「折れた心を」支え、また癒す言葉やわざに触れても来たのではないでしょうか。自ら祈ることができない状況にあったときも、誰かが自分のために執り成して、祈ってくれたのではないでしょうか。一緒にそばにいてくれたのではないでしょうか。
ハンバートハンバートというデュオ・グループが歌う「笑ったり転んだり」という曲があります。(現在NHKで放映されている、朝ドラの主題歌です。)その歌詞の一節にこうあります。
「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃだめだと怒ったり/これでもいいかと思ったり」「日に日に世界が悪くなる/気のせいかそうじゃない/そんなじゃだめだと焦ったり/生活しなきゃと座ったり」
気が滅入りそうな歌詞にも思えるのですが、ある意味、私たちの生活の実相を表しているようにも思います。「毎日」感じるのは、生活が「難儀な」ものであり、「日に日に」「世界が悪く」なっているような状況です。でもだからと云って深刻になってしまうわけでもなく、「怒ったり」「焦ったり」する一方で、「これでもいいかと思ったり」、「生活しなきゃ」と思い直して座るような、そんな日常が歌われています。で、この曲の最後はこう書いてあります。「落ち込まないで諦めないで╲君のとなり歩くから╲今夜も散歩しましょうか。」 「君の/私の隣を歩く」存在がいる。だから、「落ち込まないで諦めないで」ね。「今夜も散歩」する生活は、昨日も今日も続いているのだから。それは私たちの日常の一コマです。
祈ることを諦めてはなりません。
祈りは、その人の信仰そのものを表します。祈りによって、その人の生活全体が、何を目指していて、何を生き方の中心に据えて、営まれているのかが明らかになります。ある人は言います。「祈ることと正義を行うことは、信仰の証だ」と。
イエス様は、私/あなたに対して問うておられます。「あなたは、どこに立って、何をどう祈るのか」と。
イエス様は云います。「ましてや神様が昼も夜も自分に向かって叫び続ける『選ばれた者たち』の訴えを聞かないことがあるだろうか。速やかに神様は訴えを聞き届けてくださる。」 だから気を落とさずに絶えず祈らなければならないのだ、と。
「(神様によって)選ばれた者たち」。それは真っ先に救われなければならない人々、苦しみから解放されなければならない人々のことです。昼も夜も叫び求めている人々が、選ばれた人々です。現状に満足し、問題はないと見なす人々は後回しになるのです。今を変えようと望む者、希望を捨てずに諦めない人々、自分の人生を「運命」という名前で投げ出さないで、道が開けることを求める人々。それが、選ばれた人々です。
その声は聞かれる。そして、私たちの隣をイエス様が一緒に歩いておられる。だから「落ち込まないで諦めないで」、たゆまずに祈りたいのです。「まず神の国と神の義、正義の実現を求め」たいのです。
2020年8月2日 (平和主日)
「平和の基」
ヨハネによる福音書
15章9節~12節
イエス様は、逮捕されて十字架に架けられ処刑される前に、弟子たちと共にとった食事の席で、告別の説教をされました。今日の日課は、その告別説教の一部です。
ここでイエス様は、弟子たちに先ず、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と勧めます。次に、イエス様の「愛にとどまる」方法が明かされます。それは弟子たちが、イエス様の与える「掟」を守ることだと言うのです。
その「掟」とは、何でしょうか。それは、弟子たちが「互いに愛し合い、お互いを大切にする」ことだとイエス様は言われます。しかも、イエス様ご自身が弟子たちを愛されたように。またその前提として、イエス様から弟子たちに向けられた愛は、父なる神様がイエス様を愛するのと同じものだと、言われているのです。
イエス様は、弟子たち一人一人を大切に思い、受け入れ、「愛され」ました。
イエス様の言葉や教えをなかなか理解することができなかった弟子たち。しかも、イエス様が逮捕された後、否認したペテロをはじめとして、彼らは捕まるのを恐れて、逃げて姿を隠してしまった。にもかかわらず、イエス様は復活の後、弟子たちを再び集めると、イエス様の教えと「福音」を伝え、癒しのわざを行わせるために、聖霊を与え、派遣していくのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
それは、人が互いに尊敬を持ちあうことです。相手の存在を認めていくことです。また、お互いに、相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で愛を示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して、神様の愛を示すことです。そして、「神様の正義と公正」が地上で実現することを求める生き方をすることです。
イエス様が示してくださった生き方、それは一つの理念とも言えるかもしれません。
「お互いに愛し合いなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。」「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」
それらの言葉は、今現代の人間の厳しい現実の前では、無力にも感じられる時があります。今も昔と変わらずに、暴力が横行し、憎しみが連鎖する時代です。その中では、イエス様の言葉は、何の歯止めにもならないようにさえ感じる時があります。
しかし、イエス様はその生涯を通して、その「理念」を貫かれました。その頂点が十字架であり、復活であったわけです。そして、そのイエス様から力をいただいて、例えば、マーチン・ルーサー・キングは、黒人の人権のために、解放のために、「公民権運動」を闘って行きました。幾度も暗殺の強迫に曝されながら。
もちろん、注意しなければならないことはあります。
「互いに愛し合いなさい」という言葉を、人が狭い意味で理解するならば、単に自分たちの「仲間内のことだけ」を意味することに終わってしまいます。そうすると、自分の「仲間」でない者を、差別したり、排除することに簡単につながってしまいます。
最近の、黒人が警官に殺害された事件の後に起こった抗議のデモと、そのとき掲げられた「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンは、「公民権運動」から六十年も経過したのも関わらず、アメリカ社会の中で、黒人がいまだに社会の周縁に置かれている、あるいは「二級市民」としてみなされている現実を表しています。
と同時にそれは黒人だけに限られたことではなくて、ヒスパニック系の人たち、アジア系の人たちにも当てはまることでもあります。移民や難民という形でアメリカで生活している人たちの多くが、「黒人が生きることは重要だ」(Black lives Matter)というスローガンに共感しているのは、その事実を示しています。
「キリスト教」が建国の理念になっているはずのアメリカで、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが、特定の人種の仲間内でだけ通用する言葉になっていないかどうか、考えてしまいます。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
日本の教会もまた、同様の問題を抱えています。私たち自身が、「お互いに」という言葉を、意識してか無意識のうちにかは別にして、仲間内にだけ限って使っていないかどうかは、省みる必要があるかもしれません。
「わたしがあなたたちを愛したように」という言葉は、なによりも、何ら条件なしに、そのままの私/あなたをイエス様が受け入れ、その思いと願いを聞き、「あなたは私の目に尊い」と認めてくださったということを意味しています。あるいは私/あなたの「罪」、「負債」、「重荷」から、私/あなたを解放し、自由にしてくださったことを意味します。そのようにイエス様から「大切にされた、愛された」私たちが、どうして私たちの出会う相手を、条件づけて制限したり、差別したり、はたまた排除することが赦されるでしょうか。
「わたしがあなたたちを愛したように、お互いに愛し合いなさい」
この言葉の意味を、何度も繰り返し、しっかりと噛み締めることが、キリスト者として生きようとする私たちには、必要であると思うのです。
私たちは、毎年この季節に、平和主日の礼拝を守ります。
それは、一つにはかつて起こった戦争を振り返り、その犠牲者を弔い、祈るためにです。そして、二つ目には、今の世界が平和になることを祈るためにです。
なぜなら、平和とはいえない世界が現実にあるからです。
日本社会は、そこで暮らす人々が、まだまだ安心して暮らせない状況にあるからです。
昨年の平和主日の際に、日本福音ルーテル教会では、社会委員会が作成した「平和への派遣を求める祈り」を、全国の教会で祈りました。
そこでは、次のような祈りがささげられました。
「平和をつくり出すどころか、現実から目をそむけ、平和から遠ざかろうとするわたしたちを強めて、わたしたちを平和のために遣わしてください。」
「軍備を増強し、特に沖縄では基地を拡張して、戦争が出来る国へあゆんでいこうとする力があります。」
「道徳の教科化をはじめ、教育によって子どもたちの心をコントロールし、偏狭な国家主義へと導こうとする力があります。」
「移民や難民の人たちを、ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばったまま、弱い立場に押し込めておこうとする力があります。」
「性的マイノリティであるために、社会から排除されたり、傷つけられたり、生きにくさを負わされている人たちがいます。」
「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけることによって、何かを守ろうとする人たちがいます。」
「原子力発電所の存在と事故のために、放射能の苦しみの中におかれた人たちがいるにもかかわらず、なお脱原発にむかえないでいる現状があります。」
「わたしたちが心を閉ざしている多くの課題があります。わたしたちが、知るべきことを知り、語るべきことを語り、変えるべきことを変えていくことが出来るように、わたしたちに勇気を与えてください。そうして、わたしたちとこの教会が、正義と公正にもとづく平和をつくりだすことができるように、あなたが、わたしたちを遣わしてください。平和の主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン」
「現実から目をそむけること」も、敵の存在を想定して「軍備を増強すること」も、「イエス様が愛されたように、お互いを愛すること」にはなりません。「偏狭な国家主義を唱えること」も、「移民や難民の人たち」や「性的マイノリティの人たち」を、「ともに暮らす仲間として受け入れず、権利や尊厳をうばい、弱い立場に押し込めておこうとすること」も、「お互いを愛すること」ではなくて、「社会から排除し、傷つけ、生きにくさを負わすこと」でしかありません。ましてや、「民族、国籍、宗教、また性別や障がいなど、異なった背景をもつ人たちに対する憎悪をあおり傷つけること」は、平和をもたらすことにはならないのです。
平和を創り出す者とは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」者である、と聖書は語ります。「イエス様が人々を愛されたように、人がお互いを愛すること」を平和の基として生きたいのです。
人の尊さを守り、神様の前に謙虚になって、イエス様が示してくださった姿勢と、その信仰に立ち返ること、それが平和を生み出していくのです。
「どうか私たちを平和の器として用いてください。」アーメン
2020年7月26日 (聖霊降臨後第8主日)
「天の国の実現」
マタイによる福音書
13章31節~33節
+44節~50節
イエス様は、福音書の中で、「神の国」あるいは「天の国」について、いくつものイメージを、譬えの形を取って示しています。因みに、ここで語られる「天の国」は、神様が支配される世界のことを言います。では神様が支配する世界とは、どんな世界なのでしょうか。
私たちは、「主の祈り」の中で、「み国を来たらせて下さい。み心が天においてと同じように地上でも実現しますように」と祈ります。ここでいう「天」とは、神様のみもとのことで、いわば神様の意図する世界が「天」では実現している。その神様の「み心」が実現している「天」がこの地上に到来して、神様の創造された全世界・全宇宙が「神様の正義と公正」、「神様の愛」に満たされるようにと願うことです。それが、「み国が来ますように」という祈りなのです。
イエス様が語る「天の国」。ただ、そこには、具体的に「天の国、神の国はこのような世界です」という言い切った形では、その姿は描かれてはいません。ほとんどが譬えで、漠然と示す表現でしかありません。今日の日課も、そうした譬えとして語られた「天の国」についてのお話です。
先ずイエス様は、「天の国」を「からし種」に譬えています
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
そこには、豊かなイメージがあります。本当に小さなからし種が畑に蒔かれて、芽を出して成長すると、大きな樹になっていく。その樹の上に鳥が巣を作る。
からし種は、いのちを秘めています。それは、成長して育っていく樹のいのちです。
讃美歌21に収められている、「球根の中には」という曲があります。
「球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時をただ神が知る。」
球根から花が咲くのも、さなぎの中から蝶が羽化するのも、それは、球根そのもの、さなぎそのものが秘めているいのちの力です。その力がどこから来るのかを人はまだ知りません。
からし種は、ゴマよりも小さな種です。それが大きな木に育つ。その種の中には、木のイメージがすでに組み込まれているわけです。その不思議さを思います。それは自然が起こす奇跡です。
次にイエス様は、「天の国」を「パン種」に譬えています。
「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
人類の歴史上、小麦が栽培され始めたのは、紀元前一万五千年から九千年前といわれています。発酵させたパンが登場するのは、紀元前四千年から三千年前。それもエジプトで偶然誕生したようです。イエス様も、母マリヤが小麦粉に酵母を混ぜて捏ねていくのを見ていたのでしょう。そして焼かれた、発酵したパンを食べていたことでしょう。
パンを膨らましていく酵母・「パン種」。小麦粉と混ぜ合わされることで、パン生地を膨らましていく。小麦粉に「パン種」を混ぜるとどうして膨らむのか、一九世紀になるまで、その仕組みと理由は科学的には解明されていなかったといいます。
パンが発酵するのは、酵母(パン種)が、小麦粉の中の糖を取り込んで炭酸ガスとアルコールを発生させることで起こるといいます。でも、そのパン種・酵母が持っている力の源、酵母菌のいのちは、やはり謎といえば謎です。これも自然の起こす奇跡です。
「からし種」と「パン種」の譬え。どちらも表しているのは、いわば「天の国」の持つ、いのちの力です。「天の国」は、それ自体が生命力を持ち、小さなものから大きな存在へと自分から成長していくのです。そしてそれは、人が無理やり成長させたり、発酵させたりすることのできないものでもあるのです。
また、「天の国」は、「からし種」や「パン種」の譬えが示すように、豊かさをもたらします。樹の上で鳥が憩うように、他のいのちを養います。また、「パン種」は自分の姿を消しますが、小麦粉に作用して、生地を大きく膨らませ、そしてそれは、人を養うものへと変化していく。「天の国」、それはいのちをつなぐものでもあるかもしれません。
「天の国」、それはいのちに満ち溢れた世界を言うのかもしれません。樹々が生い茂り、その枝々で鳥が囀り、日の光がやさしく降り注ぎ、静かさと平安に満ちた世界。
もちろん、そこは貧しさや格差のない世界です。人が生まれや職業で差別されることのない世界です。
そこでは誰も泣くことがなく、傷つくこともなく、笑顔で過ごすことが出来ます。その世界は慰めに満ちて、傷ついた人が癒される世界です。一人ひとりがその存在を認め合い大切にする世界です。もちろん、戦争や争いのない、平和に満たされた世界です。
もしも、そのような世界に出会ったとしたら、たぶん私は何をおいてもその世界に住みたいと思うでしょう。
44節から続く「畑の隠された宝」と「真珠」の譬えは、このような「天の国」の持つ価値の大きさを表しているといえます。
二つの譬えとも、「農夫」と「商人」が、それぞれ価値のある何かを見つけるわけですが、一方は畑に埋まっていて、偶然、予期せぬ形で、しかも予想もしていなかった者の前に姿を表す「掘り出された「宝」であり、他方は「商人」が必死になって探し求めて、ようやく見つけ出される「真珠」という具合に、見つけ方は異なっています。しかし、どちらの譬えでも、「天の国」を見出した人々のとる態度は同じです。
つまり、その「天の国」は、それを目の当たりにした人々が、それまで培ってきたもの全てに匹敵するぐらい、あるいはそれを投げ出してもあまりある価値を持つものとして、姿を表す。あるいは、それぞれが持っている「天の国」のイメージや期待を、はるかに超えるものとして、姿を表すのです。
イエス様が描く「天の国」の豊かなヴィジョン。いのちが生き生きと活かされていく世界の実現。そのような「天の国」が、この地上に実現してほしいと願わざるを得ません。そんな世界が来ることを私は望みます。
現在の世界を眺める限り、そうした世界を望むことは、空想に近く、絵空事に響くかもしれません。生活の格差や不平等、貧しさや失業、飢餓に泣く人たち、苦しむ人たちがいます。病気や障碍を抱えた人たちが、まだまだ安心して暮らせない現実があります。むき出しの暴力が横行し、人がお互いに尊厳を保障され、平和に暮らせない世界がまだまだあります。
しかし、現実の世界がそうではないからといって、よりよい世界が実現することを思い描くのを、あきらめる必要はない。そう聖書は語っています。私たちには、天の国を求めることが許されているし、何よりも、天の国が来るという、神様の約束のもとに生きているからです。
「天の国」のヴィジョンが、私たちに与えられています。神様が望まれるような、人と人との関係や社会を造り出していくこと、イエス様が示された生き方を生きようとすること、神様が創造された世界・環境を守り保っていこうとする働き。それらはすべて「天の国」のヴィジョンを望み見るものです。
日々の暮らしの中で、この世界が良くなること、自分たちの環境や境遇が変化すること、そして、人の命を守り、育てていくことを望んでいる人たちがいます。実に、「天の国」の始まりは、そこここに、実に私たちの生きているすぐそばにあります。
「天の国」の成就は、福音書によれば、「球根の中には」の歌詞に詠われているように、「その日、その時をただ神が知る」のです。ですから、私たちもまた、「世の終わり」のその時まで、「天の国」が実現することを祈り、その兆しを見つけたいし、あきらめずに、求めていきたいと思うのです。
2020年7月5 日 (聖霊降臨後第5主日)
「生き直すということ」
マタイによる福音書
11章28節~30節
人が自分の人生を生きるということは、なかなか大変なことです。自分が思い描いたようには、人生の歩みは進まないのも事実です。常に順風満帆ということはあり得ません。大なり小なり、問題に直面します。そうした問題は、自分で招いたこともあれば、向こうから勝手にやって来るようなこともあります。
競争を強いる社会の中で生きなければなりません。ストレスも感じます。生活の心配があります。病気の心配もあります。何かの生き辛さを抱えて、いじめや差別を受けている人がいます。ある人は、家族関係の葛藤や問題を抱えています。またある人は生きがいが見つからずにいるかもしれません。いろいろな理由で周囲から孤立し、孤独を感じている人がいるかもしれません。
行き詰って袋小路に迷い込んだり、思いがけない失敗の前で、頭を抱え込んでしまう人がいるかもしれません。
生きる上で抱えてしまう様々な心配や課題は、誰にでもあるというわけです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう。わたしの軛(くびき)をとって自分に負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見出すであろうから。わたしの軛は担いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
今日の日課は、イエス様の招きの言葉です。
軛(くびき)は、家畜(牛や馬、ロバなど)をつないで、畑を耕すための農具や荷車などを引かせる道具のことです。通常、二頭の動物を左右に並べて担わせます。
ユダヤ教の世界では、この軛(くびき)を、知恵、もしくは律法の譬えとして用いてもいます。旧約聖書外典のシラの書には、「足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ」(六:二四)とか、「軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある」(五一:二六)という言葉があります。
つまり、「律法を学び、預言者の言葉に耳を傾け、また共同体の長老たちの言葉を心に留めなさい。父祖が重ね培ってきた経験から教訓を学びなさい。それは、生活に指針を与え、平安をもたらすだろう」ということです。ユダヤ人の共同体が、生活する上で必要な共通のルールであり、お互いの自由と生命を保障するもの、それが律法と伝統の知恵、「軛」として譬えられているのです。
ではイエス様の言葉は、この軛としての伝統の知恵を学べと語っているのでしょうか。模範的に律法に従えと勧めているのでしょうか。ここで注意したいのは、イエス様が「わたしの軛をとって自分に負い、わたしから学びなさい。」と語っていることです。
「わたしの軛」とイエス様が語る時、そこでは律法学者や祭司といった人たちが理解してきた律法や伝統とは別の軛、「知恵」、生活の規範がイメージされています。そして、それは「柔和(謙虚)で心が低く」、「担いやすく」、「軽い荷を」運ぶものだといわれるのです。
旧約聖書の律法は、はじめユダヤ人の共同体が、特にエジプトの支配から脱出して、カナンの地(パレスティナの土地)で農業を営み、腰を落ち着けて生活するために、共同体に属する一人一人が、お互いの自由と生活を保障しあうルールとして、神様から与えられたものでした。それはまた共同体の結束を強めて、助け合うためにも必要なものでした。律法とその解釈の伝統は、ユダヤ人社会に生きる人々の行動の判断の基準となっていったのです。
ただ、法律や規則は常に二面性を持ちます。共同体の自由を保障する一方で、共同体のメンバー一人ひとりの生活を束縛する側面も持つからです。律法と解釈の伝統が積み重なり、微に入り際にわたり人々の日常生活に適用されだすとき、それはよりはっきりとなってきます。そして、人が規則や伝統、慣習から逸脱すると、それは共同体の中で罪とされ、咎められたり、罰せられることになっていくのです。
イエス様の目には、このような律法と伝統が、多くの人たち、特に貧しい人たちにとって、生活する上でも、気持ちの上でも、重荷になっている、と映るのです。日々の暮らしの中では、必ずしも律法や細かな規則を守ることが出来ないことも起こります。生活上止むを得ない営みの中で、たとえば「安息日」や「清め」の規定を守らなかった、あるいは守れなかった人々が、律法学者や祭司たちによって、罪人として非難される。イエス様は、そんな律法学者や祭司たち、高い教育を受けた「知恵ある者や賢い者」たちを批判します。
本来人を自由にすべき宗教が、人を不自由な存在においている、と。「人は律法のために生きるのではなく、人が生きるために律法があるのだ。」という福音書の中のイエス様の言葉は、その批判をはっきりと表しています。
イエス様が招きの言葉で用いられる軛という言葉は、一方では人に対して課せられる負担や隷属した状態をも表しています。そして、イエス様は、この招きを通して、先ず何よりも、こうした人々に負担や隷属を強いる律法やこの世(当時のユダヤ人社会)の尺度から、人々が自由になること、解放されるべきことを語っているのです。
と同時に、この世界で生きていくために、この世の尺度に代わる別の軛、生活の規範、つまり新しい生き方を、イエス様に倣って身につけて行きなさいということを示しています。
「わたしの軛をとって自分に負う」こと、それは、イエス様が自ら示した生き方を生きるということです。
それは、たとえばイエス様がそうであったように、「飼う者のない羊のような有様」の人々を見て、はらわたの底から痛みを感じ、人々の感じている痛みや苦しさを、取り除けようとすることです。
それはまた、「互いに愛し合いなさい。大切にし合いなさい」とイエス様が弟子たちに勧められた生き方です。人が互いに尊敬を持って、相手を敬い、大事にすること、愛し合うことをいいます。また、お互いに相手の負っている問題や課題といった重荷を担い合うことです。労苦を分かち合い、理解し合い、互いのために祈り、心身共に支え合おうとすることです。
あるいは「他者のための存在」として生きるということです。人々の負債を贖うために、自ら十字架に架かるという仕方で示されたイエス様に倣って、弟子として、キリスト者として生きていくことです。自分の人生を通して神様の愛を示すことです。そして、「主の祈り」にあるように、神様の正義と公正が地上で実現することを求める生き方です。
またこうも言えます。「イエス様と一緒に軛を担うこと」とは、古い自分をイエス様の前に素直に投げ出し、また明け渡していくことです。自分と人とに向き合う新しいあり方を身に着けていくことをいいます。それは知識や学識、知的な理解によるのではなく、神様の前に謙虚になり、「幼子のように」自分の感情を正直に認め、受け入れることから始まります。それが自分の心を縛っている古い価値観や先入観、偏見などから自由にされ解放されていくことにつながるのです。そのとき、私たちは、イエス様から示される「柔和で心が低く謙遜な」生き方を見出すことが可能になるのです。
イエス様が呼びかけていること、それは、様々な困難な状態にいる人たちに、あるいは何かの生き辛さを感じて問題を抱えている人々に、「わたしに従って、自分の人生を生き直しなさい」ということです。新しい価値観を持って、世界を新しい目で眺めて、歩みなさいということです。
「わたしのもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこのわたしが、あなたたちに安らぎを与えよう」。
この言葉は、そうした問題や課題を抱えた人たちにこそ向けられています。
生き直すことはできます。人が、イエス様の示す新しい生き方に従うとき、「イエス様の新しい軛」を背負っていくとき、誰にでも、いつでも、その可能性は開かれています。目の前の課題や問題、困難はこれからも続くでしょう。でもその大変さをイエス様は、その「イエス様の軛」を負う私たちと一緒に、分け合いながら担い続けてくださいます。
だからこそ私たちは安心して信頼し、それこそ「安らぎを覚えながら」、私たちの人生の道を、それこそ「生き直す」ことができるのです。
だから、自分を変えたいと思い、自分の道を見出したいと思っている人は、イエス様の招きの声に耳を傾けていいのです。
2020年6月28 日 (聖霊降臨後第4主日)
「あなたが花束」
マタイによる福音書
10章40節~42節
「花束」という歌があります。サンボマスターというバンドが、歌っています。歌詞の内容は、次のようなものです。
歌い手は、「あなたに」花束を届けたいと歌います。
「この花束を あなたに贈りたいんだ」/「この花束を 今すぐ届けたいんだ」と歌います。
それは、その相手を励ましたいからです。
「あなた」は、泣いているんでしょうか。落ち込んでいるんでしょうか。どんな状態にいるのかは分かりません。でも、歌い手は、「あなた」が「アスファルトの固さを つき破りだして/のびてく草木のように 強い君だったはずさ」と信じています。
歌い手は、「あなた」が「ぬくもり取り戻せる人」であり、「愛しさ抱きしめる人」だと「昔から気づいていた」のです。「あなた」のもともと持っている強さを信じています。だから「くよくよするなよ」 と、「あなた」に呼びかけるのです。その「あかしに」花束を、「いろんな色の」花束を贈りたいというのです。
歌い手にとっても、たぶん「あなた」にとっても、今まで歩んできた人生は、「たくさんのさびしさ悲しさを/抱きしめ」て、「たくさんの捨てちまいたい/夜を数えた」ものだったようです。けれど、それを歌い手は変えたいと思っています。
「あなた」に花束を贈ることで、歌い手はその状態が変わると信じています。
「今あらたな 想いがうまれそうさ/今あらたな 想いがうまれそうなのさ/気づかずに過ごしてきたのさ 今まで」。
その気づかずに過ごしてきた「あらたな想い」を伝えるために、花束を「あなた」に送りたいと思うのです。「まだ間に合うだろうか いやきっと間に合うはずさ」と期待を込めて。
歌い手は「この世には たくさんのさびしさ悲しさが/あふれてるけど それでも生きようよ」と、「あなた」に呼びかけます。花束はそのあかしなのです。
そして、次に、実はその「あなた」自身が、歌い手にとって花束である、といいます。「あなた」の存在そのものが歌い手「わたし」にとって、花束なんだと歌います。
「あなたは花束 さびしさにさよなら 大丈夫なんだから」「あなたは あなたは 花のように咲きほこる人」「あなたが花束」と。
この曲のプロモーションビデオの中で、「今あなたが花束を贈るとしたら、誰に贈りたいでしょうか。」という質問が、それこそ、いろんな人たちに向けてなされていました。
いろいろな答えがありました。「妻に」、「お母さんに」、「亡くなった母に」というのもありました。また「成人した妹に」、「認知症で頑張っている母に」、「この間結婚した友人に」、そして「死んでしまった犬に」というのもありました。
自分を支えてくれた人、存在に対して感謝の気持ちを、あるいは励ましを伝えたいと思う。だから、花束を贈りたい。
そのとき、その想いの詰まった花束は、ただの花束じゃなくなります。想いを伝えたいと願うその人自身をその花束は表している。そして、もしその人が、自分自身で花束を届けるなら、その人自身が花束になっていく。
「あなたが花束」になっていくのです。
「あなたがたを受け入れる人は、わたし(イエス様)を受け入れ、わたしを受け入れる人はわたしを遣わされた方(神様)を受け入れるのである」(40節)。
今日の福音書の日課が示していること、そこには、二つの意味があります。
ひとつは、派遣される弟子たち、「あなたがた」を受け入れる人は、イエス様を受け入れるということを意味し、またそれはイエス様を遣わされた神様をも受け入れるということを意味するのだというのです。別な言い方をするならば、弟子たちは、イエス様の代理であり、また神様の代理にもなるというのです。それはまた、弟子たちと共に、キリストが、そして神様がおられるということをも意味します。
そして、この弟子たちは、派遣された場所によって、様々な役割や務めを託されています。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)
「預言者」も「正しい者」も、弟子たち中で、異なった務めを担っている者を表しています。人が、その務めを担っている人を尊敬(リスペクト)の思いを持って受け入れていくとき、人は、神様から「報い」、つまり祝福と恵みを受け取るといわれています。それは、次の言葉にも表されています。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42節)
この場合、弟子は必ずしも信仰の強い人、信念のある人、信仰深い人を意味しません。「小さな者」という表現は、その働きにおいて目立たない人であるかもしれません。世間の目からは、目立たない小さな務めをコツコツと果たしている人かもしれません。でもその「小さな者」を気遣い、ささやかな助けを与える人には、神様からの恵みと祝福が与えられると福音書は語ります。
弟子たちに向けて人が行ったことは、実はイエス様に向けて、あるいは神様自身に向けて行ったことになるからなのです。
二つ目の意味は、派遣される弟子たちが、神様からの手紙だということです。
使徒パウロが、コリントの信徒への手紙二の3章2~3節でこう書いています。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
パウロは、誰かが書いた推薦状よりも、コリントの教会の人々、同じ信仰に支えられている会衆・信徒の姿こそが、パウロの行った宣教のわざを具体的に表現し、他の人々に対してパウロを推薦してくれているのだと語っています。コリントの教会員の生き方そのものが、推薦状となると語っているのです。
福音書の日課に戻れば、ですから弟子たちは、いわばイエス様と神様からの生きた手紙そのものだということです。
もちろん、だからといって、この場合、弟子たちが完全な存在であるという意味ではありません。
たとえば文字で書かれた言葉には、ある種の限界があります。ラインやメール、ツイッターなどは、言葉足らずになりがちで、誤解を生じることもあります。書き言葉は難しいと思います。その言葉を発した人の表情が見えないし、言葉に込められた思いの一部しか伝わらないもどかしさもあります。それでもていねいに書き綴られた手紙の文章は、書いた人の心を表します。
生きた手紙である弟子たちもまた、ある種の限界をもっていました。弟子たち一人一人の性格の違いもあるでしょう。育ってきた環境や経験も違いました。それぞれの言葉遣い、態度や振る舞いも違ってきます。まったく同じではありません。弟子たち一人一人が違った形で、異なったやり方で、イエス様の言葉とわざとを伝えていくことになります。熱く語る弟子もいれば、静かに穏やかに伝える者もいるでしょう。訥々(とつとつ)と話す者もいたかもしれません。でも、大事なのは、弟子のそれぞれが、彼ら自身が、生きた言葉なのだということです。手紙に書き手の個性が出るように、弟子のありようそのものが、伝え手である弟子の個性が出た手紙であるといえるのです。
弟子たちが神様からの生きた手紙であるとするならば、それは、現代の教会、私たちも同じです。私たち自身の存在が、そのままイエス様を表すことになるのです。私たち自身が神様からの、この世界への生きた手紙であるのです。
教会の私たちを見て、この世は、判断します。キリストの愛が、神様の心が何であるかを判断するのです。私たちもまた、この社会に、この世界に派遣されています。イエス様から、神様から、この世界に届けられる「花束」として。世の人を労り、慰め、勇気づけ、また神様の愛を伝えるために。
それが、弟子の使命です。
どうか現代の弟子である私たちが、イエス様が示す道を歩み、また神様のみ心に適った言葉とわざを行えますように。
2020年1月26日
「天の国は近づいた」
マタイによる福音書4章12~18節
韓国の詩人、金明植(キム ミョンシュク)さんが書いた「共に生きる町」という詩があります。
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
共に平和をつくり 共に生きる その町で
平和の花を植え 花のかおり共に かぎながら
貧しいものもなく 地位の高いものもなく その町で
平和の糧食共に 平等に分かち合い 小さな美しい夢を育てる その町で
私たちの労働が お祭りになる その日に向かって
共に生きる町 小さくても 美しい町
共に生きる町は ないんですか 共に生きる町は ないんですか
教えてください 教えてください 共に生きる町を
詩人は、「共に平和をつくり」「平和の花を植え」る町を探しています。花を愛し、貧しさも生活の格差もない町を夢見て、人と人が平等に生活に必要なものを分かち合い、「美しい夢を育てる」町を願う。その町では、自分たちの労働が、苦しみを意味するのではなく、「祭り」になる。そんな日を詩人は夢見ます。
その町に住んでいる人は、それぞれに様々な歴史を持って生きている。詩人は、その誰もがお互いに差別することなく、「人を人として」尊厳を認め合える、人が「共に生きる町」を探しています。「その町はないのでしょうか。この地上にはまだ出現していないのでしょうか」と。
この詩人が詠う「共に生きる町」は、二つのことを表しています。
一つは、彼が探している「町」は、現実にはまだ存在していないということです。彼が目の当たりにしている「町」の姿は、実際には、「共に生きる」こととは程遠い人々の日常です。生活の格差は依然としてあり、貧しさに耐える人たちがいて、働くことが苦しみに思えるような世界、一人一人が大事にされなくて、「平和」や「平等」という言葉が実は青臭く、甘っちょろい空想に感じられる世界に、詩人は生きている。
と、同時に、二つ目の意味は、彼は、その現実の中で、なおも「共に生きる」ことをあきらめない、ということです。人がその厳しい現実に打ちひしがれて、その場所に止まってしまうのではなくて、その境遇と状況を乗り越えていくことを、詩人は心から願っている、ということです。「町」は実現しなければならない、と彼は祈っているのです。
この詩が書かれたのは、1983年ごろで、その当時、明植さんは留学で日本に滞在し、東京の三鷹に住んでいました。彼は一時、私が学んでいた神学校の寮に間借りしていたこともあり、私と彼とは親しくなりました。
八〇年代、全国的に大きな運動が起こりました。「指紋押捺拒否」闘争です。永住権を持っているにもかかわらず、国内で様々な差別を受けていた在日外国人、特に在日コリアンの二世・三世の人たちがいます。外国人登録証への指紋押捺は、その差別の象徴的な制度でした。日本政府の在日外国人への差別的処遇と、人権を訴えるために、在日コリアンが中心となって起こしたのが、外国人登録証への指紋押捺の拒否だったのです。
このとき、明植さんもこの運動に連帯し色々な集会やデモに参加していたようです。八六年春、私が神学校の仲間たちと日比谷の法務省前での抗議デモに参加した時も、明植さんはそこにいました。
「共に生きる町」は、すでに活字になっていましたが、デモの参加者の一人がその詩二曲をつけたと云って、明植さんに聴かせていたのを今でもはっきりと覚えています。
明植さんの母国韓国の八〇年代は、朴正熙(パクチョンヒ)大統領射殺事件に続く光州での民主化運動の弾圧と虐殺から、この時もまだ全斗煥(チョンドファン)軍事政権が続いていました。
勝手な推測でしかないのですが、この詩を明植さんが詠んだとき、彼の眼には人権を訴える在日コリアンや在日外国人の姿と共に、母国韓国の民主化を求めている人々の置かれた状況が見えていたの
かもしれません。
いいかえれば、「共に生きる町はないんですか」と呼びかける明植さんの言葉が、やさしい言葉づかいと同時に、切実さを漂わせるのは、彼を取り巻いているその現実を見る目と、彼の祈りが感じられるからだと思えるのです。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」今日の日課のこの言葉をもって、イエス様はおよそ三年間にわたる宣教のわざを始められました。
「イエスは(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
その宣言の時は、洗礼者ヨハネが逮捕された後でした。イエス様の公的な活動は、その時から始まりました。それは、あたかも、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぐかのようでした。ヨハネが口にした言葉をイエス様は語ります。「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」
イエス様は、家族の住む故郷の村ナザレを後にします。そして、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに拠点を移すのです。それはイザヤが預言したことの成就でした。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから。」この言葉を語るイエス様の眼には、ガリラヤに住む人々の姿が映っていたことでしょう。
ガリラヤ、それは、首都であるエルサレムから遠く離れた地方です。地主のもとで働いている小作農とその家族たち、日々の暮らしに苦労している職人たち、病に苦しみ、また病ゆえに差別されていた人々、そんな現実の中で悩み助けを求めている人たち。そのようなたくさんの救いを求め願う男も女も、若者や子ども、年寄りの姿。それをイエス様は見ていた。そしてその現実を前にして、そこに集まった人たちに向けて語った言葉。それが、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」であったのです。
具体的な人々の生活を前に、イエス様が感じたのは、「天の国、神の国」すなわち「神様が公平と正義を持って支配する世界」から程遠い世界です。
不正義と不公平が現実にあり、苦しむ人々がいるという世界です。
それゆえに人々に必要なのは、「悔い改めること」「神様に向かって生き方の方向を転換すること」でした。
悔い改めるとは、ただ反省するという意味ではありません。自分の立っている場所を変えること、視点を変えることを言います。それは、自分の今の視点よりも下に立って見直すこと、低い場所に立って物事を見直すことを言います。視線を低くして自分の身の回りを眺めれば、世界は変わって見えてくる。そして、神様に向かって姿勢を変えること、生き方を変えていくことは、やはり世界を変えて見ることにつながるからです。
この「悔い改めること」を求めるのは、洗礼者ヨハネと同じです。しかし、洗礼者ヨハネが、天の国が到来することで起きる裁きを語り、いわば脅しの言葉をもって、「悔い改め」を迫ったのに対して、イエス様の呼びかけは異なります。イエス様の語る「天の国」とは、人を縛りつけている色々なしがらみや負担、「罪」の思いから解き放ち、自由にしてくれる時を意味します。「その日は、近い」とイエス様は語ります。いや、その時はすでに来ている。私(イエス)が地上に来たことによって、すでにそれは始まっている。そうイエス様は宣言しています。「天の国」は、私の、私たちの可能性としても示されています。「神の国はあそこにある、ここにあるというものではない。実にあなたたちのただ中にあるのだ。」というイエス様の言葉がそれを示しています。
「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」という言葉には、それゆえに、イエス様が自分の周りに広がっている現実を見て、その現実は変えられなければならない、克服されなければならないと感じている祈りと、その日は決して遠くないし、不可能ではないという希望が込められているのです。
私たちは、主の祈りで、「み国がきますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈ります。神様の国が、神様の支配する国が、今来て下さいと祈るわけですが、その祈りは、イエス様の「悔い改めよ、心の向きを変えよ、天の国は近づいた」という声に応えようとするものです。「私たちもまた、神様に顔を向け直します。どうぞ、神様あなたのみ国を地上に実現してください」と願う祈りなのです。今、私/私たちが、目の当たりにしている現実をしっかりと見据えて、乗り越えたいと願うことなのです。
大阪の釜ヶ崎で働かれているフランシスコ会の本田神父は、イエス様の語る福音は、教会という枠組みの中だけにとどまっているのではなくて、世界のそこここで、色々な取り組みの中で実現しているし、しつつあると語ります。
それは、例えば、不当に扱われている人々の権利を回復する、ということであるかも知れません。人々の生活を経済的に縛りつけ、文句を言わせないようにする企業への抗議の中に見え隠れしているかも知れません。沖縄の基地の問題があります。福島原発の事故によっていよいよ浮かび上がってきた原発の問題。古くは足尾銅山の鉱毒被害、チッソによる水俣病などの公害問題があります。あるいは、福祉や教育を巡る問題が起こっています。
それらの問題に取り組む中で、「闇に座す民」や「死の影の地に座す民」、社会の外側(周縁)に追いやられた人々、闇に住む人々に光を当て、掬うことが目指されているとするならば、そこにイエス様の福音は、働いていると語るのです。
確かに、それらの問題は、未だ解決していません。その意味では、福音は未だ成就していないとも言えます。しかし、それらは、解決への予感をはらみつつ、そこに起こっています。そして、イエス様の教えとわざが、どのように、誰に向けてなされたか、を基準にして眺めて見るならば、私たちは、そこで起こっている福音の働きの可能性を、また実現しつつある福音を、見いだすことが出来るようにも思うのです。
「福音は実現しつつある。今実現する。天の国は近づき、実現するのだ。だから、悔い改めなさい。」この言葉は、私たちに問うています。「共に生きる町はないんですか/教えてください」と。
「共に生きる町はないんですか/教えてください」と呼びかける詩人の眼に映る風景と時代が、「小さな夢を育てる/共に生きる町」になるように求めていきたいと思うのです。
「み国が来ますように、み心が天で行われるように地上でも実現しますように」と祈り、行う者でありたいと思います
(2020年1月26日)